与一から出て来た生き物の記録

奇妙な生き物。早朝の自宅ガレージ奥の「与一」の中から、様々な働きをする者たちが生まれています。その有様と効能の記録です。

げんてん・3

2011-04-06 10:59:06 | げんてん


 


げ ん て ん Youg  man  be  not  forgetful  of  prayer  .


 


 


5話 「手紙」


届いた救援物資にも様々な”送る側の戸惑い”が見受けられた。 被災地の状況についての情報の伝達が上手く行っていなかった事もあるのだろう。  食料品などでも、賞味期限ギリギリになってしまったものや、心づくしの手料理もあったが、被災された方に渡る前に、もう食べれなくなってしまう。 衣類にしても、新品についてはサイズの表示などが明快で、「どのサイズが欲しい」と言われてもすぐに渡せるのだが、先にも書いたポリ袋にバサッと入ったものについては、手渡す以前に仕分けをしなければならず、その時間と人手が間に合わないのだ。 しかし、そうした”送る側の戸惑い”すらも、現場の僕たちにはあたたかく感じられた。 場違いな救援物資、とんちんかんな贈り物、その全てに贈って下さった方々の心が入っている。 次々と到着するトラックやバイク。 「救援物資てんこ盛り」の軽トラックは地方ナンバー。 見た事もない地名のナンバーも。 ここに集う全てのドライバーたちはここまでの運送料がある訳ではないのだ。 知っているドライバーなど一人もいない。 しかし、皆の胸の内にあるものは全く同じ心だと、交わす視線でなぜか分かるのだ。 その上で、陸続と続くトラックの列を見るとたまらなく心が熱くなった。   


「おおきにぃ~!」。 「お疲れ~!」。 「気ぃ~付けてな~!」。 そこで交わされる、そうした何気ない言葉の数々が、人間が交わす最も美しい、”宝物の言葉”だと感じた。 想像もできない程のたくさんの人々の「熱く深い心」がここに集結している。 僕は、”油断”すると涙が溢れてしまいそうになるのを、忙しく立ち働く事でごまかすのに必死だった。 「生きようと戦う人々」、そしてその人たちの事を想って「無心に応援しようとする人々」・・・。こうした状況下での全ての人々の、全ての「言葉」や「行動」を、「人間の尊厳」なんだと言えば、言いすぎなのだろうか?     


そんな中、僕たちの作業は続いていた。 ペアーで一日を共にした、ご両親を亡くされて間なしからこのボランティアに身を投じている彼も、さすがに”笑顔”も失せる程の強い疲労感と戦っている。 もとより”へたれ”の僕は、時折休憩を入れていたにもかかわらず、腕と太ももを上げる事もつらくなっていた。 日が暮れると救援物資を受け取りに来られる人の数も減り、物資の搬入やその仕分けの方がメインとなる。 そんな夜半、来館者もまばらとなったゲートから「婦人服~~!!!」という大声が聞こえた。 救援物資を誰かが受け取りに来たのだ。 「仕分け」に集中していた僕は、「はああ~~い!!」と一応返事はしておいて、慌てて婦人衣料の所へかけて行き、次いで細かくサイズや種類をゲートの役員が聞き出し、又大声で伝えてくれたが、疲れた頭ではもう覚えきれない。 覚えれるだけの物は取り上げ、後はサービス、とばかりにいろんな衣類を抱えれるだけ抱えて、大急ぎで走って行った。 ちょうどゲートと僕の中間にいた彼が合図をしている。 「井川!中継するわ!投げろ!!」。 僕は抱えた衣類の全てを大きな手提げに放り込み、彼めがけて大きく放りあげた。 その時、一着の婦人物のコートが落ちてしまった。 慌てて駆け寄り、そのコートを拾い上げて、「これ、忘れ物~~!!」と放り投げようとした時、コートのポケットから折りたたんだメモ用紙と何かが落ちてしまった。 「んん?」。 もう一度それを拾い上げ、無造作に、でも丁寧に折りたたんだメモを開いてみた。


「あなたの無事を祈っています!!


