部屋に幽霊が出ようが、班長たちのしごきのレベルはまったく変わらない。
毎日ビシビシしごかれ、夜は爆睡する日々を過ごす内に、入隊して一ヶ月が経とうとしていた。
待望の外出禁止令が解かれるのだ。手取りで十万の給料ももらっていない俺たちはそんな贅沢な遊びなどできないが、久しぶりに世間の空気を吸える事を夢見た。
休みの日になり、朝からソワソワしていた俺たちに、班長は「みんなついて来い」と、一人一人銃を渡してきた。あと三十分で駅の改札へ、瑞穂が来るっていうのに……。
「おまえらは銃の分解結合がまだ完璧じゃない。だからこの休みを使って特別に訓練してやる」
「えー!」
「冗談じゃねえよ」
待ちに待ったこの日。みんなからブーイングが出る。当たり前だろう。班長は涼しい顔をしながら、うちわでのん気に扇いでいる。
自衛隊の銃は真ん中にあるピンを外してから、順々に分解する事ができた。分解していった各部品を順番に並べ、それをまた逆の順番で組み立てていく。俺はこういった事が得意だったのか、すぐマスターできた。中にはこの手の作業が苦手な人間もいる。
班長からすれば、全員がこれを短時間でできないと気が済まないのだろう。それにしても初の外出の日にそれをやらせるなんて、本当に意地悪だ。俺なんて昨日の夜、永田瑞穂に連絡して逢う約束をしていたのである。
「班長、何分で分解結合すればいいんすか?」
一度言い出した班長が絶対に引かないのを知っていた俺は、どうすればこのくだらない事から早く脱出できるかを考えた。こんな馬鹿げた事などすぐクリアして、一刻も早く瑞穂に逢いたい。
「十分間だ。ただし藤沢一人ができればいいって訳じゃないぞ?班全員が十分で分解結合できなきゃ、いつまで経ってもやり直しだ」
本当に底意地悪い人間である。人には得て不得手が必ずあるのに無理難題ばかりを言う。「レンジャーに俺はいたらからな」と口癖のように言う班長だが、それが原因だと言うならレンジャー部隊などクソの集まりだ。
坂田は何度試しても銃の分解結合ができず、時間切れになると涙目で俺たちに謝ってくる。できないものはしょうがない。数学の苦手な人間に、百点をいきなり取れと言うのと同じだ。責めるのは班長であって彼ではない。
だいたい十分間でそれをやれなんて、班長がたった今決めた事なのだ。これ以上坂田が惨めな思いで謝るのを見たくなかった。
「班長、俺が五分で分解結合できれば、外出させてもらえませんか?」
「何だ?妙におまえは外へ出たがっているな?」
「当たり前じゃないですか!一ヶ月もここに場所にいるんですから」
「ふん、おおかた女とでも約束してんだろう?」
「……」
またどうでもいい事を持ち出してきた。こんな奴を上官に持つ俺たちは本当に不幸である。別にプライベートの時間、俺が誰と何をしようと自由じゃないか……。
「まあいい。おまえなら五分あればできるだろ。それじゃあつまらない。条件つきならいいぞ」
「何すか?」
「目隠しして五分なら、いいぞ」
「く…、分かりましたよ。やりますよ、目隠しして」
永田瑞穂を待たせているという焦りもあった俺は、班長の挑発に乗った。
神経を手先だけに集中させ、黙々と銃を分解していく。分解した各部品を目が見えないので感覚でしか置いていけない。それでも手で部品を触ればある程度分かるだろう。慎重に俺は間隔を開けて置いた。よし、分解は終わった。次は結合だ……。
手探りで最後の部品を取り、順々に組み立てていく。今、どのぐらい時間が経過したんだ?いや、そんな事を考えるな。組み立てる事だけを集中しろ。じっくり焦らず神経だけを研ぎ澄まさせる。
目で見れなくても、散々この銃はいじってきた。手で触るだけである程度のイメージが頭に浮かぶ。あと半分……。
その時だった。
「おっと悪いな。手が滑った」
班長の声が聞こえ、部品と部品がぶつかる音が聞こえた。
「……?」
ない…。順番に置いたはずの部品がなくなっている。どうやら班長がワザと置いてある部品をバラバラに動かしたようだ。
「はい、残念。藤沢、時間切れだ」
俺は目隠しを取り、床に叩きつけた。本当に汚い上官だ。まさかこんな手まで使ってくるなんて。そうまでして俺たちの楽しみを奪いたいのだろうか?
