神のもとに立ち帰れ。
愛と正義を保ち、
常にあなたの神を待ち望め。ホセア書12:7
あなたがたは
神に選ばれ、
聖なる者とされ、
愛されているのですから、
憐れみの心、
慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。コロサイ書3:12
(ローズンゲン日々の聖句7/28;木)
私たちは、罪によって死んだ者だったのですが、天の神、主、「私はある。私はあるという者」と名乗られる方は(出エジプト3:14)、そむくばかりの私たちをあわれんでいてくださって、
受け入れる者をイエスの十字架刑で処刑に合わせて処刑されたもの、死んだ者としてくださり、イエスを死者の中からよみがえらせた御力によって、イエスとともによみがえらせ、生かしてくださるのだそうです(コロサイ2:12~13)。
「生まれたときからの霊」という自分自身を死んでしまったもの、古い人として脱ぎ捨て、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、この方によって新しく生まれた者、新しい人を着る者としていただけるのだそうです。
新しい人は、「聖である霊」と呼ばれる方によって、「父である神」が私たち一人一人について思っていてくださる御思いを心に来させていただけるので、「父である神」と同じ思いにしていただけて、造り主に似ていくようになるのだそうです。
憐れみによって神に選ばれた者、神のものとして取り分けられ、愛されているものとして、「父である神」が思っていらっしゃる深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な心に合わせていただき、互いに忍び合い、互いに赦し合う心にもしていただけるのだそうです。
また、パウロのように、だれに対しても自由なのですが、より多くの人にイエスを知ってもらうために、すべての人の奴隷にもなるのだそうです。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない人には律法を持たない人のようになり、弱い人々には弱い者に。
すべての人に、すべてのものとなって、何とかして、幾人かにでもイエスを知ってもらおうとするのだそうです(Ⅰコリント9:16~23)。
イエスが、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に行って、大勢の悪霊を宿し、墓場に住みついている人をあわれんで、悪霊どもを追い出し、正気に返らせて家族のもとに帰されたように(マルコ5:1~20)、
イエスを、そして、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者は、天の神、主の憐れみの御業をしていくことにも用いていただけるのだそうです。
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」とおっしゃる方を、「聖である霊」と呼ばれる方を待ち望んでいきたいですね。
今日も。
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(ローズンゲン日々の聖句7/28;木)
私たちは、罪によって死んだ者だったのですが、天の神、主、「私はある。私はあるという者」と名乗られる方は(出エジプト3:14)、そむくばかりの私たちをあわれんでいてくださって、
受け入れる者をイエスの十字架刑で処刑に合わせて処刑されたもの、死んだ者としてくださり、イエスを死者の中からよみがえらせた御力によって、イエスとともによみがえらせ、生かしてくださるのだそうです(コロサイ2:12~13)。
「生まれたときからの霊」という自分自身を死んでしまったもの、古い人として脱ぎ捨て、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、この方によって新しく生まれた者、新しい人を着る者としていただけるのだそうです。
新しい人は、「聖である霊」と呼ばれる方によって、「父である神」が私たち一人一人について思っていてくださる御思いを心に来させていただけるので、「父である神」と同じ思いにしていただけて、造り主に似ていくようになるのだそうです。
憐れみによって神に選ばれた者、神のものとして取り分けられ、愛されているものとして、「父である神」が思っていらっしゃる深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な心に合わせていただき、互いに忍び合い、互いに赦し合う心にもしていただけるのだそうです。
また、パウロのように、だれに対しても自由なのですが、より多くの人にイエスを知ってもらうために、すべての人の奴隷にもなるのだそうです。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない人には律法を持たない人のようになり、弱い人々には弱い者に。
すべての人に、すべてのものとなって、何とかして、幾人かにでもイエスを知ってもらおうとするのだそうです(Ⅰコリント9:16~23)。
イエスが、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に行って、大勢の悪霊を宿し、墓場に住みついている人をあわれんで、悪霊どもを追い出し、正気に返らせて家族のもとに帰されたように(マルコ5:1~20)、
イエスを、そして、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者は、天の神、主の憐れみの御業をしていくことにも用いていただけるのだそうです。
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」とおっしゃる方を、「聖である霊」と呼ばれる方を待ち望んでいきたいですね。
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