善を求めよ。
悪を求めるな。
お前たちが生きることができるために。アモス書5:14
何事も愛をもって行いなさい。Ⅰコリント16:14
(ローズンゲン日々の聖句7/12;火)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間一人一人と、思いを一つにし合い、心を一つにし合う関係になりたいのだそうです。
「父である神」と呼ばれる方、「御子である神」と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方が一つであるように(創世記1:26、ヨハネ10:30、17:21~23)。
イエスが語られた天国のたとえですが、王が王子の結婚の披露宴を設けたのだそうです。それで用意ができたので招待しておいたお客を呼びにしもべたちを遣わしたところ、彼らは来たがらなかったのだそうです。
それで、もう一度、別のしもべたちを遣わしたのですが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、、ある者は商売に出て行き、ほかの者たちは王のしもべたちを捕まえて恥をかかせ、そして殺してしまったのだそうです。
勤労は良いことであり、善なのでしょうね。
けれども、王との関係においては、その、善であるはず勤労が、王子の婚宴を気にもかけないですっぽかすことになると、善とばかりは言っておられないことになるのかもしれません。
そのとき、王はしもべたちに言ったのだそうです。
「招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者をみな、宴会に招きなさい。」
それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのだそうです。
ところで、王が客を見ようと入ってくると、そこに婚礼の礼服を来ていない者が一人いたのだそうです。それで、王が「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と尋ねると、彼は黙っていたので、王はしもべたちに、「あれを外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言ったというのですね(マタイ22:1~14)。
この人たちは、通りからいきなり連れて来られたわけですから、当然、礼服など用意していなかった。
今、みんなが着ている礼服は王が用意したものなのでしょうね。
けれども、この人は、王が出してくれた礼服よりも、今、自分が着ている、自分の力で得た服のほうがいいと思っていた。
だから、王の出してくれた礼服を着ようとはしないで、かえって、王の言葉に、ムッとして顔を伏せたのでしょうね。。
自分を向上させ、少しでも良い人間になろうとすること、それ自体は善なのでしょうね。
けれども、それが、自分の努力を誇ることになって、王が用意してくれた礼服を拒否することになると、外の暗闇に放り出されて、歯ぎしりして悔しがることにもなるということでしょうか。
人間的に見て善と思われること、それに精進し、努力することは善なのでしょう。
けれども、それが造り主である天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と対抗し、自分をこの方よりも高い位置につけようとするものであったとしたら、この方との関係はどういうことになるでしょう。
少なくとも、天の神、主の創造の目的からは、的外れになってしまっている、ずれてしまっているということのようです。
出エジプトの時も、天の神、主は、モーセに、「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから」と言われ、それでモーセは、神と出会う「会見の天幕」を宿営の外の、宿営から離れたところに張ったようです(出エジプト記33:1~23)。
私たちは、うなじのこわい者、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となり(創世記3:5、22)、自分の理性を神とし、自分の理性による善悪の判断を良しとして、その思いのとおりに生きる者なのですね。
天の神、主は、そのような私たちをなお、絶ち滅ぼすことにならないようにと、御子である方を私たちの身代わりにして、私たちのそむき、的外れの責任を全部、御子である方に背負わせて十字架刑で処刑し、私たちへの処罰は終わったもの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている、「生まれたときからの霊」という私たち自身は処刑されたもの、死んだものと手続してくださったのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、私たちひとりひとりに対して思ってくださっている御思いを、一人一人の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ思いを思う者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~27、ヨハネ17:21~23)。
それで、自己本位の愛しかない私たちの心にも、悪を憎み、善を愛し、正しい裁き、公義と正義を求める思い(アモス5:15、24)が来、神である主の愛の御思いが来るようにもなるのだそうです。
ちょうど、道端から婚礼の祝宴に連れて来られた人が、今まで着ていた自分の服を脱いで、王が用意してくれた礼服を着て宴会に出るように。
今日も。
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お前たちが生きることができるために。アモス書5:14
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「父である神」と呼ばれる方、「御子である神」と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方が一つであるように(創世記1:26、ヨハネ10:30、17:21~23)。
イエスが語られた天国のたとえですが、王が王子の結婚の披露宴を設けたのだそうです。それで用意ができたので招待しておいたお客を呼びにしもべたちを遣わしたところ、彼らは来たがらなかったのだそうです。
それで、もう一度、別のしもべたちを遣わしたのですが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、、ある者は商売に出て行き、ほかの者たちは王のしもべたちを捕まえて恥をかかせ、そして殺してしまったのだそうです。
勤労は良いことであり、善なのでしょうね。
けれども、王との関係においては、その、善であるはず勤労が、王子の婚宴を気にもかけないですっぽかすことになると、善とばかりは言っておられないことになるのかもしれません。
そのとき、王はしもべたちに言ったのだそうです。
「招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者をみな、宴会に招きなさい。」
それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのだそうです。
ところで、王が客を見ようと入ってくると、そこに婚礼の礼服を来ていない者が一人いたのだそうです。それで、王が「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と尋ねると、彼は黙っていたので、王はしもべたちに、「あれを外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言ったというのですね(マタイ22:1~14)。
この人たちは、通りからいきなり連れて来られたわけですから、当然、礼服など用意していなかった。
今、みんなが着ている礼服は王が用意したものなのでしょうね。
けれども、この人は、王が出してくれた礼服よりも、今、自分が着ている、自分の力で得た服のほうがいいと思っていた。
だから、王の出してくれた礼服を着ようとはしないで、かえって、王の言葉に、ムッとして顔を伏せたのでしょうね。。
自分を向上させ、少しでも良い人間になろうとすること、それ自体は善なのでしょうね。
けれども、それが、自分の努力を誇ることになって、王が用意してくれた礼服を拒否することになると、外の暗闇に放り出されて、歯ぎしりして悔しがることにもなるということでしょうか。
人間的に見て善と思われること、それに精進し、努力することは善なのでしょう。
けれども、それが造り主である天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と対抗し、自分をこの方よりも高い位置につけようとするものであったとしたら、この方との関係はどういうことになるでしょう。
少なくとも、天の神、主の創造の目的からは、的外れになってしまっている、ずれてしまっているということのようです。
出エジプトの時も、天の神、主は、モーセに、「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから」と言われ、それでモーセは、神と出会う「会見の天幕」を宿営の外の、宿営から離れたところに張ったようです(出エジプト記33:1~23)。
私たちは、うなじのこわい者、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となり(創世記3:5、22)、自分の理性を神とし、自分の理性による善悪の判断を良しとして、その思いのとおりに生きる者なのですね。
天の神、主は、そのような私たちをなお、絶ち滅ぼすことにならないようにと、御子である方を私たちの身代わりにして、私たちのそむき、的外れの責任を全部、御子である方に背負わせて十字架刑で処刑し、私たちへの処罰は終わったもの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている、「生まれたときからの霊」という私たち自身は処刑されたもの、死んだものと手続してくださったのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、私たちひとりひとりに対して思ってくださっている御思いを、一人一人の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ思いを思う者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~27、ヨハネ17:21~23)。
それで、自己本位の愛しかない私たちの心にも、悪を憎み、善を愛し、正しい裁き、公義と正義を求める思い(アモス5:15、24)が来、神である主の愛の御思いが来るようにもなるのだそうです。
ちょうど、道端から婚礼の祝宴に連れて来られた人が、今まで着ていた自分の服を脱いで、王が用意してくれた礼服を着て宴会に出るように。
今日も。
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