こうして初の外出日は、班長の陰険な性格により潰されてしまった。まだ携帯電話などない時代である。駅の改札口で待っている永田瑞穂をすっぽかす形になってしまった俺。彼女に連絡を取る手段が何もないのである。
この日俺は何度も瑞穂の家へ電話を掛けたが、誰も出てくれなかった。
自衛隊の戦闘訓練で欠かせない匍匐(ほふく)前進。これには五つの種類があり、第一から第五までで成り立っている。あとのほうになればなるほど、姿勢が低くなっていくのだ。
第一匍匐は、銃を右手で持ち、左膝を地面につけ右足を伸ばす。左腕で体を支えながら前進する。
第二匍匐は、第一の状態からさらに低くして地面に腹をつける。左肘で体を支えながら前進していく。
第三匍匐は、うつ伏せで四つん這いになる。両肘膝をつく訳だ。銃は常に前方へ置くようにしながら進む。
第四匍匐は、腹這いになり両肘を前に突き出しながら右手で銃把、左手で被筒を握り、肘を交互に支点として、逆側の足または膝で前進する。
第五匍匐は、完全に地面へ伏せた状態から両手で地面に生える草などをつかみ、そのまま前進していく。地面には砂利や尖った石などあるので、少しだけ地面から顔を浮かすと、班長の罵声が飛び、上からヘルメットごと頭を踏んづけられる。
「ちゃんと顔を傷つけながら進め!」
もの凄い屈辱感を味わいながら、俺は自分の顔を地面に擦りつけ進んだ。中には頬が切れ、血の滲む隊員もいる。風呂へ入る時、いつも傷が沁みた。
夜になると俺は、永田瑞穂の家へ彼女が電話に出てくれるまで掛け続けた。この間、約束をすっぽかした件の謝罪と弁解をどうしてもしたかったのだ。瑞穂の親は面倒臭そうな対応で「娘が出たくないと言っているんだよね」と言うが、俺は必死に食い下がった。
「ちょっと待ってて」
ようやく親が折れ、瑞穂へ電話を繋いでくれる。
この異常な自衛隊の世界をいくら説明したところで、どこまで瑞穂は分かってくれるだろう。とにかく必死に説明をした。また瑞穂に呆れられ、ふられるのだけが嫌だったのだ。初めは怒っていた瑞穂だが、話を聞いている内にそれは同情へと変わる。
「本当酷い世界だね~。休みの日で、私と約束があるって言っているのに、そんな事よくできるよね」
「性格が捻じ曲がり過ぎているんだよ、あの馬鹿は」
「私も会社の研修で二週間ほど地方へ行くようだから、しらばく会えなくなっちゃうけどさ。また連絡ちょうだい」
「うん、本当ごめん」
「そんな謝らないで。藤沢が悪い訳じゃないんだし」
瑞穂は本当に優しい女だ。しかし次の週の休みも外へ出れる保障のない俺は、むやみに約束をできないでいた。非常に歯痒い。瑞穂が研修で会えなくなるから、次に再会できるのはいつになるのだろう……。
入隊して二ヶ月が経ち、ようやく俺は休みの日に外出ができるようになった。ただ銃の分解結合を未だ十分間でできない同期は居残りである。可哀相とは思うが、まず自分の幸せの確保が大事だ。
俺は瑞穂へ真っ先に連絡をするが、この日に限って出掛けているそうだ。皮肉なもんである。
「藤沢、何か娑婆のものをおみやげで買ってきてくれ」
居残り組みは、世間の事を『娑婆』と呼びながら叫んでいた。
久しぶりに出た下界。同じ空気なのに、まったく別の新鮮なものに感じる。開放感を覚えながら、俺は地元へ向かった。中学時代の同級生らに電話を掛けまくり、出来る限りたくさんの友達を集めた。
みんな、自衛隊の話が珍しいのか会話は俺の話が中心に進む。久しぶりに酒も飲み、上機嫌で時間を過ごした。
夕方六時。あの忌々しい駐屯地へ、そろそろ帰らなければいけない時間がやってくる。後ろ髪を引かれる思いで俺はみんなと別れ、電車に乗った。このまま逃げようかなと何度も思ったが、そんな事をしたら大問題になる。
以前、二区隊の奴が脱走した。班で苛めに遭っていたようだ。夜の消灯時間が来るのを待ってから逃げ出したらしい。夜は異常ないかどうか、必ず見回りがやって来る。だからその隊員がいなくなった事は、すぐに分かってしまう。
当然俺たちも真夜中だと言うのに叩き起こされ、ただっ広い朝霞駐屯地の中をくまなく探すハメになった。
駐屯地の周囲を取り囲む鉄柵は、三メートルほどの高さで、上には人が乗り越えられないよう電気まで通っている。外には出ていないだろうと推測し、駐屯地内を探すのだ。
二時間ほど百二十名の隊員で探しても見つからない。明日も朝早くからしごかれるのに、いつまで探すんだと思っていたら、ようやく見つかった。