新調はできませんでしたが、うちにあるものの中で一番ましな、


あたたかそうなものを送ります。


クリーニングはしてありますので、お役立て下さい。


テレビで見て、そちらの事が何度も映し出されています。


本当に恐ろしい事になってしまいました。


でも、私はあなたの無事を祈ってます。 絶対に負けないで!!!


上手くは書けませんが、私もあなたと一緒にがんばります。


風邪をひきません様に。 どうか、元気でいて下さい。


あなたの怪我が一つでも少なく済みます様に!


私も絶対に、あきらめません!


あなたと同じ心で、


あなたと共にがんばります!!


私の好きな言葉は、”冬は必ず春となる” です。


この言葉を、あなたに贈ります。」


「これは・・・・・」、それしか言葉にはならない。 手書きで年配の方らしい、謹直な筆跡。 ”感電”したような震えが走った。 なぜだろう? 動けない程の感涙がこらえ切れずに湧きだした。 これは僕には「とどめ」に等しい。 誰が書いたのかわからない。 誰に届くのかもわからない。 ただ、うれしくて、うれしくて。 それだけが心の中にいっぱいで、噴き出して止めようのない涙はもう、どうしようもない。 十数年の間、自身の中で凍りついてきたものが一気に溶けだすように、どう頑張っても、もう無理だ。 まるで泣きだした子どもがしゃくり上げてもなを、止められぬ様に。 その手紙と一緒に、折りたたまれた小さなポリ袋が出てきた。 ”何包かの風邪薬”だった。 


 僕の中で、今まで整理の付かなかった全てバラバラのキーワードを、一挙に一本の線がつらぬいた。 「優しさ」・「真心」・「励まし」・「人のあたたかさ」・「祈り」・「人生の目標」・「希望」・「夢」・・・・・そして、


「ありがとう」という言葉。


激しい嗚咽はもう止めようがなく、体中でむせび泣く様だった僕の異変に、彼が気づき駆け寄って来た。 「井川!!どないしてん?大丈夫か?」。 僕は、無言でその手紙を彼に見せた。 手紙を開いた彼は少し読んだだけで慌てて手紙を閉じ、後ろを向いてしまった。 その肩が激しくふるえている。 自然に僕は彼のふるえる肩に手をやったが、僕の方もとめどなくこみ上げる”熱いもの”をどうする事もできず、容量オーバーの感涙にむせぶ以外、何もできない。 「ふ・・冬は・・かならず・・」その先は言葉にならず、心の中だ。  こちらを振り向いた彼は、僕の涙のみならず鼻水まで垂れ流しの姿に、同じく嗚咽は止まらぬままに、笑いだしてしまった。 しかし、僕以上に彼もぐじゃぐじゃになっている様に僕も吹き出してしまった。 たいがい”おかしな顔”で笑っているのか、泣いているのか、二人ともわからない。 そしてお互いの顔を指さして嗚咽混じりに笑いあった後、そのコートに「手紙」と「かぜ薬」を大切になおし、待たせてしまったご婦人に丁重にお渡ししたのだった。


ご婦人は「こんなにいっぱい、ありがとう」。と言った。


僕たちも大きな声で「ありがとうございました」。と言った。


この「ありがとう」を、僕は生涯忘れない。


 


 


陽己と珠月へ


僕はおまえたちを尊敬し、感謝する。


僕たち夫婦のような者どもを、おまえたちは「親」として選んでくれた。


これは、あの時の「ありがとう」があったからに他ならない。


だからこそ、今の毎日の「普通の暮らし」は、


本当の意味での”奇跡”なんだと思う。


そしてもしこれが”奇跡”というのであれば、


あの、誰から誰に渡ったのかも分からない、”一通の手紙”こそが、


この4人の命を結び合わせてくれたのだと、


信じて、疑わない。


 


