朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

一緒に出かけて下さるのだそうですね。あの方が。

2016-07-15 22:43:01 | 聖書から
主よ、

 私の力、私の砦、

  苦難が襲う時の逃れ場。エレミヤ書16:19




 ヤイロが来て、

イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。

「私の幼い娘が死にそうです。

おいでになって手を置いてやって下さい。

そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

そこで、イエスは彼と一緒に出かけて行かれた。マルコ5:22~24




      (ローズンゲン日々の聖句7/16;土)




 「人事を尽くして天命を待つ」とよく言われます。

私たち、自分の力を頼み、苦難のときも自分で何とか解決しようとするのですね。




 自分でやっているように思っていますが、実は、その自分でやる力も、理性も、自分自身の存在自体、すべて天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から頂いているものなのですね。




 私たち、「神の一人のようになろう。善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)として、天の神、主に対抗し、あるいはこの方を無視しています。




 しかし、山のような困難が立ちふさがり、自分の理性、自分の力ではどうすることもできなくなり、詮方尽きたとき、目を天に向けることができ、「私の力、私の砦、苦難のときの逃れ場」となっていてくださる方に心を向けることができるということもあるようです。







 ヤイロ。

会堂管理者として、当時、社会的に高い位置にありながら、娘の、死に瀕した病という出来事によって、「ナザレからなんの良い者が出ようか」と言われているイエスを、神の御子、キリストと信じて、その足元にひれ伏し、しきりに願ったのだそうです。

「この方は、今、死にかけている娘の病気を直すことができる方」と信じて。




 そして、イエスは、その願いを受け入れ、一緒に出かけてくださり、死んでしまったその娘を生き返らせて両親に渡されたのだそうです。




 エジプトを出たイスラエルの民も、天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方が、会見の天幕の上に昼は雲の柱、夜はその雲の中の火というかたちで一緒にいてくださったのだそうです。

そして、雲が留まっている時、民も留まり、雲が幕屋から上ったとき、民も旅立ったのだそうです(出エジプト40:34~38)。




 その、イスラエルの民の目指すところは約束の、乳と蜜の流れる地だったのですが、今の私たちの目的地は、天の神、主の御座の前の大群衆の賛美が鳴り響く、「小羊の婚宴」の席なのですね(黙示録19:4~9)。




 私の力、私の砦、苦難のときの逃れ場である「聖である霊」と呼ばれる方が、そこに着くまで、受け入れる者と一緒に出かけてくださるのだそうですから。

今日も。


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結婚を大切に思っておられるのですね。あの方。

2016-07-15 09:04:04 | 聖書から
姦淫してはならない。出エジプト記20:14




 結婚は尊ばれるべきです。ヘブル書13:4




      (ローズンゲン日々の聖句7/15;金)




 結婚。

自由意思において、自発的に、愛と尊敬において一つになるという契約。

ひとりの男と一人の女が。




 また、それは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と受け入れる者が一つになるという新しい契約のかたち。




他の者に心を寄せることはこの「一つ」を壊すことでもあるのですね。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)とおっしゃられて人間を、そして、人間の住まいとしてこの宇宙、地球の自然環境を創造したとおっしゃられます。




 「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2:24)とも。




 一人の男と一人の女が結婚を通して一体となる、

それが天の神、主がおっしゃる「われわれのかたち」をもっとも端的に表すものということでしょうか。

夫婦が一体となることが天の神、主の、自由意思による、自発的な、愛と尊敬による一体のひな型、モデルであるということのようです。




 とすれば、姦淫、夫婦のどちらかが他の女に、あるいは他の男に心を寄せることは、天の神、主の、自由意思による、自発的な、愛と尊敬による「一つ」という「かたち」を壊すことになり、人間の存在意義を失わせることになるようです。




 それで、天の神、主は、「この方を私たちの神とし、この方の仰せられたことはみな行い、聞き従います」(出エジプト24:7)と答えて、イスラエルを神の民とし、この方を私たちの神とするという契約を結びながら、他の神々に心を寄せるイスラエルの民を「姦淫をする者」と嘆かれたのですね。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、モーセに命じて、ご自身と民とが親しく交わる場所として「会見の幕屋」を立てさせ、ご自身と民とを執り成すものとして祭司職を立てられました(創世記40:1~17)。




 イエスは、ご自身が十字架刑での処刑を受けられる前夜、弟子たちに、パンをご自分のからだにたとえ、ぶどう酒をご自分の血にたとえて、食べたパン、飲んだぶどう酒が食べ、飲んだ者と一体となっているように、ご自分がこれから受ける十字架刑での処刑が、「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者に来られる道を開き、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者には、この方が「父である神」の一人一人に持っておられる御思いを、その心に書き付けてくださるので、受け入れる者は、自由意思により、自発的に、愛と尊敬をもって、イエスがおっしゃる「わたしたち」(ヨハネ17:21)と一つになるという新しい契約(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28)が発効することを示されたのですね(ルカ22:14~20、ヨハネ17:21~22)。




 イエスの十字架刑での処刑が完了し、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださる道が開かれている今は、この方をお迎えし、イエスがおっしゃる「わたしたち」と思いを一つにし、心を一つにしていこうと、天の神、主は、私たちに提案してくださっているのだそうです。




 一人の男が一人の女に結婚によって心を一つにし、身体を一つにし、生活を一つにしようと申し込むように。

今日も。


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