ハンデを抱えながら日々を生きる国さん。
以前話した『今の中学校で教えている英語は間違っている』の件で、残酷だけどいい名案を思いついた。私は早速電話を掛けてみる事にした。
「ちょっと待って、工藤さん。今から事務所まで行きますから」
私が話そうとしたいい名案に国さんは興味を示し、こちらへ向かうと言う。
一時間ほどして国さんが事務所へ到着した。
「工藤さん、いい名案って?」
「国さんの作った本の中身とは別の問題なんですが、冒頭の部分で国さんが何故この本を作ろうと思ったかを書いてあるじゃないですか」
「はい」
「その部分をある程度変えるんです」
「…と言いますと?」
ここから先は残酷な言い方になる。でも、私は言う事にした。
「これから話す事に、気を悪くしたらすみません。でも私にはいい方法だと思ったんです」
「遠慮しないでガンガン言って下さい」
「分かりました…。まず国さんの『クローン病』。これについてみんなが分かるような知識を冒頭で書くんです。そういった症状に掛かっている人が作った辞典。だから中学校のとかでなく、もっと違うタイトルにしたほうがいいかもしれません。マスコミが食いつきそうで、出版社も売りにしやすい部分を全面的に押し出して宣伝するんですよ。国さんの作った趣旨とはまったく違った方向になるし、この本に掛けた情熱に対しても失礼な事を言っているのは承知の上で話しています……」
今の世の中、内容うんぬんより話題性がすべてなんじゃないかなってぐらい、情報に踊らされている。だったらそれを逆手に取ってやってみるのも一つの手だと思ったのだ。
「工藤さん……」
「はい、何でしょうか?」
「私ね…、この『クローン病』を売りにして同情なんて買いたくないです……」
悲痛な表情で吐き出すように国さんは口を開いた。
「すみません……。国さん、本当にすみませんでした……」
「いえ、工藤さんも良かれと思って言ってくれたのだから、その事については嬉しかったです。ありがとう」
私はどれだけこの人を傷つけてしまったのだろう。深い罪悪感が全身を取り巻く。いくら親しくなったからとはいえ、言ってはいけない台詞だってある。そんな事すら気付けなかった事にいくら後悔してもしきれないでいた。
「お礼なんて言われる筋合いなどないです。ほんと国さん、すみませんでした……」
「もう、工藤さん。気にしてませんから。それよりまた今度そばでも食べに行きましょうよ、ね?」
「は、はい……」
この日、一日中心の中が重く感じた。
そんな国さんが事務所へ来なくなった。もう二ヶ月ほど絶つ。やはり先日話した件で怒ってしまったのかな。もしそうならもう一度ちゃんと謝りたかった。
オーナーへ心配で聞いてみる。
「多分、体調悪くて入院しているんじゃないかな」
「じゃあお見舞いに……」
「気持ちは分かるよ。でもあの人、そういうのすごく嫌うんだ……」
自分の弱った姿を誰にも見られたくないのだろう。だからってこのまま何もしないのは気が済まなかった。
「入院した病院は分かりますか?」
「いや、あの人、色々な病院へ行くからね。どこにいるかは分からない。工藤君、今まで何かあったら必ず俺のところに連絡はあるんだ。そんな焦ってもしょうがない」
オーナーも悲しいのだ。ただ私みたいに感情を目の前で出さないだけ……。
何も力になれない自分が歯痒かった。
今頃どうしているんだろう、国さんは……。
携帯の番号を聞いてあったので、私は駄目元で国さんへ電話をしてみる。
「駄目か……」
国さんの携帯は、ずっと留守番電話になっていた。
半年ほど過ぎて、私の携帯に国さんから電話があった。
「お久しぶりです、国さん! お元気でしたか?」
私は興奮して電話に出る。
「ぁ……」
ん、何か言っているが、声が聞き取りにくい。
「どうしました?」
「肉…、ぅ、う……」
肉? 何の事だろう…。私は耳を澄ませた。
「国さん、どうしたんですか?」
「ぜ、全然、連絡できず、ごめん」
ようやくちゃんと声が聞こえてきた。どちらかの電波状況が悪かったのかな?
「いえ、大丈夫ですよ。今どうしているんですか?」
「入院してるんだ……」
オーナーが言った通りだった。
「大丈夫ですか? 何か必要な物とかありますか? 何でも気軽に言って下さい」
「肉まん…。あれはおいしかったなあ……」
「え?」
「久しぶりに肉の感触を口の中で味わう事ができました」
「……」
出会った頃、私が肉まんを持っていった事を言っているのだろうか?