そして、もう一つ、信じて疑わない事。


それは、このような幸運な”奇跡”は、僕たち4人だけでなく、


全ての人に有る、という事である。


日常の中に訪れる、”幸運な奇跡”。


それは、現に今東日本で、仕事も住まいも追われ、


あるいは家族をも奪われ、想像を絶する苦渋の中で、


それでもなを、懸命に”命”を繋ごうと戦い続けておられる方々の、


今の労苦の中に、もうすでに芽吹いている。


そう、堅く信じ、そして


決して、決して、疑わない。


 


陽己と珠月、


おまえたちが今、どんな状況でこれを読んでいるのか、


それはわからない。 しかし、


おまえたちが今踏みしめている大地は、世界は、


おまえたちが顔も知らない日本中の家族と、


世界中の家族のみんなで、


「いっしょうけんめい」に創り上げたものだという事を、


心に刻んでほしい。


 


父より。



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げんてん・2

2011-04-03 05:32:51 | げんてん


 


げ ん て ん Young  man  be  not  forgetful  of  prayer  . 


 


 


3話 「1・17」


16年前のこの日、大きな地震が「阪神・淡路」を中心に関西全域を襲った。 僕の「原点」である。 当時僕は20代後半で、先に述べた思春期の頃の傷跡も薄らぎ、社会人としてもそれなりに成長してもいた。 先に記述した”情緒のバラバラさ”はそのままに。 恐ろしく長く感じる揺れが収まった後、すぐに気になったのは当時勤めていた会社と、当時付き合っていた彼女(前・嫁)だった。 大阪への影響は若干の停電や、京阪電車が途中で止まってしまった・・というくらいで、まさか、そんな”大惨事”となっているとは思いもよらなかったので、止まってしまった電車に代わって、自転車で通勤したのを覚えている。


TVや新聞を通じ、時々刻々に明らかとなる被災状況。 今とは違って、「自衛隊が入れない」だとか、「政府の対応がまったく間に合っていない」等のニュースが報道されていた。 「救援」そのものの全てが後手になってしまったのは、この「震災」が未だかつてない規模の都市直下型の地震であった事も含め、あらゆる場面において専門家の想定をはるかに超えた規模だったからだろう。 したがって「その時」のシュミレーションなど出来ているはずがない。 そんな中、「後ろ向き全開」からは幾分か”人としての成長”を遂げていた僕も、自分に何ができるのか・・と”いっちょまえ”に思案したりもしていた。 その感情と心の奥にあった人に対する不信感は、まさに名実共に”バラバラ”だった。  いてもたってもいられなくなった友人の何名かは、「ラジオと懐中電灯」、そして積めるだけの「救援物資」をバイクの荷台に積み込んで出発していた。 「自分に、何ができるのか?」・・・この自身に対しての問いかけは、”バラバラ”のままで、しかし、切迫していたのだ。


各本部単位で、”バイク隊”と”物資の搬入作業”に別れ、救援隊を「オール・関西」で組織し神戸に行く、との連絡を受けたのは1月18日、震災のその日の真夜中だった。 そして僕の参加はそれから一週間後ほどだったと記憶している。 すぐにでも向いたいメンバーもたくさんいたが参加人数を組織割の日割りにしての緊急の取り組みに、文句をいうメンバーはいなかった。 青年部のこの対応の速さと、細やかさは「参加メンバー以外は、個人で被災地へ向かわないように。 自衛隊を始め、その他のボランティアや、救援物資を積んだ車両が現地に入る妨げになってしまうからです。」という趣旨にも明らかだった。 この「バイク隊」について、現在ネット上ではさまざまに取りざたされている。 大多数が「批判」の数々で、「バイク隊そのものが被災者救助の妨げとなった」、「学会の会館を避難場所に提供した、というのは実は真っ赤なウソ」、「学会の会館に避難すると、”入会させられる”」、「どさくさに紛れてバイク隊の青年部が被災した女性をレイプした」等々。 そこにはおびただしい数の、見るもおぞましい「創価学会像」が描き出されている。 事の真偽については、実際その場にいた方々に聞いてみるのが一番だと思うので、ここで云々はしない。 ただ、僕は、僕が体験した事と、自身の心の中に起こった事のみを、そのままに記述するだけである。


