岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

NEW闇 05(バレンタイン編)

2025年02月06日 22時36分51秒 | NEW闇シリーズ

2025/02/06 thu

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うちの近所にはとてもおせっかいでいい迷惑のおばさんがいる。

特に何をされたという訳じゃないけど、何だか苦手意識を覚えてしまう。

学校の帰り道に、いつもそのおばさんの家の前を通っていた。

いつも暇なのか、ほとんどおばさんは家の前にいる。

寒い日だって暑い日だって外にいた。

「あら、今帰りかい? おかえり」

おばさんは僕を見掛けると、目を細めながら絶対に声を掛けてくる。

僕はこのおばさんの笑顔を見ると、何故か寒気を感じた。

「う、うん。今帰るところ」

おばさんは家の前で焚き火をしているところだった。

火に両手をかざしながら暖まっている。

「そうかいそうかい。ちゃんと勉強してきたかい?」

「う、うん……」

「僕、おばさんに何か一つ言い忘れている事があるでしょ?」

「え、言い忘れている事?」

「そう。これが当たり前のようにできないと、『いい子』とは呼べないわ」

「何だろう……」

別にいい子と思われなくてもいいから早く家に帰りたかったが、おばさんは中々帰そうとしてくれない。

「挨拶だよ。挨拶…。これができなきゃ駄目だよ」

「あ、そっか。こんにちは」

「よしよし、じゃあちゃんと挨拶できたご褒美に焼き芋をあげよう」

そう言いながらおばさんは壁に立て掛けてあった細い木の棒を取ると、焚き火の中をグリグリといじりだした。

よくよく考えてみると、こんな普通の道路で焚き火なんかしていてもいいのだろうか?

いつも冬になると、おばさんは焚き火をしている。

「別にいらないよ」

「お、出てきた出てきた。こんがり焼けてるよ」

おばさんは僕の話をまるで聞いていないのか、焼き芋探しに夢中になっている。

よその人から物をもらっちゃいけないって、伯母さんのピーちゃんからキツく言われているんだけどな……。

真っ黒に焦げた焼芋を焚き火の中から取り出すと、しばらく棒でつつきながらゴロゴロ転がしていた。

ポケットから薄汚れた軍手を取り出すと、焼き芋を拾い上げ二つに割って「フーフー」と息を吹き掛ける。

僕は何故この人はポケットに軍手が入っているのだろうという素朴な疑問と、このおばさんの吐息が掛かった焼き芋を食べたくないなあという二つの思いでジッと見ていた。

「ほら、熱い内に食べちゃいな」

ニコッと笑うおばさんの笑顔は薄気味悪い。

「いい。僕、いらない」

「ちょっとあんたの為にこんな思いまでして焼き芋焼いてあげたのに、何さっ! 素直に食べなさい。ガキは黙って食べればいいのよ」

いきなり目を吊り上げながらヒステリックに叫びだすおばさん。

別に僕は焼き芋が食べたいなんて頼んでないのに……。

「ほら、早く半分取りなって」

喋りながらおばさんのツバが焼き芋に降り掛かる。

余計食べたくなくなった。

「早く! 冷めちゃうよ、フカフカの焼き芋が」

「い、いらないやいっ!」

手を払いのけ、僕は必死にその場から逃げた。

「あっ、待ちやがれ、このクソガキ!」

おばさんは細い棒を振り回しながら、追い駆けてきた。

もの凄い恐怖感が僕の全身を覆う。

家まですぐだったので、僕は何とかおばさんから逃げる事に成功した。

二階の窓からこっそり外の様子を伺うと、おばさんは仁王立ちしたまま僕の家を睨みつけている。

いつまでそうしているんだろう?

生きた心地がしない。

結局おばさんは、一時間十分もその場から動かずにいた。

去り際に「けっ」と言いながら地面にツバを吐き捨て立ち去った。

次の日から僕は帰り道を変え、あのおばさんの家の前を通るのは出来る限り避けるようにした。

 

一月があっという間に過ぎ去り二月になると、クラスの様子がいつもと違った。

妙にソワソワしているのだ。

男子の中には変に格好をつけようとする者が多く、反対に女子はお洒落をしている子が多かった。

「ねえ、亀田君。あいつら、最近さー、変に格好つけてない?」

以前、激しい殴り合いをした亀田君に声を掛ける。

「ああ、バレンタインが近づいているからだろ」

「バレンタイン?」

「好きな男子に女子がチョコをあげるんだよ」

「ふーん」

「だからチョコがほしい奴は、ああやって辺に気取っているんだ」

「亀田君は?」

「うーん、俺は女子に嫌われているからなあ」

そう言って亀田君は不適に笑った。

「岩上君は多分もらえるんじゃないかな?」

「は? 何で?」

何で僕がチョコをもらえるのだろう?

全然分からない。

「何人か、いつもさあ、岩上君のほうを見てる女子がいるぜ」

「一体、誰よ?」

「そうだな…。例えば吉野恵子とかさ……」

「吉野って、ヨッシーか?」

ヨッシーというあだ名の由来は簡単だった。

苗字の頭二文字を取って呼んでいるだけ。

それにしても何の身に覚えがなかった。

確かに話ぐらいはした事があるが、特別に仲がいいという訳でもない。

「それ以外にも結構いるぜ。まあ、当日まで楽しみにしてなよ」

そう言いながら、亀田君は嫌らしい笑い方で僕を見た。

好き嫌いの視点で女子を今まで見た事がない僕は、妙な気分になる。

授業を受けていても、どこか上の空になっていた。

 