脱走した隊員は、ドレイクシアターと呼ばれた出入禁止の洋館の中で膝を抱え、震えながらいたらしい。
このドレイクシアター、戦時中にアメリカ兵によって建てられたもので、当時は中でパーティーなどをする目的で使われていたようだ。いつから使われなくなったのか、建物の周りには有刺鉄線をグルグルに巻いたものが置かれ、古ぼけた気味悪い入口の扉には、『立入禁止』とだけ赤い文字で書いてある。四方についた窓のほとんどは割れ、屋根も無数の穴が開いていた。しかし中が真っ暗なので、前に覗こうとしたが何も見えなかった。
副班長から「いいか、おまえら。このドレイクシアターだけは悪戯でも絶対に入るなよ」と釘を刺されていた。中へ入るとカラスの死骸が床一面にあり、もの凄い異臭がするらしい。中には気の狂った隊員も過去にいたと噂される。
脱走した同期は、完全にノイローゼになっていたらしく、何故自分がこんな場所にいたのかさえ分からなかったようだ。治療を受けたあと、その隊員は自衛隊を辞めていった。
これはまだ駐屯地内だったからいいケースであり、外へ脱走すると後々非常に面倒な事が待っている。例えば北海道から来た自衛官が脱走をすると、選抜された隊員が飛行機に乗って探しに行く。脱走兵が捕まるまでなので、その時に掛かった人数分の宿泊費や交通費などは、全部脱走兵の支払い義務となるのである。辞めたいなら、ちゃんと言って辞めればいいのだ。
そんな事を考えている内に、電車は朝霞駅へ到着した。
帰り道、可哀相な隊員の為に、俺はハンバーガーとエロ本をおみやげ代わりに買って帰った。ハンバーガーよりもエロ本を醜く取り合う同期たち。付録でついていた二メートルぐらいの折りたたみヌードポスターを壁に貼ると、みんな大歓声をあげて喜んだ。
「俺、ちょっとトイレ行ってくる」と、すぐオナニーしにいく節操なしもいた。
第三班の部屋の壁に貼られたヌードポスター。班長はこのポスターを大いに気に入ったようで、暇さえあれば眺めてスケベ面をしていた。
ある日また理不尽なシゴキを受けた俺は、ムカついてそのポスターを破ってやった。その行為に怒った班長は、隊舎から一キロ離れた風呂へ、「今から十五分で体を洗って帰ってこい。ちゃんと湯船にも浸かるんだぞ?」と命令してきた。
普通に考えて、少し早めに走りながら一キロを走って約五分。往復で十分。実際に風呂に入れるのは、着替える時間も込みで五分しかない。
俺たち十名の班員は全力で走り、急いで風呂に入った。命令された通りにできないと、またあとで酷い目に遭わされる。そんな危機感を持った俺たちは頑張った。
体を雑に荒い、泡も流さず湯船に飛び込む。
湯船に浸かっていた他の上官が怒鳴ってきたが、今はそれどころじゃない。無視して風呂場を出て、素早く着替えた。
帰り道、ほとんど全力疾走で隊舎まで向かう。本来風呂とは汗を流してさっぱりするもの。それがまたこんな事をしているから、全身から汗が吹き出してくる。風呂へ行った意味がまるでない。そんな事を考えつつ、何とか時間ギリギリで帰ってくる事ができた。
「間に合いましたよ、班長!」
誇らしげに言うと、班長は自分の時計を見ながら静かに口を開く。
「俺の時計では、三十秒遅れだ。おまえら、腹筋の姿勢を取れ」
本当にいつもこの男は汚い。部屋の時計でスタートしたのに、自分の時計なんて何も関係ないだろう。言われた通り俺たちは仰向けになる。
「両足を天井に向かってあげろ。はい、そのまま俺がいいって言うまで、その体勢でいろ」
三十分も過ぎると、足が辛く地面へ降ろしたくなってくる。少しでも足が下がると、班長はその隊員の腿辺りを蹴飛ばし、「誰が降ろせと言った?」と理不尽振りを発揮。
一時間ぐらい経つと、班長は破れたポスターを持ちながら、「これは誰がやったんだ?」と聞いてきた。
イライラしていた俺は「自分がやりました」と言うと、いきなり腹に強烈なパンチをしてくる。不意の攻撃に息がまるでできない俺。くの字になって寝転がる背中をさらに蹴られた。
「貴様は物に当たってんじゃねえぞ!」
そう怒鳴って部屋から出て行った。
自分で買ってきたエロ本についていたポスターを破って何が悪いんだ?俺は、腹を押さえながら班長の後ろ姿を睨みつけた。
あとになって風呂場で文句を言ってきた上官が、わざわざ俺たちの行動を班長にチクったらしい。俺たち十名は、一列に並ばせられ、順々に殴られた。元はといえば、班長が命令した事から起きたのに……。
