先日訪れた覚園寺(鎌倉)の本尊は立派な薬師如来(坐像)で、腹の前で合わせた両手に薬壷を載せていた。「薬師十二大願」のうち「除病安楽」(第七願)という現世利益が強調された薬師如来は日本では古くから人気で、多くの寺院で本尊となっている。薬師仏には通常、日光菩薩・月光菩薩が左右に配され、さらに四天王に守られ、十二神将が仕えて一揃いとなるのだが、覚園寺・薬師堂では、これらの仏像一式が一つの堂に収められている。寺院はかつて病院の役割も担ってきたのかもしれない。
『摘便とお花見』というタイトルの本がある。(村上靖彦 医学書院 2013)
「摘便(てきべん)」は、認知症だった私の母も時々やってもらった。頑固な便秘はパーキンソン症状のひとつなのだ。病気や運動不足などで腸が不活発なため直腸で固まってしまった便を指で掻き出す技術が「摘便」である。
ある職業の人は、「摘便」に「萌え」を感じることがあるのだそうだ。ーーそう、看護師である。
この本は、さまざまな現場での看護師たちのケアの営みを、彼女たち自身の語りを中心に記述したレポート集である。その第2章には、訪問看護の場で摘便とお花見が結びついたケースが取り上げられている。
「摘便」は、厄介なケアとして取り上げられることもあるが、実は、看護師の中には、これが得意で「やらせて」という人も少なくないのだそうだ。確かに、岩のように出口をふさいでる塊を掻き出せば、やってもらった方だけではなく、やった方にも達成感があるのかもしれない。自身が頑固な便秘に苦しんだ経験があればなおさらかもしれない。
「共感の言語」(金谷武洋)と言われる日本語をベースにした感性を身につけた看護師は、患者の病状や気持ちの変化に自然に気づき、自身の経験に依りつつ患者と呼応するようなケアの形が生まれてくる。直感的な共感の能力が、シンプルな《医療者/患者》関係を超えた、様々な機微を宿した看護実践に結実していく。その中で彼女ら看護師自身も自分の生き方を振り返り、新たな生き方を手探りしていく。そういう看護に関わるリアルで微妙な、お互いの人生そのものをたどる波形が、この本では素描され分析されていく。
劣悪な労働環境で格闘している日本の看護師たちだが、実は病院は彼女らの共感能力によって支えられているのではないか。《医師ー患者》関係が《主体/対象》というゲルマン系的な関係に集約されてしまうのに対し、《看護師ー患者》の方はもっと平場に近い付き合いで、共感が重要な役割を果たす場を構成していて、病院では、その二つの関係が相補的に機能して、近代医療と日本的空間とを巧妙につないでいるのではないか。
覚園寺の僧侶の案内によると「薬師仏が医師、日光・月光菩薩が看護師」なのだそうだが、真ん中で薬壷を抱く薬師如来は確かに医者のイメージに近く、一方、太陽の如く光を照らして苦しみの闇を消す日光菩薩、月の光のようなやさしい慈しみの心で煩悩を消す月光菩薩の方は、看護師を彷彿とさせると言えよう。
薬師如来の左右の菩薩のように、医師の脇に、闇を照らす慈しみの光を放つ看護師がいなければ、病院は殺伐とした居心地の悪い空間になってしまうことだろう。
日本で西欧近代医療の代名詞ともいうべき病院がこれほどまでに普及したのには、看護師の、日本的な共感の力による下支えが大きく作用していたと思う。
『摘便とお花見』において村上は、看護師のサポートによって、患者がケアを受けるという受動的な状態から、自らの希望を実現する行為主体として、お花見(梅見)で家族へのおみやげを買って帰り、いわば「贈与する側」へと自らを反転させるという分析をしていた。しかも、それと並行して、看護師自身の変化ーー障害者であった妹の捉え方を反転させるという変化を抽出していた。
「共感」と言えば、感情レベルのことと聞こえてしまうかもしれない。ここに捉えられた《看護師ー患者》関係は、《主体/対象》を超えた、この生き難い人生を、一緒にキャッチボールしながら共に生きようとする関係だと捉えることもできよう。日本の病院の菩薩は、単に一方的に光を投げかける存在ではなく、反照される光によって自身も揺らぎ輝く存在であることを、この村上のレポートは示してる。
