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憂多加氏の華麗な日常   8) 紫陽花の彼女

2022年07月02日 | 憂多加氏の華麗な日常(一話完結連載中)
 梅雨時の束の間の晴れた休日の午後、憂多加氏は散歩に出た。もちろん、緊急事態に備えている。大袈裟な言い方だが、何の事はない、傘を持って外出すると言う事だ。憂多加氏は何でも大袈裟に考える性質だった。
 梅雨だと言うのに、雨はそれほど降らない。降らないからと言っても、やはり梅雨だ。蒸し暑くなっている。傘を差すほどでもない時用にと思って着た薄手のジャンバーが暑苦しい。と言って、脱いで手に持つのも荷物になる。汗をかいたら、帰ってからシャワーでも浴びればいいさ、未だ独り身の気楽さから憂多加氏は思う。でも、「お帰りなさい、さあシャワーでもお浴びになって」なんて言って笑顔で迎えてくれる妻がいれば最高だと憂多加氏は思う。
 そんな事を考えながら歩いていると、色とりどりの紫陽花の咲いている庭を持つ家に出くわした。憂多加氏は思わず足を止める。
「ほう、綺麗なものだなぁ……」
 憂多加氏は呟く。普段は花の類に全く関心の無い憂多加氏だったが、何故か魅かれていた。
 と、ドアの開く音がした。玄関ドアだろう。憂多加氏は立ち去ろうと一歩足を出す。不審者に見られるのは心外だったからだ。が、その足が止まった。
 憂多加氏と同じくらいの年頃の女性が庭に現われたからだ。それも、なかなか美しい女性だった。
 女性は、庭先に立っている憂多加氏に気がついた。
「あ、いや、どうも……」憂多加氏はしどろもどろで挨拶をする。「あの、その、紫陽花がとても綺麗だったもので……」
 やや警戒をしていた女性の表情が、ぱっと緩やかに優しいものになった。
「まあ、紫陽花を誉めて下すって、嬉しいですわ」女性は外見通りの美しく優しい声で言った。「お宅でも紫陽花を育てていらっしゃるんですの?」
「いえ……」憂多加氏は申し訳なさそうに答える。「僕は花には疎くて、庭は芝生にしているんです……」
 憂多加氏は嘘をついた。いや、見栄を張ったと言い直した方がよいだろう。憂多加氏は一人暮らしなので狭いマンションに住んでいる。庭などない。しかし、この女性に嫌われたくない。咄嗟にそう思った憂多加氏だったのだ。
「そうでしたの。それは勿体無いですわね」女性は憂多加氏の話を信じたようだ。「でも、人はそれぞれですわ……」
「いえいえ、僕もお庭を見て、紫陽花も良いなって思いましたよ」憂多加氏は言う。「でも、すみませんでした、じろじろとお庭を見ちゃって。まるで不審者みたいで……」
「そんな事ありませんわ」女性笑みを浮かべて言う。「紫陽花の好きな方に悪い人はおりませんわ」
「そう言ってくれると助かります…… あ、僕、憂多加と言います」
「わたしは花田明美と申します」
 明美は優しく微笑む。憂多加氏もつられて、微笑んだ。
 そこから、明美は紫陽花について語り始めた。
 花びらに見える部分は萼(がく)だと言う事。萼の色はアントシアニンと言う色素によるもので、紫陽花にはその一種のデルフィニジンが含まれている。土壌のアルミニウムのイオンの量で色が変わる事。土壌が酸性なら土中のアルミニウムが溶け出して根から吸収されて青、アルカリ性ならアルミニウムは溶け出さず吸収されないので赤、土壌が中性だと紫と一般に言われている事。増やす方法は挿し木をするのが一般的な事。等々……
「そうなんですか」憂多加氏は素直に感心している。ふと見ると、白い紫陽花があった。「じゃあ、白いのは……?」
「あれは、元々アントシアニンを持たないものなのです」明美は答える。「花言葉は『寛容』。わたしはこの白い紫陽花が好きですね」
「そうなんですか……」
 憂多加氏は呟くように言う。「寛容」か。確かに明美さんはそんな感じだ。こんな初対面の自分に話をしてくれるのだから。
「もう一つお聞きしたいんですが」憂多加氏は真面目な顔で言う。「紫陽花には種が無いんですか?」
「あら!」明美は驚いた顔をし、次いでくすくすと笑い出した。「憂多加さん、紫陽花も植物ですわ。当然、種はありますわ。 十一月頃に緑色の小さい粒が出来て、……それが紫陽花の実なんですの。その中に砂粒の様な種が出来るんです。種からだと、開花に三、四年は掛かります。でも、稀に新種が出来たりもするんですよ」
「そうなんですか。それは面白いですね」
「じゃあ、紫陽花の種、お分けしますわ。お待ちになっていて下さいね」
 明美は思いついたように言うと、玄関へと戻って行った。庭に面してベランダ窓があるが、そこからは出入りしていないようだ。
 しばらくして、小さな紙袋を持った明美が戻って来た。それを憂多加氏に差し出した。
「どうぞ、お受け取りください」明美は笑む。「奥様と御一緒に育ててくださいましね」
「……あ、いえ、実は、僕は独り身でして……」憂多加氏はこの話題では見栄を張らない。「でも、ありがたく頂きます…… 明美さんも、ご主人と一緒の紫陽花を育てるなんて、楽しいでしょうねぇ」
「……主人は二年前に亡くなりました」明美の表情が暗くなった。「肺がんでした……」
「あ! これは失礼な事をお聞きしてしまって……」憂多加氏は慌てる。「何とお詫びしてよいか……」
「いいえ、お気になさらないで」明美は優しく微笑んだ。「わたしの中では、もう良い想い出になりましたから」
「でも……」
「夫は紫陽花が好きでしたわ。憂多加さんもお好きなようですわね」明美は言うと、憂多加氏を見つめる。何となく明美の頬が赤く染まっているように憂多加氏には見えた。「……憂多加さんは夫に似ていますわ。だから、こんなにお喋りをしてしまったのかも知れません。あら、嫌ですわ。こんな事! ご免なさい」
 そう言うと、明美は慌てて玄関のある方へと駈けて行ってしまった。角を回って姿が見えなくなる寸前、ちらと振り返った明美の視線に憂多加氏の胸が高鳴った。
 ……あの視線、何だか意味有り気だった。慌てて戻ってしまったのも、この立ち話をご近所に聞かれたくないからだろう。憂多加氏は思い、庭を離れた。その際、玄関が見える方向に歩いた。明美の姿は無かった。ベランダ窓から出入りしないのも、安全策なのだろう。頻繁な出入りを見られたら、そこから入って来る不届き者がいるかもしれない。ひどい奴が居るものだ。憂多加氏は勝手に腹を立てる。
 ……憂多加さんは夫に似ていますわ。明美の言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。憂多加氏はふと足を止めた。……と言う事は、明美さんは独り身だ。僕と同じだ。ご主人の事も良い想い出になったと言っていた。きっと新たな歩みを始める、つまりは、新たな恋を始めると言う意味なんだろう。それが僕ではいけないだろうか? 
 僕に向けてくれた笑顔。決して脈が無いとは思えない。いや、大いに脈有りだ。
 憂多加氏は傘をくるくると廻しながら、うきうきした気分で散歩を続けた。蒸し暑さでまとわり付くジャンバーも気にならない。手には、しっかりと紫陽花の種の入った紙袋を、握りつぶさないように大事に持っていた。
 
