5月31日(火)横須賀沖に浮かぶ小さな無人島猿島めぐりを実施。11名が参加しました。
心配された雨でしたが、午前中には止み、間近にウグイスの透き通った鳴き声を聞きながら探索、楽しく一日を過ごすことができました。
猿島について、(文献より)猿島は東京湾ののど元に位置するため、海の守りの要として、幕末・明治初期・昭和と3度に渡り砲台が築かれました。黒船がたびたび姿を見せはじめた幕末の頃、江戸幕府は海上防備のため、全国初のお台場と呼ばれる砲台を、猿島に3ヶ所建設し、黒船に対する守りを固めました。以来、猿島は「要塞の島」としての歴史を歩み始めました。明治時代中期、明治政府は東京湾の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました。砲台には敵国の戦艦を迎え撃てるよう、フランスから輸入したカノン砲が配備されましたが、実戦で使われることはありませんでした。その後、第二次世界大戦の激化とともに戦雲が本土へと迫り、再び防衛施設として重視されることになります。昭和16年頃より鉄筋コンクリート制の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。高射砲は終戦とともに進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。猿島に現存する砲台跡は、この時期のものです。島の面積は約55,500平方メートル(横浜スタジアムグラウンド約4個分)。南北450m、東西200mの距離。周囲は約1.7km。
今回は猿島に詳しい専門ガイドに案内してもらうことに。
猿島の入口三笠桟橋に到着、既にガイドさんは来ていて早速猿島めぐりの全体について説明を受ける。
後方に見えるのは戦艦三笠。三笠は、明治35年(1902)にイギリスで建造された戦艦で、日露戦争では東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊の旗艦として大活躍した現存する世界最古の鋼鉄戦艦であり、日本遺産の構成文化財に認定されている。
三笠の前には東郷平八郎元帥の像が立っている。
出航しました、一路猿島へ約10分の船旅です。正面に戦艦三笠が見えます。
船上のデッキの様子。
こちらのグループは船内で束の間の一休み。
間もなく到着、前方に桟橋が見えます。
猿島桟橋、乗船してきたフェリーが停泊しています。
先ずはポートデッキで腹ごしらえ。
さあこれから2時間の猿島めぐり出発。
先ず最初は「猿島発電所」。猿島には電気がありません。そのため、船で燃料を運び、発電機を使用して発電しています。もともとは蒸気機関による発電所として利用されていた建物で、明治26(1893)年から明治28(1895)年に建てられたものが、現在でも猿島発電所として利用されています。
発電所につて、ガイドから説明を聞く。
ハンドホール。これは発電所に付属する手穴(ハンドホール)と呼ばれる立派な軍事史跡です。ハンドホールとは聞きなれない名称ですが、電気関係の設備には現在でも使われるポピュラーな名称の装置で、地中に埋設されたケーブルを中継するところです。猿島の場合、ケーブルは地中に埋めるか土手や石垣に這わせて配線されました。
弾痕。発電所わきの坂を上って行くと正面石垣に不規則な傷跡が見えてきます。
昭和20年(1945年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗れ終戦となり、8月30日には連合軍の英兵60名前後が接収のため猿島に上陸してきました。石垣の傷跡は、英兵が日本兵の潜伏を恐れて小銃で威嚇射撃した痕、と云われています。
切通し。切通し(きりどおし)とは、山や丘などを切り開いて通した道のこと。島内の中心部分を南北へ貫くように造られている軍事要塞の跡地「要塞の切通し」
艦船など外部から見えないように設計されているため、高いところでは9mの壁となっている。切通しの壁面はプラフ積みという石積み。右側の壁の上には砲台4門築かれていた。
