かめよこある記

~カメもタワシも~
To you who want to borrow the legs of a turtle

スキップ・ガール 23

2017-08-04 16:32:00 | かめよこ手のり文庫

 いつしか、男を名前で呼ぶようになっていた。男はレッスンの先生でもあったし、呼びかけるのには、やはり名前が便利だ。男の名前は、最初もらった名刺によるとマンジ、そう万次万十郎だ。
「時間にも波があります。それは、小さいものから大きいものまで。大きい波に乗れれば、それだけ遠くまで運んでくれます。自分の力だけでなく、そういった外力をうまくとらえて利用することが大切です。ただ注意したいのは、波にはおだやかなものもあれば激しいものもあるということ。激しい波に巻きこまれますと大変危険です」
 マンジ氏はかく語った。例によって例のごとく例え話をしてくれたのだったが、いまだわたしは、彼の言うその波というものが感じられないでいた。それが小さいか大きいか、おだやかか激しいかの問題ではなく、存在そのものが感じられないのだ。
 話す方がどんなによかれと思って話していても聞いている側にそれがイメージ出来ていなければ、どんな例え話も響かない。レッスンがはじまって早数か月がたつというのに、わたしは鈍感なのだろうか。
 マンジ氏の説明はいつも丁寧でやさしかったが、それを聞いているほうのわたしは、すぐに理解出来ることもあるかと思えば、なかなか理解出来ないこともある。彼は、ときおり「大丈夫ですよ」という励ましの言葉をかけてくれるが、内心大丈夫でないわたしは、かえって不安を感じてしまうのだった。
 ある日、わたしは以前から気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、マンジさん。わたしを見学しに大勢のひとがやってくるって言ってたよね」
「ああ、言い忘れていたかもしれませんが、実は既にもう多くの方々がお見えになっているんですよ」「え?」
「その方々は、あなたのレッスンの邪魔にならないように静かにご見学してくださっています。もちろん、見学はレッスンの時間に限定されており、それについても多くの注意事項が厳格に定められています。どうか御心配なさらないでください」
 知らなかった。知らないうちに、わたしは覗き見られていたというのか。それも大勢のひとびとに。急速に体の中に不安というか不気味な冷気がはいりこんできた。
「そういう大事なこと、なんで言ってくれなかったんですか」
 そのひとたちは、わたしが足をからませてぶざまに転ぶところとか、アホみたいに何度も何度も後ろ向きでスキップするところを見ていたのだ。そんな場面のいくつもが繰り返し頭に浮かんできた。
「すみません。あなたには伝えるべきでした」
「そのひとたちって、わたしのスキップが目当てなんでしょ。まったく物好きなひとたちね。わたしのスキップなんか見たってどうしょうもないのに」
「いえいえ。皆さま、いつもレッスンの見学を楽しみにしていらっしゃいますよ。あなたに知らせなかったのは、あなたの気がちらないようにとの配慮からです。それに見学者の方々からの、ありのままのあなたの姿をみたいという要望もあってのことです。今日も先ほどまでレッスン風景をご覧になられていました」
「見てたって、どこで見てたの?」「みなさま、周りの木々の影からそっとご覧になられていました」「え?」
 確かにこの公園は、外からの視線を遮るように密に葉を茂らせた木々が覆われていた。その木々のそこかしこにたくさんの人々が隠れていたというのか。そんなところに潜んでいるのは、さえずりだけは聞こえるのに姿の見えない鳥たちくらいだと思っていた。わたしが、声も出さずにそこに潜む人々の姿を探して木々を凝視していると、男の「今日はお帰りになられました」の声が聞えた。
 そうだったんだ。なにも知らされていなかったのはわたしだけだったんだ。たしかに、多くの目にさらされていたと知っていたら、いつものレッスンはずいぶんとやりにくいものになっていたかもしれない。
 誰も見てないと思ったから、人目もはばからずスキップなんか出来たのだ。誰かに見られているとわかっていたら、人前でスキップなど恥ずかしくてとても出来やしなかっただろう。急激に恥ずかしさがこみあげてきて、どうしようもないくらい顔が火照ってきた。
「みんな、わたしのみっともない姿を見て、がっかりして帰っていったんでしょうね。きっと大笑いして」
「何をおっしゃいますか。決してそんなことはありません。みなさま、たいへん満足の御様子でした。あの方々は、ありのままのあなたの姿が見たいのです。それを見られたというだけでもう十分なのです。あなたには、それほどの価値があるのです。
 こう考えてみてはどうでしょうか。動物園にパンダを見に行ったとしますね。せっかく見に出かけたのにパンダは檻から出てきません。
 出てきていたとしても、すっかり眠りこんでしまってちっとも動かない。でも、お客さんは、ある程度はしかたない、そういうことも含めてパンダを見るということなんだと納得されて帰っていくのではないでしょうか。
 または、イルカやクジラ・ウオッチングはどうでしょう。期待に胸をふくらませて船に乗り込み沖に出ます。ライフジャケットなんか着込んでね。夕日が落ちるまで、あちこちを探し回りましたが、イルカの姿どころか影さえみつけられなかった。残念ではあるけれどもある程度はしかたない、自然が相手のことです、こんな日もあるさ、きれいな夕日がみられたなら、それだけでもよかったじゃないか、人々はそう思ったりするものではないでしょうかね」
 え? ということは、わたしは動物園のパンダ?
 パンダやイルカが嫌いなわけじゃない。だけど、それに自分が例えられるのは、やはり違う。もちろん、わたしは人気者でもないけど、だからといって人気者のパンダに例えられてうれしいというわけもない。
 この男の例え話は、ときおりわたしを傷つける。悪気はないんだろうけど、だからなおさらタチが悪い。
「ありのままのわたしが求められているのは、なんとなくわかりました。でも、わたしが知ってしまった以上、もう隠れてる意味なんてないんじゃないですか。隠れてたって、もうお望みのありのままのわたしは見られないんだから。それに、わたし別にその人たちと会ったってかまいませんよ」
 やっぱり、わたしは動物園の動物なんかじゃない。もし、そんな風に思われているんだとしたら、それは改めさせるしかない。
 いまだ45分前後の時間を行ったり来たりしているわたし。場所が変わるわけでもないから、見える景色はなんの代わり映えもしない。
 ところが、そのひとたちは長い長い時間を未来から飛び越えて来たひとたちだ。今のわたしが、どうしたら超えられるんだろうって途方に暮れている壁を、日常的にいとも簡単にあたりまえのこととして軽々と飛び越えているひとびとなんだ。
 ほんとうの時間移動が、いったいどんなものなのか、目の前のマンジ氏だけでなく、いろんなひとの話を聞いてみたい。そうすれば、なにか新しい発見があるかもしれない、あるいはマンジ氏が語らない何かボロといったようなものが。
「お気持ちはよくわかりました。ですが、しばらく検討する時間をいただきたい。問題は、大勢の未来人がいっせいに姿を現しますと、どうしても目立ってしまうということですかね」
「未来人の恰好ってまさかあなたみたいなの?」マンジ氏のスーツは日差しをはね返しキラキラとまき散らしていた。
「わたくしは地味なほうですから」確かにそれは問題だ。


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