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憂多加氏の華麗な日常   7) 雨宿りの彼女

2021年05月16日 | 憂多加氏の華麗な日常(一話完結連載中)
 突然の雨だ。
 傘を用意していない人がほとんどだった。慌ててデパートに飛び込む人。小さな商店の庇の下に潜り込む人。傘を求めてコンビニや薬局に群がる人。これ見よがしに傘を差し悠々と闊歩する人。
 しかし、雨脚はますます強まった。アスファルトの跳ね返りが激しくなり、傘を差す人の足元が色が変わるくらいに重々しく濡れそぼる。結局は傘を閉じ、あちこちに雨宿りに散った。雨の上がるのを待つしかなかった。
 憂多加氏もそんな思いで空を見上げている一人だった。憂多加氏は、まだまどろみの中にいる「さざえ」という名のスナックのドア上の薄汚れたビニール製の庇(キャノピーとか言うそうだ)の下に立っていた。
 憂多加氏は営業が終わり、帰社する途中だった。あと少しと言う所での雨だった。会社の入っているビルが見えている。頼めば傘を持って迎えに来てくれるかもしれない。しかし、それには躊躇する。憂多加氏は転職による中途採用で今の会社に入った。営業職での採用だったのだが、営業は初めてだった。思うように成果を出せないでいた。そのようなわけで、会社に対して後ろめたく、強くは出られなかったのだ。それに、慌てて戻っても上司に嫌味を言われるだけだ。
「……ゲリラ豪雨だ。すぐに止むだろうさ……」
 憂多加氏は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「あの……」不意に声をかけられた。憂多加氏は声の方を見た。雨に濡れた女性が立っていた。憂多加氏より少し年下の、三十路を少し過ぎた感じだ。「……お隣、よろしいですか?」
「え? ああ、どうぞ、どうぞ!」
 憂多加氏は少しずれる。破れた庇から垂れる雨が憂多加氏の肩を濡らすが、それに気が付かない。何故なら、声をかけてきたのはそれほどの美人だったからだ。美人と言うだけでは無い。濡れた黒髪から滴る雨が妖艶で、また、雨に濡れた白のブラウスの張り付いたからだには、ピンク色の下着がはっきりと浮かび上がっていたのだ。女性は憂多加氏の視線に気が付いたのか、慌てて胸元を腕で隠す。憂多加氏も慌てて通りを打ちつける雨に視線を転じた。
「……その…… すみません……」憂多加氏は雨を見つめながら詫びを入れる。「失礼いたしました……」
「いえ……」女性はバッグから取り出したハンカチで髪とからだを拭きながら答える。「お陰様で助かりました……」
 品の良い対応に、憂多加氏は嬉しくなる。会社の同じ年頃の女子社員とは雲泥の差だ。
「最近、こう言う雨が多いですよねぇ」憂多加氏は言う。相変わらず視線は雨に向けている。「と言って、傘をいつも持ち歩くのも面倒です」
「そうですね」女性は優しい声で答える。「……さあ、もう大丈夫ですわ」
 憂多加氏がゆっくりと女性を見ると、完全ではないが、ある程度雨を拭き取っていた。髪からの滴りも無く、下着も透けていない。
「……お仕事の途中なんですか?」女性が憂多加氏を見ながら言う。「大変ですね」
「いえいえ、堂々とさぼれる口実が出来て、返って良いですよ」
「あら!」女性は笑う。こぼれる白い歯が美しい。「楽しい方ですね」
「そうですかねぇ? 会社じゃ、面白味のない男と言われていますよ」
「それは、会社の方々に見る目が無いのですわ」女性は義憤に駆られたように言う。そんな自分に照れたのか、女性は顔を赤くし、照れ笑いを浮かべる。「……でも、あなたのようなご主人を持った奥様が羨ましいですわ」
「ははは、実はわたしはまだ奥さん募集中の独り身でして……」憂多加氏はいつものように冗談めかして答えた。「ストライクゾーンは広いのですがねぇ……」
「あら!」女性は口元に手をやった。聞いてはいけない事を聞いてしまったと言った風だった。そして頭を下げた。「……その、ごめんなさい……」
「いえ、気になさらずに。この年恰好じゃ、妻帯者に思われても仕方ありませんからね」憂多加氏はあくまでも笑顔を崩さない。「そう言うあなたには、素敵なご主人がいらっしゃるんでしょう?」
「……わたくしですか?」女性は恥ずかしそうに、ささやく。「わたくしもまだ……」
「そうでしたか。それは失礼を……」
 そう答える憂多加氏の中で、ある思いが湧き上がって来ていた。
 雨の中での偶然の出会い…… これは偶然ではない。何者かによって導かれた必然だ。何者とは誰か? 言葉は古いかも知れないが、恋のキューピットだ! 神慮と言い換えても良い! それ以外には無い! 浮かび上がった下着姿を見られたのに、隣に居続けてくれている。普通なら、憤然とし「このスケベ親父!」くらいの事を言って、こんな雨の中でも飛び出して行くだろう。それが無かった。嫌われてはいないと言う事だ。しかも、こんなに美しいのにまだ独り身の女性だ。おお、神様! 今までの不信仰をお許しください!