「西宮」の朝は、大きな火災が沈下したあとの焼け焦げた様な臭気が残っている。 足でいくら蹴ってもびくともしない巨大なアスファルトの残骸は、間違いなく”ほんの数日前までは道路”だった事の悲しみと、自然の力の強大さを見せつけている様だ。 倒壊してしまった家屋。 街並みは、未だそこかしこに燻ぶる小さな炎(火事の後?)と立ち上る黒煙に満ちて、人の気配はまばらだ。 消火栓から疲れた様にしみ出す水は、もう吐くものも無くなった後の地面の嘔吐の様に苦しげで、所々に乗り捨てられた乗用車がひっくり返っていても、不自然ではない。 その光景を見て「映画のセットの様だ」と僕は感じて、すぐにそんな自分の軽率な想像力を恥じた。 4~5名一組みでの「物資の搬入」に、後ろの方で参加していた僕だったが、実際に、こうした被災地の光景を目の当たりにしたショックはあまりに大きく、どこにもぶつける事の出来ない深い怒りと大きな”無力感”は、誰もが同じだった。 ”無駄に繊細”な僕の「軽率な想像力」は、そこに広がる「大震災」の”現実”の、あまりの”生々しさ”を受け止めきれない為の反動だったのかも知れない。 


もう一つ、ショックを受けた事。 それは、(駅の名前を忘れてしまったのだが・・・)現地付近まで電車で向う途中で、「これより先は地震の為運行できなくなっております。●●駅以降へお越しの方につきましては・・・」とのアナウンス。 TVで報道されていた”ねじ曲がってめくれ上がってしまった線路”の恐ろしい光景がよぎる。 そして、自分が今乗っているこの車両でも、多くの命が亡くなったのでは・・・。 そうした災害の現実的なリアリティーは、ここにイソイソとやって来た僕たちの「応援」など、「何の役にも立ちません、何を遊びに来たのですか?」と、嘲笑うかの様に、強烈に迫るばかりだ。 


そしてまだ驚いた事がある。 倒壊してはいなかった、僕たちが降り立った「●●駅」は健在で、背中にリュックを背負った多くのボランティア(大多数)の方々が行き来していた。 「お疲れ!!」。 「お早う!!どこ?長田??ちょっと遠いで~!!」。 「今から? ”××は水がないらしいで”!!」。 「気ぃ~つけてな~!!」等々の、全くあかの他人どうしが普通に会話する光景。 僕たちにもボランティアの方の誰かがこう言ってきた。 「おはよ~!!」。 「おはよ~ッス!!」。 「兄ちゃんら、アレか? ”学会さん”か?」。 「はい!そうです!」。 「西宮の会館に行くんか?」。 「はい!そうです!」。 「お疲れやな!!今、めっちゃ並んどったで~!救援物資のトラック!!早よ行って”捌(さば)いたって”や(笑)~!!」。 「あっ!わかりました!急いで行きます!!」。 「兄ちゃんら、がんばれよ~!!」。 「はい!!ありがとうございます~!」。


こんな感じで、まったくの”あかの他人”が他人で無くなってしまう。 「大震災」による衝撃は誰もが受け止め得る限界を超えていたが、しかしそんな時人間は、誰に言われるともなく、本能的に”心を共にする。 宗教や思想、立場や身分の違いは、ここでは関係無くなってしまうのだ。 「復興」という一点において、全ての人が仲間であり、同志であり、ある意味「人間という家族」のような、あたたかな「共有感」を分け持つ。 僕の気持ちの中で「普通の挨拶」が、これほど熱く、そして尊く感じられた事は今までにない。 そこに広がる現実も衝撃だったが、それ以上に自分の内に唐突に湧きおこる「人間という家族感」の方が衝撃だった。 西宮の会館に着くまで、かなりの距離を徒歩で進んだが、僕は終始、黙り込んでしまっていた。 目頭の奥に、心の中心に、今まで体験した事のない、自分では整理のつかない”熱いもの”が湧きだしていたから。 そう、本当に「整理」などできない。