『摘便とお花見』というタイトルの本がある。(村上靖彦 医学書院 2013)
「摘便(てきべん)」は、認知症だった私の母も時々やってもらった。頑固な便秘はパーキンソン症状のひとつなのだ。病気や運動不足などで腸が不活発なため直腸で固まってしまった便を指で掻き出す技術が「摘便」である。
ある職業の人は、「摘便」に「萌え」を感じることがあるのだそうだ。ーーそう、看護師である。
この本は、さまざまな現場での看護師たちのケアの営みを、彼女たち自身の語りを中心に記述したレポート集である。その第2章には、訪問看護の場で摘便とお花見が結びついたケースが取り上げられている。
「摘便」は、厄介なケアとして取り上げられることもあるが、実は、看護師の中には、これが得意で「やらせて」という人も少なくないのだそうだ。確かに、岩のように出口をふさいでる塊を掻き出せば、やってもらった方だけではなく、やった方にも達成感があるのかもしれない。自身が頑固な便秘に苦しんだ経験があればなおさらかもしれない。
「共感の言語」(金谷武洋)と言われる日本語をベースにした感性を身につけた看護師は、患者の病状や気持ちの変化に自然に気づき、自身の経験に依りつつ患者と呼応するようなケアの形が生まれてくる。直感的な共感の能力が、シンプルな《医療者/患者》関係を超えた、様々な機微を宿した看護実践に結実していく。その中で彼女ら看護師自身も自分の生き方を振り返り、新たな生き方を手探りしていく。そういう看護に関わるリアルで微妙な、お互いの人生そのものをたどる波形が、この本では素描され分析されていく。
劣悪な労働環境で格闘している日本の看護師たちだが、実は病院は彼女らの共感能力によって支えられているのではないか。《医師ー患者》関係が《主体/対象》というゲルマン系的な関係に集約されてしまうのに対し、《看護師ー患者》の方はもっと平場に近い付き合いで、共感が重要な役割を果たす場を構成していて、病院では、その二つの関係が相補的に機能して、近代医療と日本的空間とを巧妙につないでいるのではないか。
覚園寺の僧侶の案内によると「薬師仏が医師、日光・月光菩薩が看護師」なのだそうだが、真ん中で薬壷を抱く薬師如来は確かに医者のイメージに近く、一方、太陽の如く光を照らして苦しみの闇を消す日光菩薩、月の光のようなやさしい慈しみの心で煩悩を消す月光菩薩の方は、看護師を彷彿とさせると言えよう。
薬師如来の左右の菩薩のように、医師の脇に、闇を照らす慈しみの光を放つ看護師がいなければ、病院は殺伐とした居心地の悪い空間になってしまうことだろう。
日本で西欧近代医療の代名詞ともいうべき病院がこれほどまでに普及したのには、看護師の、日本的な共感の力による下支えが大きく作用していたと思う。
『摘便とお花見』において村上は、看護師のサポートによって、患者がケアを受けるという受動的な状態から、自らの希望を実現する行為主体として、お花見(梅見)で家族へのおみやげを買って帰り、いわば「贈与する側」へと自らを反転させるという分析をしていた。しかも、それと並行して、看護師自身の変化ーー障害者であった妹の捉え方を反転させるという変化を抽出していた。
「共感」と言えば、感情レベルのことと聞こえてしまうかもしれない。ここに捉えられた《看護師ー患者》関係は、《主体/対象》を超えた、この生き難い人生を、一緒にキャッチボールしながら共に生きようとする関係だと捉えることもできよう。日本の病院の菩薩は、単に一方的に光を投げかける存在ではなく、反照される光によって自身も揺らぎ輝く存在であることを、この村上のレポートは示してる。
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