仕事もロクに手がつかぬまま、時間はどんどん過ぎていく。
河合は何事もないように自然に振舞っている。私は昨日怒鳴った件からか、みんなの対応がどこかよそよそしい。
河合は私にパソコンというものを与えた代わりに、それ以外すべてのものを奪おうとしているように見えた。
ずっと築き上げた信頼など、崩れる時は脆いものである。
疲れた……。
もう、この先、どうなってもいいか……。
妻が抱かれたら、私はそのあとどのようにみゆきへ接するのだろうか。自分でも分からない。
子供たちはどうなる。
完全に壊れようとしている両親を目の当たりにして、どう育っていくというのだ。
河合はいい…。あいつは人の家庭を自己の快楽の為だけにメチャメチャにして会社から去り、新天地を求めるだけである。
考えれば考えるほど、答えが遠のいていくような気がした。
河合を説得する…。絶対に無理な話だ。あいつは犯人のタイプで言ったら、完全な愉快犯だ。そんな人間に良心やモラルで訴えても通じる訳がない。
存在自体を消したいが、現実では難しい。
では、どうするのだ? 何が一番いい?
河合は殺せない…。では、私は……。
過去、これ以上生きていてもいい事など何もない。そう絶望の淵に何度も立たされ、死というものについて色々考えた。
私は何故、生まれてきたのであろう。
両親は何故、私を置いて捨てていったのだろう。
希望にあふれる事など、みゆきに出会うまで何もなかった。
今、それさえも崩れようとしている。
憎い…。殺してやりたいほど、河合が憎い。
誰からも忌み嫌われ、誰からも必要とされず…。また暗黒のあの頃の時代へ、私は戻らねばならないのか。
やっと普通の人間らしくなれてきたと、自分で思っていた。
そんな些細な事すらも、神は許してくれないのか。
こんな人生の連続。この先明るい未来などあるのだろうか。
時間だけが刻々と過ぎ、終業時間になってしまう。定時を告げるベルがなった瞬間、河合は私を見ていやらしそうに微笑んでいた。
帰り道、河合は私の横に並んで歩いている。
「課長、奥さんには何か言いました?」
「いや……」
「ふ~ん、まいっか……」
まいっかという台詞で、ブログ仲間のちゃちさんの部屋を思い出す。確か彼女のブログ名は、「MA IKKA」だった。まいっかという言葉。今までいい感じにとらえていたのに、こいつがその言葉を使うとまるで違う風に感じるから不思議である。
河合は途中で酒屋に寄り、ビール一ダースにウイスキー、焼酎、ブランデー、ワインなど様々な種類の酒を購入している。この酒と持参した例の薬で、私の妻を眠らせようとしているのだ。
数時間後には、河合の思い描く欲望が実現する。
私は、堪えられるのだろうか。
今、横にいるニヤケ面の部下に、自分の妻が抱かれる事に……。
自宅へ辿り着くと、いつもと同じように、いや、息子の卓と娘の佳奈だけが玄関先まで迎えにくる。
「あー、河合のお兄ちゃん!」
河合の姿を見るなり、大はしゃぎの佳奈。父親である私に挨拶もせずに、いきなり河合か…。まだ十歳の佳奈の発言に対し、苛立っても仕方ないのは自覚しているが、面白くない。
こいつの実態をみんなの前で、思い切り暴露したかった。しかしそんな事をしても、子供たちは傷つくだけだし、私は社会的信用を失うだけである。
「久しぶりだね~、佳奈ちゃん。元気だったかい、卓君」
「うん、元気」
子供たちに見えぬよう私は、後ろで拳を握り締めていた。
この偽善の快楽志向主義者め……。
居間へ向かうと、妻のみゆきは、かなり時間を掛けたような料理をたくさん作り待っていた。河合を見掛けると、嬉しそうに顔が歪む。
「奥さん、久しぶりです。あら、どうしちゃったんですか? この料理の数々…。見ているだけで癒されますよ」
「また~、ほんと、河合さんたら、お上手ね~」
昨日私に叩かれた事など微塵も出さずにみゆきは笑顔でいた。歯痒い思いでいっぱいになる。
「河合さん、具合悪いの、良くなったの?」
「ええ、おかげさまで…。ご心配掛けてすみませんね」
「佳奈、お兄ちゃん来るの、楽しみにしてたの」
「そっかあ。お兄ちゃんも佳奈ちゃんに会いたくてねえ。楽しみにしてたよ」
「ねえ、僕は?」
「もちろん卓君もさ」
私だけ存在感のない寂しい食卓。
どいつもこいつも、いい顔ばかりしやがって……。
「ほら、河合さん。温かい内に、たくさん食べて下さいな」
「あ、いただきま~す。うん、これ、メチャクチャうまいっすよ!」
「さ、どんどん召し上がって」
相変わらず調子のいい奴だ。みゆきもこんな奴に愛敬を振り撒きやがって……。
