大家へ電話する前に、ミサトと少し話をする。
「何とかしてやるから、安心しろ。あんなくだらねえ不動産の若僧なんかにビビるな。この俺が後ろについているんだ」
「ごめんね、ほんと。どうなるか分からないけど、少し安心できたよ」
「少しじゃない。今まで通り、笑顔でいられるようにしてやるよ」
俺がそう言うと、ミサトは微笑んだ。久しぶりにこいつの笑顔を見たような気がする。あとは大家をうまく説得するだけだ。
言葉を選び、慎重に対処していかないとな…。俺は大家へ電話を掛けた。
「もしもし、森田ですが」
年配の物静かな声が聞こえる。
「あ、はじめまして、私、飯田誠と申しますが」
ミサトのペット問題の件について、謝りながら簡潔に用件を述べた。
「あーはいはい、萩原望さんの件ですね。私も一昨日、不動産から聞いてビックリしたんですよ。まあ、彼女の場合、家賃の振り込みもちゃんとしていますし、これからも末長くよろしくお願いしますよ。さすがにペットはまずいですけどね」
不動産が言っていたような態度とはまったく違ったので、拍子抜けだ。それより大家の台詞で、一つ引っ掛かる発言があった。
「あの~…、ペットの件を聞いたのって一昨日なんですか?」
「ええ、不動産のさくら産業から連絡ありましてね。動物は可愛いですが、建物が汚れる原因にもなるので遠慮させてもらっているんですよ。萩原さんについてはペットを飼わないという事なので、それなら問題ないですけどね」
さくら産業の連中、ふざけやがって。一ヶ月前からミサトに電話して、散々嫌がらせをしていた訳だ。キッチリ礼はしないとな……。
電話だけじゃミサトも不安だろう。さらにつけくわえておくか。
「ええ、当人も大変反省しております。それでこれからキチンとした形で謝りに行きたいと思っているのですが、大家さん、お時間の都合はよろしいでしょうか?」
大家もこちらへ引きずりこんでおいたほうがいい。のちの仕返しの為に……。
「私は昼から用事があって出掛けますので、その前でしたら大丈夫です。でも、そんな気を使ってもらわなくてもいいですよ」
「いえ、ご迷惑をお掛けしたのは事実ですから。ちゃんとした形で当人に謝らせて下さい。お願いします」
少し強引だが、ここは一度顔を合わせておいたほうがいいだろう。
「分かりました。では、お待ちしていますね」
俺は大家の住所を聞き、メモをとった。これで直接詫びを入れれば、ミサトの悩みは無事解決となる。しかし、すべてがそれで終わった訳ではない。まだ二十歳のミサトに対して、汚い態度をとったさくら産業の連中をギャフンと言わせなければならない。
電話を切ると、笑顔でミサトに言った。
「ミサト、これで安心してゆっくり眠れるだろ?」
「うん……。ほんと、ありがとう、マコちゃん……」
ミサトは目に涙を滲ませていた。
「まだだよ。これから大家に謝りに行ってからだぞ、安心するのは」
優しくミサトの肩を置いた。今にも繊細で壊れそうな物を扱うような感じで……。
コージコーナーのケーキを買いに駅まで向かう。昼までまだ一時間以上あるから時間的な余裕はたっぷりある。
「どのくらい買えばいいかな?」
「う~ん、とりあえず十個ぐらいでいいんじゃないの」
ミサトはショーウインドーに飾ってあるケーキを真剣な表情で眺めている。
「適当に選んじゃえよ。金は俺が払ってやるから」
「ううん、駄目だよ。こういうのは私のお金で出さないと、意味がないもん」
ミサトのこういった真面目な部分が好きだった。
ケーキを買い、大家の自宅へ向かう。俺の家から割と近い位置にあるので住所を聞いてすぐに分かった。
大家と対面して、今回の非礼を詫びる。世間というのは狭いもので、俺の苗字を聞いて大家は大袈裟な素振りで反応した。話を聞くと、うちの母と知り合いだと言う。
「飯田さんの息子さんか。こんなに大きな息子さんがいたんだな」
「本当、今回の件は申し訳なかったです。当人も心から反省していますので」
「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
ミサトも深々と頭を下げる。
「いやいやこれからもよろしくお願いしますよ」
大家は穏やかな表情で微笑んだ。無事解決。これであとは不動産の連中だけだ……。
