スパイクを脱いで上履きに履き替える。ロッカーに入れると、冷たい廊下をゆっくりと歩いた。やっぱ殴られるって嫌だよなあ……。
八幡の野郎が自分に都合よく、鈴本先生にチクったんだな。
相談室へ行く前に頭を整理する。
まず、きっかけは俺の父親方の従兄弟である水洗寺愛子ちゃんに、八幡が惚れたのが原因だ。いや、その前に俺が逃げようと仮入部の時点であいつを押しつけたのがそうか? まあそんな事どうだっていい。自分の意思であいつは体操部を選んだのだから。
いきなり食事時に電話をしてきた八幡。あいつは意味不明な気持ち悪い暗号文を俺に伝えた。そして愛子ちゃんにそれを伝えてほしいと。
愛子ちゃんに電話をすると、すごい不機嫌になってしまった。別にこれは俺のせいじゃない。あいつのせいだ。でも伝えると約束した手前、解読した暗号文『水洗寺愛子綺麗だよ』と教える途中で彼女は怒って電話を切ってしまったのだ。
翌日学校では八幡がしつこく昨日の件を聞いてくる。俺は彼を傷つけないよう接したつもりなのに、感謝もまるでせず俺の事を「ガム、ガム」と小馬鹿にしてきたので、つい殴ってしまったのだ。
それ以来ほとんど彼と接触なくなったが、文化祭になると八幡はまた俺に接近してきた。
用件は母親方の従兄弟である内海洋子を気に入ったらしく、俺に協力しろという事。
洋子とは小学生時代から因縁があり仲が悪かったので、断ると「ガム公」と罵り、挙句の果てに、「母親を寄ってたかって追い出した」まで言い出したので、ムカついて殴っただけだ。
文化祭の最後、俺の書いた小説『ここに僕がいる』はゴミ箱に捨てられていた。ボロボロになって……。
それを発見したのは八幡。しかも大笑いしながら、それを馬鹿にしていたから殴りつけてやったのだ。
次の日から八幡は、俺の背中に向かって「ガム、ガム」とからかいだした。あまりにもしつこかったので、俺は「タラコ」と言い返しただけの話である。
勝手に学校へ来なくなったが、元はといえばあいつ自身が悪いので同情などできない。
逆にこっちが登校拒否をしたいぐらいだった。
別に俺は悪くない。
いくらあいつが都合いい事を並べようと、真実は一つだ。堂々と行けばいい。
二階への階段を上り踊り場へ出ると、ゆっくり深呼吸をする。最初が肝心だ。
放送室の前まで来ると、また深呼吸をする。
「失礼しまーす……」
そっとドアを開け、中へ入る。この奥に相談室という『完全防音』の壁に包まれた魔の部屋があるのだ。
薄暗い放送室を歩き、相談室のドアノブに手を掛ける。
「神威でーす…。鈴本先生、俺を呼びまし…、ふぎゃっ!」
いきなり顔を出しながら口を開いているところを殴られた。
「神威ーっ! おまえ、寄ってたかって八幡を苛めたんだってなぁ~」
鈴本先生はそう言いながら、俺を無差別に殴ってきた。
俺は必死に両腕で顔をガードし、キン肉マンの得意技『肉のカーテン』を作る。それでもすごい痛い。
言い訳などまるでできない状況の中、ひたすら防御に徹した。
「何であいつを苛めた?」
一度攻撃がやみ、先生は聞いてくる。相談室のグランド側の窓の近くでデコリンチョは正座をしていた。よく見ると肩は小刻みに震え、顔はずっとグランドの方向を見ている。俺に泣き顔を見られたくないのだろう。
あれだけ考えながら来たのに、何だかすごい嫌な展開だ。
「神威ーっ、何で答えないんだぁ~」
また拳が俺の顔面を捉える。