疎外感を覚え、食欲すら失せる。みゆきは私に対して料理を作ったのではない。部下の河合にいいところを見せたくて、作っただけなのである。
一見はたから見ると、楽しそうな食卓だ。もちろん私も精一杯の作り笑顔をしているのだから……。
「おいしいでしょ、このステーキ。お肉屋さんでね、いいお肉入ったって言うから、ちょっと奮発してみたの」
「課長って、本当に幸せですね~。こんなにおいしい料理を作る奥さんに、可愛いお子さんたち…。絵に描いたような、ほのぼのした家庭ですよ。憧れちゃうなあ~」
一瞬、妻の表情が強張ったような気がした。昨日私が叩いた一件を思い出したのであろうか。
「嫌だわ。河合さんたら……」
このあとで、想像もできない惨劇が待ち受けているとも知らず、楽しい宴は続く。
すっかり腹も満腹になり、眠気に襲われた子供たちを寝かしつけると、河合は持参した酒を食卓の上に次々と置きだした。
「たまには、奥さんも楽しまないと…。どうですか?」
「あら、そんな気を使っていただいて、すみませんねえ」
すべての酒を並べ終わると、河合はビールを三缶取り、私とみゆきの目の前に置いた。
「とりあえずは、ビールで乾杯といきますか?」
「ええ…。何だか、こういうのって久しぶりだわ。ちょっとグラスを用意してきますね」
「ええ、お手数掛けてすみませんね」
用意された三個のグラスに、ビールを楽しそうに注ぐ河合。さぞかし期待で胸が大きく膨らんでいるのであろう。
「課長もビールでいいっすか?」
「……」
とうとう奴のシュミレーション通り、始まってしまった。あとは河合からのサインが出たら、私はこの場からいなくならないといけない……。
「あれ、課長?」
「あ、ああ……」
「では、かんぱ~い!」
妻が犯される計画のゴングがチーンと静かな音を立て、鳴り響いた。
最初の一時間は、河合も私に会話を振りつつ、通常の状態でいた。買ってきたビールがなくなると、次はウイスキーのボトルを開ける。
「私、ウイスキーって飲んだ事、まったくないのよ。だってそのお酒、強いんでしょ?」
「そんな事ないですって。ちゃんと水割りで薄く作りますけど……」
「うーん、どうしようかな……」
「いい機会です。ウイスキーの味をちょっとでも知っておくべきですよ」
「じゃあ、ちょっとだけ……」
「あ、奥さん」
「なあに?」
「図々しい事を言っちゃっていいですか?」
「うん」
「できればつまみを…。俺、いつもウイスキー飲む時って軽いつまみないと、気分出ないんですよ。わがまま言っちゃっていいですか?」
「チーズとか簡単なもので良ければ」
「すみません。ありがとうございます」
妻が再び台所に立つと、河合はこれ見よがしにポケットから小さな紙袋を取り出した。粉状の薬みたいなものを妻のウイスキーの入ったグラスに入れ、掻き回した。
パッと見た目、普通の水割りにしか見えない。
「課長は、ロックにしますか?」
「……」
私の目の前で、よくもぬけぬけとそんな真似をしてくれたな……。
「あ、そっか…。課長、今日のブログの様子が気になっているんでしょ? 今、奥さんも簡単なものを作ってますし、今の内にちょっと見てくればいいじゃないですか?」
ついにきた河合からの悪魔のサイン……。
自分で立てた計画通り、こいつは寸分の狂いもなく進行させる。
「ね、奥さん。別に構わないでしょう?」
「え?」
「いや、このあと、俺が奥さんにパソコン教えるのに、課長がブログをちょっとやらせてくれとかなるぐらいなら、今の内に先、やっといてもらえたらどうかなって」
「そうね。まだ、ちょっと時間掛かるし、どうぞ」
「奥さんの許可もとったし、俺は一人でウイスキーをチビリチビリやってますから」
イエスとしか答えられない状況。もしここで私がノーと言ったら、河合はこの場で色々とぶちまけるだろう。素直に従うしかないのだ。
「ああ…。では、お言葉に甘えて、ちょっと行ってくるよ」
後ろ髪を引かれるような思いで私は席を立ち、居間から出た。
一瞬、振り返ると、河合はいやらしい笑みでこっちを見てピースサインをしていた。
どこまでこいつは私を愚弄するつもりなのだ。拳を固く握り締め悔しさを噛み締めながら、ゆっくり居間から離れた。
とりあえずパソコンを本当に起動させる。
河合がチェックにくる可能性もある。もうじき妻は薬によって、うまい具合に眠らせられるのだ。
何もできず、ただ状況を見ているだけの情けない私。
今まで生きてきて、これほど悔しいと思った事はなかった。
最後に見たあの笑い顔。まるで勝ち誇ったように見えた。
今後の展開がリアルに想像できた。
薬で意識が朦朧となるみゆき……。
河合は普段私たちの眠る寝室へ妻を抱き運び、一枚ずつ衣服を脱がせていく……。
