あの日からコーイチの周りでは色々な事が起こった。
あの日……
吉田部長と西川課長の昇進を祝った金曜日の林谷主催のパーティの席で悪酔いをし、途中で帰宅を余儀なくされ(どうやって帰ってきたのかは覚えていないが)、散々寝たらしく、気が付いたら中一日空いていて夜になっていた日曜日。
まずは、印旛沼の娘の逸子が、ジーンズに白のTシャツと言った普段着姿で、コーイチの傍らで眠っていた事だ。
驚いて起こし、事情を聞くと、コーイチの体調を心配した逸子は、土曜の朝にコーイチのアパート(住所は父の印旛沼から聞いたそうだ)に看病をしに来てくれた。ところが、「ドアを開けてくれたコーイチさんの大丈夫そうな顔を見たらほっとして、急に緊張が解けて、いつの間にか眠ってしまったの」と、逸子はすっかり回復したコーイチの姿にうれし泣きをしながら言った。
その日以来、父印旛沼陽一公認で仲良くさせてもらっている。と言うか、逸子の方が積極的になっていた。毎日電話をして来るし、休みが出来れば即デートに誘うし、コーイチは嬉しい半面ちょっと疲れ気味だ。でも、可愛いから許していた。
友人の名護瀬は急に仕事とバンド活動が忙しくなっていた。仕事では社運をかけた大プロジェクトを任され、バンドでは軽い気持ちで出した初めてCDが大ヒットとなり、あちこちに引っ張りだこになった。どちらからも手を引けない状態になり、「からだが二つ欲しい!」とコーイチに愚痴の電話を入れたりしていた。
社長の綿垣は、気力体力ともに若者の様になった。健康診断でもあと百年は生きられるからだと太鼓判を押されたほどだった。と言っても外見はそれ程の変化はない。端から見れば「妙に元気の良いおじいさん」になっていた。
清水は念願の魔女になれた(もちろん他人には話していないが)。夜な夜な箒にまたがり夜空のドライブをしたり、魔法で気に入らない人に嫌がらせをしたりして、楽しんでいる。
林谷は組織の長になっていた。だが、自分の家を継いだのではない。冗談で作った「国際救助援護隊」の活動が、今日の不安定な国際社会情勢を反映して、本格化し始めたのだ。世界中に支部が出来、色々なジャンルの人々が参加し、寄付も大量に集まり、組織は益々巨大化して行った。もはや「困った時には国際救助援護隊」と言う言葉が、世界の常識となっていた。「これからは冗談は慎むよ、やれやれ」と、林谷はコーイチに苦笑いをして見せた。
西川は真面目さに拍車がかかった。廊下を曲がるときは直角に、書類を揃える時は数ミリの狂いも許さなかった。仕事のテキパキ振りもすさまじく、同時に十や二十の仕事をこなしていた。その凄さに将来を嘱望と言うか、恐れられる存在となった事だけは確かなようだ。
急に所在不明になった岡島だったが、エベレストの頂上で度々目撃され、写真に撮られ、その筋の世界では有名になっていた雪男の姿が岡島に似ていると、岡島信者の川村静世が騒いでいた。
他にも、会社の人たち全員に何かしら、良い事(ちょっとからかい気味な所はあるが)が起こっていた。
色々な事が何となく当たり前になって来た頃、喫茶店で逸子とコーイチは話をしていた。
「カメラマンの滑川さんって覚えている?」逸子はオレンジジュースを一口飲んで言った。「あの昇進パーティにいた……」
「うん、覚えているよ」
コーイチは、もじゃもじゃ頭にフレームが上向き尖ったサングラスをし、ぼうぼうに伸びた髭の間から火の点いていないタバコを突き出し、黒のワイシャツを豹柄のスーツとスラックスで包み、首からカメラを三つぶら下げた、四十歳くらいで、内股で歩き、オネエ言葉で喋る見上げるほどの巨漢を思い出していた。
「ナメちゃん、あの時わたしをモデルにして『逸子 in ドレ・ドル』ってタイトルで写真を撮ったの。それを現像したらねぇ……」
逸子は一枚の写真をコーイチに見せた。コーイチは写真を手に取った。
逸子が背中の大きく開いたドレスを着てポーズを取っている。その隣に先が曲がった黒いとんがり帽子をかぶり、黒いマントで全身を覆った女性が映っている。帽子の大きなツバで顔は見えないが、白い歯を覗かせて笑っている可愛らしい口元から見ると、若い女性のようだ。
「この女の人は……?」
「分かんないの」逸子が首を振る。「でも、他の写真にも全部映っているのよ。全部顔が微妙に隠れていて誰だか分かんないけど、かなりの美人だってナメちゃんが言っていた」
「写真撮っていた時に気づかなかったのかい?」
「う~ん、覚えていないの。ナメちゃんも……」
「で、この写真、どうするんだい?」
