「お待たせしましたぁ……」やや太めのしのぶのおでこに汗が浮かび、息が切れている。しのぶなりに大急ぎだったのだろう。「井村先生…… 今、ちょっと、手が、放せないって…… 鍵を、借りて、来ましたぁ……」
「そうか」松原先生は、なぜかほっとしたように息をつく。「じゃあ、開けて入ってみよう」
さとみは慌てて霊体をからだに戻した。油切れのロボットのようにのろのろと動く。
「会長……」声にさとみが振り返ると、朱音がにやにやしている。「会長、今、霊と話をしていたんでしょ?」
「え? ……まあ、そう言ったところ、かな」
「わたし、会長が霊と話をする時って分かるんです。こんな感じでぽうっとなってますから」
朱音は霊体の抜け出したさとみの真似をして、口と目が半開きで、両腕をだらりと下げた格好をする。
「そんなにひどくないわよう!」
さとみは言うと、ぷっと頬を膨らませる。
「いいえ、これでもずいぶん優しくしています」朱音は笑う。「……それで、誰と何を話していたんですか?」
「まあ。色々と……」
まさか、女装の霊と口げんかしていたとは言えない。
「さあ、鍵を開けました!」
しのぶが言い、引き戸を開けた。皆は一斉に理科室に入った。
短い一辺側に洗い場の付いた天板の黒い長机が、二人が並んで通れるほどの間隔を置いて縦並びに三つ、それが、三人が並んで通れるほどの間隔を置いて三列並んでいる。それでもまだ教室内にはスペースがある。
「どうして、こんなにスペースを取っているか知っているかい?」松原先生が言って生徒たちを見る。「それはね……」
「知っています」しのぶが言う。「実験などで何かあった時に少しでも逃げられるためです。それと、椅子に背凭れが無いのも、薬品や火を使う事が多いので、すぐに立ち上がって、すぐに逃げられるようにするためです。天板が黒いのは、こぼれた薬品とか液体とかが見易いため。洗い場の水圧が強いのは器具を洗うためと、冷やしたりする実験の時に水圧が必要だからです。また、蛇口が細いのはゴム管とかホースが繋ぎやすいからです」
「……正解……」
松原先生はつまらなさそうに答える。朱音はしのぶを少し離れた所に引っ張った。
「……のぶ、あなたって本当に空気が読めないのね」朱音がしのぶに呆れた顔を向け、小声で言う。「こう言う時は、先生に花を持たせるものなのよ」
「え?」つられてしのぶも小声で答える。「意味が分かんないんだけど……」
「先生が自分のうんちくを語ろうってしているのに、それを遮っちゃダメじゃない」
「だって、松原先生、『知っているかい?』って言ったじゃない。だから、わたし、知っていますって言ったのよ」
「そうじゃなくって、そこは先生に話してもらうべきなのよ。先生は語る事で、わたしたちから『凄~い!』って言ってほしかったの!」
「じゃあ、『知っているかい?』なんて訊かなきゃ良いじゃない。わたしだって、知らなかったら知らないって答えるわ。知らない事なんてそれこそいっぱいあるんだから」
「そうだろうけどさ……」
「たまたま理科室の事を知っていただけよ」
「でもね、それでも知らんぷりして、先生に語ってもらうべきなのよ。先生がそれを望んでいたんだから」
「……そうなんだ、じゃあ、これからはそうするわ」
「そうよ、それが大人の対応よ」
こそこそ話で始まった二人の会話は何時しか普通の声になっていた。松原先生にもさとみにも丸聞こえだ。松原先生はばつの悪そうな顔をしている。
「さあさあ、内緒の相談はそれくらいにして……」さとみが二人に声を掛ける。「本筋の骸骨標本を確認しましょう」
さとみの言葉に、皆が黒板の方を見る。
等身大で真っ白な人体骨格のプラスチック製模型が、上部が直角に曲がった金属製の棒スタンドに提灯の様に床から浮いた形でぶら下がっていた。
「初めて見たけど、思っていたのよりも、ずっと作り物めいているなぁ……」松原先生ががっかりしたように言う。「震えたり言葉を発したりするって事だから、もっとリアルかと思ったよ」
「でも、先生、リアルだったら、みんな薄気味悪がっちゃいますよ」朱音が言う。「これでも十分、わたしの友達なんかは気味悪がっていますよ」
「これって、関節の部分が動くんです」しのぶは言うと、標本の右腕を持って肘の部分を曲げて見せた。肘はそのままの姿勢を保つ。「ね? でも、人が曲がらない方へは曲がらないんです」
「それは作った側の良心だな」松原先生が言う。「変な方に曲がるなんて、教育的でもないし」
「ですけど、これが震えたり喋ったりって言う方が不気味ですよね……」朱音が言いながら、標本を見つめる。「見ていたら、分かるんでしょうか?」
「井村先生は何回か遭遇したって言っていたわ」しのぶが言う。「それらの日はばらばらだから、統計が出せないのよね」
「じゃあ、偶然頼みって事か……」朱音がつぶやいて、さとみに振り返る。「会長、どうします? ……あれ?」
さとみがぽうっとした顔をして立っている。
「のぶ!」朱音がしのぶの肩を何度も叩く。「これよ! これが会長の幽体離脱よ! 今、霊とお話し中なのよ!」
「え?」しのぶは骸骨標本からさとみに顔を向けた。途端に目を輝かせる。「わあっ! これ? これなのね!」
「ええ、そうよ、そうなのよ!」
朱音が嬉しそうに答える。二人は手を取り合ってきゃいきゃいと飛び跳ね始めた。松原先生は興味深そうにさとみの周りを回る。さとみの目の前で手を振って見せるが全くの無反応だった。
「ほう……」
松原先生は感心したようにつぶやく。
