新宿歌舞伎町での裏稼業を引退し、まっとうに生きようと思った。もう俺も三十四歳である。いつまでも馬鹿な事をしていられない。真面目に働いてみよう。履歴書を重数年ぶりに書き、色々な求人を見た。ちゃんと働きながら、今まで通り小説を書き、いずれ賞を獲って世に出てやる。これが私の生きる道じゃないだろうか。そう思い、信念を持って臨んだ。
結果、何度も面接を受けに行き、すべて落ちる。履歴書に『歌舞伎町で十年間生きる』と正直に書いたのがいけなかったのだろうか。
自己のパソコンのスキルを活かし、どうしてもIT系の仕事を、そしてデザインの仕事がしたかった。最初に行った会社は、JR新宿駅東口にある歌舞伎町とは逆にある西口のビル郡の中。堂々と自分の経歴を面接官に話した。
過去プロレスに携わっていた事。
新宿歌舞伎町で十年以上働いていた事。裏稼業もひと通り経験している事。
総合格闘技にも出た事。
ピアノを三十歳から始め、市民会館で発表会をした事。
小説を書いている事。
絵を描いている事。
「一週間後に採用不採用どちらでも、こちらからおって連絡をいたします」
「分かりました。では他の会社の面接は一切受けず、一週間お待ちします」
社交辞令という言葉が、俺はは嫌いだ。形だけ言っておけばそれでいい。そういう事はしたくなかったので、本当に一週間待つ事にする。
一週間が経ち、十日が過ぎた。その会社からは何の連絡一つない。俺から電話してみるか。そう思い、会社へ電話を掛けた。
「お忙しいところ申し訳ございません。神威と申しますが、面接官の田中さん、いらっしゃいますでしょうか?」
「田中は今席を外していますので、連絡先を教えていただけますでしょうか」
俺は携帯電話の番号を伝え、折り返し連絡が来るのを待った。しかしこの日、まったく連絡はなかった。翌朝九時になるのを待ち、連絡をする俺。ようやく面接官が捕まった。
「すみません。一週間でと言われましたが、未だ連絡ないのでどうなっているのか確認で電話しました」
「あのですね、人事のほうで今決めている最中ですので、あと二、三日で決まります。そしたら連絡をしますので」
「あと二、三日待てばいい訳ですね?」
電話を切り、おとなしく連絡を待った。しかし三日経っても連絡はない。随分といい加減な会社だな……。
俺は怒りを覚え、翌日その会社へ向かった。受付で「面接官の田中さん、いらっしゃいますか?」と冷静に聞き、入口で待つ。少ししてとぼけた表情の面接官がやってきた。俺の顔を見ても悪びれる様子さえない。
「おい、コラッ!」
いきなり面接官の胸倉を掴み、持ち上げたまま壁に叩きつけた。
「おまえにとって一週間、二、三日の定義って何だ? 答えてみろ」
「い、いや、あのですね……」
「おまえが面接したんだろうが? 何でそんないい加減なんだよ。いいか? こうやって面接に来る人間、俺だけじゃない。そのすべてが人生の分岐点なんだよ。分かるか? 自分の言った言葉に、何故責任を持てないんだ。何か言ってみろ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「おい、謝るって繰り返して言うのが誠心誠意の謝り方なのか? ここの会社はそうやって謝れって教えているのか?」
すると面接官はいきなり自分の会社の入口で土下座をしだした。あまりにも阿呆らしく、「こんな行為をした以上、俺も採用結果がどうであれ、来るつもりはない」と言い捨てて、会社をあとにした。奥では五十人ぐらいの社員がいるのに、誰一人こちらへ駆けつけようとする者がいない。同じ会社で働く仲間が、入口で土下座しているのに何て冷たい奴らだろうか。こんな会社が一部上場とは笑ってしまう。社会的信用さえあれば、それでいいのか。世の中おかしくなる訳だ。
また一から就職活動のやり直しが始まる……。
電車に乗って帰っている時の事だった。
一匹の蜂が電車の通路を弱々しく歩いているのに気づく。まだ昼間だったので乗客も少ない。あまりにもゆっくりとした速度なので、いつ人に踏み潰されてしまうだろうと心配だった。
小学時代を思い出す。林間学校へ行った時だった。
三組だった俺は帰り道をゼイゼイ言いながら山道を下っている。先で前のクラスである二組の生徒たちが大騒ぎしていた。俺たちが先へ進むと、寂れたバンガローの屋根の下に、小スズメ蜂の巣が見える。巣の周りを無数の蜂がブンブン音を立てて飛んでいた。
まだこの時、蜂がどんなに怖いものかを知らなかった俺は、手に持ったジャージの上着で、蜂の巣を思い切り叩いてみた。その瞬間ただ飛び回っていた蜂は、一斉に生徒たちに向かって攻撃をしてくる。当然俺の耳元にも蜂は襲い掛かってきた。本能的に手の平で耳をガードし、耳元に何かが触れると手でそれを握り潰す。そんな状況の中、右耳に熱い痛みを覚えた。蜂に刺されたのだ。
林間学校の帰り道で起こった大惨事。二組分のクラスの生徒の内、三分の二以上が蜂に刺され大泣きしていた。これ以来、どうも蜂に苦手意識がある。
車内の蜂は、何故か俺の方向へ向かって歩いているように思えた。じわりじわり近づいてくる。薄気味悪さを覚えたが、足で踏み潰す訳にもいかない。地面に置いてあるカバンで、潰さぬようそっと向こうへ押し返した。
