朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

神の愛と忍耐を心に持つ者になって

2016-07-20 22:10:48 | 聖書から
主なるわたしは、わが語るべきことを語り、

  それは必ず成就する。

    決して延びることはない。(口語訳)エゼキエル12:25




 どうか、主が、

あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを

深く悟らせてくださるように。Ⅱテサロニケ3:5




      (ローズンゲン日々の聖句7/21;木)




 エゼキエルエルがサレムの人々に告げた天の神、主からの預言、幻について、自分勝手に預言している者たちは「日は延ばされ、すべての幻は消えうせる」と言っていたようです。




 それに対して、天の神、主は、決して先延ばしにすることはなく、必ず成就するとエゼキエルを通して言われたのだそうです。




 けれども、天の神、主は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人がイエスによる救いを受け取り、ご自分のもとに帰って来ることを望んで、忍耐をもって待っていてくださるのだそうです(Ⅱペテロ3:9)







 それで、この、神の慈愛と忍耐と寛容とを軽んじ、ずーとずーと先に延ばされ、

結局、それはもう起こらないと考えることがないように、と言われるのですね。

必ずなるから、と。




 イエスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、父なる神の、この、慈愛と忍耐と寛容を心に持つ者となり(Ⅰコリント12:27~13:3)、




一つ心になって、50倍、100倍の実を結ぶ(マルコ4:1~9)者になって欲しいのだそうです。

今日も。


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さまざまな恵みの善き管理者として

2016-07-20 06:44:33 | 聖書から
あなたの神、主より受けた祝福に応じて、
  それぞれ、献げ物を携えなさい。申命記16:17

 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、
神のさまざまな恵みの善い管理者として、
その賜物を生かして互いに仕えなさい。Ⅰペテロ4:10

      (ローズンゲン日々の聖句7/20;水)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちに、私たち人間が存在するのに必要なもの、生きていくのに必要なもの、さらには、人生を豊かにし、私たちが喜び楽しむためのもの、この人間の歴史が進んでいくために用いようとしておられる役割など、祝福とし、御思いに応じて与えていてくださっているのだそうです。

 それで、神である主の前に出るとき、受けたものの中から、それぞれが心に決めた分に応じて(Ⅱコリント9:7)、感謝の献げものを携えてくるようにと勧められているようです。

 一つのからだに、多くの肢体があり、それぞれがちがう働きをしながら、一つのからだとしてまとまり、調和しているように、天の神、主は、私たちひとりひとりに役割を計画しておられ、必要な能力や立場を与えていてくださるのだそうです。善い管理者として、それを生かして用い、互いに仕え合うようにと思っておられるのだそうです。

 イエスの十字架刑で処刑を通して私たちに来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方は、一人一人の心に、「父である神」が一人一人を通してしようと思っておられる御思いを置いてくださるのだそうですから、その御思いに沿って行動していくとき、私たちは、神が私を通してしようと思っておられることをしていくことになり(ヨハネ14:12)、キリストのからだの肢体の一つとして、役に立つ者になるのだそうです。

 その時は、事実を事実のままに、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」と言えばいいのだそうです。
自分の考えをさしはさみ、自分の考えでどうこうしないでいいのだそうです(マタイ5:33~37)。

 「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださり、働いてくださるのだそうですから。
今日も。
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違うのだそうです。あの方の思いは。私たちの思いとは。

2016-07-19 07:18:09 | 聖書から
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、
  わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。イザヤ書55:8

 ヨハネ:
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」
 イエス:
「やめさせてはならない。
わたしたちに逆らわない者は、
わたしたちの味方なのである。」マルコ9:38~39a、40

      (ローズンゲン日々の聖句7/19;火)

 私たち人間は、始祖アダムが「目が開け、神のようになり、善悪を知るようになろう」(創世記3:5)とし、「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なって(創世記3:22)以来、自分一人の理性の判断を良しとし、その判断のとおりを実現しようとするものになっているのだそうです。

 それで、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、おっしゃるのですね。
「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」と。

 これは、たまたまではなく、常に、違っているということなのでしょうか。

 だから、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちに、自分一人の理性の判断で決めてしまわないで、わたしのところに帰って来て、その判断を私の前に持って来て、わたしに見せ、わたしの思いも聞いて、互いに思うところをすり合わせ、ともに思いを一つにし合ってやっていこうよと、提案してくださっているようです(イザヤ55:6~7)。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。
「(あなたがたは、わたしに背きにそむいて、わたしの度重なる呼びかけに応じようともせず、自分の理性の判断のとおりに、他の神々を求め、これを慕い、わたしに帰ろうとしないので、これ以上、背きがひどくなって、滅ぼしつくしてしまうことにならないよう、バビロンのネブカデネザルを用いてあなたがたを打ち、バビロンの捕囚の憂き目に合わせるけれど、そして、あなたがたは、『私たちは神の怒りを受け滅びてしまった。もうだめだ』と言うけれど)、
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。
山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらに代わりに、ミルトスが生える」(イザヤ55:12~13)ようになると。

 「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者に種を与え、食べる者にパンを与える。
そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰って来ない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:10~11)のだから、と。


 ヨハネ(弟子たち)は、自分たちについて来ない者、自分たちの仲間にならない者が、イエスの名を使って悪霊を追い出したり、病気を治したりするのは、やめさせるべきだと考えたようです。
けれども、イエスは「やめさせることはない」と答えられた(マルコ9:38~40)。

 私たちは、敵は憎むべきだ。隣人は愛さないといけないかもしれないけれど、と考える。
 しかし、イエスは言われるのですね。
「敵を愛しなさい。
あなたを憎む者に善を行いなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けてやりなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。
自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:27~31)と。