さすがに怒りが沸いてきた。一方的な話を相手から聞いただけで、こうまで殴ってくるのか? 俺の言い分を何一つ聞かず、いきなり殴ってから「何故苛めた」はないだろう。
「おい、何で八幡を苛めた? 早く答えろ!」
「洒落っすよ」
不機嫌そうに言うと、先生は顔を真っ赤にして怒り出した。そして上履きを履いたまま、俺に蹴りを何度も入れてくる。
「そうか…。じゃあ、これも洒落だ。これもそうだ。おまえの言った洒落だ」
そう言われながら何度も蹴られている内に、悲しくて涙がこぼれてきた。
俺が泣いたのを確認して、鈴本先生は攻撃をやめた。そして相談室から出て行く。その間デコリンチョはずっとグランドを向いているだけで、こちらを振り向こうとはしなかった。
しばらくしてスピーカーのスイッチを入れる音が聞こえる。
「一年六組、山岡猛ーっ! 至急、相談室まで来いっ!」
うわー、あれだけからかっていた山岡まで呼び出されたよ。今頃サッカー部のグランドで顔を真っ青にしているだろうな。
三分ぐらいで山岡は入ってきた。いつものような陽気さは当然ない。俺と同じように殴られると、すぐに彼は泣き出し「すみません、すみません」と連発した。何だ、結構根性ないんだな。
続いて同じクラスの卓球部所属の鈴本勉が呼び出される。
彼は思ったより頑固なのか、いくら殴られても泣きを入れたり、実際に泣く事はなかった。
一列に正座される俺たち。
「いいか? 明日もここへ呼び出す。その時は覚悟しておけ」
そう言うと、鈴本先生は相談室を出て行った。
「問答無用で酷いよなあ」
出て行ってから山岡猛は口を開く。俺と勉は、一切喋らなかった。デコリンチョだけが未だ肩を震わせながら泣いていた。
翌日、俺たち四人は気まずい雰囲気のまま授業を受ける。
給食の時、鈴本先生は俺たちの班に来て食べる番だったが、他の生徒とは会話をしても、俺に会話を振ってくる事はなかった。せっかく給食でクジラの肉が久しぶりに出たというのに、あまりおいしく感じない。
五時間目の授業が終わり、掃除を済ませる。あとはホームルームを待つだけという時に、俺らは相談室へまとまって呼ばれた。他の生徒は、そのまま自分の席で待つよう指示している。
「全員横一列に並べ」
昨日呼び出された順番に自然と並ぶ。
「桶川、おまえは何で八幡をタラコって呼んだ?」
「あ、あの…、それは……、あぐっ!」
デコリンチョは口籠もっている最中に再び平手打ちを食らう。先生も俺にそれを聞いてくれないかな。そうすれば何故ああなったのかを説明できる。
「泣いてんじゃねえ、桶川」
「は、はい……」
「おまえは何て呼ばれるのが一番嫌いだ?」
「デ、デコリンチョです……」
「ブッ」
真面目にトシがそんな事を言うから俺はつい、吹き出してしまう。
「な~にがおかしんだぁ~、え、神威?」
「い、いや…、あのですね…、うぎゃっ」
問答無用で叩かれる。
「神威、おまえは何て呼ばれるのが嫌いなんだ?」
「ガムです……」
「そうか、次。山岡は?」
「ぼ、僕はあだ名なんてないので特にありません……」
「よし、分かった。じゃあ次、鈴本」
「僕は猿と呼ばれるのが一番嫌です……」
「分かった…。じゃあ全員後ろを向け」
マジックのようなもので何かを書いているキュッキュッという音がした。鈴本先生は、「よしおまえら、そのままでいろ」と、背中に何か紙のようなものを貼りつけてくる。
一体何でこんな紙のようなものを?