電車が駅に止まり、数名の人がなだれ込んでくる。自分で蜂を向こうに追いやっておきながら、踏み潰されないか気掛かりだった。運のいい事に蜂は弱々しくも座席の根元の部分を這うように動いている。
「……!」
その時、隣の席へ強引に座った男が、何も気づかず強引に踏み潰してしまった。体全身を潰された蜂は、左後方の足をピクピク動かしていたが、やがて動きが止まる。蜂を踏んだ男はウォークマンのイヤホンを耳に当て、大きな音量で聞いていた。
その姿を見て無性に腹が立ったが、どう注意していいか分からない。足を組み、潰された蜂が見えないようにするのが精一杯だった。
「おい、汚ねえから足どけろ!」
いきなり隣の男の声が聞こえる。ゆっくり横を見る。
「汚ねえから足をどけろよ」
この男は俺に向かって言っていたのだ。自分も足を組み、しかも足の底を俺のほうへ向けているのに……。
とりあえず足を普通に直し、下をうつむいて我慢した。隣の男は、相変わらずうるさい音響で音楽を聞いている。周囲の迷惑も考えず、何を偉そうにしているのだろう。強く言えば、みんなビビると思っているのか? ずっとこうやって生きて来たんだな。そろそろ我慢の限界だった。もういいか……。
俺は不意に男の顔面へ裏拳をお見舞いした。もちろん加減はしたが、なかなかいい手応えを感じる。男は吹き出す鼻血を両手で押さえ、突っ伏すように下を向く。異様な光景に車内の乗客のほとんどがこちらを注目していた。
「邪魔だから次の駅で降りろ」
周りに聞こえないように小声で言った。男は鼻を押さえたまま、駅に着くと一目散に走って消えていく。この程度で逃げるなら、はなっから粋がらなければいいものを……。
俺は潰され絶命した蜂をしばらく眺めていた。
世間は俺にとって非常に冷たい世界だと感じた。十件ぐらい面接に落ち、また歌舞伎町の裏稼業へ戻ろうかなとも思ったぐらいだ。
川越のハローワークにも通い、先輩の指導で履歴書や職務経歴書も手直しする。歌舞伎町で働いた十年間をまともに出して、採用する会社などある訳がないのだ。
『コミュニケーション能力のある方。文章書くのが好きな方。フォトショップを扱える方』
そんな会社をハローワークで見つけ、早速面接へ行ってみる。話すのが大好きで、小説も書き、その扉絵などはすべてフォトショップでデザインしていた俺。しかも会社は歌舞伎町にあり、職安通り沿いだという。これは俺の為にあるような会社じゃないかとさえ感じた。給料は十七万と殺人的な安さではあるが、能力さえ認められれば何とかなる。自分の人生だ。運命的なものを感じ、面接を楽しみにしていた。
自分で執筆した小説をプリントアウトし、本という形へまとめた。社長は俺の小説を手に取りパラパラとめくっている。一時間ほど話し、即採用にしてくれた。
部屋にある本棚にはたくさんのムック本が置いてある。社長は、「これ、すべてうちで編集して出したものですよ」と言った。よくコンビニなどで見掛けるムック本。中には『裏稼業の実態』に迫った本などもある。自分の経験を即活かせる事ができそうだ。これはやり甲斐のある仕事かもしれないと感じた。自分の小説を世に出したかった俺にとって、この会社で頑張る事が一番の近道かも……。
社長は近所の焼肉屋へ連れていってくれ、「給料が十七万と言いましたが、うちにいる従業員で十七万の給料をもらっている人間は誰もいません」とも言ってくれた。もちろん俺は飛び上がって喜んだ。金うんぬんでなく、こんな俺を必要としてくれる。それが素直に嬉しかったのだ。
今までウインドウズしか使った事がない俺。会社のパソコンは皮肉な事にすべてマッキントッシュだった。やり辛いが覚えるしかない。ウインドウズでいうコントロールキーが、マックだとコマンドキーになる。それが分かると、さほど不便さは感じなかった。
「神威さん、小説書かれているんですよね? 文章書くの得意ですか?」
「まあそれなりには問題ありませんよ」
「じゃあメガネっ子に何故みんな萌えるのかをこのスペースで書いて下さい」
「はあ? 何ですか、そのメガネっ子とか、萌えるって?」
「その辺は自分でネットを使い、調べて下さい。自由に好きに書いていいですから」
俺が行った会社は、オタクのアニメやエロゲーム専用の編集会社だったのだ。よく『萌える』とか『萌え』という言葉を聞くが、いくら知り合いから説明されても、いまいち分からない。自分自身がアニメやエロゲームに興味を感じないのだから、『萌え』など分かるはずがないのだ。それでもこれは仕事と割り切る必要がある。すべて自分の都合のいいような仕事ができる訳じゃない。
オタクの気持ちなど分からない俺は、『みんな、自信を持ってメガネっ子ラブと叫ぼうじゃないか。卑屈になる必要などどこにもない』などと、元気づけるような文章を書いた。
「神威さん、何ですか、この文章は?」
「え、だって自由に書いていいって……」
「こんなんじゃ読者がドン引きですよ。もっとこう優しくメルヘンな空気で包む込むみたいな、そんな文章でお願いします」
何がメルヘンだ…。無茶言いやがる。そんなもん、俺が書ける訳ないだろうが……。
