町の片隅でひっそりとトイレのフタを作る工場があった。経営者は左足を悪くした六十五歳の男性。うちで金を貸している契約者でもある。経営が思わしくなく、債権回収をする事になっていた。
電話を掛ける佐山。俺はその様子を横で聞いていた。
「あのですね。これ以上入金が滞ってしまいますとですね…。いえ、ですから、金利もうちは下げていますし。ええ、そうですが、決まりは決まりでしょうが。駄目なら別の保証人を用意して下さい。それで穴埋めするしかないじゃないですか?」
どうやら金が返せないから、他の保証人を用意して一度金をまた借りる。それで不足分を一時的に埋めようとしている訳か。どう見てもただの悪循環である。借りた本人に支払い能力がないから、他の保証人をつけ取り立てる。会社はマイナスにならないが、巻き込まれる人が増えていくだけ。こんな事をするなら、何故最初の時点でそんなに貸付をするのだろうか?
「ですから、当社まで来て契約をして下さい。足が悪いなんて言い訳にならないですよ。え、無理? 何故ですか?こちらはですね……」
佐山の声が荒くなる。俺はメモ用紙に『自分が契約に行きましょうか?』と書いて見せた。佐山は受話器に手を当て、「え、行ってくれるのですか?」と驚いている。これ以上責めるのを見ていられなかったのだ。
詳しく話を聞くと、思った通り借金を返せず、保証人をつけて何とかしようとしているところだった。俺は佐山に言った。「それじゃ悪循環になるだけです」と。しかし佐山も仕事でやっているので、折れる訳にはいかないのだ。ならば俺が間に入り、少しでも相手の気持ちを緩和したい。そんな気持ちだった。
新規契約書を持ち、その工場へ向かう。実際に契約する本人と会うと、非常にくたびれた感じのする初老だった。
「まったく頭が固いと言うかね、あなたの上司。こっちは足が悪くていつもこうやってビッコを引いているんだ。それを会社まで契約に来いだなんてさ、酷いよ」
「おっしゃる通りだと思います。ですから私がこうやって来る事にしました。お気持ちは分かります」
この人の借金総額は一千五百万を超えていた。こんな状態でいつまで続けるのだろうか? 二百万、三百万といった借金をする度に変わる保証人。会社は支払い能力がない契約者じゃなく、その小分けに分けた金額を各保証人から取り立ててればいい。嫌な仕事だと本当に思う。
やりきれない思いを抱えながら、俺は会社へ一度戻った。帰り道の途中で七枚に及ぶ契約書の内の一枚をライターで火をつけて燃やした。何を言われても、「え、何ですか?」でトボければいいだけだ。残業時間を過ぎているので社内へ入っても、不機嫌そうに書類をドカッと置き、「あとは明日やりますから」と逃げるように帰った。
因果な商売。俺はハンバーグやステーキを食べ、エネルギーを補充しておく。
先日取立てに行った保証人のところへ、再び向かう事になる。以前行った時は姿を見ただけで怒鳴りつけてきた保証人が、俺の顔を見ると笑顔で「おお、あんたが来てくれたんだ」と嬉しそうに言ってくれた。そして契約者が支払えない代金を素直に肩代わりしてくれる。非常にありがたい話である。
「自分、実はこう見えて小説を書いているんです。いずれこの事は、作品として書きたいと思っています」
このぐらいしか俺には言えなかった。保証人は嬉しそうに頷き握手を求めてくる。心の底から礼を言い、その場をあとにした。
上司の狭山から「神威さん、書類が一枚足りないですよ?」と言われたが、「え、ちゃんと佐山さんが揃えて確認してくれた書類にはすべてサインさせましたよ? 不手際あるようなら、あとは自分の顧客ですし、ご自分でお願いします。それではお疲れさまです」と笑顔で帰った。
日曜日、会社は休みだが、家の家族会議だった。のちにある役員会議の前に話し合ったほうがいいという事で決まったようだ。これに俺も出席をする。
集まった面子は、俺と真ん中の弟の龍也に、おじいちゃん、おばさん。それと親父、いつの間にか妻になった三村。それと三村の長女の娘婿。家業を辞めた弟の龍彦は出席しなかった。
親父が社長になるという件はほとんど確定である。何故なら他の候補者を三村が嫌がらせし、すべて辞めさせてしまったのだから。弟の龍彦さえも……。
俺や龍也は反対した。親父が社長になったら崩壊は目に見えて分かるからである。三村は必死に「この人は才能がある方ですから」と親父をかばっていた。五十後半になって、才能もクソもないだろう。こうやって親父をただ甘やかし、かばう奴がいるから増長する。非常にはた迷惑な女だ。
「私は神威広龍の妻、社長夫人として言わせてもらいますが……」
三村が偉そうに発言をしてくる。俺は途中で遮った。
「おい、三村さんよ。あんた、いつから『神威』の性を名乗っているんだ?うちら子供に何も言わず籍だけ入れて、社長婦人だ?何を勘違いしてやがる。ふざけた事を抜かすなよ」
面の皮が厚い三村はまったく動じない。いつもやってしまった者勝ちだと思っているのだろう。