家でテレビを見ていると、最近出てきたアイドルの松田聖子が出ているCMをよく見た。

チョコレート関係のCMが多いのも、亀田君の言っていたバレンタインが近いせいだろう。

男だと田原俊彦、近藤真彦、野村義男のたのきんトリオが凄い人気で、女だと松田聖子が断トツの人気だった。

お笑いの番組は今までドリフターズの『全員集合』が人気だったけど、最近になって『オレたちひょうきん族』という漫才師が集まった番組も人気が出てきた。

萩本欽一の『欽ドン』という番組で『イモ欽トリオ』も人気爆発し、僕ら三兄弟はビデオを録画して何度も彼らの歌『ハイスクールララバイ』を真似て唄った。

家の隣の定食屋『ひろむ』の裏にある一つ年上の野口光夫のところへ遊びに行く。

「智ちゃんもプロレス好きなんだろ? 最近よく猪木とか藤波がとか聞いてくるじゃん」

みっちゃんの家にはプロレスの雑誌がたくさんあって、僕はそれらを読み漁った。

二メートルを超えるジャイアント馬場よりも大きなアンドレ・ザ・ジャイアント。

真っ黒なスキンヘッドの太ったアブドーラ・ザ・ブッチャー。

太い腕を叩きつけるウエスタンラリアートが得意技のスタン・ハンセン。

人気コンビのドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク兄妹。

みっちゃんは雑誌を見せながら色々なレスラーを教えてくれた。

家に戻るとパパが大きなカメラを買ってきた。

「それなーに?」

「ビデオカメラって言うんだ。写真じゃなくて、映像も撮れるんだぞ」

「へー、凄いねー」

「そうだ。智一郎、ここに徹也と貴彦連れて来い」

廊下に出て右にある台所を横切り、ベランダへ出る。

隣の家に入り、おじいちゃんの部屋へ行く。

二人はスヤスヤと寝ていた。

起こすのも可哀想だけど、パパが呼んでいるからなあ……。

どうしようか考えていると、パパがおじいちゃんの部屋にビデオカメラを持って入ってきた。

「何だ、二人とも寝ているのかよ」

「うん」

「じゃあ今度の日曜日だな。これ使っておまえたちを撮るぞ」

「撮る? 何を?」

「まあ色々考えとくよ。日曜日は予定いれるなよ」

よく分からないけど、今週の日曜日にパパはビデオカメラを使って何かをしようとしている。

普段一緒に過ごす事が少ないから、何だか嬉しかった。

 

バレンタインデーがやってきた。

この日だけは僕も女子を妙に意識してしまう。

学校に登校する途中、隣の二歳年上の良江ちゃんが僕に話し掛けてきた。

「今日はバレンタインね。徹也ちゃんはともかくとして、智ちゃんみたいなウンチ漏らしには、誰もチョコなんてくれないわよ」

「何がウンチ漏らしだよ。取り消せよ」

「ふん、冗談じゃないわ。あなたがウンチを漏らしたのは、事実なんだからね。だから智ちゃんは、ウンチ漏らしって呼ぶ事に決めたの」

「ふざけんな!」

「もし、智ちゃんがね、誰かからチョコをもらいそうになったら、智ちゃんはウンチ漏らしだと、私はその子にちゃんと言うわ」

同じ班の班員の安達すみれと金子真弓は、会話を聞いてクスクスと笑い出した。

僕は恥ずかしくなり、顔を赤くさせたが反撃に出た。

何年も前の事をほじくり返しやがって、僕はムカついた。

「ふざけんなよ、おまえなんかとっても臭いクソもらす、クソ女じゃねーかよ」

「そんな事してないよ」

「良江のパンツはクソつきパンツ。いつもビチグソ漏らしてるー。だからクソ女と呼ばれてるー。いつでもクソクソビチグソだー」

僕は適当にリズムをつけて歌うように話した。

「キー、何が、クソ女よ! 私は漏らしてないわ」

僕の歌は、見事に良江ちゃんの心に響いたようだ。

「嘘つきー。みんな、聞いてよ。良江ちゃんはねー、クソ女なんだよ」

「ち、違う。私はクソなんてもらしていない」

「あー、女のくせにクソって言ったー」

「い、言ってない」

良江ちゃんは赤いペンキを塗ったように、真っ赤になって一生懸命否定していた。

滑稽な姿である。

「やーい、クソ女―。クソ女やーい。うんちをもらしたクソ女。臭い、臭い」

「良江ちゃんはクソ女―。臭い、臭い」

兄弟だけあって、徹也まで僕に続いて攻撃しだす。

血の繋がった絆の連携プレーは、バッチリである。

「何だと、このクソガキ」

興奮した良江ちゃんは、徹也の頭を叩く。

すぐに泣き出す徹也。

「よくも弟をやりやがったな。このクソ女め。くらえっ」

僕は仕返しに、飛び膝蹴りをお見舞いする。

良江ちゃんは道路に倒れ、ランドセルの中身が散らばった。

その時地面でいいものを発見した。

僕は犬のウンチを手でつかむと、良江ちゃんのランドセルに放り込んだ。

「あー、良江ちゃんのランドセルから、ウンチ発見。ずいぶん経っているみたいで、ウンチがすっかり固まってるぞー。ほら、みんな見ろよ。クソ女のランドセル」

「わ、私のじゃない。私のじゃない」

僕はまた良江ちゃんを泣かしてしまった。

でも、仕方のない事だと感じた。

向こうから上級生のくせに、仕掛けてきたのだから……。

 

学校に着くと、僕は水道で手を念入りに洗う。

石鹸をつけて何度も丹念に洗った。

先ほど良江ちゃんのランドセルに放り込む際、拾った犬のウンチ。

すっかり乾燥して固まってはいたが、手に臭いがついたままでは嫌だ。

「岩上くーん」

名前を呼ばれ、後ろを振り向くと、クラスメートの吉野恵子が立っていた。

「なーに?」

「何、そんなに手を一生懸命洗っているの?」

「うるさいなあ、ヨッシーには関係ないだろ」

まさか、ウンチを触ったので手を洗っているとは、口が裂けても言えない。

僕の返答に、ヨッシーは突然泣き出した。

「はぁ、何で泣くんだよ?」

「ちょっと岩上君、酷くない?」

いきなり、ヨッシーの仲良しの田中豊子が近くにやってきた。

なにやら嫌な展開になってきたものである。

「今、手を洗ってるから、僕は忙しいんだよ」

「もう充分、洗ってるでしょ?」

「充分かどうかは、僕が自分で判断するよ」

「ちょっと話があったの。だからこっちに来てよ」

「何だよ、話って? ここでしろよ」

「いいから来てよ」

一度、手の匂いをチェックしたい僕は、どうしても一人になりたかった。

「じゃあ、次の休み時間にしてくれよ。今は気の済むまで手を洗いたいんだ」

ウンチをつかんでしまったという事実を誰にもバレないようにするには、完全犯罪に拘らないといけない。

「分かったわよ。絶対に休み時間には来てよ」

「ああ、分かったよ」

「絶対にだよ?」

「しつこいって…、早く向こう行けよ」

心の底から言った。

いい加減、手が水の寒さでかじかんできている。

「やったー、ヨッシー。岩上君が次の休み時間ならいいって」

「ほんと?」

泣いていたヨッシーも、急に嬉しそうに笑顔になった。

不思議な女子たちだ。

「わかったら、早く向こう行けよ」

「はーい」

約束をすると、二人はすぐに教室へ消えた。

僕は周りを見回してから手の匂いを嗅いだ。

「うん、大丈夫だ」

これで完全犯罪が成立した。

これで僕もいっぱしのワルの仲間入りだ。

授業のチャイムが鳴り、慌てて僕は教室に飛び込んだ。

 