まったくその知識がない俺にそれを詳しくオタクに納得させるようにしろってただ言われても、資料も何もないのだ。まあ愚痴を言ってもしょうがない。仕事と割り切り、何度も文章を書いてみた。その度ボツになり、呆れらたような表情で「神威さんはネット上で、女子アナのハプニング画像でも探して」と言われる。
テレビ局別にフォルダを作り、その中に個人的な女子アナフォルダも作る。パンチラ画像や胸元が見えそうな画像、ブラジャーが透けて見える画像などをとにかくネット上で探し、小分けに保存していく作業だった。テレビをまったく見ない俺は、女子アナなど何も知らない。それを上司に伝えると、「この業界知らないじゃ済まない。勉強して下さい」で終わりにされた。
俺の与えられた専用のパソコンは非常に古い型で、新しいサイトを開くとよく固まる。再起動しないと動かないので、まるで仕事にならなかった。
「あの~、もっといいスペックのパソコンないんでしょうかね。仕事にならないんですけど……」と上司に要求してみたが、「神威さん、自分のパソコン持っているでしょ? それ持ってきて使う分には構いませんよ」と切り返されておしまいである。話にならない。
しかも自分が集めたエロ画像を使って、一つのエロ雑誌を作ろうとしているのだから、逆にこっちが呆れてしまう。ネットからの寄せ集め画像の雑誌を定価二千五百円で売ろうというのだから、世の末だ。
入社してまだ一週間なのに、早くもストレスが溜まりつつあった。
従業員七名の小さな職場だったが、一人だけ親切に色々教えてくれる上司がいた。中には変わった人間もいて、「私、実はクリスチャンなんです。ミドール・ボバ・セバスチャンって名前もあるんですけどね」と唾を飛ばしながら語るのもいる。ぶっちゃけそこまで聞いてないし、どうでもいい事だ。
マンションの一室を使っての職場なので、飯時になると下にある百円ショップのカップラーメンやレトルト食品しか食べない奴もいた。
歌舞伎町に詳しい俺は、「すぐ近くに安くておいしいステーキ屋とかあるので、今度そこへ行きませんか」と言った。「いくらぐらいですか?」と聞く社員。「千円ぐらいですよ」と言うと、「昼飯に千円も掛けられませんよ」で終わってしまう。さらに「俺思うんですよ。四十代後半のオヤジが飯を一人で食いに行けない。そう思いませんか?」とつけ加えた。どういう意味で俺に言っているのだろうか? 俺は三十四歳だし、四十台後半ではない。という事は食事ぐらい、一人で行けと遠回しに言っているつもりだろうか。真意が分からないまま妙にイライラしている自分がいた。
仕事の主な仕事は、雑誌に使う画像の処理。フォトショップやイラストレーターを使っての作業である。
締め切りというものがあるので、他の社員はいつも暇そうにボケーっとしている。俺は早く終わらせて定時で帰りたいから、いつも一番早く仕事を済ませていた。デザイナーの組んだデータに文章を書き込んだり、画像処理を施したりするが、いつもギリギリにならないと仕事をしないデザイナーもいた。そういう時は決まって徹夜作業になる。このいい加減さに、いつまで堪えられるか不安を覚えていた。
この頃からインターネットを使い、自分でブログをやりだした時期でもあった。最初に作ったサイトは『新宿の部屋』。自分の執筆状況を書き留めておく為だけに作ってみる。
一度親切な上司から飲みに行きませんかと誘われ、つき合う事にした。俺は彼に小説を書いている事を話した。編集経験の長い彼は、「うんちくだけは色々知っていますよ」と言い、俺の話をとことん聞いてくれる。「真風舎なんてどうです? あそこなら企画出版っていうのありますから。作品をそこへ出してみたらいいんじゃないですか?」とアドバイスをもらい、俺は頭の中で『真風舎』という出版社を記憶した。作品を書いているだけで何も行動していない俺にとって、いいチャンスかもしれない。
彼は結婚をしているらしく、飲んでいる最中も奥さんからよく電話が掛かってくる。酷い時は一時間ぐらい帰ってこないので、終電時間も迫っていたので俺が会計を払い外に出る。すると彼はペコペコお辞儀をするだけで、会計を一切払おうとしなかった。帰ろうとすると、彼は「もう一軒行きませんか?」と言うので、今度は奢ってくれるだろうと思いOKする。しかしその飲み代さえも、彼は「結婚しててお金が」と言い訳にならない言葉を言い、俺にすべて奢らせた。翌日「神威さん、おいしいランチの店あるんですよね?」と食事に誘われ、会計時になると逃げ出す始末。そんなクソ野郎だった。『真風舎』の存在を教えてくれた事だけが、救いといえば救いである。
この男だけでなく職場の連中誰もがジュース一本奢ってくれた事がない。俺がコーヒーを淹れる際、「神威さん、俺もいただいていいですか」と散々せびってくるくせに。
まだ裏稼業の連中のほうが腐っていないじゃないか……。
いつからか新宿歌舞伎町時代を懐かしく感じる自分がいた。
入社して一ヶ月。普通に出勤すると、社長から「今日はどんな本を自分で作ってみたいか企画書を書いて下さい」と言われた。過去、広告代理業の仕事をしていた時期もある俺は、「ではこの会社の過去の企画書を見せて下さい」と言った。「いやいや、いいからとにかく企画書を書いて下さい」と社長。「この会社の企画書のくせに合わせ、あくまでも参考にするだけですから」と伝えようやく過去の企画書を渡してもらう。
