真っ暗だった。目を開けても閉じても変わらない。目の前に自分の手を持って来ても見えない。光が無いのだ。そんな中にさとみはぽつんと立っている。そう、立っていると言う自覚しかない。
何かがありそうな気配もない。そのくせ、ここが広いと言うのは分かる。縦横が果てしなく広がっているのだろうと言う感じがする。ひんやりとした空気が感じられる。
「……ここはどこ?」
当たり前すぎる問いをさとみは発する。つぶやくように言ったのだが、山彦のようにさとみの問いは繰り返され続け、果てにまで流れて行く。しかし、返事は来ない。
ここに立っていても仕方がない、少し歩いてみよう。さとみは思い、歩きはじめる。何にも見えないのに、平気で歩いている自分に驚く。しばらく歩いていると、ずっと先の方に白い点の様なものが見えた。さとみはそれを目指して歩く。心なしか歩調が早まっている。
白い点は次第に大きくなって行く。丸いと思っていたが、思いの外、縦長だった。さとみは足を止めた。
白い点だと思ったものは、若い女の立ち姿だった。それも後ろ姿だった。全体に白く光って見える。
ぼろぼろになったくすんだ赤色の着物姿で、帯は無く、太めの黒い紐で腰の辺りを縛っている。着物の裾が太腿の途中から千切れていて、すらりとした白い脚が晒されている。
「……あなたは誰?」
さとみが声を掛けた。女は返事をしない。動こうともしなかった。さとみも声を掛けたきり、黙って返事を待っていた。しばらく二人とも動かなかった。
「……人に聞くときは、自分から名乗るもんじゃない?」
やがて、後ろ姿の女が言う。はすっぱな物言いだが、声は可愛らしい。
「あ…… ごめんなさい。気がつかなくって……」さとみは言ってぺこりと頭を下げた。「わたし、綾部さとみって言います」
「そうかい。綾部さとみさんかい……」女は後ろ姿のままだ。「……知ってるよ」
「え?」さとみは驚く。「でも、わたしはあなたを知らないけど……」
「名前くらいは知っているんじゃない?」
「……」
さとみは黙ったままで一歩下がった。……わたしが知っている生身や霊体の女の人の中には居ないわ。で、名前だけ知っているって言うと……
「そうだよ……」
女は、さとみの心の声が聞こえたかのように言うと、振り返った。
雨に打たれて形が乱れたかのような黒髪が、顔の右半分に垂れている。覗いている左側の顔立ちは、整っていて美しく、大人びていながらも、どこか可愛らしい。
「顔を見せるのは、初めてね」女は笑む。その笑顔も可愛らしい。「わたしが、さゆりさ」
「えええええ~っ!」
さとみが驚きの声を上げた。思わず後ろを向くと駈け出した。……まだ、作戦も出来ていないのに、さゆりに遭っちゃった! 今は逃げなきゃ!