「ナメちゃん、『これはイケるわ! 逸子と魔女子 in ドレ・ドルよ! これからは魔女ファッションの時代よ!』なんて言って張り切っていたわ。次の号の巻頭グラビアにするんだって」
「ふーん」コーイチは言ってコーヒーをすすった。「ドレ・ドルの会場の壁の上の方に架かっていた絵、なんか間近で見た気がするんだよなぁ……」
「そんな所まで行けるわけないわよ。気のせいじゃない?」
「だよねぇ……」
コーイチは何気なく通路を挟んだ隣のテーブルを見た。
赤いふわふわしたブラウスに赤いミニスカート姿で長い髪の可愛らしい娘と、白いミニのチャイナ服に白のブーツで真ん中から左右に分けられた髪を耳元でくるくるとまるめて白いピンで留めた可愛いがちょっと大人びた娘の二人組みが、にこにこしながら手を振っていた。コーイチが反対側を見た。そこには誰もいない。……と言うことは、ボクに手を振っているのかな? コーイチは再び二人の方へ顔を向けた。しかし、そこには誰もいなかった。
「……どうしたの?」逸子がコーイチに聞いた。「知ってる人でもいたの?」
「いや、そうじゃないんだけど…… そうなのかなぁ……」
「変なコーイチさん!」
逸子は言ってくすくす笑った。
喫茶店を出た途端、コーイチは転んでしまった。持っていたショルダーバッグの中身を撒き散らしてしまった。ノートだの雑誌だの筆記用具だのハンカチだの、細々したものが辺りに散乱している。
「いやいやいやいや、まいったなあ」
コーイチは言いながら広がったものを集め始めた。逸子もしゃがんで手伝う。
「これも、コーイチさんのかしら……?」
逸子は、赤い紐のようなもので何重にも縛られている、黒い表紙のA4サイズのノートを拾い上げた。
「ま、いいか」
逸子はコーイチのショルダーバッグに詰め込んだ。
終わると二人は仲良く手を組んで歩いて行った。
その後ろ姿を見ている二人の女の子がいた。喫茶店でコーイチに手を振っていた娘たちだ。
「あーら、あらあらあら」白い服の娘が、伸ばした右の人差し指を左右に振りながら言った。「コーイチ君、またスミ子を持って行っちゃったわねぇ……」
「お姉様」赤い服の娘が言った。「今度は邪魔はしないでね……」
おしまい
あの日……
吉田部長と西川課長の昇進を祝った金曜日の林谷主催のパーティの席で悪酔いをし、途中で帰宅を余儀なくされ(どうやって帰ってきたのかは覚えていないが)、散々寝たらしく、気が付いたら中一日空いていて夜になっていた日曜日。
まずは、印旛沼の娘の逸子が、ジーンズに白のTシャツと言った普段着姿で、コーイチの傍らで眠っていた事だ。
驚いて起こし、事情を聞くと、コーイチの体調を心配した逸子は、土曜の朝にコーイチのアパート(住所は父の印旛沼から聞いたそうだ)に看病をしに来てくれた。ところが、「ドアを開けてくれたコーイチさんの大丈夫そうな顔を見たらほっとして、急に緊張が解けて、いつの間にか眠ってしまったの」と、逸子はすっかり回復したコーイチの姿にうれし泣きをしながら言った。
その日以来、父印旛沼陽一公認で仲良くさせてもらっている。と言うか、逸子の方が積極的になっていた。毎日電話をして来るし、休みが出来れば即デートに誘うし、コーイチは嬉しい半面ちょっと疲れ気味だ。でも、可愛いから許していた。
友人の名護瀬は急に仕事とバンド活動が忙しくなっていた。仕事では社運をかけた大プロジェクトを任され、バンドでは軽い気持ちで出した初めてCDが大ヒットとなり、あちこちに引っ張りだこになった。どちらからも手を引けない状態になり、「からだが二つ欲しい!」とコーイチに愚痴の電話を入れたりしていた。
社長の綿垣は、気力体力ともに若者の様になった。健康診断でもあと百年は生きられるからだと太鼓判を押されたほどだった。と言っても外見はそれ程の変化はない。端から見れば「妙に元気の良いおじいさん」になっていた。
清水は念願の魔女になれた(もちろん他人には話していないが)。夜な夜な箒にまたがり夜空のドライブをしたり、魔法で気に入らない人に嫌がらせをしたりして、楽しんでいる。
林谷は組織の長になっていた。だが、自分の家を継いだのではない。冗談で作った「国際救助援護隊」の活動が、今日の不安定な国際社会情勢を反映して、本格化し始めたのだ。世界中に支部が出来、色々なジャンルの人々が参加し、寄付も大量に集まり、組織は益々巨大化して行った。もはや「困った時には国際救助援護隊」と言う言葉が、世界の常識となっていた。「これからは冗談は慎むよ、やれやれ」と、林谷はコーイチに苦笑いをして見せた。