二時間ほどで俺は企画書を仕上げた。内容は都知事の行った『新宿歌舞伎町浄化作戦』についての本質に迫るものだ。分かり易く言えば、俺の小説のネタになるものをタダでこの会社へ提供しようと思ったのである。そうすれば、あの浄化作戦で捕まり消えていった仲間たちも少しは救われると感じたのだ。
もちろん俺から見た感覚だけでなく、実際に当事者である歌舞伎町の住人たちにインタビュー形式で、本音を語ってもらうつもりだ。裏稼業といっても様々な職種がある。ゲーム屋を始め、裏ビデオ屋、風俗全般、サテライト、カジノなどがあるが、それに携わる人間。オーナー、運び屋、見張り、売り子、名義人など色々な人から本音を聞く。これをできるのは俺しかいないはずだろう。ついでに知り合いのヤクザ者にも協力してもらうつもりである。下っ端から中堅クラス、そして組長の本音も載せれば面白い本になるはずだ。
タイトルは仮題だが、『浄化作戦から二年後の歌舞伎町』とした。
結果、社長に呼ばれ、「君はまるでなってない」と説教を食らう。真剣にこの企画を考えた俺は、食って掛かった。
「過去にこの会社だって『裏稼業の実態』とかそういうのやってるじゃないですか。見させてもらったけど、裏稼業の事を何も分かっていない。これは俺じゃないと作れない企画ですよ」と懸命に説明するが、「こういう手の本は、歌舞伎町を書かせたらこの人みたいなライターが書いて初めて売れるんだ」と言われた。
「お言葉ですが、当時私の仲間たちがこの手の本をよく買って読んでいましたが、誰一人そんなライターの名前を気にして買う奴なんていませんでしたよ」
「君はこの業界をまるで分かってない」
「文章力なら、私も小説を山のように書いています。だから負けません」
「じゃあ君がそれで賞を獲ったら、大先生とお願いをこちらからするよ」
そうからかうように言われた。とても屈辱を感じ、ぶっ飛ばしてやりたかった。俺がいずれ小説で賞を獲ったら、その時は見てやがれ……。
まだ何の結果も出せていない俺は、心の中でそう誓った。
「それに裏稼業全般の話なら分かるけど、狭い歌舞伎町の話でしょ。こんなんじゃ誰も関心を引かないから」
おまえに裏稼業の何が分かる。そう言いたかった。
「あのですね。今、感心がない、そうおっしゃいましたけど、テレビで連日のように歌舞伎町浄化作戦で、今日は何軒を摘発とかニュースにもなっているじゃないですか。関心がないとは思えません。『浄化作戦から二年後の歌舞伎町』ってタイトルじゃ駄目なら、もっと分かり易く『都知事のやっている事は正義を語ったパフォーマンスである』。これで行きましょう!」
俺の言葉に社長は呆れ顔を見せる。
「あのさ、うちは小さな編集部な訳ね。国に喧嘩なんてとてもじゃないが売れないよ」
「国には喧嘩売れないけど、裏稼業の事は適当に取材して、飯のタネにするんですか?女子アナやアイドルのエロ画像を集め、それで雑誌を作るのは別に構わないんですか?」
「ちょっと神威君。言葉が過ぎるよ」
「言い過ぎたのはすみません。非を認めます」
この人と話をしてもしょうがない。俺は頭を下げ、仕事へ戻った。
絶望感に包まれながらの仕事。自然と食事へ行く時も、自分一人で行くようになる。
価値観がまったく合わない人種との仕事は苦痛以外、何ものでもない。次の職場を探そうかなと思いながら、歌舞伎町の街を歩いていると、「神威さ~ん」と後ろから大きな声で話し掛けられた。
「ん?」
振り向くと知り合いのヤクザ者だった。外見もコテコテで坊主頭に割腹のいい体。誰がどう見ても、あっちの世界の人としか思えない奴である。年が俺より二つ下なので、妙に礼儀正しい。
「今どうしてんですか?たまには飯でも一緒に行きましょうよ」
「飯、いいよ。ちょうどこれから食うところだったし」
サラリーマンの俺とヤクザのツーショット。さすがに周りから見れば、何だって思うだろう。そんな視線など気にせず、近くの喫茶店へ入った。
「神威さん、ネクタイなんか締めちゃってどうしたんですか?」
「あ、俺さ。今、サラリーマンやってんだよね」
「え、うっそだぁ~」
「そんな大袈裟に驚くなよ。変?」
「思い切り変です」
「そっか……」
今のエロ雑誌の会社は、さすがに向いていないのは自分でも理解していた。俺はこれまでの状況を簡潔に話し、企画書の件も言った。
「神威さんがそんな本作るって言うなら、俺はとことん協力しますよ。俺だってこの浄化作戦にはうんざりしてますからね」
「でしょ? それすらも社長、信じてないもんな。君はこの業界がまるで分かっとらんって、小馬鹿にしやがってさ」
「ふざけた野郎ですね。社長っていくつぐらいの奴なんですか?」
「実際に聞いた事ないけど、四十そこそこぐらいでしょ」
「そんなのに舐められてないで、神威さんはやっぱ歌舞伎町でまたやらなきゃ」
確かにあんなクソ会社で働くぐらいなら、歌舞伎町で働いていたほうがマシだろう。あの会社で働きだして早一ヶ月半が過ぎた。このまま時間だけが無駄に過ぎていいのか?
