2月20日10時~姶良市加治木校区公民館において、加治木校区コミユニティ協議会主催の「史跡講演会」が開催され、テーマ:「獺貫(うそぬき)の切通しと木田用水」、講師:姶良市教育委員会 関 一之 氏による講演が行われました。
開会挨拶、講師紹介の後に、講師より、パワーポイント及び資料による説明があったので概要について紹介します。
○木田用水整備前の状況・・平成19年から平成24年にかけて、ほ場整備に伴う発掘が行われた結果、縄文時代後期後半から晩期の集落の存在を示す遺跡や、弥生時代、古墳時代の遺跡が確認された。特に、宇曽ノ木川に近い場所からは、3枚の水田層が発見され、少なくとも古墳時代には川沿いに小規模な水田が営まれていたと考えられる。高井田の松原添遺跡からは遺物に混入して、稲穂積み具といわれる石包丁も出土している。その背景には初期型水田や陸稲の存在が想定され、古くから稲作が行われていた形跡がある。
○池田助右衛門の活躍・・木田地区は灌漑水が乏しく、わずかな日照りでも稲苗は枯死し、農民は苦しい生活を送っていた。これを残念に思った郷士の池田助右衛門は、獺貫瀑の上より西別府の水を引けば、木田の全平野に冠水できると立案し、加治木領主に願い出て許され工事に着手した。当初は村民も奮って工事に従っていたが、岩石が非常に硬くて容易に工事が進まなかった。このため、従事者は次第に減少し、やがて資金も底を尽き、理解者も離れて、ついに池田助右衛門は孤立してしまった。
多くの人がこの工事は中断すると思っていたが、池田助右衛門はその後も私費を投じ一人で作業を続けた。3年7か月をかけてついに掘削を成功させた。隧道の長さは120間に達し、入り口からは西別府の水が勢いよく流れ込み、出口である木田には滝となって流れ落ちた。村民はこぞって驚喜し、みんなで下流の水路を築いた。このため水田が急増し、木田は6000石の収穫を上げるようになった。
○木田用水の周辺・・木田用水路は、流域の人々の生活を支えて、そこに農民文化が開花した。それを証するいくつかの文化財を紹介する。・・①水神碑・・②田の神・・③隈姫神社・・④薬師如来像・・⑤御田植祭と初午祭(馬踊り)
○獺貫隧道と田助右衛門・・明治44年に隈姫神社境内に「獺貫碑」が建立され、池田助右衛門の功績は碑文に刻まで周知された。しかし、そもそもこれだけの大きな土木工事を一人の郷士の発案や力量で進められるものであろうか。・・・資料から経理は加治木島津家の重臣・曾木家が担当し、土木技術に長けた人材として工事は池田助右衛門が担当したのであろう。・・・他の用水工事と同じく、木田用水も隧道掘削から用水整備まで公的な事業として行われたと考えるほうが妥当であろう。
○おわりに・・遺跡発掘では、多いところで5枚の水田層を発見した。縄文時代晩期から始まる約2300年の稲作の歴史は、たえまない新田開発の繰り返しで、先人たちは、より効率のよい水田経営のため、改良工事を繰り返し、平成23年に6回目の改良工事である県営ほ場整備事業を完了しあたのである。・・木田用水は周辺地域の人々に水辺空間を利用した、豊かで潤いいのある生活空間を提供する新たな一面を付加することになった。
以上が講演の概要ですが、写真及び資料をスキャンして添付してありますので、興味のある人は見てください。
開会挨拶
加治木校区コミユニティ協議会会長挨拶
講師挨拶
パワーポイントによる説明開始
木田地区の航空写真と遺跡
松原添遺跡の掘削
出土した「稲穂積み具といわれる石包丁」(左)と「獣の革をはぐ道具」(右)
獺貫碑
木田用水工事が行われた当時の薩摩藩の用水工事
島津光久時代の工事
御田植祭の様子
講演のが終わり質問の時間
※写真をクリックすると拡大し2回クリックすると更に拡大します。左上の←をクリックすると戻ります。