教室に福田先生が入ってくる。

日直が礼の号令を掛け、道徳の時間が始まった。

「えー、いつも先生は学校にお菓子を持ってきてはいけないと注意している。だけど今日だけは特別だ。チョコだけは許可してやるぞ」

先生の言葉にクラスの女子は歓喜の声をあげた。

男子はほとんどがソワソワしている。

教壇に向かって歩き出す数人の女子が見えた。

その子たちは福田先生にチョコをプレゼントしていた。

先生の顔はだらしなくニヤニヤしている。

女は恥ずかしがり、男は照れて顔の締まりがなくなる。

これがバレンタインというものか。

そう僕は感じた。

全部で七つのチョコが入った箱を教壇の上に置き、先生は自慢げに教室を見回した。

「もう他に先生にくれる生徒はいないか。いないなら、この授業はこれで実習とする」

大事そうにチョコの箱を持ち、先生は教室を出て行った。

何か今日の先生はズルいなあ。

「きっと、福田先生は職員室に自慢しにいったんだぜ」

後ろの席の亀田君が耳打ちしてきた。

「何で?」

「バレンタインっていうのは、男がどれだけモテるかっていうのを決める日なんだ」

「ふーん、そんなに大事な事なんだ」

「ああ、一大イベントだろう」

「そっか」

「岩上君はもう、もらったかい?」

「いや」

「斉藤君や柴崎君なんて、すでに三つはもらってるぜ」

「へー、モテるねー。亀田君は?」

「ゼロに決まってるだろ」

「そっか」

「ああ」

男らしく話す亀田君の表情は、どこか哀愁を漂わせていた。

 

休み時間が終わり、僕はヨッシーと田中豊子のほうへ行こうとした。

「ねえ、岩上君。ちょっと、いい?」

クラスで一番人気の高い吉田千絵から声を掛けられた。

さすがに僕はモジモジした。

顔立ちの整った吉田千絵は恥ずかしそうにしている。

「何だい?」

出来る限り平静を装いながら気取って僕は言った。

「これ、もらってくれるかしら……」

吉田千絵は下を向いて、小さな赤い箱を差し出してきた。

白いリボンまで丁寧に巻かれている。

僕は小さな声で「ああ」と言うのが精一杯だった。

教室の隅でヨッシーと田中豊子が、僕を恨めしそうに見ていた。

僕は慌てて近寄る。

「なによ、岩上君。デレデレしちゃってさ……」

「別にしてないよ」

「してたじゃないのよ」

ヨッシーは僕に食って掛かってきた。

そこまでいちいち言われる筋合いないどこにもない。

ヤキモチ以外の何ものでもなかった。

「うるさいよ、そっちが話があると、言っていたんじゃないか」

一刻も早く僕は、吉田千絵からもらった箱の中身を確認したかった。

「別に用がないなら席に戻るよ」

「待ってよ」

「何だよ?」

「こ、これ……」

ヨッシーは恥ずかしそうに、僕へ緑色の包み紙を渡してきた。

コイツもチョコか。

「ちゃんとお返ししなさいよね」

田中豊子は横に立っていたが、僕を睨みつけながら青い包みを前に差し出してくる。

僕は二人からチョコを受け取り、席に戻った。

亀田君がニヤニヤしながら近づいてくる。

「モテる男は違うなあ、岩上君よー」

「ば、馬鹿、そんなじゃないよ」

「エヘヘヘ……」

「…んだよ、変な笑い方しやがって……」

「やっぱ違うなあってさ」

「もううるさいよ。あっち行けって」

「はいはい」

亀田君は嫌な含み笑いをしながら自分の席に戻った。

すでに一時間目が終った時点で、僕は三つのチョコを手にしている。

放課後までには一体、何個のチョコをもらえるのだろうか?

クラスの女子を変に意識してしまう。胸の奥がくすぐったい。これがバレンタインか……。

「ねえ、岩上君……」

焼き鳥屋の阪尾和美に米山みのり、キリンみたいな顔をした朽木の三人組が声を掛けてくる。

「何だよ?」

「あのね、阪がね…、岩上君にチョコをあげたいんだって」

米山が口を開く。

「ふーん、ありがと」

平静を装うように澄ました顔で答えた。

終始阪尾はモジモジしている。

この日は機嫌のいい男子、悪い男子の両極端に別れた。

ある意味、バレンタインというものは非常に恐ろしい日なのかもしれない。

結局家に帰るまで、もらったチョコの数は四つのままで変わりはなかった。

 

家の玄関を開けようとすると、隣の食堂の入り口に良江ちゃんが立っていた。

ヤバい。

朝の仕返しでずっと待ち伏せされていたのだ。また右手には包丁を持っているのだろうか。

「おかえり、智ちゃん」

「お、おかえり」

予想に反して良江ちゃんの声は妙に明るい。

朝の事はすっかり忘れてしまったのだろうか?