いつもこんな感じの完全に理不尽な縦社会の自衛隊。
自衛隊の前期教育期間は三ヶ月間である。後期教育も同じく三ヶ月。後期も、このまま地元から近い朝霞駐屯地へいたい。その最大の原因は、高校時代の同級生である永田瑞穂の存在だろう。
卒業してから瑞穂とはまだ会えていない。もし後期教育でどこかへ飛ばされたら、余計に会える可能性が低くなる。
班長が、後期教育の駐屯地の希望を聞きに来た。
「いいか、おまえら自衛官っていうのは最終的に、北へ北へ行くもんなんだぞ」
一任期で二年間。俺はその間に大型の免許さえ取れれば、それでいい。そんな気持ちでいたので、遠くへ行くなんて真っ平ごめんだ。
妙に班長は朝霞駐屯地でなく、別の駐屯地へ俺らを飛ばしたいようだ。多分、自分の出世にでも繋がるのだろう。意地でも俺はここにいてやる。
「おい、藤沢。おまえ、まだあの女とは付き合っているのか?」
「ま、まあ付き合うというか、連絡は取り合っていますよ」
「そうか、おまえはここに後期、残れると思うなよ」
「はあ?何すか、それ?」
「うるさい!おまえは朝霞以外の駐屯地を希望欄に書いとけ。それ以外認めん」
「……」
この野郎…。俺はグッと堪え、拳を固く握り締めた。朝霞以外の場所だと?そんなのある訳ねえじゃねえか……。
俺は必死に班長へ言った。他の班員たちが希望を決める中、俺だけは書かなかった。
夜になってもその事を考えてしまう。頭に来てなかなか眠れない。何の権利があって、そこまで人の人生を弄ぶのだ?いくら性格が悪いと言っても、ここまでくると度を超している。
いくら自分の希望を朝霞と伝えても、班長は首を縦に振らなかった。
「おまえだけは、絶対にここにはいさせないから諦めろ」
一瞬、自衛隊を辞めようかと思った。こんなムチャクチャな人間が上官としている限り、未来に希望も夢も何もなくなる。
俺は同じ班の同期に相談した。二ヶ月以上同じ釜の飯を食べ、苦楽を供に過ごしてきたのだ。当然反対された。
「坂田、おまえって確か青森だったよな?こっちに来る時ってどんな感じだった?」
慣れ親しんだ土地を離れるのは寂しいだろう。地方から来た人間も多かったので、遠くに行く時の心境はどうだったのかを聞きたかった。
「う~ん、俺の場合、東京に憧れがあったからなあ~。だからワクワク感って言うか、楽しみだった部分のほうが強いよね。地元を離れるのは寂しいけど、その分何かこう何て言ったらいいんだろう。とにかくこっちへ早く来たかった」
「なるほどね」
あまり参考にならないな。内心そう感じたが、よくよく考えてみれば当たり前なのだ。俺が朝霞駐屯地にこだわる理由はただ一つ。永田瑞穂の存在だけなのだ。
あの意地悪な班長の事だ。絶対に俺はここへ残れないなという確信があった。足掻いて無駄なら、いっその事遠くへ行ってしまうのもいいかもしれない。中途半端な距離にいたら、瑞穂に会いたいという気持ちが強くなる。朝霞に残れないなら、一気に北海道へ……。
自衛隊を辞めるのは簡単な事だ。しかしそんな一時の感情で決めていいのか?あとで後悔しないように生きたい。先ほど坂田が東京に憧れがあったというように、俺にも北海道へ憧れに近い感情はある。見知らぬ大地。一度は行ってみたい場所。
問題は瑞穂と会えないだけだが、今現在こんな近くの距離にいても会えていないのだ。仮に後期教育で朝霞に残れたとして、またあの班長だったらどうする?余計に嫌がらせをされるだろう。なら遠くへ……。
俺は空白だった記入欄に『北海道』と書き込んだ。これで我が三班では、十名中六名が北海道希望となった。班長の喜ぶ顔を見るのは癪だが仕方ない。
前期教育隊の締めである富士山の麓で訓練が始まる。
火山灰で覆われた地での匍匐前進。空砲を入れての実戦に近い訓練として行われた。第一匍匐から第五まで、姿勢を低くしながら前へ進むが、銃を撃つ際砂が至るところに詰まり、引き金を引けない状態になっていた。こんな事じゃ、本当の戦争の時どうするんだ?自分たちが日々やっている訓練に対し、疑問を感じる。実際に人に向かって打てば殺傷能力のある銃であるが、この時はおもちゃにしか思えなかった。
班長らは「馬鹿野郎、戦争の時はだな……」と口癖のように怒鳴るが、誰も戦争など経験していないのである。言葉に何の説得力も感じない。
最後に行われる二十五キロ行軍。戦闘服を着て銃を担ぎ、背嚢と呼ばれるリュック背負う。フル装備で望む行軍だが、俺は隊の旗手をやれと命じられた。