「それにおそば…。あれもおいしかったなあ……」
「国さん、どうしたんですか?」
「ぁ…、あり…、がと……」
「国さん……」
ブツッ、ブーブー……。
電話はそこで切れた。チクショウ。また電波が悪いのかな?
私は再度掛け直してみたが、留守電になってしまう。何だよ、さっきまで普通に話せていたのに……。
その時、オーナーから着信が入った。
「はい、もしもし」
「あ、工藤君!」
いつも冷静なオーナーの声とは違って聞こえた。
「はい、どうしました?」
「国さん、たった今…、亡くなった……」
「……!」
え、だって今さっきまで私と電話で話していたんじゃないのか?
「大腸癌も患っていたらしいんだ……」
「でも俺、さっきまで国さんと電話で話していたんですよ?」
「病院から連絡があったんだ。国さんって身寄りいなかったから、連絡先は俺になっていたんだよ」
オーナーの言葉が嘘を言っているようには思えなかった。じゃあ、さっき電話で話した国さんは一体…。いや、そんな事はどうでもいい。事実さっきまで私は国さんと話をしていたのだ。あの国さんが亡くなった……。
「そうだったんですか……」
「最後ぐらい、強引に見舞いに行ってやれば良かった……」
電話の向こうでオーナーのすすり泣く声が聞こえた。
「ぁ…、あり…、がと……」
先ほどの国さんの声が、頭の中で何度も繰り返し聞こえた。あんな事ぐらいで最後の力を振り絞ってお礼を言いたかったのか。そう思うと一気に涙が溢れてきた。
「現代の医学は進歩したんじゃねえのかよ! 何で『クローン病』を治せなかったんだ!」
私は天井を睨みながら怒鳴りつけた。
オーナーとの電話を切って、国さんとした色々な会話を思い出した。
肉まんをひとちぎり分だけ食べてくれたっけな……。
そばを一本だけつゆにつけて、うまそうに啜って……。
「そんなもんで満足したのかよっ!」
私は壁に拳を叩きつけた。
何とも言いようのない悲しみが全身を覆う。
現代では原因不明の奇病である『クローン病』だった国さん。結局私は彼に何もしてあげられなかった。
やりきれない思いだ。もっとあの人と色々な話をしたかった。たった数回しか会っていない。知り合った期間だって短い。それでも俺の中で、国さんの存在は大きくなっていた。
もうちょっと生きてくれていたっていいじゃないか……。
あのエイズ患者の話はとてもインパクトが強く、驚いた。
フィリピンに行った時の話。もしその場所を書いた紙をなくさなかったら、国さん、まだ長生きできていたのかな?
最後に事務所で話した『今の中学校で教えている英語は間違っている』の件。私に本当に失礼で下衆な事を彼に言ってしまった。もう一度ちゃんと謝りたかったが、もう遅い。
死に目に会えない事が、こんなにも辛いものだとは知らなかった。
最後の電話、あれはただお礼を言う為だけにしてきたのだろうか? いくら考えても分からない。もうこの世に国さんはいないのだから……。
彼の本名なんて知らない。オーナーから「国さん」と紹介されただけだった。ただ事務所へたまに顔を出し、従業員だった私と数回会話を交わしただけの仲。
それなのに何で私はこんなにやるせなさを感じ、こんなにも悲しいのだろう。たった数回でもお互いの価値観がシンクロし、短い時間ながら私と国さんは通じ合っていたのだ。
「久しぶりに肉の味を味わいました…。工藤さん、ありがとう」
そう言ってトイレへ駆け込んだ国さんの姿が、昨日の事のように思える。
国さんは、お見舞いに来る事を嫌がっていた。弱った自分の姿を見られるのが、本当に嫌だったのだろう。いつも俺の前で、いつも気丈に振舞っていた。ならば墓参りぐらいはこっちの勝手にさせてもらう。コンビニで買った肉まんを持って……。
そして一つ、国さんに謝らなきゃいけない事がある。以前、オーナーから国さんの話を聞き、病院のベッドの上に寝たきりじゃ何の意味もないと思った。それは大きな間違いだ。だって俺の心にこれだけ考える気持ちを残してくれたのだから……。
世の中、目に見えるものだけが大切な訳じゃない。国さんのおかげで、俺は一歩成長できた気がする。
「国さん…、ありがとう……」
私はゆっくりと両手を合わせ、静かに黙祷を捧げた。
寂しそうに微笑む国さんの横顔が脳裏に浮かんだ。
―了―
執筆期間2008年6月10日~2008年6月11日 二日間 原稿用紙30枚分
再執筆期間2009年2月2日 原稿用紙32枚分
再校正2009年7月29日 原稿用紙43枚分
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