車を運転しながら、助手席へ座るミサトへ話し掛けた。
「安心できたか?」
「うん、本当にありがとう」
「あともう一件やる事が残ってるぞ」
「え、まだ何かあるの?」
「大家の話を聞いたろ。不動産から連絡を受けたのは、一昨日だって」
「うん……」
「不動産からミサトに電話があったのは一ヶ月前からだろ?」
「うん」
「奴らを苛めないと俺の気が済まないだろ。とりあえずおまえの部屋に行こう」
再び俺たちは、ミサトの部屋へ向かった。
部屋に到着すると、ピエールとジャンがか細い声で鳴きながら足元へ擦り寄ってくる。もうじきこの二匹の子猫ともさよならをしなければならないミサトは、名残惜しそうに何度も抱き締め顔を擦り付けていた。しばらくその様子を眺めてから、俺は声を掛けた。
「さて、さくら産業に電話するか」
「でも、大家さんも許してくれたし、これ以上事を荒立てても……」
まだミサトの心の傷は残っていた。当たり前だ。あんな事をされたんだから。だからこそなおさらやらなきゃいけない。
「何を言ってんだ。おまえ、ここ一ヶ月、ほとんど寝れないぐらい精神をかき回されたろうが? 二度とそんな事をできないようにしとかないと駄目だ」
「……」
ミサトはまだ迷っているようだった。
「酷い事をしたのは向こうなんだ。こっちはさっきで筋を通したんだからな。あとする事と言えば、その子猫たちとお別れするぐらいだ。辛いだろうけどな」
「しょうがないよ。この子たちには可哀相だけどね」
ピエールが「ミャ~」と可愛い声で鳴いた。
「うん、じゃあ電話するぞ」
俺はさくら産業へ電話を掛けた。先ほど出た吉田の声が聞こえる。その瞬間、俺の感情は一気に爆発した。
「おい、コラッ! 吉田か、おい」
「は、はぁ…。ど、どちらさまでしょうか?」
さすがに吉田はビックリしている。
「どちらさまだ? テメー、さっき会話した人間の声を忘れたのかよ、おい?」
「も、申し訳ありません」
「朝電話したろうが、飯田だよ。ペットの件で電話したろ?」
「あ、はいはい。飯田さんですね。何か御用でも……」
「しらばっくれてんじゃねえよ。何で俺がこんな対応で口を利いているか少しは考えろや。とぼけんじゃねえぞ、おい」
ミサトの為だ。悪いがこっ酷く苛めてやる。
「いえ、しらばっくれると言われても、その……」
「おまえら一ヶ月前から、萩原望のところに電話してたよな?」
「え、ええ……」
「大家がカンカンに怒ってるって嘘をついてよ」
「いえ、当社はキチンと大家さんに話を通して……」
まだこの期に及んでも言い訳をするつもりか。
「嘘をつくな! 俺はたった今、大家と直に会って話してきたんだぞ? 大家が言ってたよ。ペットの件を聞いたのは一昨日でビックリしたってな」
「……」
もう吉田は何も言えなかった。
「いいか? おまえらのした事は非常にいやらしい行為なんだぞ。分かってんのか? 大家からしてみれば、家賃をキチンと払ってくれる店子がずっと住んでくれるのが理想だ。だけどおまえらにしてみれば、店子がどんどん入れ替わったほうが仲介手数料が入る訳だしな。たかだか五万程度の手数料欲しさに、二十歳の女によってたかって嫌がらせを繰り返しやがってよ。おまえらのした事ってそういう事なんだぞ、おい」
「い、いえ、別にうちはそんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりなんだ? 出るところ出て、白黒をハッキリつけるか?」
「いえ、それはちょっと……」
このぐらい言っておけば、これからミサトも安心して眠れるだろう。よし、最後の締めだ。
「今、萩原望もすぐ近くにいる。電話変わるからキチンと心を込めて謝れ。こっちは金品を要求している訳じゃないんだ。分かったな?」
「はい……」
俺はミサトへ携帯を渡す。ミサトはゆっくり携帯を耳に近づけたが、一分ほど過ぎてもジッとしたままだった。
「どうした?」
「何も話してくれないよ……」
蚊の鳴くような声で言うミサトの目は涙で潤んでいた。
「ちょっと貸せ!」
俺はミサトから携帯を取ると、受話器に向かって怒鳴りつけた。
「おい、吉田! テメー、何で何も言わないんだよ?」
「い、いえ、あの……」
「今からさくら産業まで俺が直接出向いてやろうか?」
「あ、あの謝ります。ぜひ謝らせて下さい」