 


4話 「作業」


会館についてすぐに役員の幹部より「現在の会館の使用状況」の説明がなされた。 会館入り口のゲートでは、会館に避難してこられた方の名前を書いて頂く事。 学会の関係で無い方の入館も多いので、もし、”人を探している”という方が来られた時にそれが誰なのか、館内で避難生活をされている人々にすぐに館内放送で名前を呼んで確認できるから。 便所はなるべく数名ひと固まりに。 流す「水」が不足しているからだ。 婦人部の方がバケツで流してくれるので、声をかける事。 救援物資は全て駐輪場&駐車場に、「男性衣類・女性衣類・子ども衣類・薬品関係・寝具・生理用品・簡易食料・「水」・電化物関係(ほとんどがラジオ)・燃料関係」に大別して置く。 被災された方が「物資」を受け取りに来た時、ゲートの役員がそれを確認し、大声でそれを伝え、「物資」の中にいる役員がそれを探しだして大急ぎで持っていく。 特に学会員は平気で中に入って来るが、一般の方は抵抗がある為、なかなか館内には入りにくいし、「何が欲しいのか」も言い出せない方も多い。 だから役員の方から「何が必要なのか?」を話しかけて聞く事。 怪我をしている方や、病気の方については青年部で下手な処置はせず、ドクター部(医師のグループ)に速やかに来てもらう。 「救援物資の搬入トラックの動線は・・」等々・・・。


僕は、「物資の中に埋もれる役」だった。 女性・男性衣類の所だ。 僕とペアーのメンバーはここ現地の青年で、被災した次の日からここでのボランティアを毎日続けているという。 「衣類コーナー」は、結構忙しい。 「水コーナー」の次によく”お呼び”がかかったのではないか? ペアーになった現地メンバーと、待ち時間にちょっとした会話をしようものなら、すぐにゲートのメンバーの大声、「お~~~い!!婦人服~!!それと、婦人もののこぉぉーーとぉぉぉ~!!!」。 休憩もそこそこに、次から次に押し寄せる救援物資を求めて来る被災された方に合わせて、探しまわったり走りまわったり、新たに到着する救援物資の置き場所の確保にと、1月だというのに汗ばむ程の忙しさだ。 半日も過ぎると僕もそのペアーのメンバーもヘトヘトだったが、お互い「しんどいな」とか「大変やな」などの言葉は無く、「まだまだやるで!!」といった”強気な笑顔”を交わした。 ゲートの方を見ると、もう次の救援物資を取りに来られた方の姿が見える。  


そのメンバーと交わした会話らしい会話は二つ。 届けられた「衣類」の中に、幾つかの大きなポリ袋と、その中には男性、女性の衣類がぐしゃぐしゃに入っていて若干の生ゴミの様な「匂い」がしている。 どの地域のどんな方がこれを送って来たのか? もしこれを被災者の方に渡したとして、何を感じるだろう? 僕とそのメンバーはその幾つかのポリ袋をとっさに掴んでしまわない様に、置場の隅の方へ押しやった。 「届けられへん・・・」。 「そやな」。 そんな会話の後、彼が言った。 「でも・・でも、めっちゃ・・ありがたい・・」。 