出発前に班長が、声を掛けてくる。
「待て、藤沢。おまえらは他の班より特別待遇にしてやるぞ」と、あらかじめ用意してあったビニール袋に泥を入れだした。
「おまえは体力があり余っているみたいだから、泥袋四つぐらいいけるだろ」
問答無用で泥袋を入れられる俺。これで二十五キロ行軍は、さらに過酷なものになった。ラスト一キロでヘロヘロの時に、「よし最後は走るぞ!」と区隊長が言い出し、三分の一ほど脱落者が出た。
長いようで短い三ヶ月の前期教育期間。
行軍のあとの食事は妙にうまく感じた。そろそろ後期教育へ向かう準備に差し掛かるようだった。
後期教育で北海道へ行く事が決定すると、俺は瑞穂に連絡をした。
「俺、今度さ、北海道に行く事になっちゃったよ」
「ふーん、大変だね~」
「なんだよ、寂しいとかないのかよ」
「はいはい…、寂しくて死にそうです」
「ふざけやがって……」
「でもほんと頑張ってね。応援してる。たまには連絡をちょうだいね」
「ああ、もちろん」
高校時代よりは、自分の気持ちを正直に言えるようになったな。自然と話している自分が不思議に感じた。
前期教育最後の日がやってくる。俺たち北海道組は、早めにみんなとお別れしなくてはらなかたった。
班長と副班長が、妙にニコニコしながら部屋に来る。
「おまえら、この三ヶ月間お疲れさん。そこでだ。おまえたちの貯金から一万円ずつ下ろしてこい」
「え、何でですか?」
「PXの電気屋に班長と副班長のほしいものをすでに予約してある。おまえらは俺たちに頭が上がらないぐらい世話になったろ?全員で行ってそれを班長にプレゼントしてくれ」
「……」
本当にこの男には呆れて物が言えない。PXとは駐屯地内にある売店の事を指すが、朝霞は大きい駐屯地なので、様々な店があった。ちょっとした一つの商店街である。本屋もあれば、喫茶店、レストラン、床屋、クリーニング屋、パチスロまであった。そこにある電気屋へ班長は自分の欲しい物を勝手に注文し、金だけを俺たち班員に出させようとしているのだ。
「冗談じゃねえよ!」
俺は怒鳴りつけると、殴られた。いつも偉そうにしやがって……。
拳を握り締め、班長を殴ろうとしたが、他の班員にとめられた。
「やめろって藤沢!」
「しょうがねえって。俺たち一万ずつ出して買えば、あんな奴とは今日でお別れなんだから。堪えろよ」
確かにここで殴ったら、自分のクビを懸けてという形になる。仕方なくみんな一万円ずつ出し、PXへ向かった。
ちゃっかりした事に、班長と副班長の注文した品は一つだけでなかったので、ピッタリ十万円の代金が掛かった。ブラウンの髭剃りにCDプレイヤー、ビデオデッキなど……。
まあ、こんな理不尽な班長ともこれでお別れである。最後の最後まで嫌な奴だった。
今度再会する事があれば、ぜひお礼参りをしないとな……。
着替えを済ませ、仲間と最後のお別れをする。辛気臭いのはごめんだ。空港へ向かうトラックの荷台に乗り込むと、三班だけじゃなく一区隊の班員全員が、トラックの前に駆け寄ってきた。
「絶対連絡くれよー!」
「また一緒に飲もうな」
大きく両手を振りながら、叫ぶ同期たち……。
「……」
俺はいつの間にか泣いていた。俺だけじゃない。みんな全員が大泣きをしていた。
俺たち十名、いや一区隊の隊員たちの間で、いつの間にか絆というものができていたのだ。この三ヶ月間。辛い時を共に潜り抜けてきたのである。結束力は半端じゃないものがあった。
こうして俺たち北海道組は空港へ向かった。。
後期教育隊で配属された北海道虻田郡の知安駐屯地。位置でいえば、小樽と函館の中間ぐらいにある場所だ。ニセコスキー場や羊蹄山が近くにある。
着いて、かなりの田舎なんだという事にビックリした。辺りには田んぼや畑以外、何もないのだ。まだこの町を見ていないので何とも言えないが、想像していたよりとんでもないところへ来た感じがする。
前期の朝霞に比べると、駐屯地は小さく人数も少ない。PXという売店も、向こうは一つの商店街のような品揃えに対し、こちらは雑貨品などが打っている売店に食堂、床屋ぐらいしかない。トイレが水洗だった事にビックリしたが、よくよく考えてみると、これが普通なのだ。特別驚く事ではない。
空気が奇麗でとてものどかな場所だった。朝霞の時みたいにせかせかしていない。こちらの自衛官を見て、こんなにだらけた駐屯地もあるのかと思った。