「ちゃんとせいや、ボケ!」
再びミサトへ携帯を手渡した。
無言のまま、ミサトは受話器に全神経を集中させている。俺は黙って見守っていた。
やがてミサトの大きな瞳から、大粒の涙がこぼれだし、静かに口を開く。
「酷いですよ…。ほんとに酷いですよ……」
それだけ言うと、その場に突っ伏してミサトは泣きだしてしまう。俺は携帯を取り、吉田に言った。
「おい、吉田さんよ」
「は、はい……」
「あんたたちのした事は、これだけ若い子を追い込み、たくさん傷つけたんだからな。よく覚えておけ」
「す、すいません」
「すいませんじゃなく、すみませんだろ?」
「あ、はい。すみませんでした」
「今回はこれで水に流してやる。ただ、次くだらない真似してみやがれ。今度は俺が直接おまえのところまで出向くからな?」
「は、はい……」
「二度と萩原望にちょっかい出すな。何かある時は俺を通せ。いいな?」
「わ、分かりました」
こちらの完全勝利だ。電話を切ると、俺は泣きじゃくるミサトを見ながらタバコに火をつけた。
しばらくテーブルに突っ伏したまま泣きじゃくるミサト。
「……」
これでもう問題ない。このまま彼女をそっとしといてやろう。
俺は黙ったまま立ち上がり、静かに部屋を出ようとした。
「待って!」
背後からミサトの声が聞こえる。振り向こうとしたら、いきなり後ろから抱きつかれた。
「お、おい……」
ミサトの体の柔らかい感触が、服越しに伝わってくる。
「マコちゃん、今日は本当にありがとう……」
「兄として当然の事をしたまでだ」
兄? 血も何も繋がっていないのに? 俺は本当に、妹としてミサトを可愛がっているだけなのだろうか。
「……」
ミサトのいい匂いがした。俺の腕がミサトを抱き締めようと勝手に動こうとする。駄目だ。俺は懸命に自制した。
出会ったのはキャバクラ。顔だって非常にタイプである。だけど会った時、まだ見ぬ妹として勝手に被せてしまった。ずっとそんな調子でミサトとは仲良くやってきたのである。
「マコちゃん、一度も私を口説いてくれた事なかったよね……」
俺の背中に顔を埋めたまま、話すミサト。その台詞に俺の心臓は高鳴った。
「……」
今振り向き、そして抱き締めれば、ミサトを抱ける……。
全身が震えていた。いいのか? ミサトを抱き締めても……。
一人の男として接したい。
いや、このまま良き兄として……。
本当は、ミサトを抱きたかったんじゃないのか?
抱きたい……。
抱いていつもと違うミサトの表情を見てみたい。
そしたら彼女は傷つくんじゃないのか?
ずっと兄として慕ってきたのに……。
いや違う。今は一人の女として俺に……。
いくら自問自答したって答えなんか出やしない。
分かっている事。今までのままなら、この関係を維持できるという事だけだった。もし俺がその場の感情だけでミサトを抱いたら、今までのすべてが壊れてしまう気がした。
目を閉じると、ミサトと過ごしてきた楽しい思い出が蘇る。
ずっと抱きたかった……。
いや違う、あの太陽のような笑顔をなくしてしまっていいのか?
ずっと良き兄と来て、ここまで頑張ってきたんじゃないか……。
俺はゆっくり口を開いた。
「馬鹿野郎……。俺は勝手におまえを妹と思い、可愛がっているだけだ。今回もおまえが困っていたから動いただけだ…。もう用はないだろ。俺はそろそろ帰るぞ」
自分の言葉が本心なのか分からなかった。今、ここにいるのはただの男と女なのだ。手を伸ばせば、ミサトを抱き締める事ができる。自分でもどうしていいか分からなかった。
今の俺はおかしい。何度も似たような事を繰り返し考えている。
「うん……、今日は本当にごめんね。ありがとう……」
ミサトが俺の背中からそっと離れる。俺は「ゆっくり寝ろよ」とだけ言って、一切振り返らずミサトの部屋をあとにした。
それから一年が経ち、俺とミサトは今までと変わらず定期的に食事をした。
あの日、俺に抱きついてきたミサト。自分次第でどうにでもなっただろうが、俺は今の形を選んだ事になる訳だ。
ミサトはどういうつもりで、俺と会っているのだろうか?
普通に会い、笑顔で楽しく食事をする。そんな感じで時間だけが過ぎていった。
それによって積み重なったのは、お互いの信頼……。
本当に俺はこんな関係を求めていたのだろうか?