 私たちは、そんなことはできない。そんなことをしていたら、この世の中、生きていけない、そんなことを言うイエスは「気が狂っている」(ルカ6:21)と思いますが、
天の神、主は、「わたしの思いはあなたがたの思いとは異なる」とおっしゃるのですね。

 だから、神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている、生まれた時からの霊という自分自身を、イエスの十字架刑で処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと計算し(帳簿付けし)(ロマ6:11)、三日目に墓から、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って、何度も弟子たちに現れて神の国のことを教え、御自分が生きていることを数々の確かな証拠をもって弟子たちに示された後、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方(ヨハネ14:16)をお迎えし、この方によって、御自分と一つ思いになって生きるよう、願っておられるのだそうです。
天の神、主、「わたしはあるという者と名乗られる方は。
今日も。
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朝ごとに、慈しみを新しくしてくださり、

2016-07-17 21:32:39 | 聖書から
主の慈しみは決して絶えない。

  それは朝ごとに新たになる。

    あなたの真実はそれほど深い。哀歌3:22~23




 私たちは落胆しません。

たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、

私たちの「内なる人」は

日々新たにされていきます。Ⅱコリント4:16

 

       (ローズンゲン日々の聖句7/18;月)




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち、人間のことをいつくしんでいてくださる方なのだそうですね。

そして、その慈しみの思いは、朝ごとに新たに、深くなるのだそうです。




 私たちも、「外なる人」、この肉体は、歳とともに衰えていきますが、「内なる人」、「聖である霊」と呼ばれる方によって始まった新しい人は、天の神、主の慈しみによって、日々に新たにされ、生き生きと生命力を増していくのだそうです。




 今、見えているものは一時的なもの、過ぎ去るものですが、見えないもの、内なる人はいつまでも続き、天にある永遠の家に至るのだそうです(Ⅱコリント5:1)。




 これは、求めさえすればいただけるのだそうです。

悪い親でも、自分の子どもには良い物を与えます。

ましていつくしみ深い天の父が、

どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうとイエスはおっしゃるのですから(マタイ7:7~12)。




 朝ごとに、日々に、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、

「内なる人」が生き生きと力強くなりますように。




 今日も。


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新しい契約の中で生きるようにと

2016-07-17 07:34:51 | 聖書から
光の子として歩みなさい。

 光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです;。エフェソ5:8~9

      (7/17の週の聖句)




 主はご自分の民に贖いを送り、

契約をとこしえのものと定められた。詩編111:9




 群衆は、口のきけない人が話すようになり、

体の不自由な人が治り、

足の不自由な人が歩き、

目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、

イスラエルの神を賛美した。マタイ15:31




      (ローズンゲン日々の聖句7/17;日)




 私たち人間が造られた最初のとき、私たち人間と造り主である天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方との関係は明るい、隠し立てのない、思いを同じくし、心を一つにする関係だったのだそうです(創世記1:26、31)。

父である神、御子である神、聖である霊と呼ばれる神が自由意思で、自発的に、愛と尊敬によって一つになっておられるように。




 けれども、最初の人、アダムとエバが、その造られた場に留まっていないで、もっと素晴らしくなろう、神のようになり、善悪を知る者になって(創世記3:5、22)、自分の実態、自分が裸な者、全部、自分のすべては造り主から頂いているもので、自分自身によるものは一つもないことが見えるようになり、天の神、主から身を隠し、自分の裸、自分に何もないことを隠すようになったのだそうです(創世記3:7~8)。




 私たち人間は、アダムの子孫として、アダムのこの性質を受け継いでいるのだそうです。

それで、天の神、主との明るい関係が切れ、自分の実態を隠す暗やみの存在となっているようです(エペソ5:8)。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、天地創造の初めからのご計画のとおりに(エペソ1:4)贖い(あがない、代価を支払って買いもどすこと)を人の世に送り込まれたのだそうです。

 ご計画のときが満ちて、御子である神、「神のことば」と呼ばれる方が人となって、「女の子孫」として人の世に来られ(創世記3:15、ヨハネ1:1~14)、およそ33歳の頃、ご計画のとおりに、私たち、すべての人間の身代わりとなり、すべての罪の責任を背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです(ヨハネ19:1~30)。




 そして、これを受け入れる者の「生まれたときからの霊」、「神の一人のようになり、善悪を知る者になっている霊」を処刑されたものと手続きしてくださるのだそうです(ロマ6:11)。




 そのうえで、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方が、受け入れる者に来てくださって、受け入れる者は、心に「父である神」の御思い(律法)を書きしるしてもらい(エレミヤ31:31~34)、「父である神」が一人一人に思ってくださっている御思いのとおりに生きる者に(エゼキエル36:25~28)していただけるのだそうです。




 それで、受け入れる者は、このままで、今の自分の実態、罪の本心になりきって(単一になって)、大胆に、はばかることなく(ヘブル10:19)御座の前に進み出、思い煩いや罪の思いのすべてを御前に投げ出し、広げて、見ていただき、知っていただき、光の中に差し出して、光の中の出来事、知っていただいている、見ていただいている出来事、明るい出来事にしていただけるのだそうです。




 天の神、主、「私はあるという者」名乗られる方は、神の御子イエスの処刑によって、私たち人間の贖いを人間の歴史のただ中で完成し、新しい契約(エレミヤ31:31)をとこしえに効力のあるものとされたのだそうです。




 そして、受け入れる者は、イエスがそうであったように、父である神の愛の御思いのとおりに(ヨハネ14:12)、病気の人をいやし、解放する者ともしていただけるのだそうです。




 「聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者に来てくださって、受け入れる者をとおして働かれるのだそうですから。

変わりなく。

この新しい週も。


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