いや、そんなはずはない。

昔に漏らしてしまったウンコ話を未だ根強く覚えている良江ちゃんだ。

これは絶対に罠だ。

罠に違いない。

警告音が頭の中でこだまする。

「今、帰ってきたの?」

「う、うん……」

「チョコはもらえたかしら?」

「う、うん…。四つもらった」

「嘘、だって智ちゃん何も持ってないじゃない」

正直に答えたのに、良江ちゃんの顔色は少し変化させ、僕を疑う。

「あるよ。あるって」

「ふん、そんな嘘つかないでいいわ。一つももらえないんじゃ、可哀相だから私がチョコあげるわよ。しょうがないから……」

偉そうに言い放つ良江ちゃん。

僕がチョコをもらったことなど、信じる様子は何もない。

ランドセルの中に入れているだけなのに……。

「いらない……」

「何よ、可哀相だから私があげるって言ってるの。だから、ありがたくもらいなさい」

癪に障る言い方をする良江ちゃん。

上から見下す言い方に僕は苛立ってきた。

「いらないって言ってんだよ。このブスッ!」

「ブ、ブス……」

「おまえのウンチのついたチョコなんかいらねーよ」

「ウ、ウンチなんてついてない……」

良江ちゃんは金魚のランチュウように頬をプクッと膨らませた。

「い、いいから素直に受け取りなさい」

「いらないよ。ウンチ臭いチョコなんていらない」

「いいからもらいなさいよ」

良江ちゃんは僕のランドセルへ強引にチョコを入れようとしてきた。

「や、やめろよ。何すんだよ」

「もらいないさい」

「やだって言ってんだろ」

僕は良江ちゃんを突き飛ばす。

「よくもやったわね……」

「触んなよ。僕は何回も言ったぞ」

また僕たちは取っ組み合いの喧嘩になった。

腕を散々引っ掻かれたが、最後に僕の飛び膝蹴りが良江ちゃんの背中に命中して僕は勝つ。

「……」

目に涙をこらえながら、家に入る良江ちゃん。

今日一日だけで二発も僕の飛び膝蹴りを食らっているのだ。

僕は隣の食堂のドアの前に立ち、すぐに逃げ出せる体勢で様子を伺った。

彼女がもし、奥の手を出すならすぐに逃げないと危ない。

「良江、あんた何やってんの?」

『ひろむ』のおばさんの声が聞こえてきた。

嫌な予感がする。

身の危険を感じた。

「包丁を放しなさい、良江!」

おばさんの声が聞こえた瞬間、ダッシュで僕は家に逃げ込んだ。

 

日曜日で今日は学校が休み。

銀座通りにある化粧品屋『加賀屋』の息子の滝川兼一ことケンチンから遊ぼうと誘いが来る。

本来なら二つ返事で了承するが、今日はパパとの約束があるから断った。

中原町に住んでいる森田昇次郎こと森昇と、小谷野利行ことコッタンの二人から電話が掛かってきて遊びへ誘われる。

同じく断った。

何だか今日は誘いが多い日だなあ。

昼になると、パパは僕ら三兄弟をおじいちゃんの部屋へ連れていき、ビデオカメラをセットした。

「いいか、おまえたち三人で好きな歌を唄え。俺が映像で撮ってやるからな」

少し恥ずかしかったが、三人だ何を唄うか相談する。

「イモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』にしようよ!」

徹也はウキウキしながら張り切っていた。

『音羽屋』で買ったイモ欽トリオのレコードのLPを掛けて、僕たちは『ハイスクールララバイ』を唄う。

その場でジャンプをしてパパがビデオカメラのスイッチを止める。

その場をどいてまた録画をすると、まるで忍者がドロンと消えたように動画は映った。

一番下の弟の貴彦は、意味も分かっていないのにリズムに合わせて身体を動かしている。

パパは満足そうな笑顔で、僕たちの映像をビデオテープへ録画した。

「よし、これでビデオデッキでいつでも見られるからな」

久しぶりにパパと一緒に過ごした日曜日。

夜は伯母さんのピーちゃんが、ファミリーレストランの『スエヒロファイブ』へ連れてってくれ、ハンバーグをご馳走してくれた。

徹也も真似して同じハンバーグ。

まだ幼稚園の貴彦だけ、お子様ランチを注文した。

 

バレンタインから一ヶ月間の月日が流れた。

学校に行くと、この日は妙に女子全体がソワソワしている。

照れ臭そうにしている男子も多かった。

僕は何なのか訳も分からずに授業を受けて帰った。

普通に次の日学校へ登校すると、クラスの女子の視線が僕に集中しているのが、何となく分かった。

何故か冷たい視線のような気がする。

特に気にせず授業を終えて、給食の時間になった。

「智一郎君、マズいんじゃないの?」

隣の陽吾君が声をこっそり掛けてきた。

「何がマズいの? 今日の給食?」

「いや、昨日さ、お返ししてないでしょ? ホワイトデーなのにさ」

「何、ホワイトデーって?」

「バレンタインのお返しだよ。ヨッシーや吉川さんとか、田中さんにもらってたでしょ? あと阪尾さんだっけ?」

「ああ、確かにチョコはもらったよ。それで何、お返しって?」

「え、知らないの? お返しも……」

「うん、知らないよ。何かあげないといけないの?」

「そうだよ、普通は飴とか返さないと駄目なんだよ」

「へー、そうなんだ」

「そういうもんだよ」

女子から向けられる冷ややかな視線の意味が納得できた。

バレンタインデーって好きな男子にチョコをあげるだけじゃなかったのか?

いまいち腑に落ちない。

それだったら断ってもよかったのにな……。

僕は仕方なしに一週間ほど、何も買わずに小遣いを貯める。

日課である大好きなインベーダーができないのは、非常に苦痛だった。

その間クラスでは女子の大半が、僕に対して口をきいてくれないまま。

もらった女子にキャンデーを買ってあげると、四人とも嬉しそうにはしゃいでいた。

女って単純だなって思う。

でも、バレンタインはもう懲り懲りだ。

チョコをもらう代わりにインベーダーやお菓子買うのを我慢しないといけないのなら、チョコなんて欲しくはない。

 