もう一つの彼との会話。 それは僕が不用意に聞いた事に対して彼が応えたもので、間断なく到着する救援物資の対応の為、尻切れトンボに終わってしまった。 「ご両親も会館の役員なん?」と僕。 「・・・・いや、あの下」と、会館のある位置の遥か向こうの遠くに威圧的な黒煙が立ち上っている地域を指差す彼。 「ええっ?」。ちょっとまずい事を聞いてしまったのか・・僕はそう思い、一方的に気まずくなった。 「おれも結構やられてるで」と彼は屈託のない笑顔で上着を少し上げて脇腹に荒々しく巻かれた包帯を見せてくれた。 「わっ!エぐっ!だ・・大丈夫なん?」と僕。 「全身火傷だらけの怪我だらけやな(笑)!取りあえず、おれは”生き残った”から、おとんの分もおかんの分も、ここでもっと困ってる人らの為に、がんばらんとな!!」。 


「そっか・・・・」。


そうとしか言葉が見つからない。


 彼は僕の気遣いを感じたのか黒く汚れた顔をくしゃくしゃにした”笑顔”で、「!!」。 彼の人懐っこい笑顔につられ僕もこわばり気味だが、笑った。


 


自分の「心」の中の事でいっぱいいっぱいの僕には、あまりに衝撃が強すぎた。


ここに到着してからのほんの半日の間、


自分の中で、ここ10年近く、絶対に変える事は叶わないと思っていた事が、


一気に変わり始めていた。 根本的な事。


僕はずっと長い間、人と「心」で交わる事を避けて生きてきた。


しかし、この時の彼の「」に、なぜか心は震えた。


自分の中で、今 起こっている事が、全く理解できない。なのに、


湧きあがる感情は、こらえ切れないのだ。


戦っていたのかも知れない。


”腐って行こうとする心”と、”立ちあがろうとする心”が。


 


つづく


 


 


 


 


 


  


げんてん・1

2011-03-30 16:07:49 | げんてん


 


 


 げ ん て ん .Young  man  be  not  forgetful  of  prayer   


 


 


陽己と珠月へ。


勝手な事をいうと我が家の「原点」は、おまえたちのお父さんが蘇生した時にある。


ここで「僕は」という、かしこまった言い方で自分の事を言うのは、


この”原点”についてのちょっとした話を、おまえたちに話すのと、


おまえたち以外の、いろんな人たちにも聞いてもらおうと思うからである。


そして、おまえたちのことを、いちいち”おまえたち”と、偉そうにいうのは、


これをおまえたちが読むときに、いつも「おちゃらけたお父さん」な僕が、


たまには「偉そうにしている」と、面白がって読んでくれるかも知れないと思うからだ。


 


 


僕はおまえたちを心から尊敬している。


”尊敬している”と言われても、なんだか良くは分からないかも知れない。


それは 他でもない、「生きる」という事について、


きわめて不器用な僕たちのような夫婦の元へ、


命をかけて生まれてきてくれたからだ。


僕たち夫婦は不手際ながら、おまえたちに「親」として選んでもらえた事に感謝し、


おまえたちがこの世に生れ出るまでの、生命の戦いに


心の底からの敬意を持ち、その魂を尊敬するのである。


 


1話 「こころが”かじかむ”」


「こころがかじかむ」。


サイキック・ナミング。


これは、僕の尊敬する作家、大江健三郎と立花隆とのTV番組での対談で出てきた言葉で、意味合いは「心理的麻痺状態」を示している。  大きな災害や生命の危機に直面した際に、そこからは逃れる事はできないのに、「心」は逃れようとする「心理状態」。 喜怒哀楽を始めとする情緒が、災厄を感じたくないあまりに、その機能を止めてしまう。 全てを感じなくなるのだ。 「心が」機能しなくなってしまう。 この状態を「サイキック・ナミング」という。 それはちょうど”こころがかじかんだ”ような状態だという。 


