2024/12/07 sta
前回の章
二千八年は年末の死者二人を出した『姉妹』の全焼により、後味の悪い年越しとなった。
道を挟んでほぼ向い合せにある安達すみれの実家『幸楽』。
彼女へこの火事を連絡しようとしたが、川越祭り時での意味不明な勘違い電話の一件から、あえてするのを止めた。
あいつ、何を根拠に俺が周りに付き合っていると風潮したなど言っていたのだ?
誰に吹き込まれたのか分からないが、自意識過剰な勘違い人間を相手にするのは時間の無駄だ。
幼馴染の安達すみれを相手にしなくなった俺は、KDDIの仕事に本腰を入れる。
早い時間のシフトで出勤すると、隣の席に身だしなみの整った二十代半ばの青年が「おはようございます」と挨拶してきた。
随分爽やかな人だなという印象。
「おはようございます」
「水原隆史です。よろしくお願いします」
合間を見ながら話をすると、彼は俳優もこなしつつKDDIでも働いているようだ。
波長が合ったのか彼は、昼の休憩時間も一緒についてくる。
俺より一年ほど早く入社の二十七歳。
ちょうど十歳離れている。
「俳優活動しながらじゃ、色々と大変なんじゃないですか?」
「それを言ったら岩上さんも作家活動をしながらなので、同じですよね?」
特に自分の素性を明かしていなかったので驚いた。
「何で知ってるんですか?」
「岩上さんが入ってきた時、課の上の誰かが小説家だって言っていたんですよ。ユーチューブとかもアップしてますよね? 結構岩上さんの事、調べた人多いと思いますよ」
「大した事してないですよ。今はここで飯食ってますし」
仕事上では水原のほうが先輩であるが、彼は年上の俺を引き立ててくれる。
とても感じのいい子だ。
彼の最近の出演はテレビドラマの『ハンサムスーツ』という漫画が原作のドラマで、主人公の有名な俳優の裏側の役をしたらしい。
芸能界音痴は俺は、かなり有名な俳優を言われるも全然分からない。
ただ俳優業だけでは食べていけるほどの収入がなく、現在もKDDIで働きながら生計を立てている。
他にもバンドをやりながらなど、二足の草鞋を履いている人間はそこそこいるようだ。
ちなみに同期の松本礼二と幸は、ミュージシャンをやりながら仕事をしている。
出版社サイマリンガルの担当編集である今井貴子から、年明け中旬くらいにメールが届く。
急なお知らせだがサイマリンガルを退職するようだ。
詳細は話してくれなかったが、彼女なりに色々と考える事があったのだろう。
これまでのやり取りを見る限り、彼女は身体がとても弱そうだ。
体調不良も辞める原因の一因かもしれない。
『新宿クレッシェンド』を世に出してから約一年。
何度も言い合いになり激しくやりあったが、それもこれで終わりになる。
俺の担当は樽谷社長が引き継ぐと言う。
俺は今井貴子へ質問したような事を樽谷にも伝えたが、状況は変わらずのらりくらり。
結局変わらず印税は入らない状態。
このまましばらく俺はKDDIで働くようだ。
六十名ほどの課であるが、人の出入りは激しい。
基本的に業務は平のうちら二人に対し、リーダーまたはSVがついて監視または指導しながらする。
言葉遣いがおかしかったり、会社のシステム説明を間違えたりすると、通話が終わってからの指導が入った。
タバコを吸いに行く時は、パソコンの画面上にある離席ボタンを押してから、離れた場所にある喫煙室へ向かう。
席に戻ってもう一度離席ボタンを押すと、着席状態としてカウントされる。
会社のシステム自体が非常に細かいので、こうした稼働時間なども詳細まで記録に残った。
要は狡くサボる事はできないという事である。
ここ最近、俺と水原ペアに対しSVの藤橋がついた。
年齢は俺と同じ年上の藤橋。
マスクをしていると、メガネの似合う中々の美男子。
しかしマスクを取ると、汚らしい無精髭で色男台無しだった。
物静かな彼の仇名を俺は『ハシフー』と名付ける。
藤橋を逆にして橋に藤の頭文字をつけただけの単純な仇名。
しかし同世代で競馬好きなので、プライベートでは話が合う。
どういう査定なのかは分からないが、その藤橋の評価が悪く給料が下がる提示をされ、彼は退職を選んだ。
せっかく仲良くなってきたので、俺は昼休みなどを使って散々残留するよう説得したが、藤橋の意志は固かった。
藤橋の送別会が決まる。
六十名はいる課なのに、参加したのは十数名しかいない。
同僚の松本礼二や幸、水原たちがいたのは少し救われた気がする。
一次会、二次会と徐々に人数が減っていく中、俺は最後まで残った。
四次会辺りで俺と課の長である田中の二人はだけが起きていたが、会計時「ここは私と岩上さんで一万ずつ払いましょうか」と他の人間の分まで払わさせる。
藤橋の送別会だから文句を言わずに払ったが、田中と俺のもらっている給料は全然違う。
課のトップと下っ端の平なのだ。
以前「ここはみんなこの仕事で生活をしている人がほとんどで、岩上さんのように、本を出しながら働いている人はいないんですよ」と言われた事がある。
おそらく俺がKDDIとは別で収入があり、金を持っていると踏んだのだろう。
俺が田中の立場なら二万程度の金、気持ち良く払ってやるけどな。
表社会の会社は、セコい奴が多い。
以前SFCGの前に就職した花園新社ほどではないが、注意が必要かもしれない。
七対三の割合で、女性の数が多い課。
一見華やかに見えるが、綺麗と呼べる女性は少ない。
最近仲良くなった同僚の渡辺喜六は「まるで動物園ですよね」とボソッと呟き、業務中俺を笑わせる。
喜六は三十歳で、顔は『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公両津勘吉に似ていた。
彼は自分の風貌を棚に上げ「岩上さんが最初入ってきたのを見た時、何て悪そうな人を採用したんだと思いましたよ」と豪快に笑う。
一度パチンコ屋の打ち子の仕事を誘われ、この会社よりも給料が高いから迷っていると相談を受けた事がある。
もちろん徹底的に反対し、現在もKDDIに落ち着いている変わり者だ。
課の人数が多いので、全員の名前が分からない。
たまたま向かい側に座った女性のアニメ調の声が聞こえ、こんな美声の娘がいるのかと顔を覗く。
外見はカバに似た女性の顔を見て、動揺を隠せなかった俺。
その行動をチェックしていた喜六は隣で「パンチ効いてますよね」とボソッと話してくる。
吹き出しそうになるのを我慢して、喜六の横腹に肘打ちを軽くお見舞いした。
上司のSVで一人だけハーフな顔立ちな美人がいるのを発見する。
名前は安田道枝。
年は若干俺よりも下の三十代半ば。
以前飲み会で、課の長である田中が酔って俺に話し掛けてきた。
「SVの佐藤さんは水原さんのようなイケメンがタイプなんですけど、安田さんは逆に岩上さんみたいのタイプなんですよね」
その事を思い出し、何かチャンスがあったら飲みに誘いたいなあと思うようになった。
また交友の無い同僚が辞める事になり、送別会が開かれる。
俺や水原は参加し、安田道枝も会に出た。
酒に酔った安田は俺のグラスにどんどん酒を注ぐので、すべて一気飲みをする。
それを見た同僚たちが面白そうに俺の前へ色々な酒を集めだす。
赤ワインのデキャンタ。
焼酎のボトル。
ビールのピッチャー。
続々と俺の前に置かれ、さすがに無理だと伝える。
「岩上! 私の酒が飲めねえのか!」と悪酔いする安田。
俺は、目の前の酒を手当たり次第一気で飲み出した。
気が付くと、病院のベッドの上で寝ていた。
右腕には点滴が付いている。
「あ、岩上さん、大丈夫ですか?」
傍で水原が椅子に座った状態で声を掛けてきた。
何故ここにいるのか何も分からなかった。
水原の説明によると、尋常でない酒の量を飲んだ俺は暴れる事もなく、その場で突っ伏して寝だしたらしい。
その状態で大量のゲロを吐き、送別会は修羅場になった。
いくら起こしても俺は起きる様子がなく、誰かが救急車を呼び、救急隊員から「誰か一人付き添いをお願いします」と言われると、みんなが面倒を避けて帰り支度を始めたので、水原が見てられなく付き添ってくれたようだ。
「岩上さん、かなりの酒の数を飲まされていましたよ。とにかくたくさんの種類の酒を。みんな、あれだけ飲ませて潰れたら知らん顔で冷たいですよね」
時計を見ると朝方の四時。
俺は心から水原の行動に感謝した。
KDDIの給料日は月に二回あった。
俺は給料が入ると水原を誘い、新宿プリンスホテルの地下一階のイタリアンレストランのアリタリアへ招待する。
食べきれないほどの食事と酒をご馳走し、何軒か梯子をして感謝を示した。
以来十歳年下の水原は、妙に俺へ懐くようになる。
ボイスコミュニケーショントレーニングのおあやの先生こと富岡香織は、俺に懐く同僚を見て「岩上さんて本当男性スタッフに好かれて人気ありますねー」と笑いながら言ってきた。
IDカードを通しながら扉を通る途中、安田道枝とすれ違う時があった。
「岩上さん、この間は酔ってしまってごめんなさい。私、全然覚えてなくて…、大変だったんでしょ?」
そう気遣ってくれたので、俺は彼女を誘ってみる事にした。
「安田さん、良かったら今度飲みに行きましょうよ。俺、あんな風に潰れたの初めてなんですよ。だから今度は酒が強いところ見せますから」
「えー、二人だけで?」
「できれば…、まあ別に誘いたい同僚いたら誘ってもいいですよ」
「うーん、じゃあ明後日仕事終わったら飲みに行きましょうか。仲のいい子誘うかもしれないけど」
こんな形で安田道枝とプライベートで誘う事に成功する。
望からもあれ以来連絡無いし、色々忙しいのだろう。
チャンスがあったら安田を抱いてみたい。
仕事が終わり、KDDI新宿事業所ビルから少し離れた位置で安田道枝と待ち合わせ。
「ねえ、岩上さん。新宿三丁目のほうでバーとか知ってる?」
「ああ、一軒知り合いの店がありますよ」
「ポートワインが飲みたい」
「いいですよ」
「あ、あとね、同じ課の鈴木さんも来たいって言ってた」
「まあいいですよ」
邪魔が入るのか……。
ガツガツしているのを見せたくなかった俺は、スマートに対応する。
三丁目の知り合いのバーへ行き、乾杯をして飲んでいると、同じ課の鈴木知恵が彼氏を連れて入って来る。
「岩上さん、お邪魔します。こうやって話すの初めてですよね?」
彼氏付きで来るなよと言いたかったが、笑顔でよろしくお願いしますと応対。
ポートワインをいいペースでガンガン空けながら飲んでいると、出版社サイマリンガルの担当編集兼社長の樽谷より電話が入る。
「安田さん、出版社からの電話なんで、ちょっと席離れます」
俺はバーから出て、外で静かなところを探して話をした。
会話の内容は今井貴子同様『新宿クレッシェンド』に関する事がメイン。
樽谷社長になって、初版一万部本を刷ったというのが、実は五千部ですと意味不明な事を言い出したので、ちょっとした口論に発展したのだ。
新書の在庫が残り少ないと言うので、増版はしないのか訪ねると、いい返事をしない。
挙句の果てには自ら主宰して『第三回世界で一番泣きたい小説グランプリ』を最終選考まで発表しておきながら、そのホームページそのものを削除し、無かった事にしている。
色々な話をしてかなりの長電話になってしまう。
電話を切り、バーへ戻る。
すると中には鈴木知恵とその彼氏の姿は見えず、安田道枝がかなり酔っ払った状態で一人カウンター席にいた。
テーブルの上には空のポートワインのボトルが七本。
俺はマスターへ消えた二人の事を聞くと、会計を一円も払わずに「岩上さんが全部ご馳走してくれるから」とカップルで出て行ったらしい。
知り合いの店なので仕方なく全額払う。
四万八千円。
何で俺があいつらカップルの分まで払う必要があるのだ。
明日会社で会ったら請求しよう。
俺は酔い潰れた安田道枝を抱え、店を出た。
階段を降りている途中「あ、岩上だ」と安田はキスをしてくる。
俺はタクシーを捕まえ、近くのラブホテルへ向かった。
元々は安田道枝を抱きたいが為に、バーへ誘ったのだ。
鈴木知恵カップルの飲み逃げは許せないが、今は目の前にいる安田を抱く事に集中したい。
ハーフな顔立ち、ボリュームのある肉体。
先ほど安田のほうから俺にキスをしてきたのだ。
俺はホテルへ入ると安田の唇を奪う。
彼女も俺の首へ手を回してきた。
ワイシャツを脱がす。
形のいい大きな胸が目の前に現れる。
ブラジャーを乱暴に剥ぎ取り、俺は乳房を鷲掴みにした。
スカートを捲り上げ、パンティーを脱がす。
かなり濡れていたので、そのまま突き刺した。
男性経験が少ないのか、安田のはとても入口がキツい。
快楽の声を上げる安田。
何度か腰を動かすと「そのまま中に出して!」と叫ぶ。
さすがにそれは躊躇う。
安田がいったのを確認すると、一時的に抜き、俺はソファへ腰掛けてタバコへ火をつける。
「もっと欲しい」
酔った安田道枝はかなり魅力的だった。
何度か身体を重ねている内に、二人とも睡魔に包まれいつの間にか寝てしまう。
目を覚ますと、ベッドには俺一人だけ寝ている。
安田道枝はどこに?
ベッドの片隅に、白いパンティだけが残っていた。
度入れにも風呂場にもいない。
俺は安田へ電話を掛けてみる。
「もしもし……」
「あ、岩上だけど……」
「……」
「あれ、どうかした?」
「昨日は…、酔っちゃってて…、気が付いたら岩上さんが隣で寝てて……」
「ひょっとして覚えていないとか?」
「やっちゃった?」
「うん」
「絶対会社のみんなには内緒でお願い!」
「もちろん。あ、そういえば安田さんのパンティーが残っているんだけど?」
「え…、やだ…。私ノーパンで帰っちゃったの……」
「届けようか?」
「う…、うん」
彼女は本日休みで、俺は仕事。
だが今日は休んでまた安田を抱くのもいいなと思った。
会社へ電話を掛け体調不良と言うも全然信用されず、ちゃんと出てきてくれと言われる。
スーツのポケットに安田のパンティーを入れたまま、俺は仕方なくKDDIへ向かった。
安田との情事を思い出し、これからまた抱くのかと思うと、仕事も全然身に入らない。
淡々と業務を済ませ、新宿から池袋、そして東武東上線で上板橋駅へ。
安田が住んでいる駅まで向かい、改札口で会う。
「遅くなっちゃってごめん。仕事休めなかった」
「下着は?」
安田がそう言うので、スーツのポケットからそのままパンティーを出した。
夕暮れで人が交通量が多い中、色々な人たちが俺の手に持つパンティーを不思議そうに見る。
「馬鹿!」
何故か俺は安田にピンタされパンティーを奪われると、駆け足で消えていく。
え、俺何しにここまで来たのと呆然としばらく立っていた。
そのあと何度か電話するも安田は出てくれず、俺は一人で寂しく帰ってオナニーをして大人しく寝た。
社内で安田とすれ違い一瞬目は合うが、明らかに無視されたままの日々。
思い返してみると駅改札口の公衆の面々の中で、剥き出しのパンティーをそのまま出したのがいけなかったのかなと思うようになったが、反省したところであとの祭りである。
鈴木知恵の姿を見掛けたので、俺は先日のバーただ飲みの一件で文句を言いに行こうとした。
彼氏まで連れてきて、自分らは一円も払わず黙って帰るなんてありえない。
総額四万八千円も掛かったのだから、最低二万円は取り戻したかった。
「ちょっと鈴木さん……」
彼女は俺の顔を見ると「岩上さん…、業務中の私語は謹んで下さい」と淡々と抜かす。
人に金出させてバックレといて、何を抜かしてんだ、このアマ?
「おい、おまえよ…、ふざけんなよ!」
思わず怒鳴ると周囲の同僚に止められる。
たまたま近くにいたSVの福島正紀が、何故そうなったのか事情を聞いてきた。
彼はお笑い芸人の山田花子との婚約をしていて、本当は嫌だけど金の為に結婚しようかなと悩んでいる俺と同世代。
先日飲んでいるところに、鈴木知恵が彼氏を連れてきてガンガンポートワインを空け、会計を俺に被せて逃げた事や、以前の飲み会でトップの田中が周りが潰れているから俺と彼で一万円ずつ会計出しましょうと金を出させられた事を引き合いに出し、少しここの会社はおかしいと訴える。
福島は腕を組んで複雑そうな表情で「それは問題ですね…」と話だけは聞いてくれた。
だからといって俺に金は戻ってくる事はなく、本当に話を聞き、ただ俺に同情してくれただけだった。
それでも俺は少しだけ救われた気がする。
それでも鈴木知恵の対応は許しがたいものがあった。
女は殴らないが、あのただ飲みして帰った彼氏の顔なら覚えている。
俺は一度廊下ですれ違う際、鈴木へ「彼氏、この辺歩かないよう注意させな。あった時点で最低顎は砕くから」と小声で脅してやった。
周りに密告しようにもできないだろう。
何故そうなったのか聞かれたところで、自分たちが無銭飲食をしたという事実が残るだけ。
それ以来鈴木知恵は遠目に俺の姿が見えると、不自然な避け方をするようになった。
俺が一方的に損をしただけで歯痒かったが、まだここで仕事をして生活費を稼がねばならない以上、落としどころはこの辺にしておくかと自身へ納得させる。
まあ四万八千円使って、安田道枝を抱いたと思えばいいか。
あとあとこの事は、いずれ小説のネタにしてやろう。
そんな事を考えながら、今日も業務に励む。
KDDIの業務成績はかなり細かく算出される。
まず電話を掛ける架電と、電話を受ける受電に分けられ、携帯電話料金の延滞が溜まっているのを払わせた場合、この時の担当者のポイントになるようだ。
他にもクレームを入れて来た客を説得し、後々そういった客から「あの時の○○さんの対応が良くて物事の解決に繋がりました。ありがとうございます」といった感謝の声を集計する部分もあった。
他にも細かくシステム上算出されるが、業務をしていてこの社員は一時間辺りいくらの利益を出ているかなど、どうやってこんなの出しているのと思うようなデータまで出る。
縦線の棒グラフに表示されるが、俺の場合一時間辺り会社への利益率が二万九千円と課の中でもぶっちぎりトップだった。
グラフで表示される縦線が、紙の枠内を飛び出るほどの差。
他にもお客様から感謝の声で、一番多くの数を取れたのも俺だった。
極度なクレーマーをみんな嫌がるが、俺は率先して自分から出るようにする。
何故ならこれまでの歌舞伎町時代の経験で、よりキチガイやヤクザを相手にしてきたのだ。
そういった輩に比べれば、クレーマーなど可愛いものだった。
コツを水原や松本に聞かれた事がある。
一つ絶対に決まっているのが、電話してクレームを入れる客すべてがKDDIと契約していて、時間を削ってまで何かを言いたいから電話をしてきているのだ。
だからマニュアル通りでなく、相手が何に対して怒っているのかを話しながら見抜き、できる限り親身になって対応してあげるだけと教えた。
こちらの対応では「はい」が正しく「ええ」は適切ではないと研修で教えられる。
ただ頭に血が上っている客に対し「○○でございますでしょうか」などの丁寧な言葉は逆に火をつける可能性だってあるのだ。
だから俺は相手によって言葉を使い分けた。
「おまえらの会社はよ? いつだってそうじゃねえか!」と怒鳴りつけてくる客。
それを「そうお客様は仰られますが…」と返すと「何が仰るだ、馬鹿野郎」となるケースは多い。
俺なら「ええ、お客様のお怒りも分かりますよ。ただですね、何に対しの不満なのかをもう少し詳しく言ってもらっていいですか?」と返す。
これは後々言葉遣いがなっていないと指導を受けるのだが、そんな事より俺は客の気分を良くする事を優先した。
「お怒りは分かりますよ。ただですね、これだけの人間が社内にいる状態で、このタイミングで私が○○様の対応で出たんです。だから私はできる限り最善を尽くして○○様が納得できる方向へ持っていこうと思っています」
そう親身に言うと、ほとんどの客はこの人会社の人間だけど自分の味方をしてくれていると思うのだ。
そこまで持っていくには、まず相手にとにかく吐き出させる。
相手が言いたい事をすべて言わせ、こちらは聞き上手になる必要があった。
「岩上さん、今月も成績ぶっちぎりじゃないですか」
昼休み、地下の社員食堂へ向かう途中、同僚の幸が話し掛けてくる。
「でも給料全然変わらないんですよ。だから何回も離席ボタン押してタバコ吸いに行ってます」
「岩上さんがSVになって、新しい部署作ればいいのになー」
「岩上課ですか」
「それ、いいですね! 自分入りたいですもん」
うちらの様子を見たおあやの先生富岡香織が「やっぱり岩上さんは男に人気ありますね」と大笑いしていた。
業務中、客からの電話を取る。
コールセンターでは窓際の上にテレビで放送されている全日本仮装大賞のバロメーターみたいなものが、横に設置しており、光がついている分KDDIに電話をして保留で待っている客がいるという仕組み。
他の課も合わせると、筒抜けのフロアーには二百名以上の社員がいる。
その人数で対応していても、まだ待ちができる状態。
一人ずつ案件をクリアして、次の客に備える。
クレーム処理を終えると、俺は次の電話に備えた。
「お電話ありがとうございます。こちらKDDIauの岩上が承りさせて頂きます。まずはお客様のお名前をよろしいでしょうか?」
ここまでは完全なマニュアルトーク。
「う…、うぅ…、笹田…、うぅ…、広之…、です……」
笹田広之…、俺はパソコンのシステム『シグマ』の検索欄に平仮名で名前を打ち込む。
佐々田弘行、笹田博之、笹田弘幸、笹田広之……。
会社で登録のある名前がズラリと出てくる。
「ご登録の電話番号をよろしいでしょうか?」
「う…、ぅ…、〇八〇の……」
検索欄へ電話番号を入力。
笹田広之、十七歳、高校生。
ここで個人情報の確認、生年月日や住所など何箇所の照らし合わせをする。
それにしても何故この子は、泣きながら電話をしていたのだろう?
彼の情報を閲覧すると、強制解約。
業界用語でKO。
携帯電話の料金を滞納した状態で数ヶ月間の放置などで、契約を強制解除された客を指す。
「本日はどうされましたか?」
啜り泣く高校生。
「お客様?」
「う…、初めて…、アルバイトをして…、給料が入ったから…、携帯を作ろうとショップに行ったら…、ぅ…、お客さんは料金払わず…、うぅ…、契約解除されているから作れないって……」
彼の情報をまとめてみる。
彼の言っている事自体、嘘ではない。
問題なのは彼の親。
自分の携帯電話を強制解約され、息子名義で勝手に新しいものを契約し、それも金を払わずKO。
高校生の笹田広之はそれを知らずにショップへ行き、携帯電話が作れない状態。
可哀想であるが、彼の親のせいで契約を履行される事はない。
他のほとんどの社員だと、ここで面倒だから会話を終わらせる。
成績のポイントになりづらく、時間が掛かるだけの面倒な案件だからだ。
俺はこういう客を何とかしたいから、ここで働いている。
面接時、採用されたいが為に偽善で言った訳ではない。
携帯電話会社大手三社は、他事業者情報交換というものを共有している。
世間でよく携帯ブラックと呼ばれるKO。
三社で一つでもKOになると、新規でドコモへ行こうが、ソフトバンクへ行こうが、申し込み時に他事業者情報交換を裏で行う。
例えばKDDIで強制解約の客。
ドコモへ携帯電話を作りに行くと、ショップはauとソフトバンクに連絡を取る。
「他事業者情報交換です。〇〇様」
氏名、住所等細かい個人情報を受けたオペレーターは入力し、その人が当社で未納あるか無いかだけ確認する。
強制解約だと未納ありになるのだ。
「未納ありです」
これを聞くと、その客はショップで新規契約を断られる仕組みである。
たまにKOなのに新規で携帯電話を作れたという人がいるが、それはこの他事業者情報交換の時点で、新人オペレーターが焦って未納ありなのを無しと間違えて報告してしまった場合のみ。
つまりたまたま運がいいだけなのだ。
今回の笹田広之は可哀想ではあるが、他社の携帯電話すら作れない。
俺は彼の立場に寄り添って、どうしたら携帯電話を新しく契約できるか説明した。
「じゃあ僕は、親が勝手に作った携帯電話のお金を払わない限り、新しく契約できないんですか?」
「そういう事になります」
背後でおあやの先生富岡香織の大きな笑い声が聞こえてくる。
彼女は暇があると、よくうちの課に来てトップの田中と談笑をしている事が多かった。
高校生の彼の電話を受けた時から、時折聞こえてくる笑い声。
俺は「少々お待ち下さいませ」と一旦保留にしてから、後ろへ向かって「うっせーよ、おい!」と怒鳴りつけた。
周りのみんなの視線が集中する。
俺は気にせず会話の続きをした。
高校生の笹田広之。
彼がアルバイト内で返していける金額を相談し、それを分割払いで責任もって支払用紙を送る約束をした。
もちろん一切その間利息はつけず、その分割払いさえ終われば必ず新しく携帯電話を作れる事を伝える。
高校生は安心したように何度もお礼を言いながら、電話を切った。
この案件の整理が終わると、課のトップ田中から会議室へ呼び出しを受ける。
先ほど富岡香織へ怒鳴りつけた事だろう。
「岩上さん、あなたどういうつもりですか? 職場であんな怒鳴り方をして」
俺は一ヶ月に渡る研修を受けた事を話し、それを教える立場の講師が客との通話中に聞こえるよう大笑いをしているのはおかしい事だと説いた。
「しかしそれにしてもですね…。富岡さんのような立場のある人に向かって……」
俺は別にこの件で、首になるならなるで構わないと伝える。
「一つ質問しておきますね。この会社では顧客と講師のプライド的な問題。どちらに比重を置いていますか?」
「そ…、それはもちろんお客様です……」
「俺は怒鳴りつけたのは少々やり過ぎですが、客を優先したまでです。間違った事はしていませんが、それで何らかの処分を俺に下すと言うなら、俺もとことん出るところまで出て、徹底的にやり合う覚悟です」
そこまで言うと、田中は何も言えずに俺を解放した。
同僚の水原、松本、幸は心配そうな表情で俺を出迎える。
昼休み、外へ食事に行った時に事の顛末を教えると、みんな大笑いしていた。
この日を境にどうも俺は厄介者扱いされた気がする。
月の成績は変わらずぶっちぎり。
しかし客の対応が終わってから、後付けの指導や指摘。
嫌がらせにしか思えなかった。
「岩上さんの話し方はマニュアルから大きく外れているんですよね」
そう言った指摘が多く、ウンザリする。
それで他の者よりぶっちぎりで成績がいいのだから、放っておけよと思う。
この会社への一時間辺りの利益率は、平均の五・二倍。
つまり俺一人で五人分以上の稼ぎがあるという事が、データで証明されている。
しかし給料は上がらず最低限で使っておいて、後付けで文句を言ってくる上司たち。
リアルタイムで見本を見せてほしいものだ。
一度凄い怒った客から連絡が入った。
「おい、テメー! KDDIこの野郎! オメーらはよー……」
「はい、少々お待ち下さいませ」
俺は有無を言わさず保留にして「凄いクレーマーが来ました。誰か変わって見本を見せて下さい」と周りの上司へ言う。
だが誰一人目も合わさず、電話を代わろうとする者はいない。
「いませんね? では引き続き私が対応します」
それだけ言うと、超クレーマーの電話へ出た。
二千九年五月十三日。
ジャンボ鶴田師匠の命日。
二千年に亡くなったから今日で丸九年経つ。
何故詳しく覚えているかと言うと、二千年に俺は総合格闘技の試合へ復帰し、鶴田師匠の遺伝子を持った俺が強さを見せてやろうとしていたところで、突然亡くなってしまったからだ。
現在三十七歳、KDDI勤務。
俺は食う為とはいえ、何をやってんだか……。
あれだけ強さを求めた俺は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
小説にしてもそうだ。
『打突』に出した『どさん子ラーメン』は火事で全焼。
『パパンとママン』に作中出した人物の現実での奇妙な出来事。
奥尻島のれっこは執筆中に妊娠。
大日本印刷の石川は地元北海道で親父さんが倒れ、その彼女の姉は鬱により飛び降り自殺をした。
近所の『姉妹』に至っては死者二名を出す火事による全焼。
俺のせいではない。
たまたまに過ぎない。
そうは思ったところで身近なところでの被害が多過ぎる。
もう書かないのか?
いや、また書くさ……。
戦いは、俺には向いていない。
本気で相手を攻撃できないのだから。
しばらく作品を完成させていないし、執筆すらしていない。
世に出した『新宿クレッシェンド』は続編を『でっぱり』、『新宿プレリュード』と完成させた。
第四弾『新宿フォルテッシモ』は裏ビデオ屋編を書いている途中、野地が病気で無くなり没にした。
これをゲーム屋編完結作として、書かないと……。
ただ何となく、まだ今は書くべきじゃないような気がする。
出ていく人間もいれば、入って来る新入社員もいる。
俺たちがそうだったように。
女性五名に、男は二人増加。
俺の同期の松本玲二に少し似た上野康介。
俺は彼の仇名を『ちょっと松本さん』と名付けた。
俺と松本で隣同士。
監視役にリーダーの泉館というちんちくりんが付く。
見た目は二十代半ばのチビ。
人と話すのが苦手なようで、何故彼が役職をつくような試験を受けたのか謎である。
泉舘の指導の元、業務をこなしていると、奥から研修を終えた新人の上野の姿が見えた。
「あっ、ちょっと松本さんだ」
泉舘は俺の隣に座る松本を見て不思議そうな顔をしていたので、上野の仇名がそういう名前だと説明する。
それがツボに入ったようで、吹き出す泉舘。
トップの田中に呼び出されて怒られていたが、自業自得である。
リーダー泉舘、中々弄ったら面白そうなのが、俺の指導者へついたものだ。
俺や松本、幸たちが入った時もそうだが、先に入った先輩社員たちは面倒見が本当に悪い。
隣同士座るのに挨拶すらしない社員も多い。
始めは誰だって心細いのになあと当時はよく思ったものだ。
この陰気な社風を変えよう。
何かしらのテーマを持って仕事へ臨んだほうが、いいに決まっている。
俺は同僚で仲のいい水原、松本、幸、渡辺に声を掛け、困っているようなら率先して面倒見てやろうと持ち掛けた。
リーダーの泉舘を食堂へ一緒に誘う。
食べている時「新人の中で誰がタイプ?」と聞くと恥ずかしそうに「塩原さん…」と頬を赤らめながらボソッと呟く。
見掛け通りシャイな男だ。
昼休み社員食堂で食べる新人たちへ、声を掛け明るく話し掛ける。
六十名前後の課は、気付けば二つの派閥のようになっていた。
俺より前にいる社員たちは、しゃしゃり出るうちらを煙たがっている。
そんなもの屁みたいなものだ。
働きやすい環境を作ったほうがいい。
俺は新人歓迎会を開く事にした。
場所は顔が多少は利く新宿プリンスホテルホテルのレストラン。
仕事終わりにホテルでちょっとリッチな歓迎会をテーマに声を掛けると、新人たちは女子も含めて大喜びだった。
「舘リーダー、塩原も参加するよ」
そう伝えると泉舘も「ぼ、僕も参加します」と照れながら言ってきた。
総勢二十三名の同僚が集まり、新宿プリンスホテルの地下一階ブッフェダイニングプリンスマルシェへ向かう。
イタリアンレストランのアリタリアとは逆方向にあるレストランだ。
会費は一人五千円。
ブッフェ代のみなので酒はなく食事会になるが、それでもみんな大喜びだった。
裏稼業ゲーム屋時代『プロ』の時よく来ていた支配人の一人が俺に気付く。
「岩上さん! お久しぶりです!」
あれ、この人名前何だったっけ?
「お久しぶりです」
「今日は大勢でどうしたんですか?」
「あ、俺、今はKDDIで働いていて、新人歓迎会として、ここに食事来たんですよ」
「え、KDDI? 携帯電話のauですか?」
「そうなんですよ。あ、あとこれプレゼントしますね」
俺はバックから自著『新宿クレッシェンド』を取り出して渡す。
「え! これ、岩上さんの名前書いてあるじゃないですか!」
驚く支配人。
確かに十年以上前は、ただのゲーム屋の従業員だったのだ。
「いえ、小説書いたら賞取れて本になったんですよ」
十年ぶり以上の再会に花を咲かせていると新人の一人が「ビールとか無いんですか?」と聞いてくる。
俺が食事代のみの事を説明しようとすると、支配人が「いいですよ、 岩上さんの顔で全員飲み放題つけましょう」と言い出す。
「え? 嬉しいですけど、こっちは二十三人ですよ?」
「いいですいいです。好きなだけ飲んで下さい」と酒が急遽無料になった。
俺は大声で社員たちへ声を掛ける。
「みんな、いいか? こちらの支配人さんが、みんなの酒を飲み放題にしてくれたぞ! 全員こちらの方にお礼を言え!」
この瞬間一斉にみんなはお礼を言い、レストラン内は大盛り上がりとなる。
塩原を俺のいるテーブルへ呼び、リーダーの泉舘も座らせる。
「ほらチャンスだぞ。話せ話せ」と脇腹を軽く小突く。
女慣れしていないうぶな泉舘。
顔を真っ赤にするだけで、下を俯き何一つ話せなかった。
「塩原ちゃんは彼氏いるの?」
「はい、実はいるんですよ」
「そっか、残念だったな、舘リーダー!」
いつの間にかフラれた形になった泉舘だが、帰り道「岩上さん、この会…、本当に楽しいです」と恥ずかしそうにボソッと呟いてきた。
周りを盛り上げる為動いていた俺。
実は新人の中に湯川紗子という美人な子を狙っていたが、同期の松本玲二に取られてしまう。
こればかりは仕方がない。
翌日からの職場の雰囲気は、格段に良くなった気がする。
月に数回ある会議室でのミーティング。
普段使う言葉遣い、顧客への対応など慣れてきた緩慢さを防止する意味合いのプリント用紙を配られ、呼称していく事で士気を高めるらしい。
業務に関する内容の話ばかりであるが、今回のミーティングはかなりヤバかった。
真面目なミーティング中、会社のどうでもいいつまらない話を聞いていると、俺の隣に座る渡辺喜六が何かを真剣な表情でプリントされた用紙に書き込んでいた。
何を書いているのだろう?
ふと気になった俺は、チラリと覗き込む。
いかにも見て下さいと言わんばかり、プリントされた用紙を俺の視界にワザと入るよう置かれている。
見た瞬間、とても後悔する。
あまりにも書いてある事がくだらなく、読んでいる内に吹き出しそうになってしまう。
質問:お客様に「できません」と申す場合の伝え方
◎一般的な答え:「大変申し訳ございませんが、お客様のご希望に沿う事はできかねます」……など
○渡辺喜六の答え:「できま千円」
質問:他事業者交換を説明する場合
◎一般的な答え:「現在こちらの携帯電話の未納料金ある場合、当社や他社様の新規契約につきましては契約ができかねますので、ご了承下さいませ」
○渡辺喜六の答え:「ドコモもソフトバンクもみんな、おまえが料金払ってない事知ってるよ」
あまりにもくだらないこんな回答を真面目なミーティングの中、セコセコ書き、俺に見せようとしてくる喜六。
真面目なミーティングなので、笑う事もできない。
まるで葬式の最中、念仏を唱えるお坊さんのホクロに、一本だけ長い毛を発見してしまったような感覚。
「ブッ……」
変な事を想像したので我慢できず、一瞬吹き出し掛ける。
視線が一斉に降り注ぐ。
慌てて下を俯き、右手で顔面を鷲掴みにして、咳を数回繰り返す事で、何とかこの窮地を脱出する。
ミーティング中、隙を見て渡辺喜六を肘で何度かド突いた。
何だかんだ言って無機質だったKDDIの職場も、だんだん面白くなってきたようだ。
秋葉原で裏ビデオ屋を共に行った長谷川昭夫の地元仙台の幼馴染。
斎藤裕二から連絡があった。
俺と袂を分かったあと、長谷川昭夫は渋谷で裏ビデオ屋関係の仕事をして警察に捕まったらしい。
裁判が近々あるので、一緒に傍聴しに行かないかとの誘い。
斉藤裕二にしても、長谷川にしても岩上整体の時、わざわざ川越まで祝い金を持ってきてくれた恩がある。
試合にも応援来てくれたしな……。
休みを調整し、長谷川の裁判へ行く事にした。
霞ヶ関は裏ビデオの猥褻図画で摑まった山下哲也の裁判以来。
いや、違うか。
一昨年の誕生日に、出版社サイマリンガルの授賞式で行っている。
斎藤と共に長谷川昭夫の裁判の傍聴席へ。
久しぶりに見た長谷川の姿を見た時は驚く。
坊主頭になっていたからだ。
累犯の為刑務所へ行くのが決まっているので、顔つきは疲労困憊し元々瘦せ型なのに、よりやつれて見えた。
張りきった検事が長谷川を責め、離婚して未成年の息子と娘がいる事まで指摘し「こんな真似をして金を稼いで恥ずかしくないのか!」と偉そうに怒鳴り散らす。
そりゃああんたみたいにエリート街道に乗って検事になり、人生順風満帆なら裏ビデオ売ったりしねえよ……。
晒し者のように扱われ、犯罪とは無関係な事を詰る検事。
俺は思わず傍聴席に座りながら、大きな音を立てて壁を蹴飛ばしていた。
係員がすっ飛んできたので「足が滑った」と言うと、次にやったら退場させると注意される。
まだ詰る検事。
こういう奴って、自分の保身だけで人間の痛みなんて分からないんだよな……。
そう思うと俺は、検事に聞こえるようまた壁を蹴飛ばした。
退場が促され、傍聴席を出て行く。
長谷川とその時目が合う。
俺の顔を見て、少しだけ口元がニヤリとしたのが見えた。
遅い出勤のシフトで勘違いして、九時過ぎに新宿へ到着。
西武新宿駅を出て歩いている途中、それに気付く。
え、二時間もどうするの?
とりあえず喫茶店に入り、十時まで時間を潰すもあと一時間。
大ガードを潜り、カレントというパチンコ屋が右手にあるので入ってみた。
エヴァンゲリオンのパチンコが並んでいる。
俺は適当な椅子に腰掛け、千円を入れてパチンコを始めてみた。
いきなりカヲル登場。
え、何これ……?
朝っぱらからアドレナリンが全開になる。
いきなり当たり?
俺は一回目の当たりが終わると、これは仕事どころではない事に気付く。
今日あと少ししたら出勤。
でもこの台を離したくない。
仕事意欲と葛藤。
そんなのパチンコに決まってるだろ。
俺はKDDIへ電話を掛けた。
「あ、すみません…、岩上です。今日ですね…、新宿に着いた途端、猛烈な下痢に襲われまして…、えっ? あ、もうトイレ行かないと……」
「ちょっと岩上さん? 岩上さん?」
課の長である田中の声が聞こえているが、それどころじゃない。
俺には戻るべき場所があるのだ。
「すみません…、トイレに行ってきます。あー、お腹が……」
電話を切ると、すぐに着信があるので電源ごと切った。
再びエヴァンゲリオンの席に戻ると、パチンコを開始する。
「……」
何これ……。
凄い演出で当たったのに、一回でおしまい?
それに出た玉がすべて飲まれてしまった。
俺は仕事で新宿来て、時間遅いの勘違いして暇つぶしでパチンコしていたら当たったから、仕事をズル休みしたのに、何この結果は?
これで帰れる訳ないだろ!
俺は千円札を投入。
しかし無情にも玉は飲まれていくだけ。
何やってんだろ、俺……。
涙を堪えながら千円札を再度投入。
また消えていく。
もういいや、有り金全部やってやる。
千円札をまた投入。
するとエヴァンゲリオンは俺を見捨ててはいなかった。
当たりが来て、そのあとずっと連荘が続く。
何これ?
いつ終わるのというくらい連続で当たる。
俺の椅子の後ろにはパチンコ玉が詰まった箱がどんどん置かれていく。
二十九連荘で終わる。
こんなに出た事ないのに……。
一度玉を流し、景品に交換する。
まだ昼過ぎだもんな。
俺は初めて海物語の台へ座った。
二千円でまた当たり、連荘。
牙狼の台に座る。
三千円で当たりが来て、また連荘。
結局この日は二十三万円勝った。
時計を見ると、そろそろKDDIの奴らが仕事を終える時間帯になる。
誰かにご馳走してやろう。
俺は水原や幸、松本へ連絡するも急過ぎて都合が悪いようだ。
誰かしら暇でご馳走になりたい奴はいないか聞き、新人が二名来たので叙楽苑へ連れて行き、奢ってあげた。
今日みたいな日は、おそらく運が凄いのだろう。
そう感じた俺は、西武新宿駅の宝くじ売り場へ行く。
二百円の宝くじ十枚を購入。
すると後日の話になるが、一万円だが当たっていた。
パチンコ連荘ズル休みの翌日、俺はこっ酷く怒られた。
まあ悪いのは俺なので、大人しくシュンとした態度を見せ謝った。
昼休みは仲のいい同僚たちへ食事をご馳走し、休憩室へ戻る。
「岩上さん、このままパチプロになって仕事辞めるとか言わないで下さいよ」
幸が笑いながら言ってくる。
休憩室から見える新宿都庁。
そういえば、あそこにあの石原都知事がいるんだよな。
今が二千九年だから、もう四年ほど前になるのか。
新宿歌舞伎町浄化作戦をやりやがったのは……。
俺は水原に撮影を頼み、都庁を睨む姿を撮ってもらう。
たくさんの仲間が浄化作戦でいなくなった。
みんなの無念を小説で、晴らすんじゃなかったのか?
いつからこんな平和ボケするようになったのだ。
腑抜けになるなよ……。
初志貫徹。
芯がブレちゃいけない。
二千九年四月。
品川春美からメールが届く。
彼女は同棲していた彼と、自分の誕生日の日に入籍したという内容だった。
三十歳の頃から、こだわり続けていた恋が終わったなあと実感する。
休みの日、部屋で寛いでいた時だった。
秋葉原で裏ビデオ屋をした時の戦友である長谷川昭夫から電話が入る。
「岩上さん! 今どこにいます? 秋葉原すぐ来て下さい!」
尋常じゃない様子の長谷川。
「すぐって川越だから無理ですよ。行くとしても一時間半は掛かりますよ」
「目の前で人がたくさん倒れて…、多分死んでいる人も……」
「は? 長谷川さん、何を言っているんですか?」
二千八年六月八日。
秋葉原通り魔事件を後に呼ばれた加藤智大。
彼が凶行へ及んでいる真っ最中に長谷川は出くわしてしまったのだ。
当時そんな大惨事になっているなど、俺には想像もつかない。
慌てふためく長谷川を電話で宥めるくらいしかできなかった。
「マ、マスコミが酷いんですよ! 目の前で何人も人が死んでいるんですよ? それなのに誰か映像を撮っていませんかって…。高く買いますよって……」
「長谷川さん、とりあえず落ち着きましょう。長谷川さん自身怪我は無いんですね?」
数時間後テレビ中継で大騒ぎになったこの事件。
俺は少なくとも長谷川に何も無かった事だけが、不幸中の幸いだと思っている。