お千加は観念したように、両手を合わせ、頭を垂れた。
「ダメだよ! お千加さん! そんな魔物に斬られたら、あんたも魔物になっちまうよお!」おくみは叫ぶ。「あんたの前にいるのは、藤島様じゃないんだよ!」
「でも、でも……」お千加は顔を上げ、おくみを見た。両手は合わせたままだ。その顔は涙で濡れている。「わたしを斬ったら、藤島様が元に戻るかもしれないじゃないですか!」
「そんな馬鹿な事があるわけないだろう!」
「分かりませんよう!」
お千加はおくみから藤島へと顔を向けた。再び頭を垂れた。藤島は追い詰めた獲物を弄んでいるつもりか、刀を振り上げたまま、涎を啜る不快な音を立てている。
「お坊様! お坊様!」おくみは坊様へ声をかける。坊様はまだ倒れたままだ。「起きて下さいましよう! このままじゃ、お千加さんが! お千加さんが!」
坊様は動かない。おくみは涙を流した。自分の不甲斐なさへの悔し涙だった。
坊様の方へいざり寄ろうと、手を動かした。
手の平に何かが当たった。手を退けて見てみると、坊様の千切れた数珠が一粒、転がっていた。使い込まれていて黒光りしている。
おくみはそれを拾うと、藤島目がけて投げつけた。しかし、女の力では全く届かなかった。藤島よりかなり手前で珠は転がった。藤島は気配を察したのか、顔を珠の方に向けた。途端に、白濁の双眼を大きく見開いた。
「あっ!」
おくみは思わず声を上げた。転がった珠が金色に光り始めたのが見えたからだった。光はゆっくりと広がって行く。眩しくはない。温かくてほっとするような柔らかい輝きだった。
藤島にもその光が見えるのだろう。振り上げていた右手を下げ、珠をじっと見つめている。光に白濁の目を細める。そうしながら、低い唸り声を発している。……あの光はお浄めの光かも知れない。おくみは思った。
藤島がからだの向きを変え、ふらりと光の方へ一歩踏み出した。……光をもっと浴びたら、きっと藤島様は元に戻る! 藤島様の本心が憑かれたからだを動かしているんだ! おくみはさらに踏み出した藤島を見て思った。藤島の呻り声が続く。
手を合わせたまま、お千加は顔を上げた。藤島はお千加に背を向け、おくみに向かって歩いているように見えた。
「おくみさん!」お千加が慌てて声をかける。「お逃げよう!」
「大丈夫だよ、お千加さん!」おくみが答える。「もう少し、もう少しだから……」
藤島は珠の前で立ち止まった。片膝を付き、腰を屈めながら光を覗き込む。白濁の眼に、うっすらと黒い瞳が戻って来た。……もう少し、もう少し…… おくみは固唾を呑んで藤島を見つめている。
藤島は刀を地に突き立てると右腕を伸ばす。その指先が珠に触れた。すると、まるで熱いものに触れたように慌てて腕を引っ込めた。戻って来ていた黒い瞳が失せ、獣のような咆哮を上げた。立ち上がると忌々しそうに珠を蹴り飛ばした。金色の光を引きずりながら珠は雑木林の中に消え、幹に当たったのか、乾いた音を立てた。
「あああ……」
光を目で追っていたおくみは落胆の息を漏らした。頭を返して藤島を見上げる。全身から黒い霧が沸き立っている。目尻の吊り上った白濁の双眼ををぎらつかせ、腐臭を撒き散らす両端を吊り上げた口から蛇のように二股に分かれた舌が覗く。突き立てていた刀を抜くと高々と振り上げた。……こりゃあもうお終いだ。わたしの後はお千加さんと新吉さん、そして、お坊様かい…… おくみはこの期に及んでも亭主の留吉の顔は浮かばない。
覚悟を決めたおくみは目を閉じた。
「おくみさん! おくみさん!」
お千加の声がした。おくみは目を開けると、お千加が駈け寄って来る姿が見えた。抜けた腰が戻ったらしい。
「ダメだよ、お千加さん! 逃げなきゃあ!」おくみは叫ぶが、お千加は藤島の脇を抜けると、ぺたりとおくみの横に座り込んだ。お千加はおくみの手を取ると、涙を流しながらも笑顔を作っている。「お千加さん……」
「死ぬんなら、一緒が良いんです! あの世でも一緒にいて下さいな……」
「馬鹿だよ、お千加さん……」
お千加は藤島を見上げた。その表情には覚悟を決めた者の潔さがあった。
「さあ、お斬りなさいまし! あの世じゃ亭主の長次だって待っているんですから、怖かぁないですよ!」
藤島はじっとお千加を見つめている。おくみはお千加の手を強く握りながら、藤島を見上げている。
藤島は刀をさらに振り上げた。
と……
藤島は刀の刃を己の首筋に当てると、一気に引いた。
