9月16日(日)13時30分~本願寺鹿児島別院において「廃仏毀釈を考える公開講演会」(第1回)~寺が消えた明治維新~が開催されました。
「受付」「オリエンテーション」「開会式」の後に、事前に配布された資料により、講師:鹿児島県歴史資料センター黎明館 調査資料室長 栗林 文夫 氏による講演が始まりましたので講演の一部を紹介します。
【講演の概要】・・〇廃仏毀釈とは何か・・「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」の意・・明治初年、政府の神仏分離・神道国教化政策に伴っておこった仏教の抑圧・排斥運動。幕末から国学などの影響による廃仏毀釈や神葬祭運動があったが、1868(慶応4)年3月の神仏判然令などにより、各地で神官・国学者らが中心になって仏寺・仏像・仏具などを破壊したため、全寺院の半数が廃寺になったといわれる・・・・1875(明治8)年信教自由の保護が各宗に通達され、鎮静化した。
〇問題の所在・・「明治政府の指導者が確保したいには、天皇を中心とする新しい民族国家への国民的忠誠心であり、国学者や神道家の祭政一致思想や復古神道的な教説は、わかりきっていえば、そのためのイデオロギー的手段として採用されたものであった」
〇廃仏毀釈により何が変わったか・・「神仏分離と廃仏毀釈を通して、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれ・・・・●神仏混淆の歴史⇒約1300年 神仏分離の歴史約150年・・神仏分離が完全に定着⇒日本人の精神構造の大転換(※現代の日本人にはかっての神仏習合の時代を想像できない)
〇廃仏毀釈の経過(鹿児島の場合)・・●廃仏毀釈前史・・種子島の事例・・島中に寺院が多いので民財費がかかる⇒寺院の破壊・・寺院の梵鐘を大砲・小銃に鋳造・・●廃仏毀釈始まる・・慶応元(1865)年春・・廃仏断行・僧侶還俗を建議・・慶応4(1868)年神仏判然令が出される・・神仏分離を藩内に布告、寺院を廃合する。(廃寺となた寺院:合計1066ケ寺)
〇廃仏毀釈が徹底された理由(鹿児島の場合)・・●江戸時代には僧侶自身も宗門改めの役人の改めを受け、その職能も、他藩の僧侶より狭く、社会的地位もさほど高くなかった。●民衆のほとんどがかくれ念仏の信徒で、表面だけ各宗旨の檀那寺についていた。●寺請制度が薩摩藩にはなく、寺院と民衆との直接的関係が見出しにくい。武士達の扇動にのって庶民も寺の打ち壊しに付和雷同した。●廃寺によって職を失った僧侶に食料を給与し、希望者には兵士・教員・巡査・官公吏に採用するなど、その生活を保障した。●薩摩藩の地理的位置が九州の南端にあり、外からの情報が入りにくかった・・これらが複雑に絡まりながら廃仏毀釈が徹底遂行された。
今回の講演を聴いて、私が疑問に思っていた鹿児島で廃仏毀釈が徹底された理由が理解しできたので参加して良かったと思っています。
会場の様子を写真で症紹介し、資料をスキャンして添付します。
本願寺鹿児島別院入り口
看板
開演前の会場全景
オリエンテーション
開会あいさつ
講演開始
質問に答える講師
閉会あいさつ
※写真をクリックすると拡大し左上の←をクリックすると戻ります