僕は多感な思春期の頃から、20代前半くらいまでの10年間程、ある一つの事でこの「サイキック・ナミング」のような日々を過ごした。 「心」が”かじかんで”いたのだろう。 完全に情感は無くしていないので、「よく似た状態」だといえる。 きっかけは中学生時代、「シンナー中毒」だった事から始まる。 妙に攻撃的で、無駄に繊細で、当時の悪仲間とも人間関係がうまく行かず、そのくせ真面目に生きる事もできず、煮ても焼いてもどうにもならない自分が嫌でならなかった。 当時の仲間とは万引きや空き巣をはじめ、思いつく「やんちゃ」の限りを尽くし、その拠点となった仲間の家で、あちこちから奪い取った万引き商品に囲まれてシンナーに興じながら笑いあった。 その笑いは、心からの「笑い」でない事を、気持のどこかで自覚しながら。 仲間の全員が嫌だったし、その中にいて笑っている自分が嫌だった。そうした関係を断つ事ができない自分が死ぬほど嫌だったが、どうする事もできないでいたのだ。 そんなある日、家族共々引っ越す事となり、徹して弱腰だった僕にとってそれは仲間に”別れ”を告げる良い契機となった。 携帯電話のないその当時はもっぱら公衆電話だ。 いつも一緒にいた一人の仲間にだけ、行く先は告げずに「もう、おまえとは一生遊ばない」といった。 絶対に”キレる”と思っていたその彼の反応は、僕には衝撃的だった。 ”泣きだした”のだ。 「誠一だけが友達やと思っていたのに・・」、そう何度も何度も言いながら号泣する彼を、僕は冷たく突き放した。 もう、とことん「嫌」だったから。


しかしこの事が僕の中で、”あいつにいつか殺される”という強迫観念として残り、神経を蝕んでいった。 高校を卒業する頃には、ちょっとしたもの音すら、”何かの気配”かもしくは”誰かの殺意”のように感じた。 実際、「声」が聞こえる症状も出てきていた。 「笑う事」がしだいに少なくなり、言葉数も少なくなり、ちょっとした挨拶すら頭の中で何度も練習してからでないと、上手くは言えない。 「長く生きても、この苦しみが続くだけ」と実感していた僕は、何度か自殺を試みたが未遂におわり、いよいよ情緒は不安定になるか、無感情でいるか、という所で落ちついて行くのだった。 両親の無限大の愛情すら、僕の心は拒絶していたのかも知れない。 要は、”心がかじかんで”いたのだ。


 


2話 「男子部の先輩」


我が家は母親の代から熱心な「創価学会」である。 高校を卒業して美術系の専門学校に通い始めたのは、この「どうにもならない哀れな息子」に対しての、両親の真心であり、合わせて経済的には苦渋の選択でもあった。 「絵画」にしか興味を示さない無感動でナイーブすぎる息子に対し、”母の祈り”は何年も深夜にまで続けられた。 僕の進学が決まる直前の父の「日記」には、こんな事が記してあった。 「誠一の専門学校に行って見た。通学時間は・・乗換は・・。これなら、誠一も楽しく通えそうだ」。 こうした両親の想いは、当時の僕は知る由もなかった。 


”心がかじかんだ状態”は、時間がたつと表面的には収まったかのように見えた。 しかし心の中心には常に空白があり、根強い「人間不信」こそが性格の根底となった。 「創価学会」の会合に参加すると、いつも誰かが誰かの事を心から心配し、そして祈っている。 笑いがあり、感動があり、参加するメンバーは「自分」を自由に表現し、それを皆で応援する。 悩みの淵から立ちあがるメンバーの姿があり、社会人として大きく成長していく若いメンバーの躍動が満ちている。 お年寄りの方々も、そこでは主人公となり、その向こうで子ども達が駆け回っている。 その陰では緊張感に満ちた青年たちが、参加メンバーの安全を守っている。 世間で言う”カルト教団・創価学会”とは、中から見ると全く違う世界がそこにはあるのだ。