体中の血液が、限界点まで沸騰しそうだった。
形だけ自分のブログを開きモニタ上に出すが、コメントも何も目に入らなかった。みゆきは私の妻だ。それが……。
頭を掻き毟りながら、テーブルの上に両肘をつく。
気が狂いそうだ。私はこのまま指をくわえているしかできない。
何で私ばかりこんな目に遭わねばならないのだ。世の中、本当に不公平だ。何故私が、こんな嫌な思いを堪えなければいけない。理不尽だ。世の中、おかしい……。
あんな奴、別に殺したっていいじゃないか……。
そうすれば、私はこの苦悩から解放される。
卓や佳奈の為にも、あのような害虫を生かしておくと、何の為にもならない。
私は辺りを見回し、何か凶器になるものを探した。素手では、あの男に絶対敵わない。幸いのところ、河合は私を舐めきっている。
そこをうまくつけば……。
引き出しを開け、急いで凶器になりそうなものを探す。
「……!」
私が学生時代から愛用していた鉛筆削りようのナイフ。引き出しの奥で鈍い光を放ちながら眠っていた。静かにそれを取り出すと、私はゆっくり立ち上がる。
「課長……」
「……!」
いつの間にか、背後に河合が立っていた。
「そんなナイフで、何をしようって言うんです?」
いつの間に、こいつは…。ここは何とか誤魔化さないといけない。
「い、いや…。別に……」
河合は青ざめる私を見ながら、冷たい視線で見つめる。
「くだらん真似は、せんで下さいよ。今なら奥さんだけで、穏便に済むんですから」
「み、みゆきは、どうしたんだ?」
「テーブルの上で、気持ち良さそうに眠ってますよ」
「……」
「試しに洋服の中に手を突っ込んで、乳首を触っても、ぐっすりで反応ゼロでした」
「き、貴様……」
「奥さんの乳首、ビンビンに立ってましたよ、課長」
頭の中が真っ白になった。気づけば右手に持っていたナイフで、河合に襲い掛かっていた。
もの凄い激痛が背中に走り、バランスを崩した。
目を開けると、目の前には床が見える。
「人殺しになるつもりですか? まったく……」
上から河合の声が聞こえる。どうやら襲い掛かったが、簡単に避けられ、背中に強烈な打撃を食らったらしい。おかげで指の先まで痛みでジンジンしていた。
視界に河合のつま先が映ったと思うと、急に火花が飛んだ。
倒れた状態で、顔面を蹴られた……。
そう思った瞬間、意識は遠退いていった。
真っ暗な漆黒の暗闇。
頭がガンガンする。
妻は…、みゆきはどうなったのだ……。
全身に力を込め、何とか起き上がる。
あの時、右目辺りを蹴られたのか、視界に映る景色が変だ。物が二重に見え、ピントが合わない。
指で目の淵を触ってみると、赤い血がついていた。
「クソ野郎が……」
体中が痛い。しかしこの怒りに比べたら、そんなもの屁でもなかった。
「河合っ!」
腹の底から絞り上げるように、大声を張り上げた。
視界がおかしいせいで、まともに歩くのも難しいが、そんな事をいっている場合じゃないのだ。
急いで寝室へ向かう。
大きな音を立て、ドアを開ける。
二重に見える視界に映ったのは、衣服のはだけたみゆきのあられもない姿と、下半身裸になっている河合の汚い尻だった。
「おいおい、課長さんよ~。もうちょっとで、いくところなんだからさ。いいところを邪魔すんなや」
妻の膣に結合しているのをハッキリ確認すると、全身が炎に包まれたような怒りで覆われる。怒りで全身が震え、視界が徐々に狭くなっていく。
「もう少し倒れてろよ」
さっきまで布団の位置にいた河合は、私の目の前まで迫っていた。
「ぐっ!」
腹に凄まじい衝撃が走る。私は汚物を口から巻き散らかしながら、床を転げ回った。
両手で腹を押さえ苦しむ私に、河合は躊躇なく再度蹴りをぶち込む。
「……」
息すらできない状況でのさらなる激痛…。髪の毛を持たれながら引きずられ、私は部屋の隅に動かされた。
「しばらくそこで、俺と、あんたの奥さんの様子をおとなしく眺めていろ!」
私に唾を吐き、再び河合はみゆきの元へ戻っていく。
意識のない妻。そこに好き放題、腰を振り続ける河合。
私は無力であった。
何もできず、何の役にも立たず……。
悲しみで涙が、溢れ出てくる。
神様、もし本当にいるのなら、私に力を下さい。河合を殺す力を下さい……。
体がいう事を利かない私は床に顔を貼り付けたまま、その光景を見ているだけしかできなかった。
悪魔のような笑い声を立てながら、河合は妻の体を自由に弄っていた。
私の願いなど、何も届かない。
目の前で最愛の妻が犯されているのに、体一つ満足に動かせない。
この恨み、一生私は忘れない。
いつになってもいい……。
一生を懸けて、この男へ復讐してやる!