西川は真面目さに拍車がかかった。廊下を曲がるときは直角に、書類を揃える時は数ミリの狂いも許さなかった。仕事のテキパキ振りもすさまじく、同時に十や二十の仕事をこなしていた。その凄さに将来を嘱望と言うか、恐れられる存在となった事だけは確かなようだ。
急に所在不明になった岡島だったが、エベレストの頂上で度々目撃され、写真に撮られ、その筋の世界では有名になっていた雪男の姿が岡島に似ていると、岡島信者の川村静世が騒いでいた。
他にも、会社の人たち全員に何かしら、良い事(ちょっとからかい気味な所はあるが)が起こっていた。
色々な事が何となく当たり前になって来た頃、喫茶店で逸子とコーイチは話をしていた。
「カメラマンの滑川さんって覚えている?」逸子はオレンジジュースを一口飲んで言った。「あの昇進パーティにいた……」
「うん、覚えているよ」
コーイチは、もじゃもじゃ頭にフレームが上向き尖ったサングラスをし、ぼうぼうに伸びた髭の間から火の点いていないタバコを突き出し、黒のワイシャツを豹柄のスーツとスラックスで包み、首からカメラを三つぶら下げた、四十歳くらいで、内股で歩き、オネエ言葉で喋る見上げるほどの巨漢を思い出していた。
「ナメちゃん、あの時わたしをモデルにして『逸子 in ドレ・ドル』ってタイトルで写真を撮ったの。それを現像したらねぇ……」
逸子は一枚の写真をコーイチに見せた。コーイチは写真を手に取った。
逸子が背中の大きく開いたドレスを着てポーズを取っている。その隣に先が曲がった黒いとんがり帽子をかぶり、黒いマントで全身を覆った女性が映っている。帽子の大きなツバで顔は見えないが、白い歯を覗かせて笑っている可愛らしい口元から見ると、若い女性のようだ。
「この女の人は……?」
「分かんないの」逸子が首を振る。「でも、他の写真にも全部映っているのよ。全部顔が微妙に隠れていて誰だか分かんないけど、かなりの美人だってナメちゃんが言っていた」
「写真撮っていた時に気づかなかったのかい?」
「う~ん、覚えていないの。ナメちゃんも……」
「で、この写真、どうするんだい?」
「ナメちゃん、『これはイケるわ! 逸子と魔女子 in ドレ・ドルよ! これからは魔女ファッションの時代よ!』なんて言って張り切っていたわ。次の号の巻頭グラビアにするんだって」
「ふーん」コーイチは言ってコーヒーをすすった。「ドレ・ドルの会場の壁の上の方に架かっていた絵、なんか間近で見た気がするんだよなぁ……」
「そんな所まで行けるわけないわよ。気のせいじゃない?」
「だよねぇ……」
コーイチは何気なく通路を挟んだ隣のテーブルを見た。
赤いふわふわしたブラウスに赤いミニスカート姿で長い髪の可愛らしい娘と、白いミニのチャイナ服に白のブーツで真ん中から左右に分けられた髪を耳元でくるくるとまるめて白いピンで留めた可愛いがちょっと大人びた娘の二人組みが、にこにこしながら手を振っていた。コーイチが反対側を見た。そこには誰もいない。……と言うことは、ボクに手を振っているのかな? コーイチは再び二人の方へ顔を向けた。しかし、そこには誰もいなかった。
「……どうしたの?」逸子がコーイチに聞いた。「知ってる人でもいたの?」
「いや、そうじゃないんだけど…… そうなのかなぁ……」
「変なコーイチさん!」
逸子は言ってくすくす笑った。
喫茶店を出た途端、コーイチは転んでしまった。持っていたショルダーバッグの中身を撒き散らしてしまった。ノートだの雑誌だの筆記用具だのハンカチだの、細々したものが辺りに散乱している。
「いやいやいやいや、まいったなあ」
コーイチは言いながら広がったものを集め始めた。逸子もしゃがんで手伝う。
「これも、コーイチさんのかしら……?」
逸子は、赤い紐のようなもので何重にも縛られている、黒い表紙のA4サイズのノートを拾い上げた。
「ま、いいか」
逸子はコーイチのショルダーバッグに詰め込んだ。
終わると二人は仲良く手を組んで歩いて行った。
その後ろ姿を見ている二人の女の子がいた。喫茶店でコーイチに手を振っていた娘たちだ。
「あーら、あらあらあら」白い服の娘が、伸ばした右の人差し指を左右に振りながら言った。「コーイチ君、またスミ子を持って行っちゃったわねぇ……」
「お姉様」赤い服の娘が言った。「今度は邪魔はしないでね……」
おしまい
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