「そのまま一列で教室へ向かえ」
「……!」
目の前のトシが相談室を出ようとして背中を向けた時、危なく吹き出しそうになった。
【僕は『デコリンチョ』です。みなさん、そう呼んで下さい】と黒いマジックで書いてある。待てよ…、という事は俺の背中には同じようにあだ名の部分だけ『ガム』と書いてあるに違いない……。
唯一あだ名を言わなかった山岡には、何て書いてあるのか気になる。
「何をぼさっとしてんだ? 早く自分たちの教室へ向かえ」
俺たちは綺麗に歩調まで合わせ、教室へ向かう。先頭のトシは教室に着くと、ドアに手を掛けたまま躊躇っていた。指先が小刻みに震えている。
「ほら、とっとと入れ」
ガラッとドアを開け教室へ一人ずつ入る。
クラス中からどよめきが起きた。
「そのまま黒板に向かって背中をみんなに見せろ」
俺たちは言われた通り、背をクラスメイトに向けた。
失笑する数名の声が聞こえる。誰が笑っているのか分からないが、あとで分かったらぶっ飛ばしてやる……。
「おい、みんな…、こいつらは同じクラスの生徒を苛めたどうしょうもない連中だ。背中に書いてある通り、そう呼んでほしいそうだ。みんな、明日からはそう呼んでやれ」
正行の大きな笑い声が聞こえた。それで何名かの笑い声が耳に響く。
屈辱とはこういう事を指すのか…。怒りで全身が震える。
「何を笑ってんだよ? 可哀相だろ」
連繋寺のピープルランドの息子である川原の声が聞こえた。それをきっかけに何名かの男子の声が「笑うのをやめろ」と聞こえてくる。
シーンとなる教室。それまで堪えていた涙。あまりにも自分がみじめで俺は声を殺して泣いた。
「はい、それでは本日のホームルームは終わりだ。みんな、部活のある生徒は、各自行動するように、以上」
それだけ言うと、鈴本先生は教室から出ていった。
飯田君やちゃぶ台たちがすぐ駆け寄り、俺の背中に貼ってある紙切れを剥がしてくれる。俺は情けない自分に腹が立ち、涙がとまらなかった。
気になっていた山岡の背中には『いじめっ子』と書かれていた。俺もああいう風に言えばよかった……。
これだけの辱めを受けても、親に密告するような奴は誰もいなかった。学校の先生というものは、それだけ偉いものなんだと思っている時代だったからである。あの先生にしてみたら、登校拒否にした俺たちに制裁を加え、どれだけ悪い事をしたのか思い知ってほしかったのだろう。しかし少しは俺の言い分も聞いてほしかった。
こうして八幡事件は無事終焉を向かえ、彼は翌日から普通に登校してくるようになった。
サッカー部では二年生の正ゴールキーパーである市原さんが、最初のミーティングで俺をキーパーとして抜擢する事をみんなの前で告げた。
入部当初同様何でこんな奴がといった表情をしている連中も多い。結局こいつらは初めての練習試合でも文句しか言ってこない奴らなので、気にしてもしょうがないだろう。
市原さんはキーパーに必要にグローブなど一式を俺にくれた。とてもありがたい。
キーパーの練習をするようになって、一ついい点に気付く。それはゴールポストが女子バスケット部のすぐ近くなので、フィールドプレイヤーよりも見られる可能性があるという事だ。ひょっとしたら田坂幸代も、俺が格好いいところを見て、いきなり惚れてくれるかもしれないな……。
市原さん、バンザイ。キーパー、バンザイって感じだ。
部長がシュートをしてくるので、俺は必死にボールへ飛びつき回数をこなす。飛び上がって地面に着く時は痛いし、肌だって擦り剥ける。でも、ハアハア走り回るフォワードなんかよりも全然マシだ。
一つ問題があり、同じキーパーの松平はどうも面白くないようで、何かにつけて嫌味な事を言ってきた。
「キーパーってのはそういうもんじゃねえんだ」といつも偉そうに抜かしているが、市原さんが近くにいると、急におべっかを使い出す奴である。正直俺はこいつを好きになる事はないだろう。四角いメガネをパンチして、何度も割ってやろうかと思ってしまう。
生理的に合わないというのはこういう奴を指すんだな。
まあ俺がキーパーのポジションを頑張って、君はいつだって控えに回してやるよ。心の中でいつも呟いてやった。
やってみると案外楽しいもので、ゴールの隅へ向かうボールを取る際、どうしても届かない時がある。顧問の酔っ払いは「神威、ちゃんとボールを見て、目を離すな」って言うが、首を内側に曲げて両手を目一杯伸ばすと指先にボールが触れ、ゴールを防げる場合だってあった。
どう見ても決まってしまうようなシュートをとめると、後ろのネット越しから女子バスケット部の女の子たちが自然と拍手をしてくれる時もある。ビバ、キーパー!