「前に俺は言ったはずだ。この家に入るなと。何をあんたは偉そうに言えるんだ?不思議でしょうがない。こうやってみんなが迷惑しているのに家に勝手に棲みつき、どんどん家の中をメチャクチャに引っ掻き回している。何が目的なんだ。ハッキリ言ってみろ?」
「私はそんな事聞いてない。あなたはあの時、『俺とは関係ない』って知らん顔しただけでしょ?」
「おい、ふざけんな。それを言ったのは俺の総合の試合前日の夜中だろうが?おまえがお父さんに捨てられちゃうって不法侵入してきた時だろう!」
「そんな事は知らない。あなたは関係ないって言っただけ」
自分にとって都合悪い事はこうやって誤魔化す女。よくもまあこうして話をすり返られるものだ。俺は親父を睨みつけ、ハッキリと言ってやった。
「おい、親父! 何でこんな女と結婚した? 何故、家にこんなのを棲ませたんだ?」
親父は俺を一別しただけで何一つ口を開かない。
「いつも俺の腕は一流だとか自慢してたよな? それなら一辺よそに行って、通用するかどうかやってこい。この馬鹿親父が!」
「ああ、通用するに決まってんじゃねえか」
ようやく口を開く親父。俺の挑発に乗ってきた。
「なら実際に証明してみろ。ただし言った言わないじゃないぞ。ちゃんとこの場で誓約書を書け。どうせできないだろうが?」
「書いてやらー」
親父は紙に書き出した。よし、これさえあれば……。
その時だった。三村がもの凄い勢いで席を立ち、親父が書き途中の誓約書を奪い、グシャグシャに丸めてしまった。
「何をしてるの、広龍さん!」
いいところで邪魔しやがって……。
最悪俺が継ぐ事にして辞めていく従業員に頭を下げるしかないか。俺はおじいちゃんに言った。
「おじいちゃん、俺が継いでもいい。こんな馬鹿に継がせたら、どんな目に遭うか分かるでしょ?」
「龍一、もう遅いんだよ……。すべてみんな決まった事なんだから」
おばさんが口を開いた。おばさんも辞める人間の一人である。十八歳の時から五十後半になるまでずっと家で頑張ってきた。それでも親父にはついていけないらしい。
「何でもっと早く言ってくれなかったんだ!」
親父らを除く、家族全員に言った。
「兄貴は、前に今度の日曜日空けといてと言っても、新宿で仕事だからと全然会議に顔を出さなかったじゃないかよ」
龍也は静かにそう告げる。
「……」
ちょうどその時は都知事が実行した歌舞伎町浄化作戦の真っ只中にいて、それどころじゃなかったのだ。しかしそんな事は言い訳にもならない。俺は言葉が出なかった。
この日、親父が社長に就任する事がほぼ確定的になった。
退職が決まった家の従業員に、俺は翌日頭を下げに行った。
「あの、俺が家を継ぐって言えば、残ってくれますか?」
「何だよ、龍一ちゃん。急に……」
「俺、今まで新宿へずっと行ってたから家がこんな状況になっているなんて、何も気づかなかったんです。だから今、何とかしたいなと色々考えました」
従業員は俺の頭にポンと手を置き、「小さい頃から見ているけど、龍一ちゃんは全然変わらないなあ。でもね、もう俺も次の職場決まっちゃったんだよ。龍一ちゃんが悪い訳じゃない。そんな気にしないで」と優しく言ってくれた。
もう俺一人じゃ、この現状を何もできないのだ。それを実感した。昔からずっと家で働き家業を支えてくれた人たちが、どんどん消えていく。
「さすがに龍一ちゃんのお父さんとあの女とは、一緒に仕事できないよ。悪いけどね」
みんな、そう言って消えていく。もっと早く動いていれば、俺は自己嫌悪に陥った。
会社に行っても、当然の事ながら身が入らない。上司の言われるように不備是正や債権回収の仕事をした。
三つの市を回り、不備是正をこなす。会社でもすっかり浮いた存在になっている俺。
今後の目的の何も見えなかった。
そんな時期、『真風舎』に応募した出版小説大賞の一次選考合格通知が届く。暗く塞ぎ込んでいたので、俺は飛び上がって喜んだ。手紙も添えてあり、青山にある本社へ一度来てほしい。そして実際に会って話したい。そう書いてあった。
会社を休み、早速俺は『真風舎』へ向かう。このまま作家生活に入れれば、自由に時間を使う事も可能である。そして自分の書いた作品が世に出回る。これほど嬉しい事などない。
希望に胸を膨らませた。青山の『真風舎』へ行き、編集プロデューサーと名乗る村田彩という女性と話した。ここはそこそこいい女が多い。しかしどうも話の内容がおかしい。
「神威さんの作品を世に出しましょう。共同出版という形で。それでまず金額のほうなんですが……」
「ちょっと待って下さい。俺は悪いけど、自費出版などするつもりまったくありませんよ。本当にいい作品なら、何も作者が金を出す必要などどこにもないじゃないですか」
「ええ、それはおっしゃる通りだと思います。しかしこのタイミングでなら、お安く経費も済みます。とりあえず見てもらえませんか?」
そう言って出版プロデューサー村田彩は、分厚い書類をテーブルの上に置く。言われた通り目を通してみた。
「……」
五百部の本を作るのに、俺が二百三十万の費用をまかなうと明記してある。普通に考えて、本一冊の値段など、千円から二千円ぐらいが相場だ。それを何故一冊辺り俺が四千六百円も出さなければいけないのだろう。