驚くほどの血が噴き出した。藤島はその場に倒れた。
「いやあああ! 藤島様あ!」
お千加は叫ぶと、倒れた藤島に寄り、血の噴き出している傷口を両手で押さえた。しかし、指の間から血は流れ続けている。藤島の顔色はすでに蒼ざめ、お千加の手に藤島が冷たくなっていくのが伝わる。
「おくみさん! おくみさん!」
お千加はおくみに叫ぶ。まだ腰の立たないおくみは這いながらお千加に近づく。そして、お千加の手の上から自分の手を重ねた。白濁の双眼に黒い瞳が戻っていた。しかし、まばたく事は無かった。
「おくみさん…… 藤島様…… わたしたちを守ろうと……」傷口を押さえながらお千加は泣く。「最後に……」
「ああ、そうだよ、立派なお侍様だよ。……藤島様は化け物に勝ったんだ」
おくみには、藤島の全身から黒い霧が立ち上り、それが一つの塊になって、祠の方へ飛び去るのが見えた。
「お坊様! お坊様!」
おくみは坊様に向かって必死に叫ぶ。坊様は気が付いたようで、ゆるゆると立ち上がった。幾度か頭を振ると、おくみの方を見た。事態を素早く察した坊様は祠を見た。黒い霧は祠の上で蠢いている。坊様は小さく念仏を唱えながら祠に走った。
坊様は祠の中の骸を睨み付けた。眼窩の鬼火が坊様を睨み返す。坊様は腕を伸ばすと骸の胸倉を掴んだ。引き摺り出そうとしているのだ。骸の眼窩の青い鬼火がいきり立つように揺らめいた。黒い霧が祠の隙間から降りてきて、胸倉を掴んだ坊様の腕に絡みつく。腕が焼けつくように熱くなった。坊様は苦痛に顔を歪めながらも胸倉から手を離さなかった。
「この大たわけが!」
坊様は一喝すると、骸を引きずり出した。そして、穢い物を投げ捨てるように地に叩きつけた。
陽の光をまともに浴びた骸から、獣ですら出さぬような雄叫びが上がった。坊様の腕に絡みつていた黒い霧は坊様から離れ、骸の上で断末魔のように揺れ動いている。坊様は念仏を唱え始めた。しばらくすると骸から煙が立ち上ってきた。骸が燃え始めた。黒い霧も燃え上がる炎に取り込まれ薄くなった。一瞬、激しく炎が上がるとすぐに消えた。あとには焦げ跡一つも残っていなかった。
「この大たわけめが!」
坊様は忌々しそうに吐き捨てた。
つづく
「ダメだよ! お千加さん! そんな魔物に斬られたら、あんたも魔物になっちまうよお!」おくみは叫ぶ。「あんたの前にいるのは、藤島様じゃないんだよ!」
「でも、でも……」お千加は顔を上げ、おくみを見た。両手は合わせたままだ。その顔は涙で濡れている。「わたしを斬ったら、藤島様が元に戻るかもしれないじゃないですか!」
「そんな馬鹿な事があるわけないだろう!」
「分かりませんよう!」
お千加はおくみから藤島へと顔を向けた。再び頭を垂れた。藤島は追い詰めた獲物を弄んでいるつもりか、刀を振り上げたまま、涎を啜る不快な音を立てている。
「お坊様! お坊様!」おくみは坊様へ声をかける。坊様はまだ倒れたままだ。「起きて下さいましよう! このままじゃ、お千加さんが! お千加さんが!」
坊様は動かない。おくみは涙を流した。自分の不甲斐なさへの悔し涙だった。
坊様の方へいざり寄ろうと、手を動かした。
手の平に何かが当たった。手を退けて見てみると、坊様の千切れた数珠が一粒、転がっていた。使い込まれていて黒光りしている。
おくみはそれを拾うと、藤島目がけて投げつけた。しかし、女の力では全く届かなかった。藤島よりかなり手前で珠は転がった。藤島は気配を察したのか、顔を珠の方に向けた。途端に、白濁の双眼を大きく見開いた。
「あっ!」
おくみは思わず声を上げた。転がった珠が金色に光り始めたのが見えたからだった。光はゆっくりと広がって行く。眩しくはない。温かくてほっとするような柔らかい輝きだった。
藤島にもその光が見えるのだろう。振り上げていた右手を下げ、珠をじっと見つめている。光に白濁の目を細める。そうしながら、低い唸り声を発している。……あの光はお浄めの光かも知れない。おくみは思った。
藤島がからだの向きを変え、ふらりと光の方へ一歩踏み出した。……光をもっと浴びたら、きっと藤島様は元に戻る! 藤島様の本心が憑かれたからだを動かしているんだ! おくみはさらに踏み出した藤島を見て思った。藤島の呻り声が続く。
手を合わせたまま、お千加は顔を上げた。藤島はお千加に背を向け、おくみに向かって歩いているように見えた。
「おくみさん!」お千加が慌てて声をかける。「お逃げよう!」
