お話

日々思いついた「お話」を思いついたまま書く

士師 トラ 2

2021年03月11日 | 士師のお話
 翌朝早く、トラは旅支度をして外に出た。先に出ていた父プアが驚いた顔で言った。
「どうしたんだ、旅支度などして?」
「オフラに行ってくる」
「オフラだと…… お前はそこに何があるのか知っていて、言っているのか?」
「知っている。ギデオンのエフォドだ」
「民に嫌悪感を示していたお前が、どう言う風の吹き回しだ?」
「民の愚行を止めるんだ!」
「おい、どう言う事だ? おい、トラ!」
 父の声を背で聞いて、トラは出立した。

 丘陵地を抜け、平野部に着いた。東にはギデオンが兵士を三百人にまで絞ったとされるハロドの井戸がある。
 ……ギデオンも、戦いだけをしていればよかったんだ。それを何を調子に乗ったのか…… トラは溜め息をついた。

 トラがオフラに着いたのは、すでに夜も遅かった。しかし、門は開いたままだった。開いた門から嬌声や笑い声が聞こえてくる。
 何処からともなく甘い香りも流れてくる。人心を惑わせる「あやかしの香」だ。トラは首から垂らしていた砂埃除けの布で口と鼻を覆う。
 中に入ると、どの建物にも明かりが灯っていた。そこから漏れる灯りは町中を昼間のように照らしている。
 路上には酔った者たちが座り込んで卑猥な話をして大声で笑っている。また、喧嘩でもしたのか、血を流したまま動かない者もいた。行き交う多くの人はそれを気にもせず、避けて歩いている。
 他にも、人目をはばからずに抱き合っている男女、濃い化粧の女に誘われて建物の中に消えて行く若者などがいた。
「あら、お兄さん……」濃い化粧の女が一人、トラに声をかけてきた。「今着いたの? 泊まる所あるの? うちに来ない? わたし付きで安くしておくよ」
「いや、オレはいらない……」トラは嫌悪感を隠さなかった。「それよりエフォドを見たい。どこにあるんだ?」
「まあ、せっかちね」女は笑った。このような手合いに慣れているのだろう。「あそこ、ちょっと飾っている家がそうよ。ギデオン様の生家なのよ。終わったら戻ってらっしゃいな」
 トラは女を振り切り、示された建物の前に立った。半開きになった扉の奥からは灯りと騒ぎ声が漏れてくる。
 トラは扉を開けて中に入った。強烈に甘い香りがする。「あやかしの香」が四方の隅で焚かれていた。トラは覆った砂埃除けの布の上から手で押さえた。
 部屋の真ん中に床から立てられた柱があり、その上に人の胴を模した木型が据えられていた。それにエフォドが着せられている。
 床には多くの男女が転がっている。ふらふらになりながら歩き回っている者もいる。座り込んでエフォドに向かって諸手を挙げ神を呼ぶ者もいる。
 ……なんと言う事だ! 何と言う愚行だ! 
 トラは怒りで全身が震えた。トラは床に転がっている者、ふらふらしている者を蹴散らし、エフォドの前に立った。目の高さにあるエフォドの宝石が室内の灯りで不気味なほど鮮やかに輝いている。
 トラはエフォドを着た木型に両手をかけた。そして、力任せに左右に振り続けた。「あやかしの香」で頭がくらくらしてきた。それでも歯を食いしばり振り続けた。
 ……真の神! どうかお力をお貸しください!
 支えていた柱の根元がぐらつきだし、ついに倒れた。その際にエフォドは木型から外れ、床に転がった。
 トラはそれを拾い上げると、ギデオンの家から飛び出した。追って来る者はいなかった。みな「あやかしの香」のせいで動けなくなったいたからだ。
「あら、さっきのお兄さん……」先ほどの女がトラに声をかけてきた。酒に酔っているようだった。「その手に持っている物は、なあに?」
「これか! これはイスラエルの民を愚行に追い込んだ、ギデオンのエフォドだ!」トラが叫んだ。「真の神は『わたしは何物の偶像も良しとはしない』とおっしゃった! だから、オレがぶっ壊してやる!」
「何だってぇ!」女はトラに負けない声で叫んだ。「おい、みんな! この若造がギデオン様のエフォドを持ち出してぶっ壊すんだとさ!」
 女の声に応えるように、建物から人々が出てきた。「あやかしの香」に慣れてしまった連中のようだった。しかし、どの眼も狂気じみている。
「返せ! 我らのエフォドを返せ!」
「殺せ! こいつを殺して神に犠牲としてささげよう!」
 人々はトラに向かって殺到した。
 と、急に人々の足取りがおぼつかなくなった。
「なんだ! どうしたんだ! いきなり闇が!」
「目が見えん!」
 ……神が目くらましをかけて下さったんだ! ソドムとゴモラの時のように!
 トラはうろうろする人々の間を縫ってオフラから出た。

 ……この忌まわしいエフォドを何とかしなければ!
 トラはエフォドを手に思案していた。
「トラよ……」 
 神の声だった。トラは平伏した。
「エフォドを持って、ハロドの井戸へ行け」
「わかりました」
 トラは立ち上がり、ハロドの井戸を目指して走った。
 しばらくすると後方で大きな声がした。振り返ると、オフラから多くの人が出てきて、トラの後を追ってきていた。
 ……なぜだ! なぜ神は目くらましをしたままになさらかったんだ!
 トラはそう思いながらも、ハロドの井戸へ向かって走り続けた。


つづく


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