「あのさ、俺からも実は提案あってね。君、こういう仕事をしているぐらいだから、小説の一つや二つ書いた事あるでしょ?」
「ええ、あります。だから作者の気持ちはよく分かりますよ」
「そう。じゃあ俺がそれを本にして世に出してあげるから、今二百三十万出してくれないかな?ちゃんと本にして世に出すからさ」
「いえ、私は……」
「おい、姉ちゃん。自分でできない事を何故、俺に押しつけようとするんだ?」
「え、あの……」
「ちょっと立ってみ?」
「え、はあ…。これでいいんですか?」
その女が立ち上がったので俺は近づき、いきなり肩で担ぎ持ち上げた。
「ちょっと、何をするんですか?」
女は持ち上げられたまま、俺の背中を両手で叩く。
「ん? おまえ舐めてっから、これからホテル連れて行ってお仕置きする」
「やめて下さい!」
「おまえさ、自分たちのしている事について、恥を知れ」
この騒ぎで奥からお偉いさん連中が出てきた。俺は「作家の魂をくだらないトークやマニュアルで切り売りしてんじゃねえよ、ボケ」と言い残し、『真風舎』を去った。
当然の事ながら俺の作品は、二次選考で落ちていた。
外回りの仕事をしていると、途中で道に迷った。ちょうど警官がいたので道を聞く事にする。信号で停車していると、いきなり助手席の窓をコンコンと叩くおばちゃんがいた。
何だろう?俺が窓を開けると、いきなりビニール袋を強引に渡された。中を見ると、ガム一枚に梨が一つ、ポケットティッシュが一つ入っている。不思議そうに眺めていると、「車は安全運転でね」と言い、去っていく。しばらくそのおばちゃんの後ろ姿を眺めていると、背後からクラクションを鳴らされ、車を発進させた。
辞めると言ったのに、なかなか辞められない会社。嫌々業務をこなすが、こんな時に限って新規契約が獲れたりするのだから、皮肉なものである。
社内へ戻ると、社員が集まり何やら相談事をしていた。普段なら無視をしている社員たちが、俺の姿を見るなり「神威さ~ん」と声を掛けてきた。嫌な予感がする。
案の定、面倒な仕事だった。契約者は女性。以前書類の不備で向かったところ、ヤクザ者みたいな連中に囲まれ、何もできなかったらしい。
「神威さんみたいな体をした連中が、五人も六人も取り囲んでくるんですよ。しかも無言で……」
「あのですね。悪いけど俺をそういう連中と同じ扱いにするの、やめてもらえません?」
「ま、まあそうですけど…。でも、おっかない連中がすぐ取り囲むんですよ」
「俺がそこへ行って不備是正してくればいいんでしょ?行きますよ」
「え、行ってくれるんですか?」
「そう仕向けてるじゃないですか」
普段はエリート面しているくせに、こういう時は尻込みする奴らばかり。何の意味もない。情けない奴らだ。俺は書類をまとめ、また出掛けた。
場所は草加市。昼間なので道も混み、片道だけで三時間掛かる。
問題の契約者のマンションへ到着。電話を入れ、オートロックを開けてもらう。部屋の中へ入れてもらうと、顧客は上着を脱ぎ、肩口の刺青をさり気なく見せた。完全にヤクザの女だとアピールしたいのだろう。
「いいですね~。ちゃんとした刺青」
「はあ?」
「いえ、私こう見えてちょっと前まで歌舞伎町で商売していたんですよ。その時部下で元彫り士がいましてね。結構有名な師匠の下でしていたんですが、勤まらなかったようでして。たまに風俗行っては女の子にワンポイントでタトゥー入れてあげるから、本番やらせてなんて言うチンケな野郎でしてね。そんな奴が彫ったような刺青と違うの分かるから、いいなあと言ったまでです」
「へ~、あんた、面白いわね。本当にあの会社のサラリーマンなの?」
「そうですよ。私の名刺だって渡したじゃないですか。それに正直な感想を言ったまででして」
女は俺のすぐそばに擦り寄ってきた。
「ねえ、今なら誰もここにいないからさ。ちょっと奥で楽しい事しない?」
なかなかいい女である。おっぱいもロケットのように尖がっている。俺はこの女の仇名を『尖がりコーン』と決めた。しかしヤクザ者の女なのだ。しかも仕事中。俺は涼しい顔をしながら断る事にした。
「それよりも先に書類の訂正をお願いしたいんですよ」
「まったく…、変な人。変わっているって、よく言われるでしょ?」
「ええ、それなりですけど。あ、ここに訂正印押してもらえますか?」
「変な返事。面白からいいけど」
気に入られたのか女は訂正印を素直に押し、書類の手直しに協力してくれた。
「また何か機会あれば、色々お話しましょう」
「あんた、サラリーマン向いてないから、こっちの世界に早く来たほうがいいわよ」
「いやー、それをしてしまうと、悲しむ人間多いんで…。じゃあそろそろ帰りますね」
仕事じゃなきゃ、こんなおいしい状態ないのにな……。
会社に無事、書類を持って帰ると、みんな驚いた顔で俺を見ていた。
この頃インターネットを通じ、仲良くなっていたらんさんが、『一大決心』というタイトルで最後の記事を書いていた。
―一大決心―
みなさん、いつもありがとうございます。この頃よくサボっていると思っていますよね?