「ねえ、面白いもの見たくない?」
「面白いもの? 何すか、それ?」
「俺がサラリーマンを辞める瞬間って見たくない?」
「そりゃあ見たいっすよ」
ヤクザ者が乗ってきた。これで面白い辞め方ができるかもしれない。
「じゃあちょっと協力してもらうぞ」
「何をっすか?」
「今から会社へ帰るからさ、一緒についてきて黙ったまま横にいればいい」
「え、何すか、何すか?」
「いいから、それだけで面白いもん見れるからさ」
久しぶりの再会に話が弾み、喫茶店に入ってから二時間半が経過していた。どっちにしても、いい辞め時だったのだ。
「ここは俺が払っとくよ」
レジで会計を済ませると、俺たちは会社へと向かった。
マンションの六階にある会社。入口のカードキーを挿すと、扉が開く。
「結構洒落たマンションじゃないですか」
「入口だけはね」
「本当に俺、一緒にいるだけでいいんですか?」
「ああ、余計な事を言われても困る。黙って横にいてくれ」
二時間半も外へ出て食事をしていたのだ。社長のお小言が始まるだろう。他の社員の手前、部屋の外へ連れ出されて説教を食らうのは目に見えて分かっていた。
エレベータで六階まで向かい、すぐ近くのドアを開く。するとちょうど社長が入口のそばにいた。俺の顔を見るなり、「ちょっと神威君、こっちへ来て」と靴を履き出す。
俺は笑うのを懸命に堪えながら、再び部屋の外へ出た。その瞬間、社長の体がビクンと動く。目の前に俺の知り合いのコテコテヤクザが黙って立ったまま、社長を見ているのだから。今にも腰を抜かしそうな勢いだった。
「あ、心配しないで下さい。俺の連れですから。それとですね~。ちょっと知り合いが、やっかい事に首突っ込みましてね。放っておけないんですわ。なので今よりこの会社、辞めさせてもらいたいのですが。よろしいですか?」
「あ、ああ…。わ、分かった……」
社長は震えた声でそう言うのがやっとみたいだ。俺は笑顔で「今まで世話になりました。でも社長、俺が嘘つかないって少しは分かってもらえましたか?」と言って会社をその場で辞めた。二人でマンションを出ると、我慢していたものを一気に解放し大笑いした。
その後、この社長から連絡は一切ない。あの時の表情や態度は、今思い出しても笑えるものである。
再び暇になった俺は、自分の小説を『真風舎』へ応募してみた。
再び就職活動をする事になった俺は、デザインの仕事にこだわる事をやめた。またあんな会社だと、洒落にならないからである。十数件の会社を面接したが、自分の行ったところは、どこもみんな腐った人間しかいないように感じた。
あんな中途半端な事をやって「社会に貢献しています」って面をするぐらいなら、まだ「裏稼業をやっています」って堂々と言えるほうが素敵な生き方だ。裏は捕まるけど、熱を持った人間が多い。あんな魂の抜け殻みたいな連中とは違う。
それでも俺は、せっかく健全な社会復帰をしようと頑張っているのだ。めげず諦めず、また一からやり直せばいい。
もらえる給料のハードルを高くして検索してみる。すると中小企業融資の金融会社が引っ掛かった。金融…、未だ俺がした事のないジャンルでもある。何か得るものがあるかもしれない。駄目元で試してみようじゃないか。そんな気持ちになった。
資本金七百九十億円と明記してある超一流企業。そんなところへ俺が行って、果たして受かるのか?いや宝くじだって買わなきゃ当たらない。就職だって面接に行かなきゃ受からない。行って自分をそのまま表現できればいいさ。
裏稼業という経歴だけを隠し、そのままの自分でモンスター企業へ臨んだ。
社内で面接をして、埼玉支社の人事部長とテレビ電話を使って二次面接を行う。
「何故当社で働こうという気になったのでしょうか?」
テレビ電話のモニターに移る人事部長からの問い掛け。俺は社内の人間が注目する中、堂々と言った。
「金融と言う業種は私、初めての経験になります。これがアトムや富士竹と言った個人融資の会社なら来ていません。企業融資と言う事で、こんな私でも今までの経験を活かし、何かのお役に立てるのではと感じ今日この場へ来ました」
何を気に入られたのか分からなかったが、俺はその場で採用となった。埼玉の川越支社配属。ちゃんとしたサラリーマン生活の始まりである。
朝は八時半出社の定時は夕方の五時半。最初の一週間は法律についてひたすら勉強をした。朝の弱い自分であるが、遅刻は許されない。出来る限り規則正しい生活を心掛けるようにする。
金融にとって大事な契約書についての知識。稟議とは何か。不備是正とは何か。手形を割り引くにはどうするか。様々な事を学んだ。
有限と株式会社の違い。あくまでもこの当時の法律だが、有限は、本来小規模会社用に定められたもので、社員数五十人以下、出資持分を社員以外に譲るには社員総会の同意が必要な事。持分を有価証券にしての流通は禁止。株式は、最低資本制度というものがあり、資本金一千万以上、一株五万と定められる。二百株が最低株式数となる。設立の古い会社では、五十円額面の株式の場合もあるらしい。三人の取締役と一人の監査役が最低限必要なのに対し、有限は絶対必要な期間が社員総会と取締役だけなので、取締役会や代表取締役、監査役の必要はないようだ。
非常に面倒臭い。こんな事を一から頭に入れていかなければいけないのだ。
この会社が収入を得る方法は金の貸し借りと、手形割引からである。入ったばかりの新人なので分かりませんじゃ、言い訳にもならない。
法務の基礎をとことん勉強するしかなかった。
基本的な業務は各個人に与えられたパソコンを見ながらエリアを決められ、ひたすら営業の電話をするだけである。中小企業、屋号と言ったすべての職種がパソコンの中でデータ化してあった。当然自分の地元を見てみるが、よくもこんな情報を手にしたものであると感心するぐらい豊富なデータ量だった。
右も左も分からない俺である。初心に帰り、素直に一から勉強するつもりで臨む。初任給は三十万以上ももらえた。