以前より陰りの見えためんこブーム。

最近、僕は全然やっていなかったが、徹也が袋一杯に入っためんこを眺めていた。

「お兄ちゃん、このめんこ、どうしたの?」

「二年生の頃、勝負して勝ったんだよ。お兄ちゃん、一番強かったんだ」

「へ、凄いねー」

「おまえにもあげようか?」

「ほんと?」

徹也の顔は輝いた。

めんこをジッと見ている。

「いいよ、好きなだけあげるよ。そっか、たまには公園で、めんこでもしに行こうか?」

「ほんと?」

「ああ、お兄ちゃんの腕前を見せてやるよ」

僕たちは袋の中からめんこを十枚ほど適当に取って、公園に向かう。

「お、智ちゃんじゃん」

「柴崎君、一緒に入れてくれる?」

「いいよ。久しぶりだね、めんこやるの」

「そうだね」

あとから人形屋の守屋淳一君や、『音羽屋』の斉藤陽吾君、パン屋の中野健次郎君も集まった。

僕は昨夜テレビで見た藤子不二雄の『パーマン』でパーマン四号のパーヤンの話す関西弁が面白く、陽吾君へ向かって「斉ヤン!」と呼んでみた。

「え、何それ?」

僕は今まで君付けでしか呼んでなかったので、お互い仇名で呼び合わないか提案している。

「智一郎君は、岩上だから岩ヤン」

「そうそう、そんな感じ、斉ヤン」

「何か変な感じだね、岩ヤン」

「ねえねえ、俺は? 守屋だから守ヤン?」

「それだと変だから守コン」

「えー!」

「はい、守コンに決定ね」

「僕は? 中野だから中ヤン?」

「うーん、それだと呼びづらいから、中野健」

「え? 何それ? 僕の名前を省略しただけじゃん!」

「いや、中野健って中々格好いい仇名だよ」

「うーん、じゃあそれで僕はいいや」

「俺は? 柴崎だから柴ヤン?」

「それだと変だから、柴チン」

「柴チン?」

「呼びやすいでしょ?」

「うーん、柴チンかー……」

こんな調子で僕らの間では、仇名が流行り始めた。

 

仇名の決め合いから、再びめんこの勝負に移る。

しばらくやっていなかったせいか、僕の独壇場という形にはならなかった。

取って取られての繰り返しがしばらく続く。

一進一退の攻防が続き、一時間が経過した。

勝負に白熱していたが、気がつくと僕たちのすぐそばで、その様子を見ている顔の知らない子が二人いた。

二人とも顔が非常に似ているので兄弟なのだと理解できる。

二人は白いTシャツに学校の体育の時に使う短パンを履いていた。

白いTシャツはところどころ黒いシミがあり、兄らしき人物は、右手でハナクソをほじっている。

「な、なあ…、俺たちも仲間に入れてくれよ」

薄汚い兄弟は話し掛けてきた。

左手に一枚だけボロボロに汚れためんこを持っている。

誰もこんな汚いめんこは欲しがらないだろう。

「いいだろ?」

僕たちは、この見知らぬ兄弟をめんこの勝負に入れるかどうか相談した。

柴チン以外の人は、嫌そうな顔をしている。

「入れてあげようよ。僕だってあんな汚いめんこ欲しくないけど、なんか可哀相じゃん」

優しい柴チンはみんなを諭した。

兄弟はずっとこっちを真剣に見ている。

「あっ……」

徹也がビックリした声を出した。兄弟の兄のほうが、ほじっていたハナクソを口に入れたのを見たらしい。

恐るべき禁断の行為である。

「ど、どうする……」

「うーん……」

恐ろしい行動を目撃してしまった僕たちは、再度考え込む。

「おい、入れてくれないのか?」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。今、話し合いしてるから」

さすがに柴チンも考えを改めたみたいだ。

ずっと困った顔をして黙っていた。

「何だ、ビビッて勝負を受けられないのか?」

「何だと?」

つい僕は、兄弟の挑発に乗ってしまった。

「負けるのが怖いなら、別に俺たちを入れてくれなくてもいいぜ」

「負けないよ。そんなに言うなら入れてやるよ」

「よし、へへ……」

とうとう僕は勝負を受けてしまった。

みんなはやりたがらず、一対一の勝負となった。

お互いの後ろに弟がつき、正に兄弟対決の模様を彩っていた。

「いいか、兄ちゃんがめんこ増やしてやっからな。見てろよ、へへ……」

「うん、いっぱい取ってね、兄ちゃん」

「任せとけよ。兄ちゃんがよー、増やしてやっからよ」

不適に笑う新参者の不気味な兄弟。

僕は徹也と目を合わせた。

軽く微笑むと、岩の上にめんこを一枚置いた。

「そっちから先やっていいぜ」

「け、そっちが先行でいいぜ」

新参者の兄のほうはボロボロのめんこを岩の上に放り投げた。

柴崎君をはじめ、周りの友達も静かに見守る。

「ふん、あとで吠え面かくなよな」

僕は言われた通り、先行になる。

一発で絶対に決めてギャフンと言わしてやる。

めんこを持った右腕を斜め上に振りかざし、ボロボロのめんこに向かいシャープに振り下ろした。

「てやっ」

「あっ」

一発でボロボロのめんこは岩から地面に落ちた。

「ほら、おまえらの負けだ」

兄は悔しそうにうつむき、弟は泣き出した。

「兄ちゃーん……」

「ちきしょう…、クソッ」

「兄ちゃん…、うう……」

たった一枚のめんこをとられて、ここまで悔しそうに感情を出す奴を初めて見たような気がする。

見ていて哀れに感じた。

先ほどの虚勢からは考えなれない姿だった。

「もう一枚ある。これでまた勝負だ!」

新参者の兄が出したのはめんこではなく、駄菓子屋で売っているミニ焼きそばのフタだった。

「いやいや、それはさすがにめんこじゃないし駄目だよ」

中野健がピシャリと断る。

「え…、そんな……」

天国から地獄にといった表現がピッタリだ。

「何か可哀相じゃね?」

守コンが、僕にそう言ってくる。

「うーん、確かに……」

話している間に、徹也は泣いている兄弟へいつの間にか近づいていた。

「ねえねえ…。これ、あげるよ」

徹也の言葉に顔をあげる兄弟。

不思議そうな顔で、徹也を見ていた。

弟は、自分の持っているめんこをすべてあげようとしている。

斉ヤンもそれに続き、兄弟に自分のめんこを与えた。

柴チンも中野健も守コンまで、全員が持っていためんこを渡す。

非常に微笑ましく美しい光景に見えた。

しかしその実態は、みんなめんこという遊びに飽きただけだった。

めんこブームの終焉である。

 