よくも平穏無事に暮らしていた私の家族を…。みゆきを……。
「何やってんだ! やめろ!」
入り口の方から息子の卓の声がした。まさか、この地獄の光景を息子が目の当たりにしているとでもいうのか…。
「何だ、坊やか。ビックリさせやがって……」
みゆきの体から、河合が離れる。一体、何をするつもりだ。
「や…、やめ…、ろ……」
私は立ち上がろうとするが、まったく体が動かない。声すらも満足に出せない状態だった。懸命に足掻き、息子のいる方へ体を向けようとした。
「まだ、ガキには十年早いんだよ!」
「うわーっ……」
「このクソガキが!」
卓が河合に殴られる鈍い音だけが聞こえる。情けない…。親として、私はこんな状況下で、何もできないのか。
一瞬、妻の目が開いたような気がした。いや、錯覚ではない。みゆきが意識を取り戻したのだ。
頼む、みゆき…。卓を助けてくれ……。
自分の吐いた異物の異臭が、鼻に浸入するのも構わず、ありったけの声で叫んだ。
「みゆきー!」
私の声で現実に戻れたのかみゆきは上半身を起こし、虚ろな視線でボーっとしていた。
「みゆきー。みゆきー」
自分でお腹を痛めた息子が、今目の前で殴られ続けているざまを見て、妻は表情を一変させる。
「か、河合君…。あ、あなた…、何をやっているの?」
視界からみゆきの姿が消えた。河合に向かって飛び掛ったのだ。
私はこの地獄絵図のような現状に対し、祈るしか方法はない。
自分の力のなさが悔しい。視界外の状況を見る事もままならず、情けない私。しかし今はそんなものより、みゆきや卓の安否をひたすら祈るばかりである。
数人の荒い息遣いだけが、私に状況を物語っていた。
みゆき…。卓……。
「おらっ、静かにしろや!」
派手な物音が立ち、辺りはシーンと静まり返る。
「……」
心臓が激しく動き、大きな音を立てていた。一体、どうなったのだろう……。
「あらら~、奥さん、ぐったりさんですね~」
「……!」
河合に抱きかかえられ、再び布団に運ばれるみゆきの姿が映る。意識を失っているのか、妻は力なく首をうな垂れていた。
「か、河合!」
乱暴にみゆきを布団の上へ寝かせ、着ている衣服を破って脱がしだす河合。
「あぁーーーっ!」
旦那である私を嬉しそうに見ながら、河合は、自分の下半身をみゆきの膣に挿入しだす。
「課長、最高っすよ。奥さん、いい締まり具合だ」
目の当たりで展開される凄惨で屈辱に満ちた性行為。無意識の妻に対し、河合は欲望の赴くまま、激しく腰を振っている。
何故、みゆきが、このような目に……。
何で私が、こんな思いをしなければならない……。
「あぁ、気持ち良くて、いっちゃいそうだ。課長、中出ししちゃいますよ!」
「殺してやる……」
心の底からその台詞を吐き出した。悔しさと憎悪…。そして殺意……。
河合の悪意に満ちた表情。ついこの間まで明るい私の部下だった男に、今自分の女房を犯されているのだ。
こいつは何を考え、何故こんな行為をしでかしたのか。いや、そんな事はどうでもいい。私の妻に乱暴な真似をし、子供の卓にまで手を出し、私にまで……。
絶対に許さない。妻を…、子供を……。
どんなに時間を掛けても、絶対に許さない。
「妊娠しちゃうかな? 課長、奥さんメチャクチャ気持ちいいじゃないっすか?」
自己の性欲を済ませ、倒れている私の目の前で河合は裸のまま座り込んだ。
今まで生きてきた中で味わった悔しさ、悲しみ、憎悪…。負の感情を眼力に込め睨みつけた。
「おぉ、こわっ! 課長、そんな目つきもできるんですね~」
「……」
「本当にその目を見ると、お袋に似ているって思うよ」
「なに?」
「似たもの夫婦とはよく言ったもんだ。俺のお袋に似ているって、言ったんですよ」
「……!」
冷酷な笑みを浮かべながら、河合は淡々と口を開いた。
激痛で、自由に体を動かせない私。
気にせず、河合は勝手に話し出す。
「俺が生まれる前の話だけどね」
「……」
「一人の女が身籠った状況で、実家に帰ってきた。その女の両親は、一度、結婚に失敗した我が娘を激しく怒ったらしい。当たり前だよな。やっと実家に帰ってきたと思ったら、今度は妊娠してんだから……」
