11月5日、姶良市合併1周年記念事業として姶良市歴史講演会「島津義弘と姶良市」が開催されました。
講師の歴史作家、桐野作人氏は、鹿児島県出水市出身で歴史関係の出版社の編集長を経て独立し、執筆活動や講演会活動を精力的に行っており、資料に基づく実証的な研究には定評があり、「関ケ原島津退き口」「新説 関ケ原合戦」など多くの著書があると紹介されました。
講演はレジメと資料(12頁)により約2時間にわたって行われましたが、その概要について紹介します。
はじめに・・・姶良は義弘の地元・・・姶良市は島津義弘(1533~1619)の地元として岩剣城、平松城、帖佐館、加治木館など義弘の居館・居城が多く、家臣団を含めた関連史跡も数知れず、義弘の足跡を知ることは、姶良市の歴史(戦国~近世初期)を知ることにつながるので、今回は義弘の長くて波瀾に満ちた生涯を、3つのテーマに絞って話しがありました。
1、義弘の名乗りと官位・・・その地位の変遷
名乗の変遷では忠平→義珍→義弘→維新→惟新と変遷し、官位の変遷では兵庫頭→侍従→参議(五大老に次ぐ重職)と兄の義久(出家)の地位との関係などについて資料を基に詳しく話がありました。
2、義弘と島津家の家督問題・・・義弘は家督を継いだのか?・・・
一般には義弘は義久から家督を継ぎ、島津家17代当主だとされているがが疑問があり、史料は義久→久保・忠恒(家久)の流れであるが、名代・守護代から一度は家督相続した形跡もあるとの内容を史料を基に詳しく話がありました。
3、義弘と関ケ原合戦・・・島津の退き口とは?
・義弘は去就に迷った末、なぜ西軍についたか?(亀寿の安全保障の問題など)・義弘主従の「退き口」ルートの再検討(地図で詳しく説明)・「退き口」義弘の苦難と家来の献身などについて史料などで詳しく説明がありましたが、帰国できた人数は100名足らずと言われているが、その後に帰国した人数を加えると数百名規模の可能性もあるとの話でした。
まとめ・・・義弘はなぜ有名なのか?
兄義久(終生太守)との知名度の差は、「退き口」の栄誉だけが理由ではなく、江戸時代における顕彰事業:妙円寺参りなど近世島津氏の祖(武辺の象徴)としての位置づけの変更があったのではないかとの見解でした。
今回の講演会に参加して島津義弘の生涯を3つの視点から学んでみて、改めて兄義久との立場をわきまえながら、祖父で島津いろは歌を作った日新斉の教えを実行された、素晴らしい人格と85才の天寿を終えた強い運の持ち主あったと感じました。
島津いろは歌の日めくりカレンダーを毎日見ていると時代を超えて現代に通じる内容も多く含まれているので、姶良市に住む一人として少しでも見習って実行していきたいと思っています。