三学期の終わり頃になると、ヨッシーが可愛い鉛筆をあげると僕に渡してきた。

僕はその鉛筆のデザインが気に入り、素直に受け取る。

ヨッシーは喜んで、次の日も僕に違う鉛筆をくれた。

「もういいよ」

「いいの、だって岩上君、ちゃんとキャンデーくれたんだもん」

「分かったよ」

ホワイトデーの遅れたお返しが、そんなに嬉しいものなのか。

僕には理解できなかった。

三日ほどすると、クラスで女子の反応が変わったように感じた。

前のホワイトデーの時のような冷たい反応。

僕は自分が何か悪い事をしたのかと考えたが、まったく身に覚えがない。

だから何も気付かないふりをするように努めた。

朝、登校して教室に入ると、黒板の前で人だかりができている。

斉ヤンと柴チンが僕を見ると、駆け寄ってきた。

「岩ヤン、一体、何をやったの?」

「は?」

「酷い事、黒板に書かれているよ」

僕は黒板に急いで向かった。

人だかりを押しのけ、黒板を見た。

『岩上君は泥棒です』

大きな字で黒板にはそう書かれていた。

誰がこんな事を……。

まったく身に覚えのない状態で書かれたこの状況。

僕は苛立ちを覚え、すぐに黒板の文字を消す。

「誰だよ、こんな事を書いたの?」

クラスメートを睨みつけ、大声で怒鳴りつける。

絶対に犯人を見つけるまでは引き下がらないつもりでいた。

誰も口を開こうとせず、教室はシーンと静まりかえった。

授業を告げるチャイムが鳴っても、僕は教壇に立ち睨み付けたまま。

誰も僕と目を合わせようとしなかった。

「おい、岩上。何をやってるんだ? 授業始まったんだから、早く席に着け」

福田先生が教室に入ってきて、不思議そうに僕を眺めながら言う。

「嫌です! 絶対に、ここをどきません」

「おいおい、授業はどうするんだよ? 先生を困らせるなよ…。な、岩上」

「嫌です!」

「何があったんだ?」

僕は懸命に突っ張っていた。

いわれのない事を黒板に書かれ、一人でずっと踏ん張っていた。

泣くもんか……。

そう思えば思うほど、目に涙が溜まってくる。

「先生、聞いて下さい」

僕の代わりに斉ヤンが席を立ち、これまでの経緯を説明した。

僕はみんなの前で泣いてしまう。

自分が情けなかった。

説明をすべて聞いてくれた先生は僕に尋ねる。

「岩上は本当に泥棒なんてやってないんだな?」

「や、やる訳ないじゃないですか」

僕はそれだけ言うと、大泣きしてしまった。

先生は優しく僕の頭に手を乗せながら、ゆっくりと話す。

「いいか…。今、一人の生徒が大変に傷ついている。誰がやったのかは、先生も知らない。でもな…、先生も岩上がそんな事をやるとはとても思えないんだ。しかし、黒板に誰かが書いたのは事実なんだ。今、この状況で白状しろとは言わない。目をみんなつぶれ。岩上、おまえもだ。男なんだからいつまでもメソメソ泣くんじゃない。いいか? 目を開けたら、先生は本当に怒るからな」

重苦しい沈黙。

教室はシーンと静まり返る。

「黒板に書いた奴、正直に手をあげろ。もちろん先生は誰にも言わない」

僕は目を開きたい衝動に駆られた。

でも、福田先生の言葉を無視する訳にはいかない。

黒板に書いた犯人が憎かった。

「誰もいないのか? 先生は信じているぞ」

物音一つしない教室は、緊張で張り詰めている。

「分かった…。おまえら勝手にしろ。先生はおまえたちに失望した。もう目を開けていいぞ。一人の生徒がこんなに苦しんでいるのに、誰一人助けようとしない。斉藤ぐらいだろ、岩上の事を何とかしようと動いたのは……」

久しぶりに先生は怒っていた。

眉間にしわを寄せピクピクしている。

こんな怖い先生を見るのは初めてだった。

「誰も何も無いんだな? 分かった…。先生は職員室に帰る。勝手に自習でも何でもしてろ」

乱暴にドアを閉め、福田先生は本当に教室を出て行ってしまう。

小声で誰かが話すと、一斉に騒がしくなった。

 

僕は教壇のところでずっと立って、騒がしいクラスの様子を恨めしく見ていた。

この中に絶対犯人がいるのだ。

「大丈夫、岩上君」

亀田君、斉ヤン、柴チンが近寄ってくる。

みんな、それぞれ慰めの言葉を優しく掛けてくれた。

でも、僕の気は治まらないでいた。

「おい、本当に誰なんだよ。岩ヤンは絶対に泥棒なんかじゃないぞ。誰だよ、黒板にあんなデタラメ書いたのよ?」

「ちゃんと言えったら、このままじゃ、岩ヤンが可哀相だ」

突然柴チンや亀田君が、大声でクラスメートに向かって怒鳴りだす。

少し心が温かく感じた。

僕はまた目に涙が溜まる。

教室は静まり返る。

「おい、もし俺が見つけたら容赦なくぶっ飛ばすぞ。いいのか?」

亀田君は教壇を叩きながら叫ぶ。

それでも誰も自分だと、犯人を名乗り挙げる者はいない。

僕は黙っている連中を睨みつけた。

教室の窓側後ろの席で、ヨッシーが泣いているのが見えた。

一人だけ何でこいつは泣いているんだ?

疑問に感じる。

「岩ヤン…。吉野の奴、泣いているぞ。何か怪しくねーか?」

そっと僕に耳打ちをする亀田君。

僕には分からない。

「おい、吉野。何でおまえが泣いているんだ?」

「亀田君、やめなさいよ」

ヨッシーと仲のいい田中豊子が、勢いよく立ち上がる。

「おまえには聞いてねえ!」

「可哀相でしょ、ヨッシーが……」

「可哀相なのは、岩ヤンだ」

斉ヤンが口を開く。

いつも優しく笑っている顔が、厳しい表情になっていた。

「吉野さんは何故、泣いているんだ?」

「そんなのあなたには関係ないでしょう」

「関係ある。僕と岩ヤンは友達だからだ」

ハッキリとゆっくり斉ヤンは口を開く。

僕は嬉しかった。

「みんなの前で話すのが嫌なら廊下で話そう。それでいいだろ、吉野さん」

クラス中の視線がヨッシーに注がれた。

「私もそれなら一緒に行くからね」

田中豊子は、ヨッシーに近寄る。

僕ら男子四人と、女子二人は廊下に出る事にした。

ヨッシーは廊下に出ても泣いている。

「あれを黒板を書いたのは、ヨッシーだろ?」

「ご、ごめんなさい……」

ヨッシーは僕を一瞬だけ見ると、廊下に突っ伏して泣き出した。

何故、ヨッシーがこんな事を?