この石垣の石材は東京湾対岸の鋸山で切り出された房州石。日本の城の石垣に見られるようなわずかな曲線が美しさを一層際立たせています。切通しに沿って、右側には弾薬庫や兵舎が並んでいる。
弾薬庫入口
弾薬庫を見ずして猿島に行ったと言うなかれ、要塞猿島を象徴する明治の軍事史跡。
この地下壕は正確には砲側弾薬庫と呼ばれ、壕の上方に据えられていた加農砲と呼ばれる巨大な大砲の弾丸を一時保管する部屋でした。貴重な史蹟ですので普段は施錠されており、専門ガイド同行の時だけ入れる。ここに沢山の弾薬が保管されていたのです。明治の弾薬庫がこのようにきれいな状態で残っているのは大変貴重です。
弾薬庫の内部、写真左側の出入口の中にある井戸のような穴から真上にある台場まで、150kgの大砲の弾を、滑車を使って持ち上げていた。
弾を台場に持ち上げるための井戸のような穴。
弾薬庫案内版
切通しの当時の道
兵舎とそこから頭上の大砲へ上り下りする石段です。冬暖かく夏涼しい地下壕です。
普段は史蹟保護のため施錠されていますが、専門ガイドはカギを預かっている。内部は間口5.2m、奥行き14.5m、天井の高さ4.2mで、ゆったり目のワンルームマンションといったところ。
明治17年(1884年)に作られた当時のままで、ここで兵士たち17、18人から20人くらいが寝起きしていた。この地下壕は、総レンガ作りで上から漆喰(しっくい)が厚く塗られています。漆喰は明るさの確保と湿度のコントローのためです。特徴的なのは天井で、半円形のボールト構造ロマネスク様式とよばれるものです。
兵舎内部
トイレ跡
兵舎の反対側の壁に、要塞が作られたときに設けられたトイレ跡。
切通しを過ぎると長いトンネルがある。長さ88m、レンガ造りとしては全国的にも数カ所しか現存していないフランス式のレンガ造りが取り入れられている。
トンネルの中。トンネルの中は暗いため、アベックが手を繋ぎたくなることから愛称「愛のトンネル」。
トンネル内部の左側壁には地下室が付属していて、要塞猿島の地下本部とでも言えるものだった。
構造は2階建てになっていて合計12室、司令室や医務室、弾薬元庫などがあった。
トンネルの中から司令室に通じる入口。
長いトンネルを出ると、右と真っ直ぐに行く三叉路に出る。この写真は右に曲がったところ。前方のトンネルは頂上の広場に通じる迂回路。周囲を高い土手や石垣に囲まれ、ちょっと違った雰囲気が味わえる。右側の壁の中には左側の壁の上にある第一砲台の関連施設があった。ここは切通しと並んでコスプレ撮影の人気スポットだと云う。
第一砲台の案内版
レンガには文字が刻まれている、このレンガには名古屋の文字が、名古屋の刑務所で造られたものだと云う。
この砲座跡は島の北端・亥の崎に残る対航空機用の8cm高角砲のもの。
本土防衛のため、敵艦船の東京湾侵入を防ぐための東京湾要塞であったところ、昭和に入ってからは対艦船から対航空機に移り、昭和11年から島全体で8㎝高角砲4門が設置された。
探索していると珍しい蝶がヒラヒラと飛んできた。首都圏では猿島以外ではあまり見かけないと云う。
鮮やかな浅葱色(アサギ色)模様を持つことからアサギマダラと呼ばれている。
猿島にはこの他にも珍しい生物をたくさん見かけられると云う。
「卯の埼広場」島屈指の絶景ポイント。
卯の埼とは、島の東の方角にあたるのでこのように呼ばれ、ここは江戸時代、幕府が川越藩松平氏に防備を任せた卯の崎台場(砲台)。
右手の突き出た半島の高台には防衛大学が、今日は見えませんでしたが、天気がいいと前方に房総半島がはっきり見えるようです。左に視線を移せば、アクアラインやスカイツリーが見えるとか。
ガイドから猿島の由来について紙芝居で説明を受ける。
卯の埼台の近くに、日蓮上人がたどり着いたという洞窟も残されています。「かつて日蓮上人が、房総半島から船で出航した際、嵐で漂流していたところ、白いサルに導かれこの島にたどり着いたという伝説から、猿島と呼ばれるようになったそうです」
