朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

力強い方が、ただ中にいてくだされば

2016-07-05 22:46:37 | 聖書から
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
  お前はもはや、災いを恐れることはない。ゼファニヤ書3:15

 目を覚ましていなさい。
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
雄々しく強く生きなさい。Ⅰコリント書16:13

      (ローズンゲン日々の聖句7/6;水)

 神の御子、イエスが十字架刑で処刑され、死んで墓に葬られ、陰府(よみ)下られて、私たち人間の反逆の罪の処罰が完了している今は、

 そして、そのイエスが、三日目に墓より復活し、天の父である神の右の座に帰られ、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださっている今は、

神である主が受け入れる者のただ中にいてくださるので、
もう、災いを恐れることなく、気力を失うことなく、
喜び歌うようにしていただけ、
雄々しく強く生きる者にしていただけるのだそうです。

 私自身は弱く、恐れ、不安になり、気力を失っていても、私と共にいてくださる方が力ある方なので大丈夫なのだそうです。

 ギリシャの古代都市、ピリピでのこと、パウロとシラスは、付きまとってくる占いの霊につかれた女性から占いの霊を追い出したことから、捕らえられ、むちで打たれ、足かせをかけられて牢に入れられることになったのだそうです。

 その夜、二人が、神に祈り、賛美をしていると、真夜中ころ、地震が起こって牢の扉の戸が全部開いてしまい、鎖も解けてしまったのだそうです。

 それで、囚人が逃げてしまったと思い、剣を抜いて自殺しようとした看守に、パウロは「私たちはみな、ここにいる」と声をかけて自殺をとどめたのだそうです。

 震えながら、二人の前にひれ伏し、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と問う看守に、二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えて、彼とその家の者全部に主の言葉を語ったのだそうです。
それで、その家の者全部がイエスを信じ、バプテスマ受けたのだそうです。

 このようにして、むち打たれ、足かせをかけられ、投獄されるという、恐れ、気力を失うような状況の中にあっても、神である主はパウロとシラスを通して働かれ、看守の家族全部が救いにあずかる出来事にされたのだそうです。

 天の神、主は、御思いを告げられ、「私たちは聞き従います」と答えながら(出エジプト20:1~21)、結局は、自分の思いを優先し、天の神、主と心を一つにするよりも、背き続けるばかりの私たちの「生まれた時からの霊」を、イエスの十字架刑の処刑に合わせて処刑されたものと手続してくださって、新しい霊として「聖である霊」と呼ばれる方を送り込んでくださり、この方が受け入れる者のただ中におられるようにしてくださるのだそうです。
今日も。
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神である主の協働者の栄誉を与えようと

2016-07-05 10:56:17 | 聖書から
御手が私を造り、固く立たせてくださいました。
  あなたの戒めを理解させ、学ばせてください。詩編119:73 

 パウロの手紙:
私はあなたがたが
キリスト・イエスによって神の恵みを受けた事を、
いつも私の神に感謝しています。
あなた方はキリストに結ばれ、
あらゆる言葉、知識において、
全ての点で豊かにされています。Ⅰコリント1:4~5

      (ローズンゲン日々の聖句7/5;火)

 私たち人間を造ってくださった方は、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と思って造られたのだそうです(創世記1:26)。

 父である神、御子である神、聖である霊と呼ばれる神は、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠不変の方でありながら、
自分の思いのままに生きるのではなく、
それぞれ、相手を大切に思い、愛し、尊敬し、相手の思いが成ることを願っておられる方なのだそうです。

 それで、御父は御子に、聖である霊と呼ばれる方に、思いのすべてを明かしておられ、御子と聖である霊と呼ばれる方は、御父を愛し、尊敬しているので、自分の判断のとおりにではなく、自由意思で、自発的に、御父の思いのとおりがなることを自分の存在意義としておられる方なのだそうです(ヨハネ6:38、7:16、8:28、16:13~14)。

 自由意思で、自発的に、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる方なのですね。

 そして、その「われわれの、愛し合い、尊敬しあい、自由意思で、自発的に一つになっている」その一つに加わる者として「人を造ろう」とおっしゃっておられるようです。

 けれども、最初の人アダムは、与えられている自由意思で、この神である主との一つの場に留まることをやめ、神である主に対抗して、もっと素晴らしい者になりたいと、「神の一人のようになり、善悪を知る者に」なって(創世記3:5、22)、自分の理性を神とし、自分一人の理性の判断のとおりを実行する者、自己実現を目指す者となったのだそうです。
そして、私たちもそのアダムの反逆の性質を受け継いでいるのですね。

 この詩編119編の作者は、自分が造られたものであることを認め、その、造られた方の御思い、何を喜ばれ、何を忌み嫌われるかをよく理解し、学びたいと願っているようです。


 神である主は、多くの民の中から一人の人アブラハムを選び、この人の子孫を、エジプトでの430年の歴史の中で200万人とも言われるイスラエル12部族に育て上げ、これをエジプトから導き出し、シナイ山において御思いを文章化したもの、律法を示し、自分の努力によってご自身と思いを一つにし、心を一つにする者になれるかどうかを実験されたのだそうです(出エジプト19章~24章)。

 その結果、それ以降のイスラエル800年ほどの歴史においては、人は、神である主に対抗し、いよいよ「神の一人のようになり、善悪を知る者」、自己の思いを実現する道を歩む者であることが明白になるばかりだったのだそうです。

 そして、もう、放置しておけなくなって、神の民がこれ以上の反逆に進まないようにと、バビロン軍を用いて処罰するその時、神である主は新しい契約の約束をなさったのですね。

それは、聖である霊と呼ばれる方を受け入れる者一人一人に派遣し、この方の働きによって受け入れる者の心にご自身の、一人一人に対して持っておられる御思いを置き、ご自身と受け入れる者が同じ思いを思い、一つ心になるというものでした(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 その時から、世界の歴史はさらに700年ほど降り、いよいよご計画の時が満ちて、御子である方が、女の子孫としてダビデ家の子孫の一人の処女マリヤの胎を通して人間イエスとして人の世に来られ(マタイ1:18~25、ヨハネ1:1~14)、この方がおよそ33歳のころ、父である神は、全ての人間の反逆の罪をこの方の上に置き、この方を十字架刑で処刑し、全ての人の反逆の罪を処罰済みとされたのだそうです。

 そのうえで、父である神は、もう一人の方、約束の聖である霊と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、ご自身の、一人一人に対して持っておられる御思いを受け入れる者の心に書き付け、受け入れる者が、この部分においてご自身と同じ思いを思い、一つ心を持つ者としてくださる道が実現されたのだそうです。

 今から2000年ほど前に実現したこの新しい契約は、今もそのまま継続しており、「この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられている」のだそうです(使徒2:32~40)。

 それで、受け入れる者は、イエスと同じように、父である神と呼ばれる方と一つ思いになり、あらゆる言葉、知識において、全ての点で豊かにされ、この方がしようと思われることをしていく者としていただけて、神である主の「協働者」の栄誉をいただけるのだそうです。
変わりなく、今日も。
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