実は、しばらくお休みしようと考えていました。
目に後遺症が残ったとは、書いてますが…、それも少しずつ悪化してきていました。
一応気をつけて、パソコンをする時にはサングラス装着です。また酷くなったので今では二つ重ねて掛けています。
パソコン開くとなかなか終われないんですよね~。どうしても、長時間やっちゃいます。
ブログは、生活の一部にもなっていたんですが…。すごく支えてもらえているし。でも、これ以上悪化させたくないと思ったので……。
眉やアイラインを書くのも難しくなってきました。
今くらいで抑えとかないと……。
めっちゃ、めっちゃ迷いましたが、こんな理由から、「ランの気まぐれな日々」は休止する事にしました。いつかまた再開したいと思っています。
ほんまに、みなさんには感謝しています。辛い時、苦しい時、すごく助けられていました。ありがとうございました。
たまには、みなさんの所へ遊びに行きたいと思っています。
「誰?」とか、なしですよ~。
ほんまにありがとうございました……。
気まぐれなので三日くらいで帰って来たらごめんなさい。
メールも大歓迎ですよ。ただ、返信は遅いと思われます。
ありがとうございました。―らん―
不定期で何度か更新はしていたが、ここまで悪くなっていたとは……。
俺は出来る限り明るくコメントを残した。それに対し、らんさんはすぐにコメントをくれた。
『神威さん、入れ替わりで休止しちゃってごめんなさい。神威さんの本が、世に出る事はもう私の夢でもあります。勝手な思いですが…。これからも素晴らしい作品を生み出して下さいね』
確かにパソコンは目に負担が非常に掛かる。らんさんがどんな思いでネット上にアップされた俺の小説を読んでくれたのか。考えると目頭が熱くなった。
実際に本という形にすれば、彼女の目の負担は減る。ならば絶対に俺は、世に出さなきゃ駄目だろうが……。
誹謗中傷も色々受ける。しかし暖かい言葉をくれるらんさんみたいな人もいる。
絶対に俺はこの子の為に、小説を世に出したい……。
ブログのやり取りでらんさんが消えるのは寂しい事だ。しかしそれ以上に彼女には良くなってほしい。
頑張って小説を書き続け、いつか世に出してやる。その時彼女にまた俺から連絡しよう。
らんさん、たくさんの勇気をありがとう。
神威龍一、頑張ります。
俺は役員の委任状をもらい、家業の役員会議へ出席した。
当然の事ながら、親父の妻三村は出席できない。しかし席に堂々と座っていたので、退場してもらう事にした。
今回の議題は、支店で独立したいという土地をどうするかというものだった。その支店は親父ら五兄弟の長女である親戚が経営をしている。問題なのが土地で、独立を認める代わりに賃貸契約し、月々家賃を支払えと言うのが親父側の要求。三村の娘婿が山のような書類を用意し、今後どのようにこの会社を運営していくかを語った。会計事務所へいたらしく、親父が前の会計士との契約を切って新しく娘婿を入れたのだ。
逆に支店側からは、親父の姉である和子おばさんが会議に出席していた。こちらの希望は今後独立するので家賃などでなく、土地を買い取りたいというものである。
馬鹿親父は頼もしそうに三村の娘婿を見て、彼が書類を見ながら説明するのを嬉しそうに頷いていた。
「まずはですね。こちらに去年の決算の書類を用意しました。で、今後のプランですが、支店に対しては月々の家賃収入として……」
「ごめんなさい、ちょっと待った。向こうは無関係でいたいから土地を買うって言っているのに、何故家賃収入云々って言っているんですか?」
「おまえは会社と関係ないんだから、向こう行け。消えろ」
親父が俺に怒鳴りつけてくる。
「あのさ委任の意味分かる?俺は二人の役員から委任され、ここにいる訳ね」
「そんなの関係ねえ。消えろ」
「え~と吉田さんって言いましたっけ?」
俺は三村娘婿に名前を聞いた。
「いえ、中曽根です」
「あ、全然違ってましたね。すみません。中曽根さん、うちの親父はこう言っていますが、これは役員会議ですよね?親父の発言どう思われますか?」
「あ、はい。これは役員会議です。龍一さんの言い分が正しいですね。二人の委任状を受けてこの場にいるのですから」
「そういう訳で親父、つまらない発言は控えてくれ。ガキの話し合いじゃないんだ」
悔しそうに親父は俺を睨みつけていた。
「で、支店の問題ですが、これは支店とうちのおじいちゃんの間で、どうすべきか考える問題だと思うんです。何故なら親父はまだ正式に社長就任した訳じゃないし、何故反対する人が多いかと言えば、当時ずっと会社の金を遣い遊び呆けていたからです。それをいきなり家賃収入とか都合が良過ぎます。そう思いませんか、中曽根さん」
親父では話にならない。俺はターゲットを中曽根に決めた。
「そ、そうですね……」
「では和子おばさん、おじいちゃん。土地を売り買いすると言う事ですが、お互いの希望額を言って下さい」
「財産分けと言う訳じゃないけど、二千万で」
「それはさすがに無理だ。あの駅前の土地でどれだけあると思う?」
「俺からのアイデアですけど、譲渡税の掛からない金額で収めるのが無難だと思います。おじいちゃん的には自分の娘なんだから安く売りたいはずです。でもあまりにも安くすると譲渡税で国に持っていかれるだけ。その辺のバランスを考えて答えを出したらどうでしょうか?」
「龍一、おまえさっきから余計な口を挟んでんじゃねえ!」
「おまえこそ、黙れ!この件だと部外者だろうが。社長になるからって図に乗ってんじゃねえよ」
「貴様、今言った台詞、覚えてやがれ」
「それはこっちの台詞だ。このクズ野郎」