ここから引き返して猿島の頂上に向かう。
頂上の監視塔防空指揮所
海面から40m、島の頂上の展望広場にあるこのコンクリートの建物は昭和の海軍の防空指揮所。
TV番組「仮面ライダー」初代のライダーは藤岡弘さんですが、その時代の撮影地として猿島は長く使われ、その時の悪役ショッカーの基地が上記のコンクリートの建物だったのです。
仮面ライダーばかりでなく、故松田優作さんのアクション映画の撮影などにも使われていました。
頂上の展望広場から横須賀方面を望む、右側の建物群は米海軍の横須賀基地。
卯ノ崎台場跡から折り返し、猿島一番の難所108段の階段を昇っていくと、島のほぼ中央に位置する標高約40mの展望台広場に到着、対岸の展望が開けます。この広場は、切通しにあった弾薬庫の真上に当たります。前方右側に見える白いビル群はマンションではなく、ハワイに司令部を置く米海軍第7艦隊の横須賀基地(U.S. Fleet Activities Yokosuka)です。向かって右手向こう側に軍港があります。この基地には約2万人の米軍人やその家族や関係者が居住しています。面積は猿島のなんと42倍。ファーストフードの店やコンビニ、学校、劇場、運動場などもそろっていて、基地内で市民生活に不自由はないそうです。かって、日本海軍の海軍工廠として使われ、東日本の拠点として鎮守府が置かれるなど日本海軍の最大かつ最重要な拠点でした。第二次大戦後はアメリカ軍が接収、日米安保条約によってアメリカがそのまま使用している、というわけです。世界最強を誇る巨大な米空母ロナルド・レーガンの母港でもあります。
横須賀方面を望む案内版
これで概ね一巡りし出発地点に返る。
猿島案内図
猿島要塞配置図
ポートデッキにて、後方は横須賀市内。
予定ではこの後戦艦三笠を見学することにしていましたが、猿島探索に堪能し又の機会に譲ることにして帰途につきました。
最後までご覧いただき有難うございました。
投稿者:やまちゃん
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心配された雨でしたが、午前中には止み、間近にウグイスの透き通った鳴き声を聞きながら探索、楽しく一日を過ごすことができました。
猿島について、(文献より)猿島は東京湾ののど元に位置するため、海の守りの要として、幕末・明治初期・昭和と3度に渡り砲台が築かれました。黒船がたびたび姿を見せはじめた幕末の頃、江戸幕府は海上防備のため、全国初のお台場と呼ばれる砲台を、猿島に3ヶ所建設し、黒船に対する守りを固めました。以来、猿島は「要塞の島」としての歴史を歩み始めました。明治時代中期、明治政府は東京湾の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました。砲台には敵国の戦艦を迎え撃てるよう、フランスから輸入したカノン砲が配備されましたが、実戦で使われることはありませんでした。その後、第二次世界大戦の激化とともに戦雲が本土へと迫り、再び防衛施設として重視されることになります。昭和16年頃より鉄筋コンクリート制の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。高射砲は終戦とともに進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。猿島に現存する砲台跡は、この時期のものです。島の面積は約55,500平方メートル(横浜スタジアムグラウンド約4個分)。南北450m、東西200mの距離。周囲は約1.7km。
今回は猿島に詳しい専門ガイドに案内してもらうことに。
猿島の入口三笠桟橋に到着、既にガイドさんは来ていて早速猿島めぐりの全体について説明を受ける。
後方に見えるのは戦艦三笠。三笠は、明治35年(1902)にイギリスで建造された戦艦で、日露戦争では東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊の旗艦として大活躍した現存する世界最古の鋼鉄戦艦であり、日本遺産の構成文化財に認定されている。
三笠の前には東郷平八郎元帥の像が立っている。
出航しました、一路猿島へ約10分の船旅です。正面に戦艦三笠が見えます。
船上のデッキの様子。
こちらのグループは船内で束の間の一休み。
間もなく到着、前方に桟橋が見えます。
猿島桟橋、乗船してきたフェリーが停泊しています。
先ずはポートデッキで腹ごしらえ。
さあこれから2時間の猿島めぐり出発。
先ず最初は「猿島発電所」。猿島には電気がありません。そのため、船で燃料を運び、発電機を使用して発電しています。もともとは蒸気機関による発電所として利用されていた建物で、明治26(1893)年から明治28(1895)年に建てられたものが、現在でも猿島発電所として利用されています。
発電所につて、ガイドから説明を聞く。
ハンドホール。これは発電所に付属する手穴(ハンドホール)と呼ばれる立派な軍事史跡です。ハンドホールとは聞きなれない名称ですが、電気関係の設備には現在でも使われるポピュラーな名称の装置で、地中に埋設されたケーブルを中継するところです。猿島の場合、ケーブルは地中に埋めるか土手や石垣に這わせて配線されました。
弾痕。発電所わきの坂を上って行くと正面石垣に不規則な傷跡が見えてきます。
昭和20年(1945年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗れ終戦となり、8月30日には連合軍の英兵60名前後が接収のため猿島に上陸してきました。石垣の傷跡は、英兵が日本兵の潜伏を恐れて小銃で威嚇射撃した痕、と云われています。
切通し。切通し(きりどおし)とは、山や丘などを切り開いて通した道のこと。島内の中心部分を南北へ貫くように造られている軍事要塞の跡地「要塞の切通し」
艦船など外部から見えないように設計されているため、高いところでは9mの壁となっている。切通しの壁面はプラフ積みという石積み。右側の壁の上には砲台4門築かれていた。
この石垣の石材は東京湾対岸の鋸山で切り出された房州石。日本の城の石垣に見られるようなわずかな曲線が美しさを一層際立たせています。切通しに沿って、右側には弾薬庫や兵舎が並んでいる。
弾薬庫入口
弾薬庫を見ずして猿島に行ったと言うなかれ、要塞猿島を象徴する明治の軍事史跡。
この地下壕は正確には砲側弾薬庫と呼ばれ、壕の上方に据えられていた加農砲と呼ばれる巨大な大砲の弾丸を一時保管する部屋でした。貴重な史蹟ですので普段は施錠されており、専門ガイド同行の時だけ入れる。ここに沢山の弾薬が保管されていたのです。明治の弾薬庫がこのようにきれいな状態で残っているのは大変貴重です。
弾薬庫の内部、写真左側の出入口の中にある井戸のような穴から真上にある台場まで、150kgの大砲の弾を、滑車を使って持ち上げていた。
弾を台場に持ち上げるための井戸のような穴。
弾薬庫案内版
切通しの当時の道
兵舎とそこから頭上の大砲へ上り下りする石段です。冬暖かく夏涼しい地下壕です。
普段は史蹟保護のため施錠されていますが、専門ガイドはカギを預かっている。内部は間口5.2m、奥行き14.5m、天井の高さ4.2mで、ゆったり目のワンルームマンションといったところ。
明治17年(1884年)に作られた当時のままで、ここで兵士たち17、18人から20人くらいが寝起きしていた。この地下壕は、総レンガ作りで上から漆喰(しっくい)が厚く塗られています。漆喰は明るさの確保と湿度のコントローのためです。特徴的なのは天井で、半円形のボールト構造ロマネスク様式とよばれるものです。
兵舎内部
トイレ跡
兵舎の反対側の壁に、要塞が作られたときに設けられたトイレ跡。
切通しを過ぎると長いトンネルがある。長さ88m、レンガ造りとしては全国的にも数カ所しか現存していないフランス式のレンガ造りが取り入れられている。
トンネルの中。トンネルの中は暗いため、アベックが手を繋ぎたくなることから愛称「愛のトンネル」。
トンネル内部の左側壁には地下室が付属していて、要塞猿島の地下本部とでも言えるものだった。
構造は2階建てになっていて合計12室、司令室や医務室、弾薬元庫などがあった。
トンネルの中から司令室に通じる入口。
長いトンネルを出ると、右と真っ直ぐに行く三叉路に出る。この写真は右に曲がったところ。前方のトンネルは頂上の広場に通じる迂回路。周囲を高い土手や石垣に囲まれ、ちょっと違った雰囲気が味わえる。右側の壁の中には左側の壁の上にある第一砲台の関連施設があった。ここは切通しと並んでコスプレ撮影の人気スポットだと云う。
第一砲台の案内版
レンガには文字が刻まれている、このレンガには名古屋の文字が、名古屋の刑務所で造られたものだと云う。
この砲座跡は島の北端・亥の崎に残る対航空機用の8cm高角砲のもの。
本土防衛のため、敵艦船の東京湾侵入を防ぐための東京湾要塞であったところ、昭和に入ってからは対艦船から対航空機に移り、昭和11年から島全体で8㎝高角砲4門が設置された。
探索していると珍しい蝶がヒラヒラと飛んできた。首都圏では猿島以外ではあまり見かけないと云う。
鮮やかな浅葱色(アサギ色)模様を持つことからアサギマダラと呼ばれている。
猿島にはこの他にも珍しい生物をたくさん見かけられると云う。
「卯の埼広場」島屈指の絶景ポイント。
卯の埼とは、島の東の方角にあたるのでこのように呼ばれ、ここは江戸時代、幕府が川越藩松平氏に防備を任せた卯の崎台場(砲台)。
右手の突き出た半島の高台には防衛大学が、今日は見えませんでしたが、天気がいいと前方に房総半島がはっきり見えるようです。左に視線を移せば、アクアラインやスカイツリーが見えるとか。
ガイドから猿島の由来について紙芝居で説明を受ける。
卯の埼台の近くに、日蓮上人がたどり着いたという洞窟も残されています。「かつて日蓮上人が、房総半島から船で出航した際、嵐で漂流していたところ、白いサルに導かれこの島にたどり着いたという伝説から、猿島と呼ばれるようになったそうです」
ここから引き返して猿島の頂上に向かう。
頂上の監視塔防空指揮所
海面から40m、島の頂上の展望広場にあるこのコンクリートの建物は昭和の海軍の防空指揮所。
TV番組「仮面ライダー」初代のライダーは藤岡弘さんですが、その時代の撮影地として猿島は長く使われ、その時の悪役ショッカーの基地が上記のコンクリートの建物だったのです。
仮面ライダーばかりでなく、故松田優作さんのアクション映画の撮影などにも使われていました。
頂上の展望広場から横須賀方面を望む、右側の建物群は米海軍の横須賀基地。
卯ノ崎台場跡から折り返し、猿島一番の難所108段の階段を昇っていくと、島のほぼ中央に位置する標高約40mの展望台広場に到着、対岸の展望が開けます。この広場は、切通しにあった弾薬庫の真上に当たります。前方右側に見える白いビル群はマンションではなく、ハワイに司令部を置く米海軍第7艦隊の横須賀基地(U.S. Fleet Activities Yokosuka)です。向かって右手向こう側に軍港があります。この基地には約2万人の米軍人やその家族や関係者が居住しています。面積は猿島のなんと42倍。ファーストフードの店やコンビニ、学校、劇場、運動場などもそろっていて、基地内で市民生活に不自由はないそうです。かって、日本海軍の海軍工廠として使われ、東日本の拠点として鎮守府が置かれるなど日本海軍の最大かつ最重要な拠点でした。第二次大戦後はアメリカ軍が接収、日米安保条約によってアメリカがそのまま使用している、というわけです。世界最強を誇る巨大な米空母ロナルド・レーガンの母港でもあります。
横須賀方面を望む案内版
これで概ね一巡りし出発地点に返る。
猿島案内図
猿島要塞配置図
ポートデッキにて、後方は横須賀市内。
予定ではこの後戦艦三笠を見学することにしていましたが、猿島探索に堪能し又の機会に譲ることにして帰途につきました。
最後までご覧いただき有難うございました。
投稿者:やまちゃん
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