入ったばかりなので定時上がりだったが、その内七時、八時、九時と時間が延びていく。勝手に残業をしているという形にしてあるので残業代など一切出ない。上司たちは夜中の一時ぐらいまで、いつも残って業務をこなしているそうだ。この会社で頑張ったとして、それが今の上司の姿だと想定する。絶対にこうはなりたくないものだと思う。
世間から見れば一部上場企業だが、この頃からこの会社の異常性が見えてきた。
毎朝必ずあるパソコンのモニターを使った朝礼。全国にある各支社の売上などをそれぞれの支部長が報告し、社長がそれに対し意見を言う。いや意見と言うより一方的に怒鳴りつける。そんな感じだった。
社長の言った目標をあげられなかった支部長は、全社員の前でさらし者にされる。
「どうしてやらないの?やらないんだな?おい、貴様!やらないんだね?この言った事を実行できない連続性の無さ、これはあきらかに病気だろ。君たちの病は不治の病だ。とんでもない。エイズより性質が悪い。おい、おまえいいか?今回貴様の給料からエイズ病に掛かった患者へ治療の為の寄付をしろ。せめて他の人のお役に立ちます。せめてチャリティーに寄付しますと誓え、この馬鹿が!実行の不徹底さは非常に気持ちが悪い。不備是正と今から腕にそう刺青を彫ってこい。プロジェクトの担当をしているという誇りはないんだな?」
常備こんな形で罵倒され続けた。言われた支部長は「はい」と「すみません」以外の言葉を発したのを聞いた事がない。そんな支部長でさえ、会議が終わると下の人間に対し、えらい剣幕で怒鳴り出すのだ。平気で人間に対し「おまえなんぞ、死んでしまえ」と罵る。そばで聞いているだけで気分が悪かった。
毎日する日課の営業電話も、一日で二百件しろと全社員が言われる。ちゃんと相手と話した状態で二百件なので、かなり辛いものがあった。しかしこれが仕事なので仕方ない。
みんな商売をした事がない社員ばかりなので、相手の立場を思いやった電話の対応がまるでできていない。例えば夫婦でラーメン屋をやっている店に、昼時電話を掛け、「融資の件でお電話しましたが…」では、怒るのが当たり前である。それをしつこくするから会社のイメージはどんどん悪くなるばかり。
席のそばにいた上司のPC長の佐山に「そんな言い方じゃまずいですよ」と小声で囁いた。
「でも契約を獲らないと、また何を言われるか分からないし……」
PC長は困ったような顔で言った。続いて「一日二百件電話しないと、データで分かるから、それでも責められるんだ」とも言う。
そこで俺はあるアイデアを閃いた。毎日電話していると、時間帯で留守の企業やすぐ転送電話に切り替わる会社がある。それをエクセルで、一回電話が繋がるとカウントされる会社の電話番号一覧を作ったのだ。留守電ないし転送になった時点で一回にカウントされる訳だから、数をこなす時には最適なデータである。しかしまったく会社に利益は入らないというデメリットはあるが……。
喜んだPC長は、プリントしたデータを大事に隠しながら使用するようになった。それでもこの上司が早く帰れるかというと、それはまた別問題らしく、いつも夜中まで仕事をさせられている。
ある日このPC長が、少しだけ遅刻してきた日があった。恒例の朝礼で、社長から吊る仕上げを食らう。
「おい、貴様。何故遅刻した?」
「あ、あのですね…。お腹の具合が良くなかったみたいでして……」
ガタガタ震えながらマイクで話すPC長。無理もない。昨日も夜の二時過ぎまで働らかされ、ろくに寝る時間さえ取れないのだ。
「何だ、下痢か? いいか、うちの業績の上げ方を教えてやる。ちゃんと聞いておけよ。下痢の奴はピヨヘルミンを飲む。で、パンツを履く。何故かと言うと、人間はパンツを履く猿だからだ。次に顔を洗って、飯を食う。こんなものはしないでいい。こんなものをしなくても死なない。物事には優先順位があるんだ。今言った顔を洗ったり飯を食うは、ただの基本動作だ。ディティールにこだわってやれ」
モニターの前で何度も頭を下げるPC長を見て、酷い社長だなと感じた。
この頃から俺のブログ『新宿の部屋』は数名の人がコメントをくれるようになっていた。俺が書く記事は小説の事や料理を作った事。そして今の会社で起きた事が多い。
始めはあくまでも小説の執筆記録として自分用にやっていたものだ。しかし人がこのブログを見てくれていると意識するようになってから、記事の内容に変化が出た。
コメントをくれた人と、互いのブログでやり取りもするようになっていた。姿形が知らない分、人間性をコメントやブログ内容で判断しなければいけない。それは非常に面白いと感じる。
数名の人間が、俺の小説を読みたいとコメントをくれた。単純な俺は執筆した作品の一部抜粋をネット上に載せるようになる。それについての感想が嬉しく、処女作『川越デクレッシェンド』をすべて載せる事にした。
デクレッシェンドとはピアノの語源で、だんだん小さくなるという意味合いがある。あくまでも世に受ける為に抑えて書いた作品なので、どんどん歌舞伎町の奥底、コアな部分を続編で書いていくから、この語源をタイトルにつけた。
ブログ上で関わる人たちがこの作品を読み、様々な感想をくれる。中には「やっとこういう作品を書く作家が出てきてくれた」と泣きそうになるぐらい嬉しいメールをくれる子もいた。
小説を書いたはいいが、世に出すべき方法がいまいち分からない俺にとって、みんなの言葉は非常にありがたかった。
多くの人とネット上で関わるようになって、一人気になる子がいた。ハンドルネームを『らん』と名乗っている子である。『新宿の部屋』初期の頃から暖かく励ましのコメントをもらい、感謝を感じていた。大阪に住む二十五歳の子で、書く文章も大阪弁丸出しで着飾らない。面白い子だなと素直に思う。
この子を特別したのはある一件からだった。