一対一の激突では、衝突を恐れず立ち向かう勇気さえあれば、そんなに怖いものではない。右足からスライディングタックルで飛び込み、上半身をできるだけ起こしながらボールを蹴られたら、すぐ反応できるように両手で防ぐ。もし右に交わされた場合、折りたたんでいた左足を伸ばし、ドリブルをとめるのだ。だからスライディングタックルをする際、相手が左に逃げないよう、おとりの意味でも意識してつっ込まないといけない。
元々向いていたのかもしれないな、キーパーには……。
授業中もズキズキ痛む擦った肘を我慢しながら、勉強にも励む。文武両道。うん、昔の人は本当にいい言葉を考えたものだ。
家ではおばあちゃんが昔からよくことわざを教えてくれた。ことわざと言えば、小学三年生の時の担任だった福山先生は、毎日ことわざを一つずつ教えてくれたっけな。今頃どうしているのだろう? また先生の顔を見てみたいな……。
福山先生に会う事があれば、俺が唯一休んでしまい聞き逃した『腐っても鯛』の意味をちゃんと先生の口から聞いてみたい。
サッカー部の練習や試合がない日曜日は、おばあちゃんが係りつけの病院へ行く時、付き添いで一緒に東京まで行く。
お医者さんはいつもおばあちゃんの背中に空いた穴のところに薬を塗り、ガーゼを当てるぐらいの治療しかしなかった。こんな事をして何になるのか分からないが、それで昔から病弱だったおばあちゃんが少しでも良くなるのならいい。できるだけ長生きはしてほしかった。
池袋の駅まで行くと「龍一や、お腹は減っていないかい? おばあちゃん、ちょっとお腹減ったからお寿司屋さんに行こうよ?」と言ってくる。
小学生の頃初めて行った寿司屋。
「ほら、好きなもの注文しな」
「じゃあ、マグロ」
「へい、マグロで」
唯一魚類で食べられるマグロ。これもおばあちゃんのおかげだ。お寿司屋で俺は、マグロの赤身しか頼んだ事がない。
「たまには別のを食べてみなよ」
「んー…、別にいいよ。マグロの赤身がいい」
「本当に安いものが好きなんだなあ」
そう言っておばあちゃんは笑った。
「おみやげで龍也や龍彦にはチョコボーを買っていこうね」
「ねえ、俺のチョコボー食べていいでしょ?」
「じゃあ、もう一袋買っておくかい。その代わりちゃんといい子にして、家の手伝いもするんだよ」
「うん!」
今の学校ではつっぱっている男子生徒も数名いる。変につっぱり周りへ嫌な思いをさせる。本人たちはそれが格好いいと思っているからしているのだろうけど、俺にはそれがまるで格好いいとは思えなかった。
それもこうやって穏やかなおばあちゃんがいてくれるからだ。暴力は絶対にいけないとは言わない。八幡の件だって、あそこまで言われたら人間誰でも怒ると思う。あの暴力については反省がなかった。それ以外で無駄に人を苛めたり、殴ったりしたら、おばあちゃんはきっと悲しむだろう。だからそんな事はしない。
俺やデコリンチョたちを殴った担任の鈴本先生は、普段通り変わらない接し方をしてくる。先生からすれば遺恨を引きずるなんてないのだろう。当たり前に笑顔で話もするし、冗談だって言ってくる。
クラスのみんなも、あの事はなかったかのように接してくれた。
これまでと唯一違う点が一つだけある。それは八幡が妙に自信満々になった事だ。
廊下で鈴本勉と話している時、八幡はワザと目の前を通ろうとしてくる。そして「おい、俺が通るんだからどけよ」と偉そうに言ってきた。
「おまえ、何をそんな図に乗ってんだ?」
「どけよ、ガムに猿」
「この野郎……」
俺たちがひと言でも『タラコ』に関連するキーワードを言えば、八幡は先生にチクるだろう。拳をギュッと握る。
「何だ、その態度は?」
「おまえには関係ないだろ。早く向こうへ行けよ」
「八幡って、小学の時から比べると本当に変わったな……」
八幡と同じ月越小出身の勉が静かに言い返す。
「ガムと猿の分際で、そんな口を利いていいと思ってんのか?」
「……」
「そうそう、そうやって黙っていればいいんだよ。俺に何かあると大変だよ?」
「おい、コラ…、キサマいい加減にせいよ?」