僕には分からなかった。

数日前には笑顔で鉛筆をくれたのに……。

「ごめん、岩上君以外は教室に戻ってくれるかな?」

「ふざけんなよ、田中!」

亀田君が詰め寄る。

「お願いだから!」

僕は田中豊子の言う通り、男子三人をなだめて教室へ戻した。

どうしても、真相が知りたかったのだ。

「誰にも言わないでよ。ここだけの話にしてよ」

真剣な表情で田中豊子は言った。

僕は無言でゆっくり頷く。

「ヨッシーはね、岩上君の事が好きだったの…。だからチョコだってあげたしね…。でも、あなたはお返しもくれなかった」

突然の告白に僕はビックリした。

恥ずかしさを打ち消すように口を開く。

「だって、それは……」

「いいから黙って聞いて!」

「あ、ああ……」

「この前、お返しくれた時、本当に私たち嬉しかったのよ。ヨッシーは岩上君の話ばかりするようになるしね。だから私はアイデアを考えたの。ヨッシーの大事なものを彼にあげたらってね。それがあなたが使っている鉛筆だったの」

「……」

「でも、あなたはただ受け取るだけで、何もお返ししてくれなかった。それがこの子は、とても悔しかったんだよ。それで今朝、好きなんだけど悔しくて黒板にあんな事を書いてしまったの。だから許してあげて……」

「ふざけんな、僕がどんなに辛い思いをしたと思っているんだ」

「うん、酷い事したなって反省している。やり過ぎたって……」

「それにしたって……」

「ごめんなさい、私からも謝るわ…。ヨッシー、泣いていないで、悪いと思っているなら、ちゃんと立って謝りなさい」

田中豊子の指示で、ヨッシーは壁に手をつきながら立ち上がる。

「ご、ごめんなさい…。ごめんなさい……」

ヨッシーが何だか憐れに見えてきた。

黒板の件がどうでもよくなってきた。

「も、もう…。もう、いいよ。許してやるよ」

「あ、ありがとう……」

ヨッシーは再び泣き崩れる。

僕は笑って言った。

「ちゃんとお返しが欲しいなら、ちゃんと言えよ」

そう言いながら、もうヨッシーから物をもらうのだけはやめようと固く心に誓った。

 

教室のドアを僕は勢いよく開けた。

みんなの視線が集まる。

僕は笑って大声を出した。

「みんなー、もう、いいんだ。そんな事よりこれから福田先生に謝りに行こう」

僕の言葉に反応して一気に歓声が起きた。

いくら自習が好きだからといっても、こんな状態の自習はみんな勘弁だったのだろう。

僕は廊下を振り向いて、二人に声を掛けた。

「おい、これから職員室にクラス全員で謝りに行くぞ」

「うん」

「ありがとう、岩上君」

「なーに」

満面の笑みを僕は向けた。

廊下にクラス全員が集合する。

総勢三十八名。

一気に廊下は騒がしくなった。

「授業中におまえら、何やってんだ?」

隣のクラスの担任が顔を出して怒鳴った。

僕たちはそれを合図に廊下を走り出す。

「おい! 廊下は走るな!」

階段を駆け下り一階に降りる。

職員室の前まで来ると、さすがにみんな、静かになった。

他のクラスは一時間目の授業中なのだ。

僕はノックもせずにドアを開けた。

福山先生の姿が見える。

表情は厳しい顔のままだ。

僕が中へ入ると、全員が続けて入ってきた。

その様子に、用務員のおじさんや、教頭先生たちはビックリした表情を浮かべる。

僕は軽く息を吸い込んでから口を開いた。

「先生、すみませんでした」

僕のあとにクラス全員が個々に勝手に謝りだした。

「先生、ごめんなさい」

「先生、すみません」

「先生、許してよ」

「先生悪かった」

その大きな声で、職員室に残っている他の先生たちも一斉に飛び上がった。

「よし」

福田先生の顔はいつもの優しそうな顔に戻っていた。

何だか嬉しそうに見える。

「遅くなったけど、教室に戻って授業をするぞ」

「はーい」

クラス全員で揃って僕たちは返事をした。

「よーし、行くぞ」

何事もなかったかのように、堂々と福田先生は笑顔で職員室をあとにした。

 

こうして僕の小学三年生は終わり、春休みを迎えた。

こんなに仲のいい状態のクラスで、もう一年一緒に過ごせるのだ。

僕は学校が待ちどおしくて溜まらなかった。

福田先生の授業や話が大好きだった。

伯母さんのピーちゃんが、西武園遊園地へ僕ら三兄弟を連れて行ってくれた。

初めて乗るジェットコースターはスリル満点で楽しくてしょうがない。

身長規定に引っ掛かった一番下の弟、貴彦はジェットコースターに乗りたいとダダをこねたが、どうにもならなかった。

ピーちゃんは、メリーゴーランドやコーヒーカップ、観覧車などに貴彦と一緒に乗ってうまく誤魔化している。

僕と徹也は二人で色々な乗り物を探し回る。

フライングカーペットという新しい乗り物が導入されていたので、興味津々に乗り込んだ。

真ん中を軸に回転するフライングカーペットは非常に面白く、園内は空いていたので十回連続で同じ乗り物に乗った。

お腹が空くと、ピーちゃんは手作りのおにぎりや唐揚げを出してくれた。

春休みの寒空の中で食べるご飯は、とても美味しかった。

夕方になると、疲れからか貴彦は熟睡してしまい、僕と徹也二人で楽しく乗り周る。

バイキングという船の形をした乗り物があり、僕たちは何度も気に入って乗った。

帰りの車の中では、疲れで僕たちは眠り込んでしまう。

ピーちゃんの鼻歌が子守唄代わりに心地よく聞こえた。

「本当におまえたちは最近、笑顔になったねー」

僕たちが笑うと、いつも口癖のように言った。

確かに僕たちは一年ぐらい前まで、自由に笑えなかったのだ。

「特に智一郎なんか、お母さんとデパートにいる時、私に会ってもフンって感じでさ、よく気取って澄ましていたんだよ」

別に気取っていたわけでも、澄ましていたわけでもない。

あの頃は確かに笑うというのが難しかった。

その時の光景は今でもハッキリ覚えている。

ピーちゃんには悪い事をしたと思う。

笑うとママが怒るので、僕は無理に笑顔を封印していたのだ。

さすがにそこまでピーちゃんには言えないでいた。

 