後期教育隊は、重迫撃砲という大砲を扱う部隊の教育隊に配属される。自衛隊の中で、一番大きな大砲をらしい。
隊員は各十名ずつで、全部で四班。朝霞に比べると三分の一の人数である。
普通科は一、二班。戦場でいえば最前線を行く歩兵部隊。分かり易く言えば、匍匐前進を一番使う部隊でもある。三班は重迫撃砲に比べると、小さめの迫撃砲を扱い、重迫撃は俺ら四班のみで構成された。
部屋へ案内されると、すでに八名がくつろいでいる。こんなくつろぎ過ぎていて、班長に怒られないのか?妙にリラックスした班員たちを見て、不思議に思った。
簡単な自己紹介を済ませると、みんな関東の事を色々聞いてくる。向こうでは副班長と呼んでいたが、こちらでは同じ立場で呼び方が変わっただけの班付きまで、興味津々にあれこれ聞いてくる始末だった。こんなゆったりしたムードでいいのだろうか……。
前期とはまるで違う雰囲気に、俺はしばらく慣れないでいた。
このほうが楽でいいはずなのに、不思議と前期教育が懐かしく思える。気を引き締めてきた分、拍子抜けした自分がいる。
今度の班長はまるで覇気がない。前の班長と間逆に感じた。
俺は前期と変わらない感じで行動していただけなのに、みんなそれを見てビックリしている。逆にこちらは、おまえらそんなのんびりしていていいのかという感じで見ていた。
夜になると、いつも前期の同期たちを思い出していた。ちょっとしたホームシックに近い感覚。今頃みんなはどうしているだろうか?うまく新しい部隊に解け込んでやっているのかな。最後に決まって永田瑞穂の事を思い出す。次に会えるのは夏の大型休暇だろう。彼女の気持ちがいまいち分からない俺は、早くちゃんとした形で付き合いたいと思っている。まだ来たばかりだというのに、故郷を懐かしく感じた。
北海道は食材が新鮮でうまいというが、その通りだ。食堂で食べる食事も朝霞の時とは雲泥の違いである。キャベツの千切り一つとっても、まるで違う。
後期教育は甘かったので、休みになればすぐ外へ外出できた。
町全体の人口が約二千人の倶知安町。その内の半分が自衛官だというから、完全に自衛隊で成り立っている町でもある。町の中を歩いても、狭いからすぐに歩き終わってしまう。マクドナルドのようなファーストフードが一軒もない。商売の半分が、小料理屋やスナックといった酒を扱うものばかりだった。
一軒だけあるチェーン店の居酒屋を見つける。中へ入ると、関東と同じ系列の店なのにまったく別物のものが出てくる。今までに見た事がないでかさのほっけ。ポテトピザを頼むと、地元ではポテトをスライスした上にピザソースとチーズを掛けて焼いたものだった。こちらはじゃが芋をでかでかと切り大きな器に入れ、さらにチーズやソースがたっぷり掛かり、ちょっとしたシチューのような形で作られている。
住めば都というが、ここでしか味わえない楽しみもまだまだありそうだ。
自分で望み、ここへ来たのだ。どう明るく楽しく過ごせるか。そういうあり方もいいだろう。
訓練状況は前期を十とすれば、二ぐらいの運動量だった。正直物足りなさを感じる。前はあれだけ不平不満を言っていたのに不思議なものだ。
前期のような匍匐前進みたいな訓練はなくなり、射撃と重迫撃砲の訓練がメインになる。
銃迫撃砲は実戦を想定すると、三人一組で行動をするようだ。地面の土をスコップで二メートルぐらいの穴を掘り、その中へ砲を設置する。
砲身、脚、定板と三つの部品を組み合わせれば、銃迫撃砲は完成した。顕微鏡のような照準機と呼ばれるものでを砲身の先につけ、打つ角度を決めたら水平器の気泡を真ん中に合わせる。
まだ実弾を撃たせてくれなかったが、三メートルから五メートルぐらいの飛距離で弾が発射され地面に激突した瞬間、周囲五百メートルの範囲で相手を殺傷するようだ。この時最初の爆発効果のあと、破裂したもの凄い勢いで飛び破片で敵を攻撃するので、相手が二メートルぐらいの穴を掘り隠れていれば、破片による殺傷効果は逃れる事ができる。だからいつも俺たちの訓練というと、スコップで大きな穴を掘るのだ。
楽で緩い生活に、俺の心はどんどん堕落していった。
十円玉を上から落として跳ねないと殴られるぐらいピシッと引いていたベッドも、気付けば引きっ放し。休みになれば洗っている戦闘服も、以前なら指で触れば切れるぐらいビシッとアイロンを掛けていたが、洗って干したままの状態。
それでも体力検定では一番の成績だったので、誰も文句を言う人間はいなかった。