頭に来た俺は、八幡の胸倉をつかむ。
「おっといいのか? 俺には正樹先生がついているんだぜ?」
思い切り憎らしい言葉を吐くタラコ唇に拳を叩きつけてやりたかった。しかし鈴本先生の目が光っているからそんな事できやしない……。
「はい、どいてどいて。俺は忙しいんだから」
そう言いながら笑って八幡は、俺と勉の間を掻き分けて歩いた。
合唱コンクールの季節がやってきた。
「いいか? 俺のクラスになったからは絶対にコンクールを獲るぞ!」
過去この鈴本先生が受け持ってきたクラスは、全部受賞してきたと豪語をしている。別に歌など興味ない俺は、面倒な行事がやってきたなぐらいにしか思えない。
低音順にバス、アルト、ソプラノの振り分けられる。俺はバスだったが、ほとんど男子生徒で構成され、メンバーも因縁のある正行、八幡、ちゃぶ台、勉、山岡猛などお馴染みの面子だ。ドブスの川田美奈子もいる。デコリンチョや飯田君は女子の多いソプラノへ回されていた。ピアノは満場一致で小森彩が務める。
唄う歌は『子犬のコロ』。「子犬のコロのいない庭に……」と、暗い感じで始まる歌だった。
いつも放課後になると、俺たちのクラスは残され合唱練習をさせられた。
小森の奏でる伴奏に合わせ、口を開く。適当だった俺はワザと音痴に唄う。鈴本先生がこちらのほうを向き、目つきが険しくなる。
ヤバい。俺は気付かないふりをして普通に唄いだす。すると斜め前にいた山岡猛をいきなり平手打ちし、その勢いで彼の後頭部が、俺の右横で唄っていた斉藤友文の顔にぶつかった。
「山岡~…、おまえ、ふざけてしか唄えないんなら、真面目に唄わせてやろうか?」
「す、すみません……」
何だか俺が音痴な声で唄ったせいか、えらい事になっているぞ? 隣で顔を抑えながら斉藤友文はまだ泣いていた。
「斉藤もそのぐらいで、いちいち泣いているんじゃねえ!」
シーンと静まり返る中、先生は元の定位置に戻り、椅子に腰掛けた。
あとでこの二人には謝っておこう……。
こんな調子で一週間が過ぎ、俺たちは見事合唱コンクールで受賞した。
一年生六クラスの中、三クラスも選ばれるから確立は二分の一。その程度の事なのに、鈴本先生は飛び上がって喜んでいた。クラスの男子生徒の半分以上はそんな様子をシラけたように眺めている。
今回の合唱コンクールで、一つ気になった事があった。
ピアノを弾いた小森彩。彼女の姿に俺は自然と見とれていた。何て優雅にピアノを弾くんだろうか。そんな風に見えた。
従兄弟の愛子ちゃんが「多分だけど、小森さんって龍ちゃんの事が好きなんじゃないかな」と以前言った台詞が頭の中から離れないでいる。
ボーっと小森を眺めていると、一瞬目が合い、すぐ俺は違う方向を見た。何だか胸が苦しい。心臓がドキドキしている。
ひょっとしたら俺、小森の事を好きになっていたのかもしれない……。
「おーい、神ヤン」
山岡猛が近寄ってくる。
「どうしたの?」
「前に俺が正樹に殴られたでしょ? あの時さ、神ヤンが後ろですげー音痴で唄っていてさ、俺、何度も吹き出しそうになったんだよ」
「それが原因で殴られたの?」
「多分…、だってあれは笑いそうになるじゃん。神ヤン、すげー音痴なんだもん」
時期を見て謝ろうと思っていたが、別に俺がワザと音痴で唄ったのが原因じゃなかったのか。少しは気が楽になった。あれだけピリピリしながら合唱コンクールへ臨んだ先生。前の列の生徒がニヤニヤしていたら、殴られても当然だろう。つまり、あの件は山岡の後頭部がいきなり顔に当たってしまった斉藤友文が災難なだっただけなのだ。
以前この山岡猛はデコリンチョや正行とゲームセンターへ行った時先生に見つかり殴られた。その時俺までチクった密告者でもある。今回は俺のせいじゃないし、謝る必要などないな。
そう判断した俺は、遠くから小森彩の姿をまた眺めた。
部活と勉強を両立させながら、毎日を送っている俺。
小森彩に対する想いだけは、どんどん大きくなっていた。
