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憂多加氏の華麗な日常   3) 小説の彼女

2019年07月23日 | 憂多加氏の華麗な日常(一話完結連載中)
 憂多加氏の趣味は読書だ。特にジャンルは決まっていない。その時の気分で読む物を決めている。最近は恋愛要素の強いものが多いようだ。一人寝の寂しさが身に染みる年頃なのであろうか。そんな憂多加氏が、最近すっかり気に入って、毎日のように読み返している小説がある。内容はもちろん、各ページの活字の位置までも(ページの汚れまでも)暗記するくらい読み込んでいた。
 憂多加氏がその小説で気に入っているのは、ヒロインの綾子だった。病に侵された幸薄い美人で、いつ果てるとも知れない己の命も顧みず、人知れず他人の幸福に画策する。その健気な姿、幸福になった人々を見て我が事のように微笑む意地らしさ……ああ、守ってやりたい。もしボクが綾子の傍にいるなら、全力で支えたい。憂多加氏は読み返すたびに思い、涙する。しかし、最終章は読んでいなかった。おそろしい結末を予感しているからだ。だから、健気で意地らしい綾子の部分までを、毎日毎日読んでいた。
 そんなある日、仕事で別フロアに出向いた時(憂多加氏の勤める会社は自社ビルを持っている)ある男性社員が落とし物をしたのを見かけた。ある女性社員がそれを拾い、別の女性社員に渡した。渡された女性社員は嬉しそうな顔をし、それから男性社員を追いかけて落とし物を渡した。男性社員は礼を言い、二人の話が弾む。二人の仲が深まったようだ。その様子に最初に落とし物を拾った女性社員は大きく頷いていた。ずっと後ろ姿だったその彼女が振り返った。その姿を見て、憂多加氏は思わず声を上げそうになった。綾子だった。毎日読み返し、思い描いていた綾子そのものだったのだ。こほんこほんと弱々しげな咳をしている。
 綾子な彼女は、男性社員と話が弾んだ女性社員から礼を言われていた。その際「ありがとう、綾子」と言うのが聞こえた。まさに綾子だったのだ! 憂多加氏の胸は時めいた。それ以来、小説から抜け出たような彼女を思わぬ日は無かった。大して用が無くても、彼女の居るフロアへ行き、その様子を見るだけで満足だった。たまに視線が合うと、にっこり笑って会釈してくれた。社用の単なる礼儀だと分かっていても、憂多加氏は嬉しかった。そして、見れば見るほど、彼女は小説の綾子になって行った。彼女も病に侵されているのだろうか? たまたま咳が出ただけなのか? 薄幸の美人なのか? 憂多加氏は一人思いを馳せていた。
 小説はどのように終わっているのだろう? 恋愛小説なのだから、ハッピーエンドになっているに違いない。誰かと恋に落ちるのか? どんな相手なのか? 憂多加氏は、綾子の相手が自分に似ていると良いが、などと考えていた。しかし、やはり最終章を読む事は出来なかった。もしもバッドエンドだったら…… 現実の彼女が小説の綾子に似ているからと言って、最終章の内容が影響などするはずはない。そう自分に言い聞かせる憂多加氏だった。そこで、意を決し、ずっと躊躇っていた最終章のページを繰った。
 ヒロイン綾子は、自分がずっと思いを秘めていた男性に会った。一言声をかける。「あの……」しかし、その直後その場に倒れてしまう。病が遂に綾子に牙を剥いたのだ。男は綾子に駈け寄り抱き留める。「綾子!」男は叫ぶ。綾子は弱々しく微笑みながら頷き絶命した。……なんという結末だ! 他人のために努めた綾子。やっと自分に番が回って来たと言うのに! 憂多加氏は涙した。……しかし、これはあくまでも小説なのだ。実際の綾子とは無関係なのだ。憂多加氏は自分に言い聞かせた。しかし、分かっていても二人の姿が重なってしまう。今夜は眠れそうにないな、憂多加氏は思った。
 それからしばらくは、憂多加氏は彼女の居るフロアへ行かなかった。辛くなると思ったからだ。小説と現実とは全く違うと、頭では分かっているが、理屈ではない何かが憂多加氏を重く支配した。
 が、どうしても必要があって、憂多加氏は彼女のフロアへ行かなければならない事になった。会わないで、何とかやり過ごそう。仕事なのだから気にすることは無い。憂多加氏はそう自分に言い聞かせ、決死の覚悟で彼女のフロアへ向かった。幸いにも彼女に会う事無く、用件を済ませる事が出来た。やれやれと、自分のフロアへ戻ろうとした時、ばったりと彼女と鉢合わせをしてしまった。何と言う事だ! あと少しの所だったのに! 憂多加氏は思った。と同時に、これは運命なのではないか ボクと彼女は、陳腐な言い方だが、見えない赤い糸で結ばれているのではないか? いや、結ばれているのだ! そうでなければ、このように会うのを避けているのに、会うはずがない! 憂多加氏はそう心に定め、目の前の彼女と対峙した。彼女も同じ思いなのだろうか、憂多加氏をじっと見つめたまま立っていた。
「あの……」目の前の彼女が憂多加氏に声を変かけて来た。なんと、読んでいた小説そのものではないか。いや、あの小説はボクたちを予見していたのだ。憂多加氏はそう思い、じっと彼女を見つめた。声がかけられると、次はボクが倒れる彼女を抱き留めるのだ。すると、一歩前に出た彼女がふらりとよろけた。憂多加氏は素早く駈け寄り抱き留めた。二人の顔と顔が近くなり、無言で見つめ合う。
 途端に彼女の両目は大きく見開かれ「きゃあああ!」と悲鳴を上げると身をよじった。あまりの激しさに憂多加氏は手を放した。彼女はすすすと後ずさり、壁に身を付けた。彼女の悲鳴を聞いた人々が集まって来た。「どうした?」「何があった?」皆が彼女に聞いている。彼女は震えながら憂多加氏を指差した。「この人です! 前から私をじっと見ていた人です!」その場の人々は憂多加氏を見る。「このフロアの者じゃないぞ」「わざわざ彼女を見に来たのね」「仕事だと言って、たまにこのフロアへ来てたような気がする」彼女は続けた。「目の前に居たので、止めてもらうように言おうとしたんです。でも、ちょっと緊張してよろけたんです。そうしたら、いきなり抱き付いて来て……」周りの者たちが憂多加氏に迫る。「いや、それは誤解です! ボクは綾子さんが倒れそうになったから手を貸したんです!」憂多加氏は言う。「綾子さんなんて、名前まで知ってるわよ!」「「わたし、この人が綾子に特別な眼差しを送っているのを見たことがあるわ!」「そう言えば、ちょくちょく来ているのを見かけたよな」「こんな危険なヤツは、コンプライアンスとハラスメント室長の磯田専務のところに連れて行こう!」男性社員数名が憂多加氏を取り押さえた。「違う! ボクは何の悪気も無いんだ!」憂多加氏は叫ぶ。「小説が…… ヒロインが……」途切れ途切れに叫ぶ憂多加氏を男性社員たちが運び去った。泣き出す綾子を他の女性社員が慰めていた。
 事実は小説より奇なり…… 改めてこの言葉の意味を噛みしめる憂多加氏だった。

 

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