「だから何だ?」
河合の目つきが鋭くなる。
「いいから黙って聞いていろよ」
「……」
「両親の反対にあいながらも、その女は身籠った我が子を産んだ。親父が誰かなんて知らねえ状態でだ」
人の妻を私の目の前で犯しておきながら、こいつは何を抜かしているんだ。
「その生まれた子ってのが、この俺だよ……」
「それが何だって言うんだ、クソ野郎!」
顔面に激痛が走る。こいつに顔を蹴飛ばされたらしい。鼻の奥からドロリと血が出て、うまく呼吸できないでいた。
「人をはらませておいて、それが何だだと……」
「……」
「それが自分の子供に言う台詞かよ、親父っ!」
「な、何っ!」
「なあ、親父っ! あんた、ずっと俺が、あんたの子だって気付かなかったよな?」
「な…、何を馬鹿な……」
「実の母親を実の子供がはらませるなんて、あんた、何を考えているんだ? そりゃあ、高校生の時じゃ、女とやりたくて溜まらない時期だろうよ。だからって自分の母親とセックスする馬鹿がどこにいるんだよ!」
高校時代、母親に犯されたトラウマ…。あの時から私は絶望に包まれていたが、肝心な事を気付かないでいた。
私は実の母親の胎内に、自分の精子を出していたのだ……。
「実の親を妊娠させ、その生まれた子の存在などずっと気付かずに、自分は温かい幸せな家庭を築いている。どんだけ俺が惨めだったか、おまえに分かるのか?」
この悪魔みたいな河合が、私の子……。
「今でも俺は、自分の存在が嫌で溜まらない。すべておまえのせいだ!」
「……」
「ここまでの事をしたんだ…。命など、いくらだって投げ捨ててやるよ。武士は昔、切腹で自分の責任を取ろうとしてたな? 都合いい責任の取り方だよな。いくら悪事を働いたって自分で腹を切れば、それで責任済ませたつもりなんだからな…。この日本じゃ美学とまでされている。じゃあ俺も切腹すればいい訳だろうが? 違うか? おい、親父っ!」
頭の中が真っ白で、何を言っていいのか分からなかった。
私はずっと今まで自分自身、被害者妄想で自己を守ってきたのか。
ずっと己を忌み嫌われし子という例えを使う事により、悩んできたつもりだったのか。
河合…、いや、我が子…。この子のほうが、私よりもずっと生まれた時からの業が深い。この子に比べれば、私は今まで甘えてきただけだ。
「同じ会社へ入れるように、俺、頑張ってさ…。あんたと同じ部署に配属になった時さ、どんな気分だったと思う?」
「……」
「俺があんたをどんな気持ちで、課長と呼んでいたと思う?」
激しい涙を流しながら、河合は叫んでいた。
「積年の恨みが、今、やっと果たせたんだ…。悔いはねえよ……」
妻のみゆきや、息子の卓にした事を考えると、殺したいほど河合が憎かった。しかし何だろう。この不思議な感情は……。
「すまなかった……」
自然と出た言葉は、謝りの言葉だった。
「俺がさ、いつ、この計画を企んだか…。どうして実行しようとしたか、おまえに分かるか?」
「私の存在に気付いた時か……」
「そんなんじゃねえよ…。あんたがブログ名をつけた時だよ!」
「……。そうか……」
ご機嫌パパ日記……。
生を受けた時から、河合はずっと茨の道を歩んできたのだ。ひょっとしたら、私と同じ会社に入った時はまだ血の繋がりというものを、どこかで憎しみと一緒に期待していたのかもしれない。
それが自分の存在にはまったく気付かず、私はほのぼのして幸せな家庭を築いているのだ。彼のやり場のない怒りは、深い心の奥底にひっそりと積み重なっていた。
「俺も、死ぬ覚悟はできている。ここまでやっちゃあな…。ただ、あんたには不幸のどん底に、落ちてもらいたかったんだよ。死ぬ前にな……」
憎悪の塊となって生きていた我が子……。
この狂気に満ちた行為は、私の責任でもあったのだ。
「……」
安易な言葉を彼に掛けられなかった。
「何とか言ってみろよ、親父っ! てめーの大事な奥さんは自分の息子に抱かれ、中にまで出されているんだぞ!」
みゆきにも、卓にも、そして佳奈にもすまない事をした。