ある日部活から帰り疲れていた俺は、おばさんのユーちゃんとおばあちゃんが作る夕飯がまだできていないので、二階のおじいちゃんの部屋に行き、電気あんま機で足をマッサージしていた。毎日の積み重ねで筋肉も疲労を感じていたので電気あんま機の振動が心地いい。
そのまま俺は気持ちよくて寝てしまったようだ。
小森彩の夢を見た。エレガントにピアノを弾き、カモシカのような綺麗な足でグランドを駆け抜ける。可愛いと言うよりは綺麗だと見とれてしまうような美しさを彼女は持っていた。
小学時代に可愛いなと思っていた中田豊美。中学に入るとちょっと横に伸びたような気がして幻滅した。中田豊美だけでなく、小学時代のほとんどの女が横に大きくなった気がする。
その点、小森綾は違った。綺麗に整ったスタイル。あの田坂幸代と比べてもスタイルの良さは比較にならないほどいい。そして寡黙に授業を受ける後姿。彼女の白い肌と細い首を何度も俺はさり気なく見ていた。
「龍一ー」
どこからか俺を呼ぶ声が聞こえる。今、小森を見ているんだから邪魔するなよ……。
「龍一、ご飯できたよー」
ご飯? 俺は学校で小森を見ているんじゃないのか? あれ……。
ガバッと体を起こす。うっかり寝てしまったようだ。
「……っ!」
俺はビックリして自分の下半身を見る。
電気あんま機をつけっ放しのまま寝てしまった俺。布団から離れた畳の上で、電気あんま機はブルブル動いていた。
学生服を脱ぎ短パンだった俺は、裾と股の合間からオチンチンが出ていて、白い液体を先っちょから何度も吐き出していた。一体何だ、これは……。
ドクッ、ドクッ、ドクッ……。
あきらかにおしっことは違うものが、毒を吐くようにチンチンから出ていた。
自分の体がとんでもない事になってしまった恐怖を感じる。
「龍一ー、寝ちゃってるの? ご飯できたよー」
一階からユーちゃんの声が聞こえた。起こしに来られてこの状況を見られたら、非常にやっかいだ……。
「ごめん、もう起きたから大丈夫! すぐ行くからーっ!」
慌てて大きな声を出した。
オチンチンを見ると、ようやく白い液体を出さなくなっていたが、極度に固くなり大きくなっていた。触ると変な感じがする。小学生の時もこうやって大きくなった事はあった。
でも、こんな白い液体なんて一度も出た事なんてないぞ?
電気あんま機の電源を切り、俺はティシュを探す。おじいちゃんの布団のシーツの上は、白い液体にまみれていた。丹念に何度も拭き取る。白い液体は妙に生温かかった。ちょっとした粘着力もあるようで拭き取る際、ネバーっと糸も引く。
こんなものをいっぱい出して、俺の体は大丈夫なのか?
シーツも新しいものに代え、白い液体のついたシーツは丸めて自分の部屋のゴミ箱へ捨てた。
誰かに相談するのが恥ずかしく、この日家族の誰にも言えないでいた。
学校では最近休み時間になると、岡崎龍典ことちゃぶ台の周りに多くの男子生徒が集まっている。ちゃぶ台が一人で興奮しながら話をしているのを周りがニヤニヤしながら聞いている図式に見える。
俺も何を話しているのかなと興味を持ち、輪に入ってみた。
「俺はさ、もう昨日も十六連射だよ」
「すげーちゃぶ台!」
デコリンチョが妙に興奮していた。
十六連射と言えば、ゲームソフト会社の『ハドソン』がファミリーコンピュータの『スターソルジャー』を発売してから、『高橋名人』という帽子を被ったおじさんが小学生の間で人気になっている。たかがゲームをしているだけなのに、映画にもなったほどの人気ぶりだった。一番下の弟の龍彦はその映画を目の前のホームランへ見に行き、とても喜んでいた。その高橋名人の得意技が、指先を振動するようにボタンを何度も連射するといったものだが、巷では一秒間に十六回も押していると分かり『十六連射』と呼ばれている。
しかし何で今頃十六連射の話で、そんなに盛り上がれるのだろうか?
「ちゃぶ台ってゲームをしたっけ?」
俺がそんな質問をすると、その場にいるみんなはゲラゲラと大笑いしだした。何でそんなにおかしいのかまるで分からない。
一緒にゲームセンターへ行った事もないし、また中でちゃぶ台の姿を見掛けた事すらない。家のファミリーコンピューターで一人せっせと遊んでいるのかな?
「神威…、おまえにはちょっとまだ早かったようだ」
ちゃぶ台がそう言うと、また回りの連中まで笑い出した。馬鹿にされているようでイライラしてくる。俺は近くの奴の肩をつかむと、「おい、馬鹿にしてんのかよ?」と脅しを掛けた。
「あー、待て待て。神威、怒るなって」
「だっておまえらさ、全体でニヤニヤと気持ち悪いじゃねえかよ」
「おまえを馬鹿にした訳じゃないんだよ」
「じゃあ何故笑う?」
「シコシコについて話していたんだよ」
「シコシコ? 何だそりゃ?」
「う~ん、シコるという意味だ」
「シコる?」
相撲取りが土俵入りする時するやつを四股を踏むというが、それじゃないよな……。
「だから手をさ、こうやってこう上下に擦るだろ?」
ちゃぶ台は右手を前に出して、何かを握るような手つきで上下に小刻みに何回も動かしている。それを見て、またみんな笑いだした。
「何だよ、それ?」
「だから神威にはまだ早いってさっき言ったんだよ」
何か言いようのないもの凄い屈辱感がある。しかし誰もそれ以上の事はいくら聞いても教えてくれない。
「もっと分かり易く説明してくれないか?」
「ギャハッハハハ…、説明ってもなあ……」
「おい、ちゃぶ台。いい加減怒るぞ?」
「待て、待てって。じゃあさ、隣のクラスの深沢いるだろ? あいつなら達人の域だから聞いてきなよ」
「深沢が達人?」
隣の五組には一番背のデカい、中央小時代からの同級生である深沢史博がいる。バレー部で「ちゃーい、どっ」という掛け声で有名なので、他の小学出身の連中からは時たま「チャイド」と呼ばれていた。一体あいつのどこが達人なんだろうか?
廊下に出て隣のクラスへ行こうとすると、深沢がちょうど歩いているところだった。
「おーい、深沢」
「あ、神ヤン、どうしたの?」
「いや、うちのクラスの連中がさ、『シコる』って意味を深沢に聞けって言うから」
「シコる?」
「ああ、ちゃぶ台は『シコシコ』とも言っていた」
「う~ん、ひと言で表すと…、固くなる」
「固くなる? そんなんじゃ分からねえって、ちゃんと教えろよ」
こうして俺は中学一年生の時に、生まれて初めてオナニーというものを知った。ちゃぶ台を始めとするあいつらは、しいて言えばただの変態だったという訳だ。
サッカー部の練習が終わり、デコリンチョからゲームセンターへ行こうと誘いを受ける。しかし、今日は真っ先に家へ帰る事にした。何故なら今日聞いた『オナニー』というものを密かにやってみようと思っていたのである。
三階にある俺の部屋へ行くと、弟の龍也がテーブルに向かっていた。珍しく勉強でもしているのかと覗き込むと、以前俺に見せた百科事典の『ホッテントット』を熱心に見ている。俺に気付くと「ホッテントット」と指をさしながら馬鹿みたいな笑い方をしていた。
無視して俺は、向かいにある空き部屋の和室へ向かう。ここなら誰にも邪魔されずに済むだろう。ドアがちゃんと閉まっているかどうか確認して、ゆっくりズボンを下ろす。
手でオチンチンをつかみ、軽くギュッと握ってみた。ここから上下に動かす。ちょっと気持ちいいかも……。
徐々に大きくなり、固さも増してくる。
深沢を脅して聞いた『シコる』。別名『オナニー』とも『マスターベーション』とも言うらしい。何であいつらは勉強もできないくせに、こんな事ばかり詳しいのだろう。不思議でしょうがない。
気持ち良さを感じながら必死に右手を動かす俺。その行為自体、頭で考えると非常に屈辱的だ。ちゃぶ台や深沢たちに、俺が『シコる』をしたなんて絶対に知られたくなかった。
「兄ちゃん……」
廊下から声が聞こえる。慌てて俺はズボンをはき、近くにあった『週間少年ジャンプ』を手に取った。
和室の襖が開く。間一髪間に合ったようだ。
「あ、それ今週号のジャンプ? 先に読ませてよ」
「駄目だ。俺が買ってきたんだから。おまえはホッテントットでも見てろよ」
「ホッテントット…、ギャハハハハ」
「馬鹿、早く向こうへ行けって。読み終わったら持っていくから」
「早くね」
「分かったよ」
再び襖が閉まると、しばらく様子を見てから俺は再度ズボンを下ろした。また手でオチンチンを擦っていれば、前におじいちゃんの部屋で出たような白い液体が出るのかな? あの時はオチンチンがちょっとでも触れると変な感じがして、とても敏感になっていた。
またあの不思議で気持ちいい感覚を……。
