サンクトペテルブルクの創建は1703年、ピヨートル大帝がロシア近代化の要としてバルト海に開かれた要塞を築いたことに始まり、建設は困難を極めたが無事に完成して、新しい町の名をドイツ風の「サンクトペテルブルク」(聖ペテロの町)と名つけられ、1712年帝政ロシアの首都がモスクワから移され、200年間は首都であったが、その後モスクワに変更された。
名前は「サンクトペテルブルク」から歴史の変遷で「ペテログラード」「レニングラード」と変わり、最終的に最初の「サンクトペテルブルク」に落ち着いた。
現在は人口約500万人、ロシア第二の都市であり、開放的でヨーロッパ的な雰囲気と文化芸術の中心都市として多くの観光客が訪れており、街並みは規制が厳しいため、外観は建設当時の高さに統一されて美しく統一した雰囲気を保っている。
「水の都」と呼ばれるとおり、市内には65の運河が流れ、365もの橋が架かっている美しい市街では、寺院や美術館などがあるが、私達が訪れた5月30日は、あいにく雨でしたので、バスの中からは、写真がとれないため、傘をさして外に出たときに写した写真を中心に紹介します。
「聖イサク寺院」は1818年から40年かけて建設され、14000人を収容できる聖堂は、世界で3番目に大きいといわれている。
「ペテロパブロフスク要塞」は1703年、スウエーデン軍の侵入を防ぐため、ここに要塞を築いたのでが町の始まりで、中心にはペテロパブロフスク寺院がある。
「青銅の騎士像」はサンクトペテルブルクの創始者であるピヨートル大帝の像で、プーシキンの叙事詩「青銅の騎士」にも登場している。
「血の上の教会」の名前は1881年、アレキサンドル2世が暗殺された地に建つためで、カラフルな玉葱型の屋根が特徴である。
「巡洋艦オーロラ号」は1917年、この艦から発した空砲を合図にロシア10月革命が始まったが、日露戦争でも参戦し、現存する2隻のうちのひとつである。
「サンクトペテルブルク」中心地の地図
「聖イサク寺院」
「ペテロパブロフスク要塞」の内部
「青銅の騎士像」
「血の上の教会」
「巡洋艦オーロラ号」
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