いくら謝っても許される事ではない。以前なら、私を産んだ母親のせいにしていただろうか。確かに母親に一番責任はある。しかし彼の存在を今の今まで気付けなかった私も同罪だ。
やはり、この世に存在してはいけなかった存在だったのか……。
私と彼……。
父親と息子……。
私と河合……。
上司と部下……。
母親の胎内で果てた時から、私の業は始まっていたのだ。
「何とか抜かしてみやがれ!」
絶望に満ちた我が子に、父親として何とかしてやれないのだろうか。心の奥底に無数の傷を負い、ここまで人格が壊れてしまった我が子よ……。
あれほどあった怒りは消え、情けの心だけが、私の中に残る。
「教えてほしい……」
「何をだ?」
「君の名前を……」
私の言葉に彼はギョッとした反応をし、大粒の涙をボロボロとこぼし出した。
自分でもとんでもない事をしてしまったという自責の念に包まれていたのだ。
「うるせーっ!」
彼の懐から飛び出した光る物。右手には鈍い光を放つナイフを持っていた。それは、先ほど私が、彼に殺意を抱いた時に見つけた学生時代愛用していたナイフだった。
「貴様になど俺の名前は教えない。絶対に教えない。俺はここまでの事をした。警察も馬鹿じゃない。捕まり、ずっと務所暮らしになるだろう。もちろんそんなのはごめんだ。だから親であるおまえの前で、このまま自分で首を掻っ切ってやるよ!」
「や、やめろ……」
彼は、大きく目を見開いた。あれほど私を憎んでいた部下の河合。しかし本当に望んでみゆきを抱いたんじゃない。ただ私の家庭をメチャクチャにしたかっただけなのだ。今、彼は激しい後悔の念の波の中にいる。
「我に流れし血、呪いの血脈なり…。我、忌み嫌われし子。誰からも必要とされず、故に一人、孤高に生きる……」
「やめろ……」
死んではいけない。こんな状態で自らの命を絶たせるなんて駄目だ。私は彼に父親として、何一つ使命を果たせていない。
「これが、おまえの息子の散りざまだっ! 自分のしでかした事の幕は、自分で閉じる!」
ナイフが視界から消えた。
完全に捻じ曲がった心。しかし我が遺伝子を組む息子なのだ。
息子の今までの言動や行動、許しがたいものがある。
私はずっと両親を恨み続けてきた。彼にとっては私以上の憎悪があったのかもしれない。
私は両親とは違う。今まで息子の存在すら知らなかった罪。彼に、いや息子に何とかできる事はないのだろうか。
親から受け継いだ忌々しい血脈。
できれば私の代で、それを変えさせたい。
親がそうだったからといって、私まで、そうしなければいけないという訳でもない。
私は私…。あの両親とは違うのだ。
私は私の思うまま、自分の判断で動こう。
父親としての背中を私なりに見せよう。
「やめろ!」
あれだけ動けなかった私は、すごいスピードで立ち上がっていた。
自分の喉へナイフを突き刺すべく、高く振り上げた彼の右手。ナイフが彼の喉元へ向かって突き進んでいく。
それがまるでスローモーションもように見える私。
あっけなく彼の右腕をつかまえる事ができた。
「何しやがる!」
呆気にとられた隙に、私は彼からナイフを奪った。
「今まで父親として、何もできずにすまない…。ただ、これから私のいう事を二つだけ、聞いてほしい。これは命令でなく、父親からの願いだ」
「今さら何を抜かしてやがる」
私に襲い掛かる我が子。
あれだけ歯が立たなかったのに、彼の動きはとても遅く感じる。不思議と痛みも何も感じていない私は、彼の攻撃を簡単に避け、ナイフを持っていないほうの左腕で殴りつけた。
「一つ、子供が親よりも先に死んではいけない…。子が親より先に死ぬなんて、一番の親不孝な行為だ」
「ふざけた事を抜かすなっ!」
「もう一つ…。名前を教えてほしい。自分の息子の名を知らぬまま、私が先に逝くなど悲し過ぎる…。本当にすまなかった…。名前を教えてくれ、我が息子よ……」
「ふざけるなぁ~っ!」
私に殴られ地面に倒れた息子が起き上がり、鬼のような形相で向かってくる。彼を私は救えない。でも反面教師となる事はできる。
「……」
息子の動きが止まり、私を呆然として見ていた。
私は学生時代から愛用していたナイフを首筋に、自ら突き刺した。首の辺りが生温かくもの凄い血が噴き出すのが視界に映る。
