わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。イザヤ書55:8
ヨハネ:
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエス:
「やめさせてはならない。
わたしたちに逆らわない者は、
わたしたちの味方なのである。」マルコ9:38~39a、40
(ローズンゲン日々の聖句7/19;火)
私たち人間は、始祖アダムが「目が開け、神のようになり、善悪を知るようになろう」(創世記3:5)とし、「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なって(創世記3:22)以来、自分一人の理性の判断を良しとし、その判断のとおりを実現しようとするものになっているのだそうです。
それで、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、おっしゃるのですね。
「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」と。
これは、たまたまではなく、常に、違っているということなのでしょうか。
だから、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちに、自分一人の理性の判断で決めてしまわないで、わたしのところに帰って来て、その判断を私の前に持って来て、わたしに見せ、わたしの思いも聞いて、互いに思うところをすり合わせ、ともに思いを一つにし合ってやっていこうよと、提案してくださっているようです(イザヤ55:6~7)。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。
「(あなたがたは、わたしに背きにそむいて、わたしの度重なる呼びかけに応じようともせず、自分の理性の判断のとおりに、他の神々を求め、これを慕い、わたしに帰ろうとしないので、これ以上、背きがひどくなって、滅ぼしつくしてしまうことにならないよう、バビロンのネブカデネザルを用いてあなたがたを打ち、バビロンの捕囚の憂き目に合わせるけれど、そして、あなたがたは、『私たちは神の怒りを受け滅びてしまった。もうだめだ』と言うけれど)、
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。
山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらに代わりに、ミルトスが生える」(イザヤ55:12~13)ようになると。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者に種を与え、食べる者にパンを与える。
そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰って来ない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:10~11)のだから、と。
ヨハネ(弟子たち)は、自分たちについて来ない者、自分たちの仲間にならない者が、イエスの名を使って悪霊を追い出したり、病気を治したりするのは、やめさせるべきだと考えたようです。
けれども、イエスは「やめさせることはない」と答えられた(マルコ9:38~40)。
私たちは、敵は憎むべきだ。隣人は愛さないといけないかもしれないけれど、と考える。
しかし、イエスは言われるのですね。
「敵を愛しなさい。
あなたを憎む者に善を行いなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けてやりなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。
自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:27~31)と。
私たちは、そんなことはできない。そんなことをしていたら、この世の中、生きていけない、そんなことを言うイエスは「気が狂っている」(ルカ6:21)と思いますが、
天の神、主は、「わたしの思いはあなたがたの思いとは異なる」とおっしゃるのですね。
だから、神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている、生まれた時からの霊という自分自身を、イエスの十字架刑で処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと計算し(帳簿付けし)(ロマ6:11)、三日目に墓から、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って、何度も弟子たちに現れて神の国のことを教え、御自分が生きていることを数々の確かな証拠をもって弟子たちに示された後、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方(ヨハネ14:16)をお迎えし、この方によって、御自分と一つ思いになって生きるよう、願っておられるのだそうです。
天の神、主、「わたしはあるという者と名乗られる方は。
今日も。
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わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。イザヤ書55:8
ヨハネ:
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエス:
「やめさせてはならない。
わたしたちに逆らわない者は、
わたしたちの味方なのである。」マルコ9:38~39a、40
(ローズンゲン日々の聖句7/19;火)
私たち人間は、始祖アダムが「目が開け、神のようになり、善悪を知るようになろう」(創世記3:5)とし、「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なって(創世記3:22)以来、自分一人の理性の判断を良しとし、その判断のとおりを実現しようとするものになっているのだそうです。
それで、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、おっしゃるのですね。
「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」と。
これは、たまたまではなく、常に、違っているということなのでしょうか。
だから、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちに、自分一人の理性の判断で決めてしまわないで、わたしのところに帰って来て、その判断を私の前に持って来て、わたしに見せ、わたしの思いも聞いて、互いに思うところをすり合わせ、ともに思いを一つにし合ってやっていこうよと、提案してくださっているようです(イザヤ55:6~7)。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。
「(あなたがたは、わたしに背きにそむいて、わたしの度重なる呼びかけに応じようともせず、自分の理性の判断のとおりに、他の神々を求め、これを慕い、わたしに帰ろうとしないので、これ以上、背きがひどくなって、滅ぼしつくしてしまうことにならないよう、バビロンのネブカデネザルを用いてあなたがたを打ち、バビロンの捕囚の憂き目に合わせるけれど、そして、あなたがたは、『私たちは神の怒りを受け滅びてしまった。もうだめだ』と言うけれど)、
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。
山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらに代わりに、ミルトスが生える」(イザヤ55:12~13)ようになると。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者に種を与え、食べる者にパンを与える。
そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰って来ない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:10~11)のだから、と。
ヨハネ(弟子たち)は、自分たちについて来ない者、自分たちの仲間にならない者が、イエスの名を使って悪霊を追い出したり、病気を治したりするのは、やめさせるべきだと考えたようです。
けれども、イエスは「やめさせることはない」と答えられた(マルコ9:38~40)。
私たちは、敵は憎むべきだ。隣人は愛さないといけないかもしれないけれど、と考える。
しかし、イエスは言われるのですね。
「敵を愛しなさい。
あなたを憎む者に善を行いなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けてやりなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。
自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:27~31)と。
私たちは、そんなことはできない。そんなことをしていたら、この世の中、生きていけない、そんなことを言うイエスは「気が狂っている」(ルカ6:21)と思いますが、
天の神、主は、「わたしの思いはあなたがたの思いとは異なる」とおっしゃるのですね。
だから、神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている、生まれた時からの霊という自分自身を、イエスの十字架刑で処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと計算し(帳簿付けし)(ロマ6:11)、三日目に墓から、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って、何度も弟子たちに現れて神の国のことを教え、御自分が生きていることを数々の確かな証拠をもって弟子たちに示された後、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方(ヨハネ14:16)をお迎えし、この方によって、御自分と一つ思いになって生きるよう、願っておられるのだそうです。
天の神、主、「わたしはあるという者と名乗られる方は。
今日も。
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