この時、さとみは竜二と虎之助と話をしていたのだ。
つづく
「そうか」松原先生は、なぜかほっとしたように息をつく。「じゃあ、開けて入ってみよう」
さとみは慌てて霊体をからだに戻した。油切れのロボットのようにのろのろと動く。
「会長……」声にさとみが振り返ると、朱音がにやにやしている。「会長、今、霊と話をしていたんでしょ?」
「え? ……まあ、そう言ったところ、かな」
「わたし、会長が霊と話をする時って分かるんです。こんな感じでぽうっとなってますから」
朱音は霊体の抜け出したさとみの真似をして、口と目が半開きで、両腕をだらりと下げた格好をする。
「そんなにひどくないわよう!」
さとみは言うと、ぷっと頬を膨らませる。
「いいえ、これでもずいぶん優しくしています」朱音は笑う。「……それで、誰と何を話していたんですか?」
「まあ。色々と……」
まさか、女装の霊と口げんかしていたとは言えない。
「さあ、鍵を開けました!」
しのぶが言い、引き戸を開けた。皆は一斉に理科室に入った。
短い一辺側に洗い場の付いた天板の黒い長机が、二人が並んで通れるほどの間隔を置いて縦並びに三つ、それが、三人が並んで通れるほどの間隔を置いて三列並んでいる。それでもまだ教室内にはスペースがある。
「どうして、こんなにスペースを取っているか知っているかい?」松原先生が言って生徒たちを見る。「それはね……」
「知っています」しのぶが言う。「実験などで何かあった時に少しでも逃げられるためです。それと、椅子に背凭れが無いのも、薬品や火を使う事が多いので、すぐに立ち上がって、すぐに逃げられるようにするためです。天板が黒いのは、こぼれた薬品とか液体とかが見易いため。洗い場の水圧が強いのは器具を洗うためと、冷やしたりする実験の時に水圧が必要だからです。また、蛇口が細いのはゴム管とかホースが繋ぎやすいからです」
「……正解……」
松原先生はつまらなさそうに答える。朱音はしのぶを少し離れた所に引っ張った。
「……のぶ、あなたって本当に空気が読めないのね」朱音がしのぶに呆れた顔を向け、小声で言う。「こう言う時は、先生に花を持たせるものなのよ」
「え?」つられてしのぶも小声で答える。「意味が分かんないんだけど……」
「先生が自分のうんちくを語ろうってしているのに、それを遮っちゃダメじゃない」
「だって、松原先生、『知っているかい?』って言ったじゃない。だから、わたし、知っていますって言ったのよ」
「そうじゃなくって、そこは先生に話してもらうべきなのよ。先生は語る事で、わたしたちから『凄~い!』って言ってほしかったの!」
「じゃあ、『知っているかい?』なんて訊かなきゃ良いじゃない。わたしだって、知らなかったら知らないって答えるわ。知らない事なんてそれこそいっぱいあるんだから」
「そうだろうけどさ……」
「たまたま理科室の事を知っていただけよ」
「でもね、それでも知らんぷりして、先生に語ってもらうべきなのよ。先生がそれを望んでいたんだから」
「……そうなんだ、じゃあ、これからはそうするわ」
「そうよ、それが大人の対応よ」
こそこそ話で始まった二人の会話は何時しか普通の声になっていた。松原先生にもさとみにも丸聞こえだ。松原先生はばつの悪そうな顔をしている。
「さあさあ、内緒の相談はそれくらいにして……」さとみが二人に声を掛ける。「本筋の骸骨標本を確認しましょう」
さとみの言葉に、皆が黒板の方を見る。
等身大で真っ白な人体骨格のプラスチック製模型が、上部が直角に曲がった金属製の棒スタンドに提灯の様に床から浮いた形でぶら下がっていた。
「初めて見たけど、思っていたのよりも、ずっと作り物めいているなぁ……」松原先生ががっかりしたように言う。「震えたり言葉を発したりするって事だから、もっとリアルかと思ったよ」
「でも、先生、リアルだったら、みんな薄気味悪がっちゃいますよ」朱音が言う。「これでも十分、わたしの友達なんかは気味悪がっていますよ」
「これって、関節の部分が動くんです」しのぶは言うと、標本の右腕を持って肘の部分を曲げて見せた。肘はそのままの姿勢を保つ。「ね? でも、人が曲がらない方へは曲がらないんです」
「それは作った側の良心だな」松原先生が言う。「変な方に曲がるなんて、教育的でもないし」
「ですけど、これが震えたり喋ったりって言う方が不気味ですよね……」朱音が言いながら、標本を見つめる。「見ていたら、分かるんでしょうか?」
「井村先生は何回か遭遇したって言っていたわ」しのぶが言う。「それらの日はばらばらだから、統計が出せないのよね」
「じゃあ、偶然頼みって事か……」朱音がつぶやいて、さとみに振り返る。「会長、どうします? ……あれ?」
さとみがぽうっとした顔をして立っている。
「のぶ!」朱音がしのぶの肩を何度も叩く。「これよ! これが会長の幽体離脱よ! 今、霊とお話し中なのよ!」
「え?」しのぶは骸骨標本からさとみに顔を向けた。途端に目を輝かせる。「わあっ! これ? これなのね!」
「ええ、そうよ、そうなのよ!」
朱音が嬉しそうに答える。二人は手を取り合ってきゃいきゃいと飛び跳ね始めた。松原先生は興味深そうにさとみの周りを回る。さとみの目の前で手を振って見せるが全くの無反応だった。
「ほう……」
松原先生は感心したようにつぶやく。
この時、さとみは竜二と虎之助と話をしていたのだ。
つづく
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