最初の頃激しい殴り合いをした亀田君とも、休みの間よく遊ぶ。

この間の泥棒事件から、さらに親密になったように思う。

乱暴物のレッテルを貼られていた亀田君も、今ではすっかりクラスに溶け込んでいる。

この頃、アントニオ猪木の新日本プロレスは金曜日の夜八時から、ジャイアント馬場社長の全日本プロレスは土曜日の夕方四時からテレビで毎週放映されていた。

おばあちゃんがプロレスや相撲好きというのもあり、僕はいつの間にか夢中でプロレスにのめり込んでいく。

一度おじいちゃんの畳の部屋で、斉ヤンと亀田君組対、僕と弟の徹也組の組み合わせでプロレスごっこをした。

スモールパッケージホールドという丸め技を使うテクニシャンの斉ヤン。

ジャッキーチェンの真似をしながら打撃技で対抗する僕。

パワーで圧倒する力技の亀田君。

唯一体格で劣る徹也は、苦戦をしいられる。

亀田君が徹也の腰に腕を回し、高々と持ち上げたかと思うとそのまま畳の上に、バックドロップで加減せず投げつけた。

頭を押さえながらビックリした徹也は途端に泣き出す。

「よくも弟をやりやがったな? このバ亀田!」

僕は全力でダッシュしながら亀田君に飛び膝蹴りをお見舞いした。

「テメー…、よくも人の苗字の上に馬鹿なんてつけやがったな?」

この取っ組み合いで障子の襖はビリビリに破け、あとでおじいちゃんからこっ酷く怒られた。

この当時、新聞でふざけ合いながらプロレスごっこをした小学生が頭を打って死亡という記事が増えた。

そのせいかプロレスを見せないようにする親が急増し、徐々に人気を落としていく。

それでも僕らは気にせず、毎日のように学校でもプロレスごっこをして楽しんだ。

パーマ屋の柴チンとは、気が合うのでよく遊ぶ。

主に蓮馨寺の『ピープルランド』で。

徹也と柴チンの妹の典子もいるので、兄弟同士一緒に遊ぶ事が多かった。

あの日以来、あの汚い兄弟の姿を見掛けた者はいない。

斉ヤンとの仲は、相変わらず良かった。

お互いの家に行き来して、よく遊ぶ。

彼のお父さんの書斎に入ると、絵の具の匂いが漂い、そこら中に油絵が置いてある。

描いてある絵の内容は、ほとんど人物画ばかり。

「岩ヤンは絵の教室に行ってたんでしょ?」

「まーね、でもとっくに辞めちゃったよ」

「もう描かないの?」

「うーん、絵を描くのは好きだけど、決められた物を描きなさいって嫌なんだよね」

「へー」

「だから自分の描きたいものや、想像で描いたものなら今でも描けるよ」

「凄いねー」

「でも、斉ヤンのお父さんみたいに上手くはないけどね」

たまに森田昇次郎こと森昇や化粧品屋『加賀屋』の滝川兼一ことケンチンと出掛けて遊んだ。

家の電話にヨッシーから頻繁に電話があった。

あの黒板の一件は許したものの、僕はどうしてもヨッシーを好きにはなれなかった。

人間やっていい事と、悪い事があるのだ。

その境界線を越えてしまったヨッシーを僕は特別好きになる事は永遠に無いだろう。

だから普通のクラスメートとして接するしかなかった。

それは田中豊子に対しても同様だった。

知っていてあの犯行を黙認していたのだから……。

バレンタインの時から僕は密かに吉田千絵を気に掛けていた。

フランス人形みたいな顔立ちの彼女は、クラスで一番人気もあったせいか、いつも澄ましていた。

春休みになる前に、田中正義ことマーちゃんが告白してフラれた噂を聞いた。

あの時の照れた表情は、僕にしか向けられていない。

春休みの時、上尾市で八枝神社の神主をしていた福田文彦先生の家へ、クラスで班毎遊びに行く事が決定した。

同じ班にはあの吉田千絵がいる。

先生のところへ行ったら、何かの芸をしようとみんなで考え、何をしようかの相談場所を僕の家に決まる。

班のメンバーは斉ヤンやケンチン、女子は吉田千絵に阪尾、蓬田。

彼女が家に来るとドキドキしていた僕。

パパは女の子が家に来た事にとても喜び、自分の部屋へみんなを案内する。

「今日は面白いものをみんなに見せてやるぞ」

そう言ってパパは以前ビデオカメラで撮影した僕ら三兄弟の唄うビデオを突然映し出した。

あまりにも恥ずかしく僕は大声で喚き、ビデオを止めようとする。

だけどパパの力には到底敵わなく雁字搦めに抑えつけられた。

映像を見ながら笑う吉田千絵の横顔を見て、悔しいのと恥ずかしさで怒り狂う。

「何だ、智一郎…。親に向かってその口の利き方は?」

パパが怒り出すが、その怖さよりも僕屈辱感のほうが大きい。

「うるせー、この野郎! 止めろ! ビデオを止めろよ!」

火花が散る。

コテンパンにパパから殴られた。

この騒動で、みんなで集まって相談どころではなくなる。

初めて異性を意識した吉田千絵の前で、無様に泣く僕。

もう学校でも恥ずかしくて、まともに話す事も無いだろう。

吉田千絵とは同じクラスメートなだけで、それ以上でもそれ以下でもない存在になってしまったのだ。

こんな目に遭わせたパパを僕は恨んだ。

よくも好きな子の目の前で、恥を掻かせたな……。

この一件で、パパに対する感情が変わった。

 


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