一日の訓練が終われば、部屋に籠もりファミコンでゲームをする日々。精神は次第に緩んでいく。
ある日、いい加減に暮らしていた俺のベッドだけ、メチャメチャにされていた。前期の班長がやった嵐までとはいかないまでも、自分の場所だけだったので相当頭に来た。
「誰がやったんだよ、これ?」
班員に聞くと、班長が俺のいない時に来てやっていったらしい。
区隊長の姿が見えると、急に俺ら班員を怒鳴りだし気合いを入れるお調子者。毎回このような繰り返しに、俺はいつもイライラしていた。
これじゃまだ前期の班長のほうが説得力あったぜ……。
すぐ俺は班長室へ怒鳴り込んだ。班長がキョトンとした目で見ていたので、胸倉をつかみ廊下へ引きずり出す。
「何だよ、ありゃー?俺に喧嘩売ってんのかよ」
「は、離せ!」
「喧嘩売ってんのかって聞いてんだよ」
自分で無茶をやっているのを自覚しながらも止まらなかった。
「お、おまえの生活態度がだらしないからだ」
誰も止めに来る人間はいない。薄情な者である。
「だからってあんな陰険な真似しやがってよ」
「と、とにかくキチンとしろ」
班長はガタガタ震えながらそう言うのがやっとだった。北海道に来てからやりたい放題の俺。理不尽だとは思ったが、班長の理不尽さが許せなかったのである。
この日から教育隊の中でも一人浮くようになった。
砲手検定という後期教育で重要な検定をする日が来た。
三人一組なので、検定を受ける人間が班内から二人班員を指名して望む。十名の中二人だけ、その指名がまるで掛からない班員がいた。
確かに日頃のぬるい訓練でもついていけなかった二人。いつも他の班員から小馬鹿にされていた。二人とも指名が掛からないのは当たり前というように、黙って下をうつむいている。
二人とも検定の結果は、級外といって最低のランクだった。
俺の番が来る。あえて俺はその二人を指名した。他の班員の中で笑い声が聞こえる。俺が冗談でこの二人を選んだと思っているのだろう。
「藤沢、おまえふざけるな。ちゃんとパートナーを選べ」
班長が不機嫌そうに言うので、逆に言い返してやった。
「何言ってんすか、班長。俺が選んだ人間に対して失礼でしょ?真面目に選んでますよ」
「……」
平気で自分の部下に酷い言い方をする班長。やはり好きになれない。生理的に嫌いなタイプの人間でもあった。
「いいか、おまえら。しっかりサポート頼むぜ」
「うん」
「分かった、藤沢」
珍しくいつも無気力な二人が元気のいい返事をくれる。こいつらと一緒に、いい結果を出そうじゃないか。
俺が指令を出しながらテキパキと砲を組み、照準機の気泡を合わせる。
「気泡」
「よし」
「気泡」
「よし」
三人の呼吸を合わせ、誰よりもいい結果を出したかった。それが班長に対する俺の意地でもある。
結果、俺は見事特級を取れた。
指名した二人の班員と抱き合って喜びを分かち合う。班長は苦虫を潰したような顔で、その光景を眺めていた。
この週の終わりに、俺はこのメンバーで酒を飲みに行った。ちょっとしたお祝いをしたかったのだ。飲み屋の開く時間までまだ三時間ほどあったので、俺たちはパチンコをやって時間を潰す。これがいけなかった。三人共すべて台に飲まれ、一文無しとなってしまったのだ。
このまま駐屯地へ帰るのも惨めなので、倶知安駅でベンチに座りボーっとしていた。
しばらくして二対二のカップルが、目の前を通る。け、女連れかよ。そんな感じで見ていると、カップルの片割れの男がこちらを指差しながら「見てみ、あいつらダセー」と言い大笑いしている。
パチンコで負けてイライラしていた。ちょうどいい獲物が巣に迷い込んでくれたものだ。
「あいつら今、俺たちに向かって小馬鹿にしてたよな?」
同期に確認すると、小さく頷いた。
「ちょっと見てろ」
俺はカップルのあとを駆け足で追い駆けた。ちょうど駅前に停まるバスに乗り込もうとしているところだった。小馬鹿にした男の肩を後ろから掴み、静かに言う。
「おい、兄ちゃん。さっきのあの態度は何だ、おい?」
まさか追い駆けてまで、喧嘩を売ってくると思わなかったのだろう。完全に男はビビり、「すみません」を連発する。その彼女も他のカップルも冷たいもので、仲間がやられそうになっているのに、逃げるようにしてバスへ乗り込んだ。
この状況で殴ると、俺一人悪者になりそうだ。仕方なくその男に強烈な頭突きを食らわせ、俺たちは歩いて駐屯地へ帰った。
銃の射撃訓練の最中、妙に絡んでくる一班の徳田という班員がいた。