役員会議一回目は、俺と親父の溝がさらに深くなった。
役員会議の最中、携帯が何度も鳴っていたので、終わったあと見てみる。会社の上司である佐山からだった。五回も着信があるので、何かあったのかもしれない。電話をすると、「神威さん、ちょっと愚痴を聞いてもらえますか?」といきなり切り出してきた。
「ええ、構いませんが」と答えると、よほど鬱憤が溜まっていたのか佐山は一気に話し出した。
所沢から来た店長とその部下、三人で飲みに行ったらしい。店長は散々飲み食いをして会計が一万円を超える。会計時、「俺、結婚してて金ないから」と千円だけ出し、とっとと帰ったそうだ。酷い話だが、この人も俺と飲んだ際、金を出していないのである。俺は「酷いですね」とだけ言っておいた。
現実に迫る問題と上司の愚痴を比較すると、とてもじゃないが比較にならない。俺は適当に相槌を打って電話を切った。
会議が完全に終わり、和子おばさんがこれから電車に乗って帰ると言っていたので、俺は「車で送ります」と言う。会議で疲れ果てたのか顔色も優れないように見えた。半ば強引に車の助手席へ乗せ、支店まで送っていく。途中、俺は静かに言った。
「いいですか、和子おばさん。俺を始め、心情的には親父なんかより、みんな、和子おばさんの味方なんです。それを忘れないで下さい」
すると和子おばさんは黙ったままハンカチを取り出し、目頭を押さえた。今まで辛かったのだろう。うちとは本当の意味で和子おばさんだけが身内である。実の兄弟である親父から罵詈雑言を浴びせられ、家では代表で役員会議に行ってこいと言われている現実。どのような悲しみなのかは俺には分からない。しかし今までの辛さがその涙を物語っていた。
母親のいなかった俺ら三兄弟を幼い頃、茨城の海へ連れていってもらった思い出もある。よく従兄弟である支店には泊まりに行った。様々な恩が俺にはあった。
親父はどうでもいい。それ以外の人が出来る限り笑顔でいられるような結末を迎えさせたい。
今の会社はどっちみちずっと続けるつもりはなかった。すでに辞めると伝えてある。上司がなかなかそれに対し、動いてくれないだけだ。
では、そのあとどうする?まだ何も考えていなかった。
また一から就職活動をして会社を見つけるしかないのか。こんな俺にサラリーマンなど勤まるのだろうか?
色々考えた。どうしたらいい……。
肝心の自分の進むべき道が何も見えなかった。
俺が一番彷徨い続けているのかもしれない。自衛隊からプロレスラーまでの道のり。肘を故障してから、ホテルでバーテンダー。そして歌舞伎町裏稼業時代。やってきた事は派手かもしれない。しかし何一つ俺には残っていない。
インターネットでブログを書くにしても、どんな事を書いていいか分からなくなった。
そんな時期、ブログでやり取りしていた子から、「龍さん、ここに小説出してみたら?」というコメントと共にアドレスが貼ってあった。クリックすると、『第二回日本で泣いちゃう小説グランプリ』という小説の賞のサイトである。原稿をプリントアウトする訳じゃなく、この会社へワードデータをメールで添付すればいいだけ。
泣いちゃうか……。
果たして俺の処女作『川越デクレッシェンド』は泣けるのか? 中には泣けたと言ってくれる人もいる。駄目元で出してみよう。俺は梗概を書き、メールで応募してみた。
幼少時代のピアノの政子先生と、飲みに行った。場所は俺の行きつけであるジャズバー。
お袋のとの決別を話した。先生は俺の現状を何一つ知らないのだ。そして前に電話した時、話が噛み合っていなかったので、その辺を聞いてみる事にした。
「先生、そういえば俺が六年生まで通っていたって言うのに、先生は二年生までだって、電話で言ってたじゃないですか?」
「うん、そうね。龍君は二年生の冬までだったかな」
小学二年生の冬。お袋が家を出て行った時期でもある。
「え、だって俺はちゃんと六年生までピアノへ行った記憶ありますよ?ちゃんとレッスンなど受けず、ピアノをまったくしない生徒でしたけど」
「うん、確かに龍君はいくら言ってもピアノを弾かず、お話ばかりしてたなあ。『ねえ、先生聞いて』って感じでね。でも龍君が私のところに来てたのは二年生までだよ」
「……」
おかしい。俺の記憶違い?いや小学六年生までハッキリ覚えているのだ。そんなはずはない。だけど何故先生とこうまで記憶が食い違うのだろう。
「よくお母さんが自転車の後ろに龍君を乗せて、うちまで送り迎えしてね」
「え、先生。帰り道、俺を送ってくれて、喫茶店連れてってくれたじゃないですか?」
「う~ん、悪いけど私は一度もあなたを送った事はないわよ?お母さんが迎えに来ていたしね。だから喫茶店も行った事ないし」
「え、だって俺、ちゃんと覚えていますよ?ピザトーストの味だって、インベーダーだって、クリームソーダだって……」
「う~ん」
「実は高校卒業した時、先生の家も一度行ったんです。ほら、市役所の近くの家」
あまりにも先生が覚えていないので、俺はこの事を言い出した。
「え?あのさ、龍君何か勘違いしているでしょ?」
「何でです? ハッキリ覚えていますよ。今だって」
「だって私の家はサンロードだから、市役所のほうに家はないよ?」
「え……」
その時、薄っすらと昔の記憶が蘇ってきた。お袋の乗る自転車の後ろに乗り、先生のところへ行く俺。確かに市役所のほうへは行っていない。サンロード、今ではクレアモールと呼ばれるレンガのお洒落な道を通りながら、政子先生のところへ通っていた。
すると、小学三年から六年まで通ったピアノの先生は、また別の人だったのか?