彼女のブログで、小説を読んだ感想記事があった。そこでコメントをする人間は、自分の好きな作家を自由に書き込んでいる。
東野圭吾。浅田次郎。馳星周。宮部みゆき。名の知れた作家ばかりである。そんな中、らんさんは堂々と『素晴らしい作家さんですよね。でも私は神威龍一さんの小説が一番大好きでハマっています』と書いてくれたのだった。
まだ小説家でも何でもない俺に対しここまで書いてくれたのは、らんさんだけだった。
インターネットを使い、ブログというものを始めて本当に良かった。俺はらんさんのコメントを見て、パソコンの前で一人静かに泣いた。
一人でも俺の作品を読んでくれる人がいる限り、絶対に諦めず小説を書き続けよう。
多くの人に認められたいという想いは当然ある。でもこうやって一人の人間が応援してくれるだけで充分だ。
俺は小説を書きたいから書いている。
作品を世に出したいという想いだってある。
たくさんの人々に絶賛されたいからだ。しかしそれとは別に、らんさんのような暖かい言葉をくれる人をずっと待っていたのかもしれない。
この感謝は絶対に忘れてはならない。顔も知らないらんさんに向かって、俺はゆっくり頭を下げた。
たまたま昼飯をPC長の佐山と食べに行く機会があり、一緒に食事をしていると今まで溜まった鬱憤を出してきた。
「神威さん、ほんとあの会社酷いですよね。最近何だか疲れちゃって……」
「佐山さん、よくあんな会社で十何年もやってきてますよね。社長なんてヤクザより酷いじゃないですか」
「今度時間作るから、飲みに行きませんか?」
「ええ、構いませんよ。どうせ俺は定時になれば、いつものように『帰りまーす』ってさっさと帰っちゃいますから」
会社が残業代も払わず無理難題を押し付けるなら、俺も勝手にさせてもらう。そんなスタンスでいた。PC長は俺の直属の上司にあたるので、「たまには残業をして下さいよ」と頼み込んできたが、阿呆らしくてすぐに帰る事のほうが多い。
「神威さん、すぐ時間になると帰りますからね」
「だって意味ないじゃないですか。佐山さん、あれだけ一生懸命やったって、あんな酷い怒鳴られ方されて」
「ええ、色々神威さんと話したいなあと思っていたんです」
会社へ戻ると、佐山は疲れからか最近肩が痛いと言う。凝りをほぐすのは得意なので、昼休み時間を使い、マッサージをしてあげた。
「あれ、神威さん。右肩軽いですよ?腕を上まで痛くてあげられなかったんですから。いい腕持ってますね」
感心したように佐山は俺を見ていた。
定時になると、俺はすぐに帰る事にする。
この日、いつもなら夜中まで仕事をするPC長が珍しく八時で上がった。俺と飲みたいが為にうまく誤魔化して早上がりしたようだ。
行きつけのジャズバーを紹介し、酒を飲む内に、佐山がすぐ酔いだした。
「何かね、神威さんが入社した時から、普通と違うなって思っていたんですよ。もちろん悪い意味じゃないですよ」
「まあついこの間まで裏稼業にいましたからね」
この人なら過去の経歴を多少話してもいいだろうと思った。俺は新宿歌舞伎町で過ごした十年の事を簡単に話す。佐山は感心したように頷いている。
「それはすごいですね~。最初見た時から違うなあと思っていたんです」
「別に俺は普通ですよ」
「神威さんなら、この会社を少しはいい方向に変えてくれるかなと期待しちゃいますよ」
佐山はいい感じで酔っているようだ。
「まずおかしいのが、残業代を一円も出さず、働き蟻のように強引に働かせている点です。それに昨日を含め、世間では三連休でしたよね?その三日間すら、一日も休みをくれず出勤させる。しかも休日出勤手当ても何もなく一円にもならないのに、タダ働きでやらされている。定時では、八時半から六時半。でも、いつも佐山さんは七時四十分までには出勤させられ、帰りは夜中。お子さんがいるのに北海道から強引に単身赴任させられ、半月だからと騙されて、今じゃここに…。それでいてこの現状…。俺が風穴、開けますよ」
会社の理不尽な点をひと通り言った。佐山は目に涙を溜め、俺の台詞を聞いている。
「私のほうが年上ですけど、神威さん。私は神威さんを人生の先輩だと思っています。私も出来る限り、いい方向に行けるよう協力します」
両手で握手を求められ、佐山は何度も頭を下げる。今まで相当鬱憤が溜まっていたのだろう。
「俺、こう見えて小説書いているんですよ」
「本当ですか? じゃあ今度見させて下さい」
たった二人だけど、小さな派閥がここに誕生した。
このあと佐山は悪酔いしたようで、三軒もハシゴさせられ泥酔状態だったので、飲み代はすべて俺が払うハメになった。
世間一般だと金融業界はイメージが悪い。
個人融資のところなど、よくテレビのCMを打っているが、それだけ儲かっているという現実だ。貸す時だけはニコニコ。返さない時は鬼となるから、首を吊って自殺を選ぶ人間もいる。そういった背景などまったく出さず金だけを掛け、楽しそうなCMを作る金融業。華やかに見える繁栄の裏側には、地獄を味わった人間も数知れずなのだ。
そんなイメージの金融でも、本当の意味で人助けをしたい。必要とする企業は多いから、この業界がなくならないのだ。せっかくこうして縁があった。ならば俺が少しでも良く変えたい。
個人の力などたかが知れているかもしれないが、少なくても俺が接する顧客だけには、誠心誠意でいよう。まずは身近な人間を守りたかった。それにはまずできるだけ顧客に関わる事だ。
日課である営業電話。少なくても地元川越の知り合いの店は、俺自身で担当を受け持ちたい。PC長へその旨を伝えると、知り合いの多い店のエリアの担当となった。一日で二百件も電話をするのである。俺が会社の名刺を配り直に接しておけば、本当に困っている企業や店は自然とこちらへ客として流れてくるだろう。金々と抜かす社訓めいたものなどで、知り合いを困らせるのは嫌だった。事務員に俺の名刺を五百枚作ってほしいと頼んだ。