前期教育中もずっと粋がり、周りの班員を苛めてきたという噂を聞いた事はある。区隊でも目立つ俺が、気に食わなかったのだろう。
「おまえさ、いつも標準語喋って気取っているけどさ。ここは関東じゃねえんだよ」
関東出身で標準語しか話せないないのだからしょうがない。それにここが北海道だというぐらい理解している。
「何が言いたい?」
「粋がってんじゃねえよ」
徳田は目を剥いて耳元で怒鳴ってきた。
「臭い息を近づけるな」
こいつはあとでボコボコにしてやろう。今は射撃場だ。ここでトラブルを起こしてもいい事はない。
「テメー、この野郎」
「あとで終わったら俺の部屋に来い。ちゃんと相手してやるから」
「首洗って待ってろよ、テメー」
この日はイライラして射撃の成績もよくなかった。
部屋に戻ると、早速一班の徳田がやってくる。ベッドのそばにいた俺を見つけると、睨みつけながら近づいてきた。
「さっきは随分と粋がってくれたな」
「おい、おまえよ。さっきの台詞…。ありゃ何だ?誰に口を利いてんだ?おいっ」
「あ?藤沢、おまえにだよ。おまえ……」
その瞬間、こめかみを拳でどついた。徳田の頭が二段ベッドの角に当たる。相手は溜まらないだろう。俺の拳で殴られ、その勢いで鉄のベッドにも逆側がぶつかるのである。
両こめかみを押さえながら、徳田は床に座り込む。それを何度も立たせて繰り返し殴ってやった。
「す、すみません…。勘弁して下さい」
徳田が涙目になって懇願してくるまで、俺は殴り続けた。この程度で泣くなら、はなっから絡まなきゃいいものを。この時も、誰一人止めに来る人間はいなかった。朝霞の時なら班員同士で大喧嘩になったのにな……。
北海道へ来て物足りなかった部分。それは仲間意識という熱が感じられない部分だったかもしれない。
いつも班長に殴られるのを分かりながら、馬鹿をやり大はしゃぎした前期の仲間たちにまた会いたかった。
ようやく夏の長期休暇がやってくる。帰省ラッシュを避ける為、俺はお盆過ぎに休暇を取るようにした。
さすが公務員だけあって、二週間ぐらいの長い休み。
関東へ行ってみたいという同期が二人いたので、うちにその間泊める事にして一緒に帰ってきた。夏だというのに川園という同期は黒のジャケットを着ていた。
「川園、おまえ暑いだろ、そんな格好してちゃ」
「で、でも初めての都会だからさ……」
「誰もそんな格好してないじゃん。それにその財布。せめて内側のポケットに入れときなよ。すられるよ?」
散々忠告をしたが、川園はポリシーがあるのかまったく言う事を聞かなかった。羽田空港からモノレールで浜松町へ着いて切符を買おうとした時、川園は自分のポケットを叩き出し、「あれ?あれ?」と大騒ぎしだした。
「どうしたんだよ?」
「財布がない……」
「ほんとかよ?」
外側のポケットに頭を突き出しながら長財布を入れていた川園。モノレールに乗っている時か、駅構内を歩いている時にスリに遭ったようだ。
仕方なく二万円を貸してやり、家に着いてからは別行動をする事にした。一緒にいて、これ以上何かあっても正直面倒を見切れない。川園はうちの電話を借りて、九州の実家に金を送ってくれと頼み込んでいた。
高校時代の担任である先生のところへ連絡をして会う事になった。先生の奥さんは嫌な顔一つせず、おいしい手料理を振舞ってくれる。高校を卒業して半年ぶりだったが、先生の元気そうな顔を見てホッとした自分がいた。
地元の同級生連中とも毎日のように飲み歩く。道路でそのまま寝て朝になったという事もあった。
唯一気掛かりなのが、永田瑞穂と未だ会っていない事である。何度も連絡をしたが、俺が休暇する時期をずらしたから予定が合わないのだ。
「何とか時間作れないか?」
「んー、難しいよ。てっきりお盆ぐらいに帰ってくるもんだと思っていたからさ」
「そうなんだけどさ……」
「最近、残業があって帰るの遅いんだ。いつもバタンキューだもん」
「休みはあるんだろ?」
「あるけど、予定が入っているし」
「……」
瑞穂の言い分は最もである。でもせっかく地元へこうして帰ってきているのだ。できれば顔ぐらい見たい。
高校二年生の時、何も言わず武蔵浦和の駅まで行った事を思い出し、また行こうと思ったが、強引に行動して嫌われるのは嫌だった。
もどかしさを感じつつ、俺は二週間の休みを終え、再び北海道へ戻った。
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