「逃げても無駄だよ」
さとみの前方から声がした。さゆりが立っていた。さとみは驚いて振り返る。そこにはさゆりはいなかった。
「わたしは、話をしたいだけさ」さゆりは言う。「それにさ、ここは、あんたの夢の中なんだよ」
「え? 夢の中?」さとみはきょろきょろと辺りを見回す。「わたしの夢?」
「そう」さゆりが言う。「あんたの夢にお邪魔しているのさ」
さゆりは言うと、だるそうに右手を上げ、ぱちんと指を鳴らした。
途端に、真っ暗だった景色は明るい座敷になった。座卓が据えられ、向かい合う様に座椅子が置かれている。さゆりは座椅子の一方に座った。向かい側の座椅子をさとみに座るように顎で示す。イチゴ柄のパジャマを着ているさとみは座らず、じっとさゆりを見つめている。
「何だよ? 座りなよ」
「だって、あなた、わたしをどうにかしようって思っているんでしょ? そんな人と夢の中でも一緒に居たくないわ」さとみは言うと、はっと気がつく。「……と言う事は、わたしが目を覚ませばいいのよね。……これは夢だ、これは夢だ、さあ、目を覚ませぇ!」
「ははは、お前って面白いんだね」さゆりは笑う。笑顔も可愛い。「でもな、残念だけど、目は覚めないよ」
「どうして? わたしの夢でしょ?」
「この夢は、わたしが見させているんだ」さゆりが得意気に言う。「わたし自身は動けないけどさ、こうやって、夢を使って相手にもぐりこめるのさ。どうだい、驚いただろう?」
「夢にもぐりこんで、悪い事をするんでしょ?」さとみはぷっと頬を膨らませる。それから、急に蒼ざめた顔になった。「……まさか、わたしを亡き者にしようなんて……」
「ころころと顔の変わる娘だねぇ」さゆりは楽しそうだ。「何だか見世物を見ているみたいだ」
「もうっ!」さとみは腹を立てる。からかわれて嬉しいものはいない。「ふざけないでよね!」
「『もうっ!』は牛だよ」さゆりは言うと笑い出した。「お前、楽しいヤツだな」
「何なのよう!」
さとみは怒る。しかし、迫力はない。さゆりはその顔も面白いと笑う。
「夢の中じゃ、何にも出来ないよ」さゆりが言う。「ただ、綾部さとみって言うのはどんなヤツか知りたくってさ。楓や辰やユリアの話じゃ、さっぱり分からない。でも、三人が言っていた同じ事があったね」
「何よ?」
「ちんちくりんだって事さ」さゆりはしげしげと立っているさとみを見て、再び笑う。「それは間違いないようだね!」
「もうっ!」
「だから、それは牛だって言ってんじゃないか」さゆりは笑いながら立ち上がった。「さて、わたしはもう行くよ。面白い娘だ」
「ちょっと、待ちなさいよ!」さとみが言う。「こんな事で手加減するわたしじゃないわよ!」
「ほう……」さゆりは凶悪の表情になった。「手加減だって? お前は手加減する間もなく消し飛ぶんだよ!」
さゆりは言うと笑った。再び真っ暗闇になった。もうさゆりの姿は見えなかった。闇がさとみを押しつぶしてくるように感じた。
「……うわああっ!」
さとみは叫んで飛び起きた。
つづく
何かがありそうな気配もない。そのくせ、ここが広いと言うのは分かる。縦横が果てしなく広がっているのだろうと言う感じがする。ひんやりとした空気が感じられる。
「……ここはどこ?」
当たり前すぎる問いをさとみは発する。つぶやくように言ったのだが、山彦のようにさとみの問いは繰り返され続け、果てにまで流れて行く。しかし、返事は来ない。
ここに立っていても仕方がない、少し歩いてみよう。さとみは思い、歩きはじめる。何にも見えないのに、平気で歩いている自分に驚く。しばらく歩いていると、ずっと先の方に白い点の様なものが見えた。さとみはそれを目指して歩く。心なしか歩調が早まっている。
白い点は次第に大きくなって行く。丸いと思っていたが、思いの外、縦長だった。さとみは足を止めた。
白い点だと思ったものは、若い女の立ち姿だった。それも後ろ姿だった。全体に白く光って見える。
ぼろぼろになったくすんだ赤色の着物姿で、帯は無く、太めの黒い紐で腰の辺りを縛っている。着物の裾が太腿の途中から千切れていて、すらりとした白い脚が晒されている。
「……あなたは誰?」
さとみが声を掛けた。女は返事をしない。動こうともしなかった。さとみも声を掛けたきり、黙って返事を待っていた。しばらく二人とも動かなかった。
「……人に聞くときは、自分から名乗るもんじゃない?」
やがて、後ろ姿の女が言う。はすっぱな物言いだが、声は可愛らしい。
「あ…… ごめんなさい。気がつかなくって……」さとみは言ってぺこりと頭を下げた。「わたし、綾部さとみって言います」
「そうかい。綾部さとみさんかい……」女は後ろ姿のままだ。「……知ってるよ」
「え?」さとみは驚く。「でも、わたしはあなたを知らないけど……」
「名前くらいは知っているんじゃない?」
「……」
さとみは黙ったままで一歩下がった。……わたしが知っている生身や霊体の女の人の中には居ないわ。で、名前だけ知っているって言うと……
「そうだよ……」
女は、さとみの心の声が聞こえたかのように言うと、振り返った。
雨に打たれて形が乱れたかのような黒髪が、顔の右半分に垂れている。覗いている左側の顔立ちは、整っていて美しく、大人びていながらも、どこか可愛らしい。
「顔を見せるのは、初めてね」女は笑む。その笑顔も可愛らしい。「わたしが、さゆりさ」
「えええええ~っ!」
さとみが驚きの声を上げた。思わず後ろを向くと駈け出した。……まだ、作戦も出来ていないのに、さゆりに遭っちゃった! 今は逃げなきゃ!