「よくね、龍君は私のところに来ると、『今日はね、パパとママが喧嘩したの』とか『今日はパパがママを殴ったの』とかいつも言ってきていたから、こんな時間経ったけど、ずっと気になっていたんだ……」
親父がお袋を殴った?昔の記憶は鮮明に覚えているはずだが、そんなシーンは覚えていない。でも先生の口から聞かされる当時の事実を聞く内、徐々に過去のシーンがゆっくり映像化して思い出してくる。
「私はあの素敵なお父さんがそんな事をするなんてと思ったけど、迎えに来たお母さんの目にアザがあるのを何度も見て、ビックリしてね」
家族とうまくいかないだけじゃない。お袋は親父に殴られ、やり場のない怒りが俺への虐待という形で出たのだ。親父がお袋を殴るシーンを思い出す。親父は金を持ち出して、家を出て行く。残されたお袋はシクシク泣いていた。
「ママ……」
幼い俺がお袋へ近づく。
「近づくんじゃないよ」
お袋の八つ当たりが始まった。左目の傷が疼く。
そう、あまりの凄惨な過去に、俺は自らこれまでその記憶を勝手に封印していたのだ。ちょうどその時が、お袋が出て行くまでの頃に当たる。政子先生とはその時期に会っていた。思い出したくなかった過去。それが二番目のピアノの先生といつの間にか同化していたのだ。
「先生、今…、ハッキリと思い出しました……」
「辛かったから、きっと今まで忘れていたかったんだよ。そうだよね、龍君」
俺は目に両手を当てながらも、泣くのを堪えた。行きつけのジャズバーで泣く訳にはいかない。
先生との再会は二十四年ではなかった。二十八年ぶりなのだ。
親父と関係があったと思われるピアノの先生と、政子先生はまったくの別人。
ジグソーパズルで欠けていたワンピースが、今ここでピッタリとはまった気分だった。
たった二年間、いや二年も習っていなかったかもしれない。しかも二十八年前の話だ。それなのに先生は、俺の事をずっと心に留めていてくれた。だからおじいちゃんと法人会で会った際、俺に名刺を渡してくれるよう頼んでくれたのだ。
今度は政子先生のこれまでの生活を聞く。先生は五十五歳になっていた。当たり前だが、その間に結婚し、子供を二人産んだ。男の子と女の子。二年前、先生の旦那さんは病気で亡くなったらしい。俺と会わない期間に、先生は先生のドラマがあったのだ。
亡くなった旦那さんを語る先生の表情は、何て表現したらいいのか分からない。悲しみを乗り越えた顔。ちょっと違う。先生の心の中で仲良く一緒に生きている。そんな感じに思えた。
息子さんは家業を継ぐ為大学を卒業後、大手企業に入り頑張っているらしい。
娘さんはバトントワリングの日本代表選手として活躍中。先生は娘の写真を持ち歩き、嬉しそうに「可愛いでしょう」と親馬鹿ぶりを発揮した。こんな親馬鹿ぶりなら、大いに結構である。
ジャズバーのマスターにお願いして、音楽をとめてもらう。
「政子先生、俺のピアノ聴いてもらえませんか?昔はちゃんと弾かなかった。でも、三十を超えた頃、好きな女できて、その子の為にピアノを覚えたんですよ。結局俺、わがままだから嫌われちゃって、市民会館で発表会までやったのに、その子、来てくれなかったですけどね……」
「そう…。龍君のピアノ、聴かせてくれる?」
「はい……」
俺はドビュッシー作曲の『月の光』を弾いた。先生の為じゃない。自分の為に弾いた。
「小さい頃さ、私が基本だけ教えたの。弾く時は手を真っ直ぐ伸ばして弾きなさいって。龍君、それだけはしっかり覚えてくれていたんだね。素晴らしい演奏ありがとう」
先生は優しくそう言ってくれる。
「いえ、こちらこそ……」
俺は席に戻り、頭を下げた。
「何であなたはそんな優しい音を奏でる事ができるのに、結婚して新しい家庭を築こうとしないの?」
「たくさんの女とつき合い、時には泣かせてきました」
「結婚したいと思った子は?」
「いません……」
「何で?」
「俺の体には呪われた両親の血が流れています。そんな俺が結婚して子供?不幸になるだけです」
現在の家の環境を話した。政子先生は黙って聞いてくれる。全部聞いたあと静かに口を開いた。
「そんなの分からないじゃない?あなたは優しい子よ。昔と変わってない」
「よくつき合っていた女と別れる時、どうしても許せない事があったんです」
「何を言われたの?」
「俺の過去をひと通り話します。それなのに、『お母さんを許してあげて』と簡単に言う。だからたくさんの女と別れてきました……」
「そうだね。そんな簡単な事じゃないよね」
俺は堪えきれず、その場に突っ伏し泣いてしまった。
うちの二回目の役員会議。またしても埒があかない。親父側の主張とこちらの主張では鏡のように正反対なのだ。今回平日だったので、会社は休む事にした。
俺はまず支店の土地の登記を済ませないと、法的にこじれると感じる。
親父のおじさんに相談し、間に入ってもらう。うまい事親父を言いくるめたおじさんは、判子をもらい、支店の和子おばさんのところまで一緒に行く。