名刺が完成すると、知り合いの店や企業に配りに行くと報告をした。会社側は電話でアポを取ってから行けと言うので、「お言葉ですが、昔からの知り合いたちばかりなんですよ。電話でアポよりも確実じゃないですか」と説得する。
「じゃあ行った会社の写真を撮ってくるように」と、会社の携帯電話を渡された。
信用がないからしょうがないが、証拠として写真を撮れというなら、いくらでも撮れる。俺は四時間で二十九件訪問し、五十八枚の写真を撮らせてもらった。目的は俺の名刺を渡し、もし会社から電話が来たら『お宅の神威って写真が来ているから、何かあれば彼に連絡する』と簡単に断れるようにする為である。
それ以外に仲のいい知り合いの店で、暇潰しをしたいというのが最大の目的だが……。
あんな馬鹿げた電話など二百回もやっているぐらいなら、外で自由に空気を吸っていたかった。
会社へ帰ると、無数に撮った写真を見てみんな驚いていた。しかし契約など〇件なのだ。元々取る気などないし、それはしょうがない。本当に困ったところは、勝手に名刺を見て電話してくるだろう。
空いた時間を上司の手伝いにあてる事にした。契約書の不備是正や支払いの遅れている顧客からの取立て。みんなが嫌がる事を率先してやる事にする。
朝の会議では、変わらず社長がムチャクチャな理論を言いながら、みんなを罵倒していた。
「いいか、俺は五千円のうな重なんて食いたくねえんだよ。五百円のうな重でいいから食いてえんだよ。いついつまで仕事をしましたとかじゃない。どう結果を出したか。それだけがすべてです。俺たちはそうやってきたぞ。何故おまえらは何もやらない?地底まで落ちるのか?決算発表の時、後ろから俺を撃つのと変わりないぞ。そうやって俺を背後から撃つんだな?俺の言った数字をクリアできなかった支店の連中は、明日寄付をしろ。不治の病め。役に立たないなら、少しぐらい世の中の役に立ってから死ね」
こんな事を毎日名指しで言われるぐらいなら、下っ端で自由にやっていたほうがいい。面倒はごめんである。俺は名刺を財布に入れると、また知り合いの店へ訪問と称し、会社をあとにした。
今日はPC長である佐山が担当している契約書の不備是正の仕事だ。金融でいう不備とは契約書の記入ミスなどを言う。是正とはそれを直す事だ。一緒について勉強をするつもりが、朝の会議の最中にその顧客が社内へやってきた。仕方なく佐山が顧客の対応をしていると、社長の怒鳴り声が響く。
「おい、何でそこの支店の佐山の姿がモニターに映っていないんだ?また遅刻したのか?」
代わりの社員が慌てて「現在顧客の相手をしています」と答えると、納まらなかったのかまたムチャクチャを言い出した。
「早朝ミーティングは客の訪問があろうが全員参加が基本。金融というものはすべて契約で繋がっているんだ。不備をすると言うのは犯罪と同じだ。ふざけた奴だ。その不備を許す店長も事務も同罪だ。そんなもん交代させろ。以前、金庫の中を調べなかった森という社員がいました。彼は即刻その場で懲戒免職にしました。いいか?そうなりたくなかったら、俺の言う通りに動け。分かったな」
酷い理屈である。社長の言った通りにすべて物事が運ぶのなら、誰も苦労などしない。佐山は会社の為に、こうして顧客の相手をしているというのに、何故そんな事で怒られなければならないのだろうか?
次の支部長が映ると、社長の標的はそちらに移行する。また言われた数字をクリアできなかったようだ。
「俺の守り神はな、千手観音らしいぞ。その俺にすべてをやらせるつもりか? ふざけんな、この野郎! 全部俺かー? 部長は責任持たないのか? 千の手で俺にやらせろって事か? ドブさらいから、栗拾いまですべて俺にやらせるつもりか? 貴様、そんなプライドのない仕事をするなら死ね。死ね。死んでしまえ! この奴隷野郎! おまえが自殺しないなら、俺が殺してやるよ。俺がおまえらの立場ならとっくに死んでいるぞ」
今時のヤクザでも言わないような台詞のオンパレード。ここ一ヶ月で全国の支部長クラスが、かなり入れ替わっていた。この会社は社長の鶴の一声のみで成り立っている会社なのだ。
今度この社長の今までの語録を、一つの小説としてまとめてみるのも面白かもしれないと思った。俺は会議の最中、メモ帳に一語一句間違えぬよう社長の台詞を走り書きする。
「おい、おまえ早稲田出だろ? カンニングでもして入ったのか?」
頷くだけの支部長。
「おまえ、以前は大手銀行にいたんだろうが?何の為に白髪にしたんだ? トイレ入ったら、クソを撒き散らかしてんじゃねえのか? パンツの下はインキンだろ? 靴下の中は水虫だろ? え、違うか? 契約だけが金融と貿易は命綱。契約書は酸素ボンベ。不備は犯罪。金利は貸し金の代金なんだ。それを払わない奴はパン泥棒と一緒だ。それを許していいのか?」
五十歳後半後半の支部長は、ひらすら頭を下げている。
「おい、貴様! 遅刻して今ここに来たのか? 遅刻した奴。おい、ブロック長。こいつ、クビにしろ。こんな人間じゃない奴と、俺は働きたくない。今すぐクビにしろ。それができないなら、今すぐブロック長を降りろ」
一回の遅刻で虫の居所が悪ければ、本当にクビにする社長。どうも無理難題を押し付け過ぎている。見ていて気分が悪くなるだけだ。
さらに社長の演説めいた毒舌は続く。
「愛の反対は無関心。愛の裏側が憎悪。順位がつくような競争はやめろ。とんでもない話だ。臭いものにはフタ。そんな事をしているから駄目なんだ。日教徒がやった悪性個人のピカピカ運動とは何ぞや? キャッシュフロー、プロフィット。金儲けっていうのは、一番頭のいい奴が勝つゲームです」
まるでヒットラーでも気取っているかのように見える社長。果たしてこんな会社を俺が変える事ができるのだろうか……。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます