岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

3 北海道の雪

2019年08月01日 18時25分00秒 | 食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~

 

 

2 北海道の雪 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

1北海道の雪-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)北海道の雪「へい、らっしゃーい!」客のトラックが入ってくる。俺は元気良く大声をあげ、椅子から立ち上がった...

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 重迫撃砲の実弾を撃つ演習がやってきた。
 各三門設置するのに、砲と砲の間隔を百メートルずつあける。銃迫撃砲中隊の人間が各砲に二人ずつつき、俺ら班員は三等分された。
 二メートルぐらいの穴を掘り、砲身、定板、脚を組み立てる。
 班付きから、重泊中隊の人間は耳を音でやられ、耳が遠い人間が多いと言っていた。
 中隊から来た上官が詳しくやり方を説明する。俺は真剣に聞いた。
 六十センチぐらいの弾を砲身に両腕で詰める。この時弾が砲身の下に届いた瞬間、勢いよく発射されるので、その軌道上に手などがあると一発で吹き飛んでしまう。だから弾を入れたあとは、素早く左に身を屈ませながら耳を両手で押さえなければいけない。発射される時の轟音で、鼓膜がやられる可能性もあるからである。
 それを聞き、ビビッて弾を入れられない同期もいた。
「何やってんだ?早く弾を入れろ!」
 そばにいた上官が怒鳴っていたが、同期は体をガタガタ震わせて尻餅をついてしまう。無理もない。一歩間違えば、自分の手や耳が駄目になるのだ。結局その同期は、ビビったまま入れる事ができずに終わった。
 実際に模擬練習で砲手検定などをしても、実戦でビビったら何の意味もない。実際に撃つだけでこうなのだから、戦争が始まったらどうなるのだろう。
 考え事をしている内に俺の番が来る。右腕を弾の裏側に回し、肘から手首の上に乗せるように持つ。左手はバランスを取る為支えるように。砲身を上から覗き込む。この弾が下についた途端、一気に飛び出してくるのだ。ゆっくり深呼吸をしながら弾を入れる。急いで体を斜め左に捻り、発射の軌道から離れた。両耳に人差し指を入れて耳を塞ぐ。
 ドンッ!

 もの凄い地響きと共に銃迫撃砲から弾が発射された。耳を塞いでいても、キーンと耳鳴りがする。その軌道に手などあろうものなら一発で吹き飛ばされてしまうだろう。初めての体験に俺の体は全身、冷や汗を掻いていた。
 しばらくして遠くから爆発音が聞こえるが、こちらからはその場所がどうなっているのか分からない。区隊長が望遠鏡を使い、落下地点を確認していた。
 一番端の砲が発射しても、二百メートル離れたこっちにまで地響きがする。弾の飛ぶ距離は三キロから五キロ。なんて物騒なものなのだろうか。
 こんな事を続けていたら班付きの言っていた通り、本当に耳がおかしくなるな……。
 もうじき後期教育の三ヶ月が過ぎようとしていた。

 総員四十名の教育隊で、ジンギスカンを食べに行った。
 サッポロビール園でたらふくビールを飲み、ジンギスカンを胃袋に詰め込んだ。本場のジンギスカンは何とも言えないうまさである。
 班長が悪ノリして川園へビール大ジョッキの一気飲みをやらせていた。酒の弱い川園は、途中で一気飲みを断念する。酔っていた班長は、無理やり飲まそうとしていた。さすがに見ていられなかった俺は川園のビールを取り上げ、その場で一気に飲み干した。
「藤沢、余計な事をするな!」
 それが面白くなかったのか班長は絡んでくる。前期教育でも同じような事があったが、本当に酒が駄目な人間だっているのだ。その時も俺は、代わりに飲んだ。前期の班長は、飯ごうにビールを並々注ぎ、「これを一気飲みするならいいぞ」と意地悪そうな顔で言ってきた。高校生から酒を飲んでそこそこ強かった俺は、「やりゃあいいんでしょ」と一気に飲みだした。途中で汚物が胃袋から逆流しそうになったが、必死に堪え最後まで飲み干した。今思い出してもあれは非常に苦しかった。あとでゲーゲー吐いたのは言うまでもない。
 飲める奴はまだいい。しかし本当に駄目な人間は、一口でも受けつけないのだ。詳しくは知らないが、体の中でアルコールをうまく分解する事ができないらしい。無理に飲ませ、急性アルコール中毒にでもなったら、この人はどう責任を取るつもりなのだろう。余興だけの為に無理をする事など何の価値もない。
 まだ班長が不服そうな顔をしていたので、俺は「今ここにいる四十人の同期から一杯ずつグラスに注いでもらい、全部一気飲みすればいいでしょ?」とつい言ってしまった。
「それができるならいいぞ」
 どうせできやしないだろうと班長はタカをくくっている。こうなったらあとには引けない。俺は同期に「よし、みんな順々に注いでくれ」と一気飲みを始めた。
 二十杯目ぐらいから、かなり苦しくなる。でもまだ半分。こんなんで酔う訳にはいかない。気合いを入れて飲みだすと、一気に吐き気がやってきた。慌てて便所へ駆け込み、吐く俺。喉の奥まで指をつっこみ、胃袋の中の酒をすべて吐き出した。
 青褪めた顔で戻ると、同期たちが心配そうな表情で駆け寄ってくる。まだ終わりじゃない。俺は残りの人数分を注げと言い、最後までやり通した。さすがに体の限界で、帰りのバスでは記憶が吹っ飛んだ。
 あとで聞いた話だが、駐屯地に到着すると降りる際、俺はバスガイドを口説きだしたらしい。バスに壁に手をつきながら、気取っていたようだ。
 途中まではいい雰囲気だったらしいが、いきなり途中で吐き、まともにバスガイドの頭からゲロをぶっ掛けたようである。
 その話を聞き、バス会社へ連絡してバスガイドに謝罪しようとしたが、彼女が電話口に出てくれる事は一回もなかった。
 そんな形で三ヶ月の後期教育を終えると、いよいよ俺たちは中隊に配属される。

 九月の自分の誕生日と同じ日に重迫撃砲中隊に配属なった俺。各班に二人ずつ振り分けられた。自分の同期以外はみんな上官である。
 一年早く入った一等陸士の上官が、「おまえらメモを用意しろ」と言うと、非常にくだらない事を言い出した。
「いいか、まず朝起きて朝礼を済ませたら駆け足で食堂まで行き、営内班長のパンを取って来る事。これはおまえら二人で順番は勝手に決めろ」
 飯ぐらい自分で勝手に食いに行けよと言いたいところだが、とりあえず黙って聞いておく事にした。
「その時朝食を食べてからでいいが、帰ってきたら上官たちのコーヒーを人数分入れて、テーブルの上に置け。各上官によってクリームのみとか好みがあるから、それもメモに控えて覚えておくように。中にはお茶や紅茶じゃないと駄目だという上官もいるから。分かったな?」
「……」
「おい、返事はどうした?」
「はいっ!」
 隣で同期の菅原が大きな声で返事をする。そのあと俺の背中を軽く叩き、おまえもしろと合図をしてきた。
「はい……」
 小間使いをする為に、俺は自衛隊へ入ってきた訳じゃねえ。記念すべき十九歳の誕生日だと言うのに最悪の日になりそうだ。
「そのあとは部屋の掃除。これもおまえら二人で掃除をするんだぞ。最低週に一回はワックスもちゃんと掛けろ。汚れが目立つようなら何回でもしろ。いいな?」
 こんな調子で使いパシリメモを延々と取らされた。聞いているだけで神経がざわついてくる。郷に入っては郷に従えと言うが、こんな事を真面目に書いている自分が情けなかった。
「藤沢さ、頼むから中隊で上官に逆らわないでくれよな」
 上官が去ると、同期の菅原が小声で言ってくる。
「別に逆らっていないだろうが」
「目つきがヤバイって。顔に出てたよ」
「だっていきなりこれじゃよ……」
「しょうがないじゃん。俺たち一番下っ端なんだから。あと一年すれば、新隊員入ってくるし、そしたらそいつらに同じ事をやらせればいいんだからさ」
 俺はこういう考えが大嫌いだった。当時高校一年生までは、ちゃんと部活へ入っていた。その部活の先輩たちが「俺たちだってこれをやってきたんだ。これはこのクラブの伝統だから」と言いながら無茶な事を散々やらされた。『伝統』という言葉の意味を履き違えている。自分でやられた嫌な事を何故下の人間にするのか訳が分からなかった。『伝統』という言葉を使って逃げているとしか考えられない。
 菅原の言うように、人間我慢は必要である。多少の理不尽さは甘んじなければいけないのも理解はしているつもりだ。ただ度を超えた場合は別じゃないだろうか?
「頼むぜ。とりあえず明日の班長のパンは、俺が持ってくるからさ」
 そう言って菅原は、自分のベッドへ行った。

 使いパシリは当然で、奴隷と変わらない生活を送る日々。
 訓練自体は、教育隊時代のほうが全然大変だった。日常の業務内容も砲身を奇麗に磨いたり、倉庫内の整理をしたりと楽なもんである。元々戦争になると攻撃部隊なので、やる事があまりないのだ。
 朝の朝礼が終わると軽く走るのだが、一度だけ急に全力疾走で走り出した事があった。その日、お偉いさんが視察に来ると言う情報を聞いていたので、そのせいだろう。俺はくだらないと感じ、軽く流しながら走った。
 あとで同じ班の上官から乾燥室へ呼び出される。
「おまえ、さっきは何であんなたるんで走っていたんだ?」
「長距離は元々苦手なもんでして…、グッ……」
 適当な言い訳をする最中、腹にいきなりパンチをもらう。不意打ちだったので、俺は地面に倒れてしまった。
「おまえの班付きから、体力検定の結果とかをちゃんとこっちは聞いているんだよ。舐めてんじゃねえぞ、おい」
 そう言いながら上官は、俺の腹へつま先で蹴りを入れる。何度もやられ、さすがに頭に来た。
 俺は上官の髪の毛をつかみ、グーで殴り返す。するといつの間にか乾燥室に中隊の上官が十人以上入ってきた。
「このクソガキが!」
 多勢に無勢。無差別に殴られ、俺はボコボコニされた。集団リンチである。一対一ならともかく、数にはどんなに足掻いても叶わないものだ。
 この日から俺は、様々な上官に目をつけられ、嫌がらせとしか思えないような命令が始まった。
「藤沢、コーラ買ってこい」
「はい」
 コーラぐらい、部屋を出てすぐ目の前の廊下に自動販売機があるから自分で買えばいいのに……。
「あ、ちょっと待て」
「何すか?」
「俺は重泊にある販売機のコーラじゃなく、第二隊舎の四階にあるコーラが飲みてえ」
「……」
 わざわざ今いる三階のところから一度外へ出て、まったく関係ない部隊の隊舎の四回までコーラを買いに行かせる行為。嫌がらせ以外何ものでもない。
 屈辱を味わいながら、必死に感情を抑えた。
 十月に入ると中隊旅行と称し、函館まで旅行へ行く。この時は酷かった。中隊総勢百人に対して、用意されたコンパニオンはたったの五人である。消費税と変わらない割合。ちゃんと会費を毎月徴収しているのに、何を考えているのか分からない。
 俺は酒に酔ったふりをして、一番可愛いコンパニオンを掻っ攫った。こういうものは酔っ払ったもん勝ちである。会場の隅にテーブルと酒を持ってきて、二人でイチャイチャした。それだけ日頃のストレスが溜まっていたのだ。
 旅行が無事終わり、部隊へ帰る。二段ベッドの下で熟睡していると、いきなりベッドから放り出され床に押さえつけられた。ビックリして目を開けると、数人の上官たちが散々殴ったあと、俺の体を押さえていた。
「テメーは生意気なんだよ」
 漫画『明日のジョー』のリンチシーンにも出てきたパラシュート部隊。二段ベッドの上から人間が飛び降りて、身動きのとれない俺の腹に着地する。胃袋にあったものをすべて吐き出した。
 こいつら、あとで覚えていろよ……。
 俺は、今にも噴き出しそうな憎悪を腹の中で必死に抑えた。一対一なら、絶対に負けないのに……。
 夜になると、高校時代の同級生である永田瑞穂へ電話をする回数が、自然と増えた。話す内容と言えば、ほとんど俺の愚痴である。瑞穂はそんな俺に対し、優しく慰めてくれた。

 中隊野営訓練が始まる。
 北海道虻田郡倶知安町は、冬になると大雪が積もる地域でもあった。
 地面はアイスバーになり、まるでアイススケート場にいるような錯覚を覚える。夜中には除雪機が道路を徘徊し、道の両端には常に二メートルぐらいの雪の壁ができていた。
 滅多に降らない関東の雪と比べると、北海道の雪は質が違う。服に雪がつき、それを手で払おうとしてもなかなかとれないのだ。手でギュッと握って雪合戦をしようとしても、うまく握れずパラパラのまま。湿気などが関東と違うせいだろうか?
 そんな状況下の中、訓練場所の山へ向かう。一小隊五名で編成され、一番下っ端はもちろん俺ら二等陸士である。
 トラックの後ろに乗せられ目的地へ向かう。辺り一面の銀世界。雪以外にあるのは、木ぐらいしか見えない状態で訓練は始まった。
 戦争を想定しながらの訓練で、決められた設置場所へ迫撃砲を設置する。その時スコップ一つで、雪に覆われた地面を掘り起こし、二メートルの穴を作らなければならない。ご丁寧に上り下りする階段まで作らされた。
 食事の時間になると、両手にビニール袋を被せられ、その上にご飯と味噌汁を乗せられる。少しでも風が吹くと、ご飯の上に無数の埃がつく。それでもそのまま口に入れるようだった。
 数回移動をして同じ事を繰り返す。夜になると一人分が入れる穴を作り、見張りに立つようだった。見張りの時間は二つの小隊で一時間交代。他の小隊は順番に人間が変わってくる。俺の小隊だけは違った。順番が来ると、常に俺だけが見張りに行かされる。他の上官らはトラックの荷台でぬくぬくと毛布を被って気持ち良さそうに寝ていた。
 真冬の山はとても寒い。軍手をしていても寒さで固くなり、ライターの火を直に当ててようやく寒さが少し凌げる。戦争時じゃあるまいし、誰一人こんな山奥になど入って来る訳がない。阿呆らしい気分でいっぱいだった。
 一時間経ち、同期が交代に来る。
「大変だなあ、おまえの小隊は…。次も藤沢が見張りに来るんだろ?」
「ああ、誰一人変わろうって人間などいやしねえよ」
 トラックの荷台に戻り、一時間足らずの睡眠を取る。野営訓練は三日間この繰り返しだった。
 二日目になると、さすがに寝不足で辛くなる。交代を終え眠ると、一時間過ぎても起きられなかった。
 起きた時は体中のあちこちが妙に痛かった。
 あとで同期から聞いた話だが、他小隊の見張りがトラックまで呼びに来ても起きず、上官が俺を散々殴ったらしい。
「藤沢、時間だ。起きろ!」
 俺は何度声を掛けても、体を揺さぶっても起きなかった。
「いい加減にしろ、この野郎!」
 上官が殴りつけると俺はムクッと起き上がり、「今、誰が殴った」と寝惚け眼で言ったそうだ。
「何だ、貴様!」と、怒鳴る上官に向かってグーで殴り返し、そのまままた寝てしまった。
 頭に来た上官は散々殴る蹴るなどの暴行を加え、そこで初めて起きたらしい……。
 話を聞いても、まったく身に覚えのない俺。学生時代の修学旅行で、同級生から「おまえは火事が起きても寝ているだろうよ」と言われた事を思い出した。

 入隊してから今までの事を思い出すと、嫌な思い出ばかり浮かんでくるが、そうじゃない事もある。
 同じ班の鈴木陸士長。俺の三つ上の上官だったが、精神の捻じ曲がった上官と違い、明るく面倒見のいい先輩だった。
 休みの日になると、「おう、藤沢。一緒に飲みに行くべや」といつも誘ってくれ、初めてスナックへ連れて行ってもらった。鈴木士長も新隊員の時は問題児扱いされ、散々理不尽な目に遭ってきたらしい。嫌な奴ばかり目立つ自衛隊生活であるが、士長の存在は俺の中で特別なものになっていた。長男だった俺に、いい兄貴分ができたような感じだ。
 鈴木士長と一緒に飲む酒はうまい。
「いやー、この酒うまいっぺや~」
 あまり酒が強くない士長は、すぐに酔っ払ってしまう。行きつけの店『パピリオ』で焼酎のボトルを入れ、カラオケを唄いながらいい感じで酔っ払う。
 この店の料金システムは、今の私から思えば非常にリーズナブルでありえない設定だった。
 最初に居酒屋でも取られるお通し代。スナックの場合セット料金と称し、だいたい三千円前後の金額をもらうが、『パピリオ』はチャームと呼ばれるお通し代、七百円しかとらなかった。
 パチンコやスロットで負けて金のない時など、店のママは融通を利かせてくれて、チャームを断る事もできた。
 焼酎を割る水や氷は、いくら使っても百円のみ。通常のスナックならアイスペールを一回持ってくるだけで、千円は料金に上乗せされるというのに……。
 非常に良心的な店『パピリオ』。鈴木士長も本当にいい店を紹介してくれたものだ。
 店ではいつもママ以外に三名の女性がいた。もちろん十九歳の俺より、みんな年上だ。永田瑞穂となかなか会えなかった俺は、ここへ来て寂しさをよく紛らわせた。
 二連休で店の終わり時間まで飲んでいる時など、ママが片づけを終えると、「藤沢君、ほら女の子たちと一緒にご飯食べに行こう」とすべてご馳走してくれた。今にして思えば、俺はママに相当可愛がってもらったのである。この時は何も知らないので、これが普通なんだと勘違いしていた時期でもあった。
 士長と二人で飲み過ぎて、駐屯地へ変える時間を大幅にオーバーした時は、仲良く一ヶ月間外出禁止となった。駐屯地の中にも酒を飲めるクラブがあったので、俺たちは懲りずにそこで飲み、はしゃぎまくった。
 嫌味な上官たちはそれが面白くなかったのか、鈴木士長がいない時を見計らって俺をリンチした。一人じゃ何もできないくせに……。
 ある日俺の腫れた顔に気付いた士長は、「おい、そのアザどうしたんだ?」と聞いてくる。いちいちつまらない事を言いたくなかった。士長に心配を掛けたくないという思いもある。
「誰にやられたんだ?ちゃんと言え」
 涙が出そうなぐらい嬉しかった。だからこそ士長に迷惑が掛かるような真似はできず、言えなかった。

 自衛隊にいる目的である大型免許の習得。
 別に将来トラックの運転手になろうとかそんな目標はまるでない。ただここへせっかくいるのだから、取っておこう程度の思いだった。
 入隊して十一ヶ月という月日が経っている。大型免許を取る自動車教習所、略して自教へ行く期間は五ヶ月間と決まっていた。ただし免許を取ったとしても最低二十一歳にならないと、大型は運転できないらしい。一般の免許が普通車を取り、それから三年後に初めて大型の教習所へ通える現実からすれば、当たり前の話か。
 ある日、教育隊時代の区隊長だった准尉にいつ頃俺は自教へ行けるのかを聞いてみる。
 准尉は「ちょっと待ってろ、調べてくるから」と書類を持ってきて、「藤沢は一任期しかいないのかあ……」と呟いた。
「ええ、ですから少なくても来年の夏ぐらいには、最低でも行きたいんですよ」
「う~ん、自教って順番に行かせるものなんだが、永続勤務希望者から順々にと決まっているんだ。おまえの場合、二年で終わりだろ?そうなると難しいなあ……」
「……」
 入隊前、地連のおじさんが言っていた大型免許は、すぐ取れるという話と食い違っている。俺はきな臭い何かを感じた。
 准尉は神妙な顔つきで口を開く。
「藤沢さ、おまえ成績はいいんだ。せめてもう一任期継続しないか?そしたら俺がプッシュしてやるから」
 教育隊時代から、俺はこの准尉に何かと目を掛けられていた。
 以前行った体力検定種目の中で、『土嚢運搬』というムチャクチャな競技があった。五十キロの縄でガチガチに縛りつけた土嚢を肩に担ぎ、五十メートルを何秒で走れるかというものだった。
 何かはその五十メートルを倒れてしまい、完走できない隊員もいる。平均で十秒は掛かるこの種目を俺は前期の時に八秒台で走りぬけた記録がある。後期でやった時、秒数が零点五秒ほど落ちてしまった。納得の行かない俺は、「もう一度やらせて下さい」と懇願し、また挑戦させてもらった。二回目をいいタイムで駆け抜けようとした時、バランスを崩し土嚢を落としてしまう。悔しかったので「もう一度」と言う俺に、区隊長である准尉は、力強く頷く。班長は軽蔑の眼差しを向けながら「何度やったってタイムなど縮む訳ないだろうが」と言ったが、俺は三回目にして新記録の七秒台を出せた。
 これ以来、准尉はいつも俺を気遣うようになっていたのだ。
「いえ、初めから俺は一任期と決めていますので、それは無理です」
 准尉の気持ちは素直に嬉しい。嘘でもいいから本当はこの時「やります」と言えば、すぐにでも自教へ行けたのだろう。しかしそんな嘘を准尉に対してつけない自分がいた。
 正直に話した結果、俺にとって最悪の結果が待っていた。
 一週間後、俺が自教へ行くのは来年の一月と言われる。最低でも五ヶ月掛かる自教。一月に行ったとしたら、一任期終了期間まで間に合わず、強制的に二任期目に突入してしまう。こんな理不尽な駐屯地へいるのは嫌だった。
 この時から俺は頭の中に、ここを辞めようかという選択肢が加わった。

 そんな状況下の中、正月休みがやってきた。
 十二月に支給されたボーナス二十七万をすべて遣いきるぐらい、俺は地元へ帰り、派手に遊んだ。
 ずっと念願だった永田瑞穂とも、ようやく会えた。久しぶりに見る瑞穂は、社会人になり洗練された大人の色気を少しまとって見える。
「藤沢って前よりも体大きくなったんじゃない?」
「まあ、鍛えるのが仕事のほとんどだしね」
「高校時代より逞しくなったよね」
「そりゃあそうでしょ。他の同級生らが普通に仕事している時に、こっちは腕立てをしたり、走ったりしているんだからね」
 高校二年の夏休み以来、一年半ぶりの二回目のデート。
 うまいものを食べ、酒を飲みに行く。
 瑞穂の笑顔を見ているだけで幸せな気分になれた。このままこっちにいようかなと真剣に思うぐらいだった。
 あと一年と三ヶ月間で任期をまっとうするが、あの手この手を使われ継続されられるのだろう。それならいっその事……。
「ん、どうしたの?思いつめた顔をして」
 ほろ酔い状態の瑞穂が、覗き込むように聞いてくる。俺の目線は、瑞穂の唇に集中した。高校時代からずっとキスをしたかった。願いは叶わず、ファーストキスは幼馴染の忍と済ませてしまった。今なら手を伸ばせば瑞穂がすぐ近くにいる……。
「い、いや何でもないって……」
 彼女に対し、相変わらず勇気のない俺は何もできなかった。いや、勇気とかじゃない。大事な人だからこそ、自分の欲望だけでそんな行為をしてはいけないのだ。お互いがそうなれた時、初めてキスをしたい。
 会計を済ませ、外の冷たい空気に当たる。
「う~ん、楽しい時間ってあっという間に過ぎちゃうもんだよな」
 大きく伸びをしながら言う。
「楽しいって?」
「そ、そりゃあ永田。おまえと一緒にいるからじゃねえかよ……」
 ん、ちょっといい感じで今、本音を言ったぞ。俺の台詞に瑞穂は頬を赤らめる。今だ。言っちゃえ。俺の今までの思いをぶつけろ。
「永田…、いや、瑞穂……」
 生まれて初めて本人の前で名前で呼べた。あと一息。
「な、何?」
 瑞穂も戸惑っているようだった。
「俺さ、二年の時おまえと同じクラスになって、初めて見た時からずっと好きだった…。北海道に行っても、いつもおまえの事を思い出して、ずっとずっと会いたかったんだ」
「やだ、藤沢って…。急に変な事を言い出して…。あれ?雪だ!」
 天も俺に味方をしてくれたのだろうか?こんなタイミングで珍しく雪を降らせてくれるなんて。関東で雪が降るなど、年にたった数回である。
 俺はゆっくり夜空に舞う小さな雪を見上げた。今なら思いきり臭い台詞を言ってもいいんじゃないか……。
「瑞穂…。天も俺たちを祝福してくれているぜ」
 決まったと思った瞬間、瑞穂の大きな笑い声が聞こえた。そんなに俺の台詞が面白かったのか?少し傷つく俺。
「ごめんごめん、いきなりキザな事を言うんだもん。妙にツボに入っちゃって」
「まったくもう、この野郎!」
 俺はいつの間にか、瑞穂を抱き締めていた。
「……」
 黙ったまま頬を赤く染め、下をうつむく瑞穂。俺は自然と彼女のアゴに人差し指を差し込み、上へゆっくりと向かせる。
「好きなんだ、おまえが……」
 瑞穂は返事をする代わりに、ゆっくりと目を閉じた。心臓が破裂しそうなぐらい大きな音を立てている。目の前に、ずっと念願だった瑞穂がいるのだ……。
 この日初めて俺は、瑞穂と長いソフトなキスをした。

 北海道へ戻ると、雪がまた一段と積もっている感じがした。
 瑞穂とキスできた俺は、まずます自衛隊を辞めたくなっている。正式に付き合ってと言った訳ではないが、心できっと繋がっているはずだ。そんな安心感があった。
 毎晩、部屋のみんなが寝静まると、俺はトイレに向かい瑞穂の唇を思い出してマスターベーションをした。射精する度、瑞穂に対する性欲が強くなる。今すぐにでも帰って、瑞穂に会いたい。そんな衝動へ駆られた。
 この一任期で俺が、免許を取る事は不可能。鈴木士長という素晴らしい上官と離れるのは辛いが、瑞穂の事を考えると一刻も早く辞めたかった。
 先日のデートで一緒に撮った瑞穂との写真を暇さえあれば、毎日眺める。
 そんな時、その大事な写真を後ろから不意に取り上げられた。
「誰だよ、これ?」
 同じ部屋の上官の丸山だった。
「ま、まあ自分の一応彼女と言うか……」
 恥ずかしいので照れながら言うと、丸山は「おまえに女なんぞ、十年早い」といきなり写真を目の前で破かれた。
「……!」
 頭へ血が一気に逆流する。気付けば俺は丸山に飛び掛かり、床に押し倒して殴っていた。すぐに止めに入る上官たち。三人掛りで引き剥がされると、後ろから羽交い絞めにされ、好き放題殴られた。
 いくら上官だってやっていい事と悪い事がある。
 俺は怒り狂いながら暴れ、無差別に上官を殴った。しかし多人数の前では、屁のツッパリにもならない。
 あまりのやるせなさと悔しさから、俺は泣いていた。
 以前、この丸山と一緒にテレビを見ていた時、ちょうどプロ野球選手の私生活を撮った番組を放送していた。年に何億も稼ぐ有名なプレイヤーだ。
「いいな~、プロ野球選手って……」
 豪華な住まいに、豪華な食事。そばに寄り添う奇麗な奥さん。高級なマイカー。見ている内に、自然と独り言を漏らしていた。
 そばにいた丸山はそのひと言に反応し、「おまえ馬鹿じゃねえの?自衛隊のほうが全然いいって。衣食住すべて完備だし、退職金だって多いしよ」と反論してくる。
 何故野球選手を羨ましがるだけで、こうまで言われるのだろう。俺は普通に言い返した。
「丸山士長、それって違いますよ。世間一般の人間に聞いても、みんな野球選手のほうがいいって言うに決まってんじゃないですか」
 馬鹿にすると言うより、出来る限り明るく話したつもりなのに、丸山は突如「生意気なんだよ、おまえは!」と殴り掛かってきた。
 あの時は殴られてもジッと我慢をした。
 しかし今回のだけは許せなかった。
 翌日俺は、准尉に「自衛隊を辞めます」と報告へ行った。慌てた准尉は散々俺を止める。気持ちは嬉しいが、これ以上こんな場所にいたくないという気持ちが強かった。それに上官だからという理不尽さには、いい加減ついていけない。
 ここを辞めちまえば、上官でも何でもない。ただのクソ野郎だ……。

「藤沢、俺はおまえのガッツを非常に買っているんだ。あの土嚢運搬の時、おまえは何度も挑戦して記録を出したろ?あれを見て、こいつは他の奴と違うってずっと感心していたんだ。おまえは頭だっていい。ちゃんと試験を受けて、三曹を目指せ」
 必死に説得してくる准尉。何を言われても俺の決意は変わらない。瑞穂との写真を破いた丸山が悪いのだ。逆の立場だったら、同じように誰だってなる。しかしこの世界では、上官が絶対だと言う。くだらな過ぎた。
「もう限界です」
「駄目だ。俺はおまえを絶対に辞めさせないぞ!」
「准尉の気持ちは分かります。でも無理なもんは無理です」
「藤沢!」
「准尉、本当にすみません。俺の唯一のわがままを聞いて下さい!」
 いくら言われても、この決意は変わらない。丸山が心から反省し、土下座して謝るなら考えてもいい。だけどそんな事はまずない。
「俺は絶対に辞めさせないからな!」
 去り行く俺の背後からも、准尉は叫んでいた。
 同じ部屋の同期である菅原へこの事を言うと、「ああ、そう」とだけ返ってくる。こいつからしてみれば、トラブルメーカーの俺がいなくなったほうがトバッチリが少なくなっていいと言う訳だ。冷たい同期を持ったもんだ。それもあとちょっとでお別れである。
 他の班にいる同期に伝えても、ほとんど似た対応だった。後期教育の砲手検定の時、俺が指名した二人だけは泣きそうな顔をしながら、「悔しかったよね。悔しかったよね」と俺の手を握ってくる。そのあとで「あの時はありがとう」と言ってくれた。砲手検定の時、こいつらを選んで本当に良かったと思える。
 問題は、仲の良かった鈴木士長にどうやって説得させるかだ。
 俺がここを辞める報告をすると、士長は顔を真っ赤にして案の定止めてきた。
「俺さ、おまえみたいな楽しい奴、好きっぺや。何でそんな事言うん?一緒に飲みに行き、よく遊んだっぺなー!」
 俺だって鈴木士長みたいな人ばかりなら辞めたくない。ただ限界だったのだ。
「何が原因で辞めっぺよ?」
 俺は丸山の件を始め、今までの事をすべて話した。
 すると士長はすごい勢いで部屋へ向かい、ベッドに寝転がっていた丸山を殴り飛ばした。涙が出そうなぐらい士長の気持ちと行動が嬉しかった。ただこの人はこれからもここにいる人だ。こんな俺の件でつまらない問題など起こしちゃいけない。
「鈴木士長、落ち着いて下さい!お願いしますから」
 俺は逆に鈴木士長を止めていた。
 必死に止めながら、この人とお別れかと思うととても悲しかった。
 俺の辞任騒動は中隊長の耳にまで届き、一ヶ月弱に渡る討論の末、退職が決定した。

 俺は、約一年弱で公務員を辞める事になった。
 もちろんすぐ地元へ帰るつもりなどない。今まで好き放題やってくれた上官らを全員ぶちのめさないと気が済まなかった。
 瑞穂の元へ一刻も早く行き、会ってこの手で抱き締めたい。しかしこのまま帰ると、あとで一生後悔する気がした。瑞穂には帰ってから連絡をすればいい。
 家にはとりあえず辞めた事の報告をしておこう。電話をすると、弟が出た。
「あ、兄貴?久しぶり。どう、そっちの雪は」
「そんなの当たり前のように毎日降っているよ。それよりさ、俺自衛隊辞める事になったから」
「えー!何で?」
「帰ったら詳しく話すよ、じゃあな……」
「あー、待って待って!」
 手短に電話を切ろうとすると、弟の叫び声が聞こえる。
「ん、何だよ?」
「あのさ、スタンドの社長いるじゃん」
「俺がバイトしてた?」
「そうそう。まだ俺は行っているんだけど、社長がさ、兄貴の血を欲しいって言ってたんだよ」
「はあ?俺の血?何で?」
「お客さんでさ、常連でトラックを運転してくる飯野さん覚えてる?飯野公男さん」
「あーはいはい、懐かしいねえ。もう一年近く会ってないもんな」
「飯野さんのお袋さんが心臓病の手術をするんで、B型の健康的な血液が必要らしいんだ。俺はABだけど、兄貴ってBでしょ?そこで社長が俺に、連絡してくれないかなって言ってたんだよ」
 ガソリンスタンドで働いた二年間。顧客の飯野公男さんはいつも愛想良く接してくれた。たくさん来るお客さんの中でも、非常に気も利かせてくれ優しい人である。あの寒い時にご馳走になったコーヒーのありがたみは、未だによく覚えている。
 俺の退職が決まり、タイミング良くこのような話が来るとは何か運命的なものを感じた。飯野さんが困ったいて、こんな俺の血で喜んでくれるのならいくらだってあげたい。
「手術はいつ頃?」
「一週間後って言ってたけど」
「じゃあその頃には帰れるから、社長や飯野さんによろしく言っといてよ」
「OKでいいって事?」
「当たり前だろ。俺の血で役に立つのなら、いくらでもと伝えといてくれ。電話代高いから切るぞ」
 北海道に来て半年ちょいではあるが、たまに交わす兄弟同士の会話は心地がいいものである。
 今から一週間後というと、二月の一日か。あの飯野さんのお役に立てればいいが。
 それに一週間も時間があれば、あのふざけた上官連中を充分にやっつけられる……。

 夏の休暇の際、うちに泊まりにきた同期の川園。彼は、倶知安の町で六畳一間の部屋を借りていた。この町の家賃を聞いてビックリする。六畳一間、風呂無し便所共同とはいえ、一ヶ月八千円の家賃なのだ。借りた時、敷金礼金などまったく掛からなかったらしい。俺は一万円を手渡し、一週間泊めてもらえるようお願いした。
 川園は「前に世話になったから金なんていいよ」と快く承諾してくれた。彼の気遣いが素直に嬉しかった。
 自衛隊を退職した初日。俺の復讐劇が始まる日でもある。
 よくも今まで好き放題やってくれたものだ。これまでの恨みつらみ、キッチリ晴らしてから地元へ向かおう。
 人口二千人の狭い町である。上官らが遊びに行く場所は、ある程度把握していた。どっちにしろパチンコかスロット、そのあとはスナックで飲むぐらいしかする事がない。
 夜になると俺は、小さな飲み屋街に潜伏して過去に殴られた上官を見つけると、背後から襲い掛かりボコボコにしてやった。何の抵抗もできず、一方的にぶちのめした。大人数では勝てないが、一対一ならこんなものである。
「貴様、覚えてろよ」
 減らず口を叩く余裕のある上官。
「まだそんな口を利けるのか?もう上官じゃねえんだぜ、おい」
 さらに上官を殴り続けた。グッタリなった上官の顔に俺の足を乗せ、上から見下ろすように使い捨てカメラで写真を撮った。
「誰かに俺の事を言ってみろ。そしたらこの写真を俺は町中に配ってやるからな」
「い、言いません…。勘弁して下さい……」
 俺の目の前で土下座をし、懇願するまで俺は攻撃を加えた。
 約一年、自衛隊にいた俺は、退職金を九万円ほどもらっていた。なので一週間ぐらい、この町へ潜伏していても問題ない。しかし夜にならないと、上官連中は出てこないので、そのほとんどを飲み代とパチンコ代に消費していた。少なくても瑞穂と会った時用のデート代ぐらいは残しておかなければ……。
 鈴木士長と連絡を取る。地元へ帰る前に、一度は会いたかったのだ。待ち合わせを時間を珍しく昼に、場所は駅前でと士長は言ってくる。酒を飲む以外楽しみのない町で、一体何をしようと言うのだろう?
 ププー。
 クラクションが聞こえ振り向くと、鈴木士長が軽自動車に乗りこちらに手を振りながら向かってくる。
「おう、久しぶりの運転だでや。はよ、横さ乗れ」
「どうしたんですか、この車?」
「知り合いに借りてきたでや。おまえが辞めちまうもんだから、帰る前に北海道のいいところでも色々と行こうかなと思ってよ」
 わざわざこんな俺の為に、有給を取ってまで来てくれたのだ。
「鈴木士長……」
 白いオンボロの軽自動車。まったくこの人は憎い真似をしてくれるもんだ。素直に嬉しかった。
 北海道の道は、真っ直ぐひたすら長い一本道が多い。ドライブ中、犬が道の横を歩いていたので「野生の犬ですか?」と聞くと、「あれはキツネだでや」と答える。生でキツネを見たのはこれが初めてだった。パッと見、犬と変わらない。尻尾が太いのが特徴なんだろう。
 道の両サイドは、二メートルの雪の壁。地面は凍ったアイスバー。こんな状況の中、俺と鈴木士長のドライブが始まった。

 標識もろくに見えない状況なので、どの辺を走っているのか分からない。鈴木士長は俺と一緒に飲んだ時の思い出をニコニコ笑いながら一人で話している。
 俺も三年ぐらい自衛隊にいれば、こうやって士長のように笑いながら過ごせたのかな。
 士長の横顔を見ていると、俺はそんな事を考えていた。
「おまえがいなくなるのは寂しいだでや」
「俺も鈴木士長と離れるのだけは寂しいです」
「もう一回考え直せ…、いやもう無理なんだよな」
「完全に除隊しましたからね」
「お、着いた着いた。藤沢、ここさよ。温水プールなんだわ」
「へえ、そうなんですか。でも俺、水着持ってないですよ」
「中で売ってるべ」
 俺たちは車から降りて、建物へ向かう。駐車場を見て他に車一台も停まっていないのが少し気になった。
「ありゃ~」
 案の定、休みだったようだ。入口に『本日休業』とだけ書かれている。
「藤沢悪いな。俺もなまらはんかくせーでや」
「いえいえ、問題ないですよ」
「じゃあ適当に車流すべ」
 温水プールに入れなくても、士長の優しい心遣いで充分満足だった。
 途中でホルモン焼きの店に寄る。小学生の頃、『じゃりん子チエ』というアニメ映画を見た時、『ホルモン』と書かれたのれんを思い出した。ずっとこのような店に一度でいいから来てみたいと思っていたのだ。
 七輪でじっくり焼くホルモンは格別のうまさだった。士長が「ここは俺に奢らせろ」とすべて会計まで払ってくれる。
 鈴木士長が何とか俺にいい思い出をと気遣ってくれる気持ちが、心に染み渡る。笑ってはいたが、嬉しくて涙が出そうだった。本当にいい上官と巡り会えたものである。
 途中で変な道に迷い込んだのか、クネクネとした一本道に入り込む。
「あれ~、おかしいなあ。小樽に向かうはずなのに……」
「一度戻ったほうがいいかもしれませんよ?」
「道幅狭いからユータンできないだでや」
 しばらくクネクネした道を走っている時だった。雪の壁から不意に対向車が見える。ギリギリ二台分通れるぐらいの狭さなので、慌てて士長は車を左に避けた。
「うわっ!」
 車はスリップしながら思いきり雪の壁に激突した。雪がクッションになるので、車自体は問題なかったが雪のわだちにはまり、いくらアクセルを踏んでも滑ってしまう。
「鈴木士長、俺が外に出て向こうから押しますよ」
 手がかじかみそうな中、俺は全力で車を押した。雪の壁に背中を当てながらなので、体がどんどん冷えてくる。五分ほど頑張ると、ようやく車を路上で出す事ができた。
「しんどい思いさせてすまんかった、藤沢」
「いえいえ、気にしないで下さい」
「慣れないドライブは危険だでやなあ」
 そのまま真っ直ぐ行くと、五十メートルもしないで行き止まりになっていた。唯一の救いがユータンできる広さになっていたので、何度も切り返しながら車を反転された。
 不思議なのが先ほど来た対向車である。あれから五十メートルで行き止りなのだ。俺たちの車の前を走っていたら、長い一本道なのでちょっとぐらい見えていてもいい。それが急に向こうから現れたのだ。
 四苦八苦しながらも俺たちはようやく倶知安へ戻れた。
「これから『パピリオ』行くべや」
「そうっすね」
 俺たちは車を置くと、行きつけのスナックである『パピリオ』へ向かった。

 

 

4 北海道の雪 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

その日、『パピリオ』に一人の女が新しく入ってきた。女の名は明美。どこにでもいそうな源氏名である。奇麗な顔立ちに思わず見とれてしまう自分がいた。鈴木士長は、酔いな...

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