土地の売買の契約さえ済ませてしまえば、こちらのものだ。譲渡税の掛からないギリギリの金額三千万で、登記も無事終わる。
この結果をあとで知った親父は、もの凄く怒り狂った。しかし何を言おうとあとの祭りである。
したたかなのは三村だ。会計士代わりに自分の娘婿を家に入れ、経理全般を任せた。当然支店の土地の売買で得た金は、会社名義である。三村は通帳と印鑑を隠し、おじいちゃんやおばさんがいくら言っても目の前に出す事はなかった。
親父や三村の生活が派手になる。支店の三千万円の金を遣いだしたのだ。いくら何でもありといっても、さすがにふざけるなと感じた。
当たり前だが、俺はこの件で一円の利益さえ得ていない。しかし親父はそんな俺に対し、「貴様は向こうの手先だ。二束三文で勝手に売りやがって」と罵倒してきた。自分たちで通帳を隠し遣っておきながら、よくもまあこんな台詞を堂々と吐けたものである。
気がつけば、俺は親父の首を喉輪の体勢で掴み、黒板へ叩きつけていた。
両手で俺の右手を振りほどこうともがく親父。今や完全に力は俺のほうが上だった。
幼き頃「面が情けない」と言っては殴り、台所で料理をしていると「女みてえな事をしやがって」と蹴られ、家の手伝いをしないとゴルフクラブで叩かれた。何か気に食わない事があると、いつも暴力で解決をしようとしたのだ。
これまで親父に手を出した事は一度もない。人妻が家に怒鳴り込んでこようと、三村がメチャクチャな行動を取ろうと、勝手に籍を入れようと、俺はずっと手を上げず我慢してきたのだ。親だから殴れなかった訳ではない。一度でも手をあげたら、今までの憎しみのあまり、殺すまでとまらないと思ったからだ。
ずっと理不尽な行為を繰り返し、家族を困らせてきた。それで社長になり、まだ己のエゴを通そうとしている。許せなかった。
あと少し首を捻れば、こいつは死ぬ。それがリアルに感じた。俺の根底にあるのは間違いなく両親に対する憎悪である。こんな奴、生きている価値があるのか?
親父、いや、もう父親などではない。どれだけみんなに迷惑を掛けてきたのだ。迷惑を掛けたのはまだいい。それを何一つ反省もせず、常に自分が正しいと主張しているのだ。
力なき頃、親父やお袋の暴力にいつも怯えていた。
勉強がいくらできても、暴力からは守ってくれない。
だから俺は強くなりたかった。だから二十歳の時、急にプロレスラーを目指した。あそこへ行けば強くなれる。そう思ったからだ。六十五キロしかない体重を必死に鍛え、寝ゲロをするまで飯を詰め込み、ようやく九十六キロまで持っていった。地獄のような日々だった。始めは回りに嘲笑された。百人が百人とも俺を指差して笑った。当時親父は自分の仲間達の前で俺を捕まえ、笑い者にした。
初挑戦のプロテスト。俺は何とか合格する事ができた。笑い者にしてきた連中を見返した瞬間でもある。地元の同級生たちが祝賀会を開いてくれた。楽しいひと時を過ごす中、同級生の一人が酒乱で大騒ぎをし、チンピラ十五名と喧嘩になる。俺は止めに行き、警察へ捕まってしまった。大和プロレスの社長であるチョモランマ大場に連絡され、入団は取り消し処分となる。
夢も希望もなくなり、自殺を考えた。しかし仲のいい先輩が家まで来てくれ、「おまえは生きなきゃ駄目だ」と説得。俺は泣きながら生きる事を選択した。ヤケクソで大和プロレスの合宿へ強引に押し掛け、たった一日だけだがレスラーたちと共にトレーニングをする。その時、ヘラクレス大地さんが「まだ体の線が細いけど、センスはいい。これから一年、頑張って体を大きくして、またおいで」と言ってくれた。その言葉だけを頼りに俺は苦渋の一年を過ごす。
翌年二度目のプロテストに受かりながら左肘を壊し、夢は断念。再度自殺を考えたが、死ねなかった。生きるほうが苦しいと分かりながらも、俺はそっちを選択した。
ホテルでバーテンダーの仕事をしていたが、「プロレスは八百長だ」と年中からかわれ、ずっと我慢をする。
居場所がなく、新宿歌舞伎町へ流れた。裏稼業は俺にとって非常に居心地が良かった。何故ならみんな、俺を怒らせるような馬鹿な真似をしなかったからだ。水を得た魚のように俺は様々な経験をし、十年を迎える。
総合格闘技の試合にも、その七年後出場した。『試合中に命を落としても主催者側に一切の責任を追及しない』という誓約書にもサインした。
何故自分が闘おうと思ったのか。今、その理由がハッキリした。
両親の呪われた血が流れるこの体。何度でも血を吐き出し、すべてを捨てたかったのだ。
自分が忌み嫌われる存在だと思う事があった。
血筋という因縁。自分の運命を何度も呪った。こんな両親から生まれた事を後悔した。
「やめろ、龍一!」
おじいちゃんが俺の腕にしがみついてくる。
その時思った。いや違う。俺にはおじいちゃんが一生懸命育ててくれたんだ。おじいちゃんが悲しむような事をしてはいけない……。
それに二十八年ぶりに再会した政子先生は、どんなに悲しむ。ネット上で知り合ったらんさんに、絶対世に出てやると誓ったんじゃないのか?まだ俺は自分の小説を世に出していないのだ。それだけじゃない。どれだけ多くの人が悲しみ、苦しむのだ。
今まで出会ったたくさんの人の顔が、走馬灯のように頭の中で流れていく。
親父を殺しても、何の解決にならない事ぐらい頭で理解していた。
俺は親父の喉から手を離し、自分の部屋へ駆け込んだ。そして静かに泣いた。
これまでの人生を何度も考えていた。
何故俺は生まれたのだろうか。
片方の親だけならまだ分かる。両親揃って何故あんなにメチャクチャなのだろうか。しかも、戸籍上では三村が現在の母親となっている。世の中で一番そうなってほしくない女が母親なのだ。
知り合いから「おまえはよくグレず、ヤクザ者にならなかったなあ」と言われた。当たり前だ。俺がなったら、おじいちゃんが悲しむ。そんな事はできなかった。
裏稼業に身を落としたが、自分の中の義は捨てていない。
自殺をしようと何度も考えた。遺書だって書いた事がある。だけど俺には死ぬ勇気などなかった。
生前おばあちゃんがよく言っていた言葉。
『成せば成る。成さねば成らぬ何事も。成さぬは人の成さぬなりけり』
俺に向かって、おばあちゃんはそう言っていた。成せばとは、行動するという意味。成るとは、結果として得られる状態。願いの成就とは勝手に訪れるものではなく、自らの力で作り上げるもの。思い通りの結果が得られないのは、自分が実現に向けた努力をしないからだ。そういう意味合いで、俺は今でも思っている。
内弁慶という言葉があるが、親父はそれより酷い。家では残酷な限りを尽くし、外では金をばら撒きいい人ぶっている。ジキルとハイドみたいな変わり身だ。近所の評判は滅法いい。いつもニコニコで金払いもいい。明るく周囲を照らし、祭り事では先陣を切って張り切る。好かれる訳だ。しかしその背景には、家の金を自由に持ち出し、なければおばさんの金まで盗む極悪非道ぶり。気に食わなければ暴力に訴え、やりたい放題なのだ。
お袋にも当然恨みはあったが、処女作『川越デクレッシェンド』を書き、主人公には俺の虐待されたシーンをプレゼントした。作品が完成した時、少しスッキリし、浄化されている自分に気づいた。
それから現在まで俺は、暇さえあれば小説を書くようになっていた。
一度『天使の羽を持つ子』という小説を書いた事がある。内容は俺の今までの自伝である。お袋の虐待から始まり、親父の傍若無人さなどを書き綴った嫌な作品だった。原稿用紙で千六百十枚まで書いたが、自分自身が嫌になり執筆途中でやめてしまう。
作品を披露する小説サイトで、この『天使の羽を持つ子』は半年ほど掲載した。当時二万作品ぐらいある中で、文学部門連続一位だった作品でもある。
こんな事をしても世に出た訳じゃない……。
そう感じた俺は作品を削除した。あまり自分の身内のゴダゴダを見せるのはよくない事だと思った。それに千六百十枚になった作品など、どの出版社も扱ってくれない。
お袋は過去の話……。
小説を書いた事によって、トラウマだった過去を浄化できた。それまでをまとめ『鬼畜道』という作品を書いた。
親父は現在進行形……。
小説を書いても、未だ浄化できない。それは現在もその因縁が、ずっと続いているからなのだ。
平行したように世の中もどんどんおかしくなっている。ありえない事件の多発。異常気象。様々な変化が徐々に押し寄せているのだ。
頭の中で色々なアイデアが思い浮かんでくる。
思った事を作品に投影し、とにかく書こう。
もういいやってなるまで必死に書こう。
こうして俺は三十五歳の誕生日を迎える。
一心不乱に俺は小説を書き出した。様々なジャンルの作品を好きなように書けばいい。
上司の佐山から電話が入る。
「何でしょうか?」
「ちょっと神威さん、愚痴なんだけど聞いてくれないかな?」
「すみません。今、立て込んでいますので…。それより俺、何度も辞めたいと会社に言いましたが、いつ頃辞められますかね?」
「う~ん、店長もまだ上に報告していないみたいだしね……」
「そうですか」
辞めると伝えてから、二ヶ月が経っていた。要は何の進展もその間ないという事だ。
「あのさ、実は店長が病気で入院してね。それで勝手に社員同士で花束を買おうってなったみたいでさ。私はそんな事知らないのに、あとで金だけ請求されてさ」
佐山の話などどうでも良かった。今の俺には笑顔で聞けるだけの余裕がない。
「佐山さん、すみません。今、立て込んでいるんです。それと俺、明日から会社行きません。ちゃんと報告しても駄目なら、こっちも勝手にします」
「え、ちょっと待ってよ、神威さん」
俺は電話を切り、電源を落とした。
これで職もなくし、八方ふさがりだ。いや、そうじゃない。俺にはまだ小説というものが残っている……。
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