「逃げても無駄だよ」
さとみの前方から声がした。さゆりが立っていた。さとみは驚いて振り返る。そこにはさゆりはいなかった。
「わたしは、話をしたいだけさ」さゆりは言う。「それにさ、ここは、あんたの夢の中なんだよ」
「え? 夢の中?」さとみはきょろきょろと辺りを見回す。「わたしの夢?」
「そう」さゆりが言う。「あんたの夢にお邪魔しているのさ」
さゆりは言うと、だるそうに右手を上げ、ぱちんと指を鳴らした。
途端に、真っ暗だった景色は明るい座敷になった。座卓が据えられ、向かい合う様に座椅子が置かれている。さゆりは座椅子の一方に座った。向かい側の座椅子をさとみに座るように顎で示す。イチゴ柄のパジャマを着ているさとみは座らず、じっとさゆりを見つめている。
「何だよ? 座りなよ」
「だって、あなた、わたしをどうにかしようって思っているんでしょ? そんな人と夢の中でも一緒に居たくないわ」さとみは言うと、はっと気がつく。「……と言う事は、わたしが目を覚ませばいいのよね。……これは夢だ、これは夢だ、さあ、目を覚ませぇ!」
「ははは、お前って面白いんだね」さゆりは笑う。笑顔も可愛い。「でもな、残念だけど、目は覚めないよ」
「どうして? わたしの夢でしょ?」
「この夢は、わたしが見させているんだ」さゆりが得意気に言う。「わたし自身は動けないけどさ、こうやって、夢を使って相手にもぐりこめるのさ。どうだい、驚いただろう?」
「夢にもぐりこんで、悪い事をするんでしょ?」さとみはぷっと頬を膨らませる。それから、急に蒼ざめた顔になった。「……まさか、わたしを亡き者にしようなんて……」
「ころころと顔の変わる娘だねぇ」さゆりは楽しそうだ。「何だか見世物を見ているみたいだ」
「もうっ!」さとみは腹を立てる。からかわれて嬉しいものはいない。「ふざけないでよね!」
「『もうっ!』は牛だよ」さゆりは言うと笑い出した。「お前、楽しいヤツだな」
「何なのよう!」
さとみは怒る。しかし、迫力はない。さゆりはその顔も面白いと笑う。
「夢の中じゃ、何にも出来ないよ」さゆりが言う。「ただ、綾部さとみって言うのはどんなヤツか知りたくってさ。楓や辰やユリアの話じゃ、さっぱり分からない。でも、三人が言っていた同じ事があったね」
「何よ?」
「ちんちくりんだって事さ」さゆりはしげしげと立っているさとみを見て、再び笑う。「それは間違いないようだね!」
「もうっ!」
「だから、それは牛だって言ってんじゃないか」さゆりは笑いながら立ち上がった。「さて、わたしはもう行くよ。面白い娘だ」
「ちょっと、待ちなさいよ!」さとみが言う。「こんな事で手加減するわたしじゃないわよ!」
「ほう……」さゆりは凶悪の表情になった。「手加減だって? お前は手加減する間もなく消し飛ぶんだよ!」
さゆりは言うと笑った。再び真っ暗闇になった。もうさゆりの姿は見えなかった。闇がさとみを押しつぶしてくるように感じた。
「……うわああっ!」
さとみは叫んで飛び起きた。
つづく
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