 次の日から、また仕事が始まる。梅雨時の通勤は、それだけで疲れ果ててしまう。さらに、その週は忙しかった。残業の連続だった。終電か終電一本前で帰り、始発か始発の次くらいで出勤。そんな状況であったが、憂多加氏は明美の事を片時も忘れなかった。憂多加氏にはそれがきつい日々を乗る超える力になっていた。休みになったら、また会いに行ってみよう。そして、お付き合いをさせてもらおう。憂多加氏はその一点だけを見つめていた。

 待ちに待った休日となった。その日はあいにくの雨だった。しかし、憂多加氏の心は快晴だった。この前と同じような時間に訪れれば会えるだろう。明美からもらった紫陽花の種はまだ紙袋のままだった。忙しくて紫陽花について調べる暇もなかったし、庭もない。それに、憂多加氏には種よりも手渡された紙袋の方が大切だった。明美の手の温もりが残っている気がしていたからだ。
 憂多加氏は先週と同じ格好をして出掛けたその方が、明美に気づいてもらえると思ったからだ。
 傘を差しながら、速足で明美の家を目指す。雨の跳ね返りがズボンの裾を濡らすが気にしない。
 明美の家の庭に来た。憂多加氏は立ち止まり、庭の紫陽花たちを見る。雨に濡れて鮮やかさを増すところなのだろうが、何となく、前に見た紫陽花と違って見えた。生気が無いように見えた。憂多加氏はベランダ窓に目を転じた。窓にはカーテンが敷かれていた。……出掛けているのかな? 憂多加氏は小首を傾げる。そして、しばらく佇んでいた。
 そんな憂多加氏を不審そうな目で見ながら、通り過ぎる年配の女性がいた。右手には傘を、左手には買い物袋を提げている。その女性は隣の家の門扉を開けた。明美の隣の住民だった。
「あの……」憂多加氏が声を掛けた。女性は面倒くさそうに振り返る。一刻も早く家に入りたいのだと言う雰囲気を隠さない。「お忙しい所すみません。あの、お隣の花田さんは御在宅でしょうかね?」
「ああ、花田さん……」女性はじっと憂多加氏の顔を見る。「あの人なら、引っ越しましたよ。何でもご実家のお母さんの介護だとかで。前々から予定していたそうで」
「介護、ですか」
「そう言ってましたよ。ご主人を亡くされましたからね。一人でいるよりは、介護とは言え実家でしょ? 少しは安心安全じゃないですかね? 引っ越しは先週の頭だったですね」
「先週の頭、ですか」紫陽花の種をもらった翌日と言う事か。憂多加氏は思った。「それで、ご実家はどちらですか? 戻って来られるんでしょうか?」
「さあ…… そう言う事を聞くほどには、親しくはなかったですからねぇ……」女性は言うと、改めて憂多加氏を見つめる。「……それで、あんたは花田さんとどう言う関係なんですの?」
「あ、いえ。ちょっと知り合った程度でして…… ありがとうございました。失礼します」
 憂多加氏はそそくさとその場を去った。
 急に傘が、降ってくる雨が、重く感じられた。……じゃあ、紫陽花の種をくれたのは、たまたまだったのか。僕はそれを心の支えにしていたってわけか。一人で舞い上がっていただけだったのか。憂多加氏は足を引きずるようにしてマンションに帰った。
 
 それから梅雨が明け、逃れようのない熱い夏になった。憂多加氏は相変わらず忙しい日々を送っている。
 休みの日、憂多加氏は明美の家に行ってみた。相変わらずカーテンは閉まっていた。紫陽花は全部涸れていた。憂多加氏はズボンのポケットに手を入れた。明美のくれた紫陽花の種の入った紙袋を取り出した。憂多加氏は中身を明美の庭に蒔いた。空になった紙袋を握りつぶし、ポケットに戻した。
 憂多加氏はため息をつき、額を流れる汗を手で拭い、立ち去って行った。

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