坊様の後を、松次の両親が、その後に仁吉、おみよ、兵太と続いた。おみよは顔を伏せて、仁吉の袖を強く握りしめていた。
坊様は立ち止まった。その大きなからだで前方は見えないが、そこには松次がいるはずだった。
仁吉は前に出ようとした。おみよは思わず手を放した。仁吉は坊様の隣に立った。
松次は寺で見つかった時と同じ姿勢だった。ただ、松次は大きく見開いた目でじっと坊様を見つめ、小刻みに震え、低い唸り声をあげている様子が違っていた。坊様は、そんな松次の様子に臆することなく、すぐ目の前に胡坐をかいて座りこんだ。
「……これはいかんな……」
坊様は松次を見ながらつぶやくと、聞いたことのない念仏を唱え出した。
松次の震えが止まり、険しい表情で坊様をにらみ付けた。唸り声が高まる。伏していたからだを起こし、両腕を突っ張った。にらみ付ける瞳が縦長に細くなった。口の端から泡が溢れだした。
坊様は念仏を唱えながら、左の袂から右手で、幾つも珠が無くなった、首に掛けるような大きな数珠を取り出した。松次は威嚇の唸りを上げながらも、数珠を好奇の目で追っている。その一瞬、坊様は数珠で松次の背中を激しく打った。珠が二つ、三つ外れて転がった。
松次は人の声とは思われない悲鳴を上げると、床の上を転げまわった。坊様は数珠を袂に戻し、念仏を唱え続けながら、転げまわる松次を見つめていた。
兵太は腰を抜かしてその場に座り込み、松次の母親は息子の様子に頭を押さえながら泣き出し、父親はしきりに松次の名を呼び続け、おみよは耳を塞いでしゃがみ込んで泣き出し、仁吉は握り拳を固く結んで松次を見つめていた。
坊様は座ったままで錫杖を右手に持つと、転げまわる松次の上で振り始めた。錫杖の鐶が互いに触れ合って鳴った。念仏を続けながら、坊様は手を動かした。松次の動きが少しずつ遅くなってきた。ついに動き止まると、そのまま大きな鼾をかき始めた。
「ふむ……」坊様は、鼾をかく松次の顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。「これで大丈夫だ。目を覚ませば元に戻るよ」
そう言うと坊様は立ち上がった。松次の両親はその場に座り込んで手を合わせ「ありがとうございます」と口々に繰り返し、坊様を拝んでいる。
「これこれ、そんな事はせんで良い」坊様は両親に言う。「それよりも、目を覚ましたら、何か食わせてやりなさい」
坊様と子供たちは松次の家を出た。坊様は仁吉に振り返った。
「お前さん、見えていたかい?」坊様はにやりと笑う。「どうだ?」
「……うん……」仁吉は答えた。「見た…… あれは化け猫だ」
大きな数珠で松次の背中が打たれ、転げ回っている姿に、松次と同じくらいの大きさの黒い猫の姿が重なっていたのを、仁吉は見たのだ。坊様が錫杖を振り続け、松次が穏やかになると、黒猫は坊様を睨み付けながら離れて行った。
「そうか。……じゃ、一緒に来なさい」
仁吉は坊様の隣に立った。兵太とおみよもそうしようとした。
「いや、二人は連れては行かれん」坊様は二人に向かって言った。「ここで、松次の様子を見てやってくれぬかな?」
兵太とおみよはうなずいた。
「聞き分けの良い子たちじゃのう」
坊様は笑いながら何度もうなずいて見せた。兵太とおみよは松次の家に入って行った。
「さてと……」坊様は仁吉に顔を向けた。その顔は真剣な表情だった。「荒れ寺へ案内してくれい」
仁吉は坊様の前を歩き出した。夕暮れが近づいていた。
つづく
坊様は立ち止まった。その大きなからだで前方は見えないが、そこには松次がいるはずだった。
仁吉は前に出ようとした。おみよは思わず手を放した。仁吉は坊様の隣に立った。
松次は寺で見つかった時と同じ姿勢だった。ただ、松次は大きく見開いた目でじっと坊様を見つめ、小刻みに震え、低い唸り声をあげている様子が違っていた。坊様は、そんな松次の様子に臆することなく、すぐ目の前に胡坐をかいて座りこんだ。
「……これはいかんな……」
坊様は松次を見ながらつぶやくと、聞いたことのない念仏を唱え出した。
松次の震えが止まり、険しい表情で坊様をにらみ付けた。唸り声が高まる。伏していたからだを起こし、両腕を突っ張った。にらみ付ける瞳が縦長に細くなった。口の端から泡が溢れだした。
坊様は念仏を唱えながら、左の袂から右手で、幾つも珠が無くなった、首に掛けるような大きな数珠を取り出した。松次は威嚇の唸りを上げながらも、数珠を好奇の目で追っている。その一瞬、坊様は数珠で松次の背中を激しく打った。珠が二つ、三つ外れて転がった。
松次は人の声とは思われない悲鳴を上げると、床の上を転げまわった。坊様は数珠を袂に戻し、念仏を唱え続けながら、転げまわる松次を見つめていた。
兵太は腰を抜かしてその場に座り込み、松次の母親は息子の様子に頭を押さえながら泣き出し、父親はしきりに松次の名を呼び続け、おみよは耳を塞いでしゃがみ込んで泣き出し、仁吉は握り拳を固く結んで松次を見つめていた。
坊様は座ったままで錫杖を右手に持つと、転げまわる松次の上で振り始めた。錫杖の鐶が互いに触れ合って鳴った。念仏を続けながら、坊様は手を動かした。松次の動きが少しずつ遅くなってきた。ついに動き止まると、そのまま大きな鼾をかき始めた。
「ふむ……」坊様は、鼾をかく松次の顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。「これで大丈夫だ。目を覚ませば元に戻るよ」
そう言うと坊様は立ち上がった。松次の両親はその場に座り込んで手を合わせ「ありがとうございます」と口々に繰り返し、坊様を拝んでいる。
「これこれ、そんな事はせんで良い」坊様は両親に言う。「それよりも、目を覚ましたら、何か食わせてやりなさい」
坊様と子供たちは松次の家を出た。坊様は仁吉に振り返った。
「お前さん、見えていたかい?」坊様はにやりと笑う。「どうだ?」
「……うん……」仁吉は答えた。「見た…… あれは化け猫だ」
大きな数珠で松次の背中が打たれ、転げ回っている姿に、松次と同じくらいの大きさの黒い猫の姿が重なっていたのを、仁吉は見たのだ。坊様が錫杖を振り続け、松次が穏やかになると、黒猫は坊様を睨み付けながら離れて行った。
「そうか。……じゃ、一緒に来なさい」
仁吉は坊様の隣に立った。兵太とおみよもそうしようとした。
「いや、二人は連れては行かれん」坊様は二人に向かって言った。「ここで、松次の様子を見てやってくれぬかな?」
兵太とおみよはうなずいた。
「聞き分けの良い子たちじゃのう」
坊様は笑いながら何度もうなずいて見せた。兵太とおみよは松次の家に入って行った。
「さてと……」坊様は仁吉に顔を向けた。その顔は真剣な表情だった。「荒れ寺へ案内してくれい」
仁吉は坊様の前を歩き出した。夕暮れが近づいていた。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます