2025/01/16 thu
前回の章
「岩上さん、今日はパスタって気分なんですけど……」
谷田川が嬉しそうに声を掛けてくる。
「おまえなあ…、たまには自分で作ればいいじゃねえかよ」
「細かい客の分は、うちらに任せて下さいよ」
「…たく……」
ミートソースはこの間作った。
ナポリタンだとありきたり。
カルボナーラにするか。
いや、それは先日KDDI時代の同期の水原が、店に来てくれたから作ったもんな……。
新しいオリジナルのパスタを考案してみるか。
俺はブイヨンベースの味付けにして、トマト風味のクレッシェンドパスタを作る。
クレッシェンドという名をつけたのは、別段深い意味合いはない。
俺の著書『新宿クレッシェンド』をもじっただけである。
「デザートとか何かできませんか?」
「デザート? 第一この店の材料で甘いものなんて…、このバナナくらいじゃん」
「岩上さんなら作れますよ」
「何を?」
「デザート」
「……」
チョコレートシロップもあるし、小麦粉もある。
ならばクレープ一択しかないだろう。
チョコバナナクレープを作り、谷田川へ渡す。
客のゆのゆのと佐藤あみがそれを見て「私たちの分は?」と詰め寄ってくる。
「分かった分かった。分かったから自分の席に戻って。他の客もいるんだから」
彼女たちにパスタとデザートを出す。
フライパンを洗っていると、猪狩が横へやってきた。
「岩上さん…、特定の客にメニュー以外のものを出すのはちょっと」
「分かりましたよ、すみません」
「一応そういうのやると、他の客に示しがつかなくなりますんで」
おまえはとっくに示しなどついていねえだろ……。
言っている事は正論だが、猪狩だけには言われたくない。
仕事じゃなかったら、思いきり横っ面を殴り飛ばしてやりたい。
店の新しいメニューを考案しろと言われる。
サンドイッチ系を二品。
「新しいの作るのは構いませんが、従来のメニューから二品削るんですよね?」
「いえ、メニューは品数が多ければ多いほうがいいんで」
また出たよ、猪狩のキチガイ思想。
コイツはいつだって後先を考えない。
俺は新しいメニューを作るのに、材料が重複して使えるものを考える。
少しでも経費のロスを減らしたいからだ。
猪狩は違う。
何も考えず、思いつきのみ。
だから突然フルーチェを置くとか言い出すのである。
「どこにそのフルーチェを置くスペースが冷蔵庫にあるんですか?」
「野菜とかその辺をもっと整理すれば置けますよ」
「だから…、フルーチェに野菜の匂いがつくでしょ、それじゃ!」
フルーチェは以前俺が猛反対した。
パンならホットサンドでハムとチーズを使うので、そのままシンプルなハムチーズ野菜サンドを作ればいいだろう。
そしてもう一つか……。
シーチキンの缶詰を買って来させ、レタスや玉ねぎを細かく切ったものも入れ、歯応えを出す。
ツナサンドの完成。
予め俺がツナの具を作りしておけば、それをパンに挟めばいいだけなので、誰でも作れるだろう。
『牙狼GARO』はこうして無駄にメニューだけが増え、従業員の負担がじわりじわり上がっていく。
そういえば先日作ったミネストローネスープが、スープ部門で人気検索一位を記録していたな。
これって凄い事なのか?
まあ今となっては何も無い俺なのだ。
ここは素直に喜んでおこう。
どうせ料理を従業員が作って出すシステムなら、こういうのも店内に張り出して希少価値を上げてみるとかしてもいいだろう。
猪狩へそのアイデアを伝えると「それって岩上さんが凄いアピールを客へしたいだけですよね?」と冷たく返される。
店の為にと言うアイデアが、彼の前ではすべて斜め上の捉え方になるのを忘れていた。
いい加減把握しないと。
あー、コイツ、ぶっ飛ばしてー……。
谷田川が通常メニューにあるグラタンとドリアのホワイトソースが無くなったので、俺にソースを作るようお願いされる。
これ、俺が連休とかしている時に無くなったら、どう対処するのだろうか?
ホワイトソースだけでない。
焼肉プレートのタレの調合にしても、鶏の味噌ダレにしても、全部俺が予め仕込んでいる。
「岩上さんはみんなよりも給料が千円高いんですから」と猪狩は押し付けがましく言うが、まったく割に合っていない。
「岩上さん、そのホワイトソースでグラタンやドリア以外に何か作れませんか?」
谷田川からの要望があったので、作ってみる。
ナポリタングラタン。
ホワイトソースを作り、ナポリタンとドッキングさせただけのもの。
「うぉー」
前田が喜びの奇声を発生させる。
まあこういうのが大好きな輩がいるのを俺は知っているのだ。
「岩上さん、ホットドックと炒飯。あとアイスブラック」
「あいよー」
この店の特徴として、ただまかない飯だけを作っていればいいという訳ではない。
バンバン飛んでくるオーダーも同時進行で料理しなければ、あっという間に地獄絵図になるのである。
猪狩ことガリンがまた無茶を言ってきた。
「岩上さん、フレンチトーストとか作れませんか? 今度も新しいメニューにしようかと」
「メニューはもう十分でしょう」
「いえ、デザート系というか甘い系のものが無いんで」
「あの…、うちはインカジであって食べ物屋じゃないから、そんな気にしなくてもいいんじゃないですかね」
「いや、これからは新しいものに目を向けていかなければいかないんで。自分は『AKB48』が世にあんなに人気になる前から、それを分かって動いていた男ですよ?」
何故か勝ち誇った顔をする猪狩。
コイツ、本当に気持ち悪い奴だ。
ただのアイドルオタクで引き籠もりだった屑が、たまたま番頭の根間と知り合いというだけで店長になれたゴミ野郎。
いっぺん引っ叩いてやろうかと何度思った事か……。
まあうちは女性客も多いし、フレンチトーストがメニューにあっても悪くはない。
皿に卵、牛乳、砂糖、バニラエッセンスをよく混ぜて、半分に切った厚切りトーストを浸し、本来なら一晩くらい漬けたほうがいいんだろうけど、とりあえず通常メニューにそんな時間を掛けられないよな。
フライパンにバターとサラダ油を引き、弱火でじっくり焼く。
十五分くらい使って、パンの裏表だけでなく、横の部分なども立ててじっくり焼き上げる。
ホテルオオクラ式のフレンチトーストの作り方を参考にやってみた。
みんなが試食をしてイケると踏んだので、新メニューに加わる。
俺はこれ専用の新しいフライパンを買わないと駄目だと言い、休みに入った。
休み明け、客のゆのゆのや池田ゆかからクレームが入る。
「ねえ、岩ちゃん。昨日フレンチトースト頼んだら、豚肉の味がしたよー」
「……」
渡辺に状況を確認すると、珍しく猪狩が厨房に入り、焼肉プレートを作る用のフライパンでフレンチトーストを作ったようだ。
コイツは店を潰したいのか、流行らせたいのかまるで理解ができない。
何だかんだ言いつつも、仕事が続いている前田。
伊達が辞めたあと入ってきた新人であるが、最初は本当に酷かった。
俺は彼が入ってきた当時を振り返る。
前職は何をしていたか聞いてみると、一年ほどほぼ働いてこなかったらしい……。
まあ他人の人生である。
過去の話であるし、そこへ突っ込んでもしょうがないと思い、大雑把な仕事の流れを部下の前田に教える。
昨日で入って三日目が過ぎた。
とても一人前には数えられないが、待ちができるほど客がドッと押し寄せた為、彼にはドリンクを作るよう命じる。
「コーヒー、ホットブラックで」
「は…、はい……」
別にお酒を出すわけじゃないので、別段難しいものはない。
面倒なものを強いて言うなら、ミキサーを使う『バナナジュース』やチョコレートシロップを牛乳に混ぜる『アイスココア』ぐらいだろう。
「ん?」
自然と俺の視線が彼の手元へ向かう。
「おい、何をやってんだ?」
彼は何故か、コーヒー豆をそのままコーヒーカップへ直接入れ、その中へお湯を注ごうとしていた。
「え…、自分はいつもお湯で溶かしてコーヒーを飲むんで……」
「……。それはインスタントの場合でしょ? これはコーヒーフィルターを通してから淹れないと駄目じゃん」
「は、はぁ……」
コーヒーフィルターの場所もすべて教えてあったのに……。
いや、どうやらそういう問題点じゃないような気がした。
皮肉な事に、こんな日はいつもより従業員の数も少なく、神の悪戯か客入りは激しく多い。
通常の業務だけでも大変なのに、俺は新人である彼の動向から目が離せなくなっていた。
料理の仕方、接客の基本的な事、客が来たらどうするかなど、状況に応じながら教えつつ、日常の業務をこなす。
そして一気にくるフードラッシュ……。
八合炊いた米はあっという間に無くなる。
あれだけあった豚肉も無し。
パンもそろそろ無くなる。
俺は調理をしながら彼に「米を炊いておいて。七合で」と命じた。
そんな状況などお構いなしに声を掛けてくる無数の客。
ギャンブルのバカラやポーカーに対してくる細かい質問をすべて答えつつ、灰皿に吸殻が二本以上溜まっている卓を変え、空になったグラスを見ては客に何を飲むか尋ねる。
入口のインターホンが鳴れば、常連客かどうかを確認し、ヤクザ者だったら店内に入れないよう断る。
新規客の場合、誓約書の説明をして了承してもらい、サインをもらう。
それプラス、金を受け取ってはすぐゲームができるようクレジットに変換し、それぞれ個々の台へパソコンから入れる。
すべての客の収支結果をつけなければならないので、入れたクレジット、出して換金した金額は例え千円であってもミスは許されない。
尚且つ今までの勝負状況を見極め、負け額や、連敗が続いているか、前回勝っているから今回はどうするのかなど様々な面を考慮しつつ、帰り際サービス券を出すか決めなければいけない。
しかもサービス券を客に渡した場合、何故なのか明確な理由や月の収支、トータル収支などを細かく紙に書かなくてはならない。
正直身体がいくつあっても足りない忙しさだ。
「ホットドック用のパンをオーブンで軽く焼いておいて」
「は、はい」
俺は合間合間で新人へ指示を出しつつ、自身のやるべき事を徐々にこなす。
最優先は客に直結する事から。
「前田、タマゴサンドお願い。さっき教えたからできるよね?」
「はい!」
サンドイッチなどすでに中に入れる具は、予め俺が作り置きしている。
それをパンに挟んで切って出すだけの作業。
誰でもできる。
焦げ臭い匂いが鼻をつく。
新人に作らせていたが、オーブンを見て目が丸くなる。
彼はオーブンを最高の温度に設定したまま十分以上放置していた為、ホットドック用のパンは丸焦げになっていた。
「ちょっと、前田君! これじゃ使い物にならないでしょ?」
俺は黒焦げになったパンを見せながら注意する。
ご飯が炊ける。
開けると、変な違和感を覚えた。
いつもの炊き加減でないのだ。
一口食べてみると、妙に固い。
「ねえ…、水をどのぐらい入れたの?」
「え、えっと…、六よりちょっと上入れましたけど?」
「……。あのさ…、俺は七合って言ったでしょ?」
「はい」
「じゃあ、何で六なの?」
「あ…、いえ…。でも、六よりちょっと多めに水は入れたんですけど」
「俺が言いたいのはね? 何故そこに六という基準が出てくるのかを聞きたいのね。何で七号炊くのに六って発想が出てくるわけ?」
彼はしどろもどろになってうまく答えなかったが、ここは心を鬼にしてでもそうなった原因を突き止めなければならないと感じた。
「すいません…。てんぱっていたみたいです……」
「別に間違えるのはしょうがないよ。入ったばかりだしね。ただ、分からない事を自己判断でやるよりは、まず俺に面倒でもいいから声を掛けて。どんなに忙しくても、間違えるよりはいい。これがお客さんに対しての接客の粗相だったりしたら、洒落にならないケースもあるから」
「は、はい」
「俺は仕事だと厳し目に言う事もあるけど、しばらくしたら、どこへ行っても誰からも『コイツは使える奴だな』って言わせるレベルまで教えるから」
「分かりました」
前途多難だけど、このまま放っておいてはいけない。
何となくそんな妙な使命感が心の片隅にあった。
でも、彼がキツいと思って店を飛んでしまったら仕方ない事であるが……。
さて…、今日彼はちゃんと出勤するだろうか?
来たら来たで、俺の持つスキルは少しずつ教えていこうと思う。
「はい、ナポリタンできました。コーラです」
厨房へ入って一人で一通りこなせるようになった前田。
よくもまあ俺の厳しい指導にこれまで耐え、頑張ってきたものだ……。
妙な違和感。
「……」
いや、俺は少し間違っている。
ここはインターネットカジノだ。
何故料理を一通りこなせるようになった前田を見て、目を細めている?
すべての元凶は、店長の猪狩。
あんな馬鹿に感化されてはいけない。
帰り道、この事を渡辺に話すと大笑いしていた。
休みの日は、岩上整体の時の患者であった田辺の天下鶏で飲む機会が増えた。
純粋にアルバイトの店員が可愛い子揃いなのだ。
「智さん、うちは顔面接ですから! 多少馬鹿そうでも顔さえ良ければ、採用しているんですよ」
以前オーナーである田辺が言っていた台詞は、あながち冗談でもなく本当だったわけだ。
下手なキャバクラやガールズバーへ行って高い金を払って飲むくらいなら、天下鶏で飲んだほうが安く済むし楽しい。
岩上整体時代よく通ったぼだい樹は、久しく行かなくなった。
あそこのオーナーだった中原奈美が、他県にある由緒正しい老舗旅館の女将として行く事が決まったからである。
老舗旅館の旦那との結婚も済ませたそうだ。
一時期いい感じの関係だった彼女。
あの時、岩上整体に品川春美が現れなかったらどうなっていたのだろう?
二兎を追う者は一兎をも得ずと言うが、俺は春美を追って逃し、奈美からも愛想を尽かされた形なわけだ。
群馬の先生から俺は今後愛に苦しむと言われてから、本当に何の縁も無くなった。
まあ天下鶏でピチピチギャルに囲まれながら飲むだけで、今は楽しいからそれでいいさ。
中でも清楚な感じの美人ありさが俺のお気に入りだった。
まだ二十歳のありさは源氏名などでなく本名。
「ありさちゃん、今度デートしようよ」
「彼氏がいるから駄目です」
「じゃあ別れたらいい?」
「うーん、岩上さんならいいてすよ」
「じゃあ変な連絡はしないから、電話番号の交換だけしとこうよ」
「うーん、いいですよ!」
まあ半分も年下のこの子が俺になびくはずはないが、こうして相手してくれるだけでも嬉しいものだ。
たまにこのビルのオーナーでもあり上に住む飯島敦子先生とも、天下鶏でよく会う。
「また智君、若い子に鼻の下伸ばしちゃって、もう」
呆れた様子で俺を見る敦子先生。
「だって岩上整体時代から、まったく女っ気無くなりましたからね」
「整体やっていた頃の智君をうちの友美だって結構気に入っていたのになあー」
「え、何ですか、それ? 初耳なんですけど……」
バトントワリング連続金メダリストの友美ちゃんなら、彼女として文句はない。
いや、むしろ大歓迎である。
「友美ちゃん、今いないんですか? ここに呼びましょうよ!」
「うーん、残念なんだな、智君」
「え?」
「ちょっと前に彼氏できちゃって、もうちょっとで同棲する予定なのよ」
「えーっ!」
何というボタンの掛け違い……。
本当に群馬の先生の言うように、俺は生涯このまま愛に苦しみながら生きていくのだろうか……。
そういえば影原美優はどうしているのだろうか?
古木と一緒に暮らす形になって、丸二年は経つ。
フラレた身としては女々しいが、古木に酷い扱いを受け、常に俺へ甘え頼ってきたのだ。
その俺が彼女の前から連絡を絶った。
ミクシィでもマイミクを切ってしまったのだ。
格好悪いが、またマイミク申請をしてみるか。
影原美優とのやり取りしたメールを見返そうと、ミクシィを立ち上げる。
「……」
彼女はすでにミクシィを退会していた。
もう終わった事なんだ。
そう自分へ言い聞かせても落ち着かない。
一度は気になった女である。
彼女の濡れた下着を思い出す。
中途半端なまま終わったので、あれ以来俺はずっと悶々としていた。
俺が影原美優へ求めているのは愛ではなく、ただの性欲だけなのかもしれない。
ミクシィまで辞めているのだ。
そっとしておいて欲しいのだろう。
気になった俺は、彼女が現在どうなったかだけを知りたかった。
いいアイデアを閃く。
彼氏の古木にはまだ歌舞伎町へ復帰した事を伝えていない。
その事を彼へ話すふりをしながら、彼女とはどうなったか聞くのは自然だろう。
もし古木とは別れたという報告を聞けば、俺が影原美優へ連絡しても問題ないはず……。
古木へ電話を掛けてみた。
「あ、岩上さん、お久しぶりです。どうかしましたか?」
「いや、俺ね…、また歌舞伎町の裏稼業へ復帰したんだ。古木君には話してなかったなと思ってね」
「うーん、やっぱりね…、岩上さんは歌舞伎町みたいな場所が似合ってますよ。整体も惜しいですけど、あそこの経験あったからこそ、小説や格闘技ってなってるじゃないですか!」
変に興奮している古木だが、俺が聞きたいのはおまえの感想ではない。
影原美優の状況だけだ。
「まあ、結局力不足でまた戻る形になっちゃったけどね」
「いやいや、岩上さんが歌舞伎町かー。面白くなりそうじゃないですか」
「そういえば影原さんとはどう? うまくいっているの?」
「あー、あいつは家を出ていきましたよ」
「え、何で?」
大チャンス到来かもしれない。
とうとう古木に対して愛想を尽かした可能性は大である。
「アイツ、美容師の仕事始めたのは知ってましたっけ?」
「何となくは聞いたかも……」
知っているに決まっているじゃないか。
そもそも仕事をしろと斡旋したのは俺だ。
「何か客に見初められて、突然出て行くって……」
「……」
何その展開は……。
「結婚も、もうしたんじゃないですかね。まあ俺の知ったこっちゃないですけど」
「……」
影原美優が別の男と結婚……。
色々なものが音を立ててガラガラ崩れていくような気がした。
「あれ? 岩上さん、聞こえてますか?」
「あ、ごめんごめん…。古木君、ごめん。キャッチホン入っちゃったみたい。またね」
俺は電話を切り、しばらく呆然としたいた。
何なんだよ、本当に……。
このまま本当に愛に苦しんで生きていくようなのかよ。
品川春美の結婚。
中原奈美の結婚。
影原美優も結婚。
宮川望には去られ。
福田真奈美にも去られ。
ミクシィでもみゆきにも去られ。
しほさんにも去られ。
愛知のみゆきは元々人妻だし……。
ぎーたかはあれ以来リアクション無いしな……。
「チクショー!」
思わず部屋の壁を殴っていた。
「おい、智一郎! テメーの中にうるせえぞ!」
奥の部屋から親父の怒鳴り声が聞こえてきた。
いつも『牙狼GARO』で暇を潰しに来ているキャッチの田中という客。
マイクロのスロットを好んでいるが、賭け方は一ライン一円のみで回すので、本当に邪魔な客の一人である。
そんな田中が、珍しくというよりも初めて新規客を二名連れてきた。
乞食キャッチの紹介である。
期待せずに受けた。
百貫デブという表現が最も相応しい超絶に太った女性客と、その付き人のような年齢不詳なガリガリ男のカップル。
太った女は利用規約に『高橋南』と名前を書いた。
猪狩へ見せると苛立った表情になり「何が高橋南だよ」と吐き捨てるように怒り出す。
何故怒るのかまるで意味が分からず、再び客の対応へ戻った。
「お願いします、マイクロで」
高橋南は十万円を渡してくる。
あまりのぎゃっに驚きながら「十卓様マイクロ千ドル。十卓様マイクロ千ドルお願いします」とコールを飛ばす。
「はい、十卓千……」
不貞腐れたようなコールの猪狩。
客なんだからちゃんとやれよと怒鳴りたかった。
「ドリンクのほうは……」
「えーと…、コーラ下さい。リアルゴールド下さい。アイスコーヒーの有り有り下さい。アクエリアス下さい」
「……。えーと、全部ですか?」
「はい、全部ちゃんと飲みます!」
巨漢な身体通り、凄い吸引量である。
「ドリンクコーラ、リアルゴールド、アイス有り有り、アクエリアス」
厨房へコールすると、渡辺も呆気に取られている。
すべてのドリンクをテーブルへ持っていくと「これもお願いします!」と百万円を帯付きのまま出してきた。
「畏まりました。えー、十卓様マイクロ一万ドル。十卓様マイクロ一万ドルお願いします」
自分でコールを飛ばしながら、何この異様な客はと驚いていた。
「じゅ、十卓様、マ、マイクロい、い、一万ドル」
猪狩も怒りを忘れ、どもりながらコールを返す。
店内にはゆのゆのと佐藤あみ、そして双子のゆか、みなみとかなみ、なーゆと女性客ばかり。
みんなが高橋南の異様な賭け方を注目しだした。
ものの五分もせずに十卓のクレジットはゼロになる。
すべてバカラで賭け、総額百十万円が十分もせず溶かしたのだ。
その瞬間、高橋南はテーブルへ突っ伏して大泣きしだす。
連れのガリガリ男はニヤけながら「OUTして下さい」と声を掛けてきた。
「えー、九卓様マイクロOUT。九卓様マイクロOUTお願いします」
ガリガリ男は初回三万円のINを十万円にしてOUTする。
何なのこの二人……。
俺が高橋南の席の後ろで困った表情で佇んでいると、ガリガリ男は「気にしないで下さい。負けるといつもこうなんです」と笑顔で言う。
いやいや、気にするでしょ、普通に……。
五分ほど突っ伏して泣き続けた高橋南は立ち上がり「帰ります!」と元気よく帰っていく。
あとで渡辺に聞いた話によると『AKB48』に高橋南という同姓同名のアイドルがいるらしい。
アイドルオタクの猪狩にとって、それは許しがたいものだったのだろう。
前田が帰り道、猪狩からアイドルの高橋南とツーショットでピースしている写真を見せられてウザかったと愚痴を溢してきた。