ただ手で擦ればいいってもんじゃない。
握り方をちょっと変えただけで、表現にしようがない気持ち良さが変わる。
擦る位置を上のほうへ持っていっても違うし、下のほうを中心にしても気持ちいい。
深沢とちゃぶ台の野郎、こんな気持ちいい事を今まで黙ってやがって……。
頭の中であいつらのニヤけ面を想像すると、オチンチンの元気がなくなる。そういえば何かの洋画をテレビでやっている時、恋人たちの会話で男が「何だよ、せっそうないな」と恋人に怒っていると、「それはあんたの息子」と言い返され、それを見ていたおばさんのユーちゃんはゲラゲラ笑っていた事があった。何故笑うのか当時小学生だった俺には分からないけど、今なら何となく理解できる。
おそらく息子とは、自分のオチンチンを指すのだろう。多分ちゃぶ台の十六連射とは、あの白い液体を十六回も出したって事なはず。
「あ……」
どうでもいい事を考えていたら、あれだけ元気で大きかったオチンチンがすっかり小さくなっていた。
悶々とした状態で夕飯を食べる。横で龍也と龍彦がご飯を食べながらふざけ合い、おばあちゃんに怒られていた。ふん、まだ俺のような悩みというか真理を知らない子供は無邪気なものだ。
考えてみると俺はファーストキスだけは早かった。あの忌々しい従兄弟の内海洋子と何回もやった『王子様とお姫様ごっこ』。数え切れないぐらいあの女とキスを幼稚園から小学一年生に掛けてしてしまった。かなりこれは進んでいるほうだろう。
中学に入ってからの自分は普通だと思っていたが、今日でどうも違うような気がした。
一番ませている奴らはちゃぶ台でも、深沢でもない。校内にも関わらず恥も外聞もなくイチャイチャしている田坂幸代と板橋の野郎だ。あいつのせいで俺は言いようのない虚無感に包まれた。何か因縁が勃発したら、一発ぶん殴ってやろう。
先ほどの『シコる』が消化不良だった為、あとで深夜みんなが寝静まったらまた開始しようと企む。
あれをやる上で大切な事は一つ。薄汚れたちゃぶ台や深沢の顔なんて絶対に思い浮かべない事。前は自然と白い液体を出していたが、今度は自分で自覚してあれを出すのだ。そうすれば何かが変わると思う。
今日は早めに寝ないと駄目だ。何故なら明日もサッカー部の朝練がある。睡眠を取らないと学校では地獄だ。だからいつも勉強に付き合ってくれるユーちゃんには申し訳ないけど、夜の九時ぐらいには「もう眠くなっちゃった」と言って寝たふりをしようじゃないか。
食事を食べ終わり、自分たちの食器をキッチンまで下げて洗う。
ユーちゃんからはいつも「おばあちゃんにあまり負担を掛けるんじゃないよ。自分の事は自分でする。そういった癖をつけとかないと、大人になった時おまえの親父みたいになっちゃうぞ」と口癖のように言われていた。何で食器を洗う事が親父にならないのかまでは分からないが、平気でユーちゃんに暴力を振るう馬鹿だ。少なくても親父に似ているだなんて言われたくない。
俺は食器洗い、龍也と龍彦は床掃除。日にちによっていつも役割分担していた。
早く一人になれる時間がほしい。
ひと通りの雑用を終え、部屋に戻る。龍也と龍彦がはしゃぎながら三階へ上ってきた。こんな時兄弟の相部屋は恨めしい。
ユーちゃんと和室で勉強の予習をする。一時間ぐらいやると夜の八時半になっていた。
「ねえ、ユーちゃん。今日はさ、部活で何だか疲れちゃって…、先に寝ていい?」
「何だよ、だらしないなあ。あとこのページまで頑張りな」
「はーい」
よし、計算通りだ。ユーちゃんのキッチリした性格を知り尽くしているので、この分だと九時には開放される。
「その代わり、明日はもっとやるようだよ?」
「分かっているよ」
クラスでも常にトップレベルではいたい。でも今日は『シコる』が気になって何も身にならないのだ。
サッカー部でもキーパーとして先輩たちは認めてくれだしている。気に食わそうに言う同級生連中は放っておこう。あれはただのジェラシーに過ぎない。
従兄弟の愛子ちゃんが入学当初に言っただけで、あれ以来小森とは特に接点はない。しかし勉強もスポーツもできてとなれば、小森彩はまた俺に興味を示すんじゃないか。そういった意味でも俺は、まだまだ色々と欲張って頑張らないといけないのである。
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