一緒にいてこれだけ会話も合うし、相性だっていい。できればずっとこのままでいたかった。
だけどこの関係がいつまで続くのかは分からない。一つ分かっている事。それはこの関係が永遠ではないという事……。
この関係のままでは、永遠は訪れないという事だけは分かっていた。
俺はあの日の事を思い出し、そして後悔していた……。
自分にあの時足りなかったのは勇気だった。でも過ぎた時間は戻せない。このまま前に進むしかないのだ。
ある日、夜中にミサトから電話があった。
「マコちゃん、寝ちゃってたかな?」
「いや、起きてたよ。どうした?」
「いや、ちょっと話があってさ」
「うん、言ってみな」
「この間、私、沖縄に旅行行ったでしょ」
「ああ」
そういえば前回食事へ行った時、ミサトはたくさん写真を持ってきてテーブルに広げ、ずっと楽しそうにはしゃいでたっけな。
「あの神秘的な海の色に魅せられちゃってね。向こうで仕事しながら住みたいなって思ったんだ」
「え、沖縄に?」
ミサトが遠くへ行ってしまう……。
「うん、元々海とか大好きだし。私、数年キャバクラの仕事やってるけど、どうも好きになれないしね」
「まあ、一人暮らしする手段として働いているだけだからな」
「うん、いつまでもこんな生活できないし、思い切って沖縄へ行っちゃおうかなって……」
もう気軽に会って食事をしたり、話をしたりする事ができないのだ。
「あれ、マコちゃんどうしたの?」
止めろ。今止めないでどうするんだ? 俺は自分へ必死に言い聞かせる。
「ん、いや、おまえがそう決めたのならいいんじゃないか。ただ次は困っても、すぐに飛んで行って助ける事はできないぞ」
何を言ってんだ、俺は……。
「……」
黙るミサト。今だ。言え。言っちまえ。おまえがずっと好きだったって……。
「ん、どうした?」
馬鹿、何そんな台詞言ってんだ? 好きだって言っちまえよ。
「そうなんだよね。じゃあ、マコちゃんも一緒に行っちゃおうか?」
「……」
ミサトの台詞に俺の心は揺れ動く。ミサトと知らない沖縄の地で一緒に暮らす。とても楽しいだろうな。悪くないかもしれない。
「楽しいよ、沖縄って」
明るい声のミサト。本気で俺に言っているのだろうか?
「ば、馬鹿、俺はこっちに仕事があるじゃねえか」
自然と出る台詞。俺は何を言っているんだ? 言えばいいじゃねえか。行くなって……。
「あはは、そうだよね」
寂しそうに笑うミサト。
「行くとしたら、いつぐらいを目処に考えているんだ?」
言った言葉と裏腹の事を俺はいつも考えていた。今、本当の事を言わないでどうするんだ? 何故ミサトは一緒に行こうと言ったんだ。俺と離れたくないからだろ?
「う~ん、これからすぐに動こうかなって思ってるよ。その前にマコちゃんには言っておこうかなと思って」
言え。言いやがれ、チクショー……。
「そっか……」
ひと言「好きだ。行くな」って言えばいいだけなのに……。
「うん、じゃあ一人で新天地に頑張ってくるね」
「……」
一人で…。今ミサトはハッキリそう言った。彼女の気持ちが遠ざかっているんだぞ? まだ間に合う。言え。言いやがれ!
「あれ、どうしたのマコちゃん?」
「いや、行く前にまたうまいものでも一緒に食べに行こう」
何を今さら気取っているんだ? 頼むから本当の事を言ってくれよ、俺の口……。
「ほんと? 楽しみにしてるね」
結局俺は臆病なんだ。本当の事は何一つミサトに言えない……。
電話を切ると、ミサトの事をずっと考えた。あいつはミサトの名を捨てて、萩原望として生きようとしている。
だから何だ?
何故俺は止めなかった?
本心は沖縄になど行ってほしくないのに……。
俺が止めたら、あいつは行くのを止めるだろうか?
待て、ミサトが決意した事を止めてどうするんだ?