 女性に名前や住所を聞こうと決心した時、背中にあるスナックのドアがゆっくりと開いた。隙間程度に開いたドアから、この店のママらしき人物が眠そうな顔を出してきた。
「あのさぁ、ちょっと賑やかなんだけど?」ママは不機嫌そうな物言いだ。「今から起こされたんじゃ、営業まで持たないよ」
「ああ、すみません、気が付かなくて……」憂多加氏は代表して謝る。「雨宿りに庇下をお借りしていました……」
「じゃあ、これを持って行きな。雨も弱くなってきたようだからさ」ママはビニール傘を一本差し出してきた。「客の忘れ物だからさ、気にしないで持って行きなよ」
「ご親切にどうも……」憂多加氏は恐縮しながらも続ける。「……あの、もう一本、ありませんかね?」
「あいにく一本だけだよ。相合傘でもすりゃ良いんじゃないかい?」
 ママは傘を憂多加氏に押しつけるとドアを閉めた。
「相合傘だなんて……」憂多加氏は女性を見る。「……どうしましょうか?」
「ご迷惑でなければ」女性は言うと甘えるように微笑む。微笑む顔が美しい。「わたくしは構いませんが……」
 憂多加氏は傘を差した。女性が濡れないようにと中の方へと入れる。傘からはみ出た憂多加氏の左側が冷たい。
「それだと、あなたが濡れますわ」
「なあに、安物のスーツですから、気になさらずに」憂多加氏は笑う。女性もつられて笑む。白い歯が美しい。「それで、どちらへ向かいますか?」
「あなたは?」
「わたしはこの近くですから、問題ありませんよ」
「そうですか。……ではお言葉に甘えますね」女性は甘えるように微笑む。微笑む顔が美しい。「駅までお願いできますか?」
 二人は歩く。弱くなったとは言え、まだ打ち付け続ける雨音が祝福の喝采の様に憂多加氏には聞こえている。濡れる肩は天からの歓喜の涙だった。
 もうすぐ駅に着いてしまう。実際に駅が見えてきた。今だ! 今を置いて時は無い! 憂多加氏は改めて女性の名前と住所を聞こうと決心した。
「あの……」憂多加氏は決死の覚悟で声をかけた。「あなたのお名前……」
「あら! あなたぁ!」
 女性は突然声を上げると傘から出て走り出した。女性の目指す先に男性が傘を差して立っていた。女性と充分に釣り合うような男前だった。男性は手に女物の傘を持っている。女性は男性の傘に入り、何か話をしている。男性は傘を上げ、憂多加氏を見る。男性は手にしている傘を女性に渡した。女性は傘を広げ、二人並んで憂多加氏の方へと来た。
「美和子がご迷惑をお掛けしたようで……」男性が憂多加氏に頭を下げた。「二人で買い物に来たのですが、それぞれで買い物をする事になりましてね。まあ、集合場所は駅前と言う事にしていたのですが、突然の雨で心配していたのですよ。傘の準備などをしていなかったものですからね」
「真さんが傘を買って待っていてくれたんです」女性が微笑む。その微笑は男性に向いている。「来月、挙式するんです」
「おいおい、そんな事、この方には関係のない話だろう?」
「あら! でも嬉しくって、ついつい……」
「ははは……」男性は憂多加氏にまた頭を下げる。「女性と言うのは、全く自己中心的で困ります。ま、そこが可愛いのですけどね」
 二人は幾度も憂多加氏に礼を言うと駅へと消えて行った。
「そうか、あの人は美和子さんと言うのか……」憂多加氏はつぶやいた。「名前が聞きたかったから、良しとするか……」
 再び強く打ち付け、けたたましくなった雨音は激励の拍手に変わり、濡れる肩は同情の涙に変わった。
 憂多加氏はとぼとぼと会社へと戻って行く。雨はまだ降り止まない。


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