「お、親父ーっ!」
「ご、ごめん…。も、もう一つ…。男なら、自分で最後にやった事は、自分で責任を取ってみろ…。私の行動は…、は、反面教師として…。い、生き…、ろ……」
視界がどんどん霞み、我が子の顔すら見えなくなっていく。
実の父親が、幼い私を抱きながら、どこか細長い道を歩いていた。
五歳の私に母親がしがみつき、声を押し殺して静かに泣いていた。父親が急に家を出て行った日だった。
実の母親が裸のまま、高校生の姿をした私の上で腰を大きく振り、乳房を揺らしていた。
大学生時代、行きつけだった喫茶店に、新しく入ってきたバイトの子。ひと目で心を奪われそうだった。過去の複雑な思いを胸にしまい込み、勇気を出してデートへ誘う。照れ臭そうに赤面させながらバイトの子は、自分の名前をみゆきと名乗った。
入籍も済まし、結婚式を終え、みゆきが正式な私の妻になった。みゆきは嬉しそうな表情で、子供は二人ほしいと明るく将来の希望を語った。
キン肉マンが大好きだった私は、初の子供が息子だと分かると、卓という名前をつけた。みゆきには、もの凄い反対にあったが、自我を押し通す形になった。
学生時代、小説家を目指していたみゆきは、女の子が生まれると佳奈という名前にこだわった。訳を聞くと自分が過去に書いた主人公の名前が、佳奈だった。当然反対したが、今度はみゆきの自我を押し通された格好になってしまった。
何度も家族仲良く旅行へ行った。まだ幼い卓と佳奈は、どこへ連れて行ったのか、ちゃんと覚えているのだろうか。写真を見る限りでは、みんな笑顔でニッコリとしていた。
卓の小学校入学式。みゆきと佳奈を連れ、家族みんなでお祝いに行った。
佳奈の小学校入学式。みゆきは佳奈の晴れ舞台に涙を滲ませていた。
狭いマンション暮らしから我が家を買おうと、みゆきと相談した。普段大人しい感じのみゆきが、この時ばかりは大はしゃぎしていた。
卓の中学校入学式。すっかり息子も一人前の男らしくなってきた。
あちこちでいい人を演じるのに、疲れを感じるようになった。会社でも、家でも、私はいつも笑顔でニコニコしている。死ぬまで、この状態を保っていかねばならないのだろうか。仕事中でも、家で休んでいても、そんな事ばかり考えていた。
部下の河合がひょんな事から接近し、四十歳になって私はパソコンをやり始めた。ブログというものを自分で持ち、徐々にパソコンにはまっていくのが分かる。みんなからのコメントが来るのをいつの間にか、心待ちにしている自分がいた。
ブログというものが、楽しいだけじゃないという部分も見え始めてきた。嫌なコメントを平気で残す無神経な人間もいるのだ。ただコメントを集めればいいというものじゃないのを知った。
私の家族が徐々に週一で来る河合に馴染み、私は疎外感を覚えるようになった。
河合の本性を知った。最初から私のところへ近づいてきた目的。それは妻のみゆきを抱いてみたいと、己の欲望だけからくるものであった。
精神が一定しない私は、妻とも険悪な仲になっていた。
河合が家に来て、とうとうみゆきを抱く計画を始動した。
嫌味を握られ、何もできない私は河合に殺意を覚え、無意識の内にナイフで刺し殺そうとした。
逆に叩き潰され、目の前でみゆきを犯す場面を、まざまざと見せつけられた。
息子の卓までが、その光景を目撃し、河合に殴られた。
みゆきまで殴られ、意識を失った状態で犯され続け、中出しまでされた。
殺意に満ちていた私に、河合は、自分を私の息子だと宣言し、過去を語った。
名も知らぬ息子をとめる為、私は自らの命を差し出して、自害した。
「親父ー! 和希だ……。俺の名前は和希だっ! 死なないでくれ、親父ーっ……」
走馬灯のように昔からの出来事が一瞬にして頭の中で流れ、私は体が軽くなるのを感じた。
不思議な光景だった。真っ赤な鮮血で染まった私が見える。大の字に床へ倒れていた。血だらけになるのも構わず、息子の和希が私の体を抱えながら、泣きじゃくっていた。
裸のまま、意識を失っている妻のみゆき。