ただ、当時の僕にはその空気そのものが「ウザい」だけだった。 「自分自身の殻を破って、成長しよう」、「悩める友を祈ろう」、「弱い自分を乗り越えよう」・・・・そんな前向きな事ばかりを言われるのは、僕にとっては大きなお世話なだけだった。 でも、それを言うのが「学会員」の常だ。 いつも元気のない僕をいろんな方が心配し、励ましの言葉を惜しみなくかけてくれるのだが、とにかく「うるさい」だけだ。 僕は”励まし”などいらない、前向きにもなりたくない、できれば「事故」か何かであっさり死んでしまいたい、その徹して「後ろ向き」な姿勢は明るく元気な学会員の中にあっても、揺るぎないのだった。 その当時は「もの創りの人」の自覚も芽生えていた僕は、できれば ”良い作品”を何点か残して、それでこの世界と別れよう、そんな発想だった。


いつも僕の事を気遣ってくれる「男子部」の方が、折々に訪問して来た。 「うっとうしい」ので、居留守を使うとメモ用紙に短い手紙を置いて行った。 「誠ちゃんへ 元気?? 又、来るわ! 良い作品ができますように!」・・・・。この優しい心遣いがたまらなく「うっとうしい」のだ。 そんなある日、その先輩がこんな事を言い出した。 「誠ちゃん、今度の会合で、紙芝居をやるんやけど、ちょっと斬新な”絵柄”にしたい。 是非、誠ちゃんの独特の画風でみんなを驚かそう!!絶対にみんな感動するで!」。 さすがに「後ろ向き全開」の僕も、この提案を断る理由はなかった。 そして渾身の力作が完成し、その会合は大成功となった。 紙芝居を見て、感動の涙を浮かべる老人の姿もあった。 「自分の作ったものが、人を喜ばせた」。 この時、久しく忘れていた「喜び」が僕の中で蘇りつつあった。


それから数日後の夜、玄関口から、僕の母の怒りの声が聞こえてきた。普段声を荒げる事のない母だったので、いつも部屋で籠ってばかりの僕も驚いて、耳をそばだてた。 どうも、紙芝居の話しを持ちかけた「男子部の先輩」が僕の母に怒られている様子。 気にはなったが、出て行かなかった。 「男子部の先輩」は母に何かを怒られて、慌てて帰った様子。 憤慨した母は食事の用意にかかり不穏な空気は無くなったが、夜遅くにその「男子部の先輩」が又やって来た。 そして再び憤慨する母に何度も頭を下げ、こう言った。 「すみません!やっぱり出てこないんです!誠ちゃんが描いてくれた紙芝居・・・・すみません・・直接本人に謝らせてください!」。 どうやら会合終了時の片づけの際に、誤って処分してしまった様子。 母に呼ばれて出て行った僕にも「先輩」は深々と、そして何度も何度も頭を下げ、「誠ちゃん!ホントにごめん!!ホントに・・・」。 申し訳なさに言葉を詰まらせながら必死に謝る「先輩」に、僕はあっさりと「別に良いっスよ・・別に・・」とだけボソッと言った。恐らく何時間も「紙芝居」を探していたのだろう「先輩」の、何度も何度も頭を下げる、その誠実な姿が僕の心に焼きついた。 基本、僕は、全てが”どうでも良かった”。 しかし、「先輩」のその姿は、”かじかんだ心”に「何か」を残したのだった。


 


「優しさ」、「真心」、「励ましの言葉」、「人のあたたかさ」、「友への想い」、


「感謝」、「祈り」、「人生の目標」、「希望」、「夢」、そして、


「ありがとう」という言葉・・・。


こうした感覚は、当時の僕には「うっとうしい」だけの、


「僕とは無縁」の感覚でしかない。 しかし、


両親やこの先輩を始めとする様々に僕に関わって下さった方々との日々が、


”かじかんで”いた僕の中に、こうした感覚を蘇らせようとしていた。


それは、当時の僕には徹して”理解不能”な感覚であり、


嫌悪感と共にそれらが自身の内に”バラバラ”に交錯し始めるのだ。


こんな不愉快な事はない。


 


つづく    


 


 


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http://www.lifehacker.jp/2011/03/post_1701.html