「大丈夫だよ、お千加さん!」おくみが答える。「もう少し、もう少しだから……」
藤島は珠の前で立ち止まった。片膝を付き、腰を屈めながら光を覗き込む。白濁の眼に、うっすらと黒い瞳が戻って来た。……もう少し、もう少し…… おくみは固唾を呑んで藤島を見つめている。
藤島は刀を地に突き立てると右腕を伸ばす。その指先が珠に触れた。すると、まるで熱いものに触れたように慌てて腕を引っ込めた。戻って来ていた黒い瞳が失せ、獣のような咆哮を上げた。立ち上がると忌々しそうに珠を蹴り飛ばした。金色の光を引きずりながら珠は雑木林の中に消え、幹に当たったのか、乾いた音を立てた。
「あああ……」
光を目で追っていたおくみは落胆の息を漏らした。頭を返して藤島を見上げる。全身から黒い霧が沸き立っている。目尻の吊り上った白濁の双眼ををぎらつかせ、腐臭を撒き散らす両端を吊り上げた口から蛇のように二股に分かれた舌が覗く。突き立てていた刀を抜くと高々と振り上げた。……こりゃあもうお終いだ。わたしの後はお千加さんと新吉さん、そして、お坊様かい…… おくみはこの期に及んでも亭主の留吉の顔は浮かばない。
覚悟を決めたおくみは目を閉じた。
「おくみさん! おくみさん!」
お千加の声がした。おくみは目を開けると、お千加が駈け寄って来る姿が見えた。抜けた腰が戻ったらしい。
「ダメだよ、お千加さん! 逃げなきゃあ!」おくみは叫ぶが、お千加は藤島の脇を抜けると、ぺたりとおくみの横に座り込んだ。お千加はおくみの手を取ると、涙を流しながらも笑顔を作っている。「お千加さん……」
「死ぬんなら、一緒が良いんです! あの世でも一緒にいて下さいな……」
「馬鹿だよ、お千加さん……」
お千加は藤島を見上げた。その表情には覚悟を決めた者の潔さがあった。
「さあ、お斬りなさいまし! あの世じゃ亭主の長次だって待っているんですから、怖かぁないですよ!」
藤島はじっとお千加を見つめている。おくみはお千加の手を強く握りながら、藤島を見上げている。
藤島は刀をさらに振り上げた。
と……
藤島は刀の刃を己の首筋に当てると、一気に引いた。
驚くほどの血が噴き出した。藤島はその場に倒れた。
「いやあああ! 藤島様あ!」
お千加は叫ぶと、倒れた藤島に寄り、血の噴き出している傷口を両手で押さえた。しかし、指の間から血は流れ続けている。藤島の顔色はすでに蒼ざめ、お千加の手に藤島が冷たくなっていくのが伝わる。
「おくみさん! おくみさん!」
お千加はおくみに叫ぶ。まだ腰の立たないおくみは這いながらお千加に近づく。そして、お千加の手の上から自分の手を重ねた。白濁の双眼に黒い瞳が戻っていた。しかし、まばたく事は無かった。
「おくみさん…… 藤島様…… わたしたちを守ろうと……」傷口を押さえながらお千加は泣く。「最後に……」
「ああ、そうだよ、立派なお侍様だよ。……藤島様は化け物に勝ったんだ」
おくみには、藤島の全身から黒い霧が立ち上り、それが一つの塊になって、祠の方へ飛び去るのが見えた。
「お坊様! お坊様!」
おくみは坊様に向かって必死に叫ぶ。坊様は気が付いたようで、ゆるゆると立ち上がった。幾度か頭を振ると、おくみの方を見た。事態を素早く察した坊様は祠を見た。黒い霧は祠の上で蠢いている。坊様は小さく念仏を唱えながら祠に走った。
坊様は祠の中の骸を睨み付けた。眼窩の鬼火が坊様を睨み返す。坊様は腕を伸ばすと骸の胸倉を掴んだ。引き摺り出そうとしているのだ。骸の眼窩の青い鬼火がいきり立つように揺らめいた。黒い霧が祠の隙間から降りてきて、胸倉を掴んだ坊様の腕に絡みつく。腕が焼けつくように熱くなった。坊様は苦痛に顔を歪めながらも胸倉から手を離さなかった。
「この大たわけが!」
坊様は一喝すると、骸を引きずり出した。そして、穢い物を投げ捨てるように地に叩きつけた。
陽の光をまともに浴びた骸から、獣ですら出さぬような雄叫びが上がった。坊様の腕に絡みつていた黒い霧は坊様から離れ、骸の上で断末魔のように揺れ動いている。坊様は念仏を唱え始めた。しばらくすると骸から煙が立ち上ってきた。骸が燃え始めた。黒い霧も燃え上がる炎に取り込まれ薄くなった。一瞬、激しく炎が上がるとすぐに消えた。あとには焦げ跡一つも残っていなかった。
「この大たわけめが!」
坊様は忌々しそうに吐き捨てた。
つづく
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