俺はあいつの彼氏でも何でもない。
ずっと良き兄として接したいただけなんだ……。
自分でも気付かない内に、俺はミサトの事が大好きになっていた。
その関係を壊したくないが為に、ずっと臆病になっていた。
いつもあの不動産の一件のあと、抱きついてきたミサトを思い出す。
あの時、ミサトを抱き締めていたら、また今とは違った展開になっていたんじゃないかと……。
俺は頭をグシャグシャに掻き毟りながら、その場へしゃがみ込んだ。
ミサトの沖縄行きが正式に決まり、マンションを引越しする時、手伝いに行った。
「ミサト、本当に行っちゃうんだな」
「もう、とっくに店は辞めたんだから、ミサトはやめてよ。私には望って名前があるんだからさ」
「望……。いや、俺にとっちゃいつまで経ってもミサトだ」
俺は馬鹿だ。つまらない事だけこだわっているふりだけしている。
「もうマコちゃんは相変わらずだな。でも今日はありがとう。すごい助かったよ」
「妹が新天地に行くんだ。兄として手伝うのは当然だろ」
「まったく最後の最後まで……」
しばらくシーンとした空気が流れた。
「ねえ、マコちゃん。ちょっと目を閉じて」
「ん?」
「いいから早く」
「あ、ああ……」
唇に柔らかい感触が一瞬だけした。ミサトの柔らかい髪の毛が、俺の頬に触れる。
「お、おい……」
今、俺はミサトにキスをされたのか? ビックリして目を開ける。
「ふふふ、感謝の気持ち。今日で最後でしょ。向こうに行っちゃうし……」
無理に笑うミサト。目だけは真剣に俺を見ていた。
「寂しくなるな」
少しだけ本音が言えた。言え、このまま……。
「……」
「……」
俺もミサトも無言のまま、お互いを見つめ合っている。
「ひと言だけいいかな?」
沈黙を破るようにミサトが口を開く。
「何を?」
「マコちゃんに言いたかった事……」
「ん、俺に? 言ってみな」
「馬鹿っ!」
それだけ言うと、ミサトは目に涙を溜めたまま部屋のドアを閉じた。
家に帰って色々考えた。自分の秘めた想い。今までずっと言えなかった。あれで最後だと言うのに、やっぱり俺は言えなかったのだ。
しばらくミサトの部屋の前で呆然と立ち尽くした。だけどノックすらできないでいた。
俺はミサトが大好きだった。いや、今でも好きだ。
ただ兄として接すると最初に言った手前があるから、どうしてもブレーキが掛かってしまうのだ。
今日だって、抱きつかれた時だって……。
今から行くなと言えば、ミサトは行かないだろうか?
いや、あいつはまだ二十歳なんだ。可能性はいくらでもある。自分でやりたい事を俺の想いで駄目にしてしまっていいのだろうか。
最後に言われたミサトからの台詞。あれは彼女が踏ん切りをつける意味合いで言った決別の言葉なのかもしれない。
結局のところ、ミサトに好きだと言える勇気が俺にはなかったのだ。
あれから一週間が過ぎた。
気がつけば、名も知らない妹の存在を気にする事がなくなっていた。ミサトがいつもそばにいてくれたからだろう。妹として勝手に重ね合わせたミサト。それと同時にどんどん好きになり、のめり込んでいく自分がいた。
彼女に自分の気持ちを言いに行こうと何度も迷っている内に、あいつは沖縄に行ってしまった。
いつも俺は肝心なところで決断が遅い。
あいつと一緒だったら、どんなに楽しく日々を過ごせた事だろう。
俺から言うチャンスは何度もあった。
ミサトがいなくなってから、物凄く好きで溜まらなかったのを自覚する。それと同時に、あの時こうしていればという後悔を感じた。
まあいい……。
俺にとっても、ミサトにとっても、良き思い出としてずっと記憶の中には残るだろうから……。
三年後、ミサトから一枚のハガキが届いた。
『私たち結婚しました』
そう印刷された幸せそうなミサトと旦那の写真。見ていて複雑な心境になった。
とうとう結婚しちまったか……。
いくら何でもこうなったら手遅れである。
俺は笑った。笑うしかなかったのだ。自分の馬鹿さ加減に……。
「ん?」
よく見るとハガキの隅に、手書きで何か書いてある。
『マコちゃんの馬鹿』
そう小さく書いてあった。
「何を俺はずっと格好つけていたんだよ……」
そう言いながら俺は、ハガキの上に大粒の涙をこぼして泣いた。
―了―
タイトル『隠愛』 作者 岩上智一郎
執筆期間 2008年3月17日~2008年3月18日 原稿用紙 62枚分
再手直し 2008年6月6日 原稿用紙80枚分
推敲 2009年5月29日 現状用紙81枚分