息子の卓も、同じく床に倒れたままだった。凄惨な状況を目の当たりにしながら、私はどんどん体が浮き上がり、目に映る光景は小さくなっていく。
私は、人生を放棄してしまったのだ……。
妻や子たち、これからどう生きていくのか。
すまなかった……。
本当にすまなかった……。
努力はした。でも、これが私の限界だった。
和希…。ちゃんと罪を償い、生きろ……。
みゆき、卓、佳奈……。
こうなっても、ずっと愛している……。
生まれながらにして忌み嫌われし子など、どこにもいない。
和希、生きて、自己の生きざまを変えて見せろ。
最後の私の言葉だ……。
私は、強烈な光のある場所へ辿り着いた。
愛する家族よ。本当に、ありがとう……。
私の視界には、光だけが映っていた。
エピローグ
『ご機嫌パパ日記 その六十三』 気まぐれパパ
みなさま、一週間ほど更新もコメントもせず、すみませんでした。
ただ単に、仕事が忙しく、パソコンを開く時間すらなかったのです。ご心配をお掛けしてすみませんでした。
これからも私、気まぐれパパはほのぼのいる事をここに宣言致します。
それと、変なコメントをくれる方…。
ここはみんなが楽しくコメントをやり取りする場なので、意味不明のコメントはご遠慮下さいませ。
あと、ミセス・マユミさん。コメントいただきましたが、何故、あのように怒っているのか、さっぱり私には分かりません。私は善人とかどうかまで分かりませんが、別に偽善者ではありません。その言葉の真意が分かりかねます。
(牧師)
最近、ここ一ヶ月も更新なく、少し心配しております。
気まぐれパパさん、お元気で過ごされているでしょうか?
時間できたら、また元気な姿を見せて下さいね。お待ちしております。
(うめちん)
こんばんは、うめちんです。あれれ、まだ更新してないですね~。
(気まぐれマダム)
マダムも、これから試験中で忙しくなりそうです。やっとお尻に火がついた状態かな?
気まぐれパパさん、お互い頑張りましょうね!
(ミィーフィー)
私も、少し思うところあって、ちょっとブログのほうお休みします。また、戻ってきたらお相手してくださいね、あはっ。
(青い鳥)
元気で頑張っているでしょうか?
先月の二十五日から、久しぶりのタイ、チェンマイです。
こちらは暖かく毎日快晴です。その中を下手なゴルフに明け暮れています。
気まぐれパパさんも、お体に気をつけて頑張って下さい。
(らん)
実は私も、しばらくブログ、お休みしようと思っています。ほんまに、みなさまには感謝しています。また、いつか再開したいと思っています。
(トライ)
よっ! 気まぐれパパさん。最近、更新なくて寂しいですね~。また元気な姿を見せて下さいね。待ってますよ。
(牧師ツマ)
私のブログ、何とか頑張って更新しているので、これからも覗いて下さいませ~。
気まぐれパパさん、忙しいですか? お互い頑張りましょうね。
(ちゃち)
パパさん、おはよ~。
(たかさん)
パパさん、頑張ってね。ファイト!
(ぴよ)
あれから更新なくて、ぴよは少し寂しいですね~。元気でしょうか?
(ネコ)
気まぐれパパさん、何かありましたか? ネコは、ちょっと心配しています。
また、明るいパパさんの姿、楽しみにしてます。
(新宿トモ)
こんにちは、気まぐれパパさん。また、この間、応募した賞…。残念ながら駄目でした。でも、俺は絶対にめげずに頑張ります!
更新、最近してないですね。忙しいですか?
日常の生活あってこそのブログですから、現実がそうなら、更新できないのも仕方ないですよね。
もし、そうでなく何かお困りなら、俺で良かったら、気軽に言って下さいね。
いつか俺の小説が、この世に出るの、楽しみにしてて下さいね。
俺、これからも頑張って、ばく進します!
また、気まぐれパパさんも元気な姿、見せて下さいね。
―了―
題名『忌み嫌われし子』 作者 岩上智一郎
執筆期間 2006年10月10日~2006年11月6日 原稿用紙282枚
最推敲 2009年3月23日~2009年3月27日 原稿用紙279枚
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます