サボテン園というところに行く。植物にあまり関心のない俺はたいした興味も持てず、正一君や里子ちゃんを構って時間を潰す。
どこかのキャンプ場で、バーベキューをやった。現地で肉を売っていたが、九州の肉は値段も安くとてもおいしい。そういえばユーちゃんは、たまに学生時代の友達とこうして会い、バーベキューをやってくれたよな。
友達の多い親父に対し、友人関係が少ないと思っていたユーちゃん。でも、『狭く浅く』の親父より、『深く狭く』のユーちゃんのほうが羨ましいと感じる。親父の周りにいる人たちは、ひょっとしたら友達なんかじゃなく、知り合いというだけなのかもな。偶然街で会えば、頭を撫でて「大きくなったね」と笑顔で接してくれる人はたくさんいる。しかし、こんな風に家族そろって体当たりで接してくれる人が、親父にはいたのだろうか?
世間って分からない人が多いとユーちゃんは言った。それは親父と言うリトマス紙を通し、見分けられない人を見てきたからだろう。
大山家に到着すると、俺は完成させた小説『ここに僕がいる』を見せた。原稿用紙で五十枚。
「よし、約束通りちゃんと宿題をやったんだな。偉い。これでおまえがお金を使い果たしてなかったら、もっと偉かったんだけどなあ……」
「もう、そんな事言わないでよ。反省しているんだから」
ユーちゃんはそれをちゃんと読みながら、いいところと悪いところを指摘してくれた。
「小説家じゃないから、文章が読みづらいのはしょうがないと思う。でもね、おまえは本が好きだろ? だったらその人の文章の真似をしてみれば、もっと読み易くなるでしょ? 内容的には面白いと思う。ただ誤字や脱字が多いなあ。あとね、最後の『お母さんが家を出て行って、僕は自由を手に入れた』って部分は、言いたい事は分かるんだ。でもおまえはこれを学校で見せる訳でしょ? なら、ここは訂正したほうがいいよ」
俺にはユーちゃんが言っている事の半分も理解できなかった。よく読む本を考えると、山中恒だけど、今さらそれを真似したところで、また最初から文章を書き直しになるだけだ。あと最後のシーンでは何で主人公の『僕』が幸せだったのか。それを母親が出て行く事で自由を得たと書いている。その表現を使わず、別の表現を使うなんて、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
「兄ちゃんー」
龍彦が素っ裸のまま、こちらへ向かってくる。
「ん、どうした?」
「大変だ」
「何が?」
「里子ちゃん、オチンチンがないんだよ!」
家の隣に住む幼馴染の良子ちゃんを思い出し、吹き出した。『よしむ』の長女である良子ちゃんとは幼い頃よく一緒にお風呂へ入った。男兄弟の俺は、良子ちゃんの体を見て「ねえ、良子ちゃんて何でチンチンついてないの?」と素朴な疑問をぶつけた。すると良子ちゃんは泣きそうな顔で「チンチン落としちゃった…。チンチン落としちゃった」と裸のまま家まで帰ってしまったのだ。
「女の子にはチンチンがついていないんだよ」
「え、おしっことかどうするの?」
「知らねえよ、そんな事までは」
不思議そうな顔をする小学四年生の龍彦。それを見て、ユーちゃんは大笑いしていた。
九州滞在最後の日。
正一君のお父さんは、鹿児島県へ連れて行ってくれる。煙をモクモクと吐き出しながらそびえる桜島。以前大噴火をして大パニックになったらしいが、今でも火山灰は降っている。とても不思議な場所だ。
山へ向かう道の麓で、屋台が見える。食べ物でなくおみやげを売っていた。
「あそこはね、お釣りに一枚だけ聖徳太子の百円札をくれるんだよ」
正一君のお母さんがそう教えてくれたが、俺は手持ちのお金がほとんどない。駄目元でユーちゃんにねだってみた。
「ねえ、ユーちゃん…。来月のお小遣いいらないからさ、ちょっとだけお金くれないかな?」
「…たく、おまえはしょうがない奴だな……」
呆れた顔をしながらもユーちゃんは、財布から伊藤博文の印刷された千円札を二枚渡してくれた。
「一気に全部使うんじゃないよ? まだおみやげ屋はほかにもあるんだから」
「はーい」
屋台のおみやげに行くと、キーホルダーや三角形のペナントが売っている。欲しいものを色々手に取ったが、一枚だけお釣りで聖徳太子の百円札をもらえるというのを思い出し、一番安いキーボルダーを買った。
「はい、お釣りです」
「おぉっ!」
正一君のお母さんが言った通り、本当に百円札をくれたぞ。俺は小さな袋に入れてもらったキーホルダーをリュックにしまい、店のおじさんに顔を覚えられないようすぐ退散した。これから山道を少し登る訳だけど、しばらく時間が経ってから通る帰りに買えば、また百円札がもらえるはず。
そんな野望を胸に抱きながら、俺は山道を意気揚々と登った。
途中にある食堂でお昼を取る。龍也はカレーうどんを頼み、最初に見て驚いた俺と同じ反応をしていた。ちゃんぽんというラーメンを食べたが、白く濁ったスープはあまりおいしく感じなかった。これじゃ、普通の味噌ラーメンのほうがいいなあ……。
常に宙を舞う火山灰。ご飯を食べていて、灰が上に乗ったら食べられないだろうな。ここで生活している人は本当に大変だ。
帰り道、またあの屋台のおみやげ屋を通る。俺はペナントを一枚だけ買い、もう一枚百円札を受け取る。店のおじさんは俺の顔を覚えていないようだ。
財布の中にある二枚の百円札。歩きながら何度もそれを見てニヤニヤした。
川越は蔵造り、そして徳川家康が作ったと言われる喜多院が有名だけど、こういった自然の観光名所なんて何もない。住む場所によってこうも違うと、色々考えるものなんだなあと思う。
大きなおみやげ屋さんでは、とにかく安いものを探した。
『難おさる』というクルミに猿の顔のシールと紐のついたものが百円で売っていた。学校のみんなにはこのおみやげでいいだろう。それとサッカー部には大きなお菓子を持っていけば充分だ。すべて小銭で千八百円しかないので、俺はジュースを飲む用に百円だけ残し、残りはおみやげを買う。
こうして短いようで長くもあった九州旅行は終わりを告げる。
空港に向かう途中、コンビニエンスストアがあったのでジュースを買おうと中へ入る。地元川越でも俺が小学六年生ぐらいの時に初めて『セブンイレブン』が近所にできた。朝七時には営業をしていて、夜も十一時まで開いている。それだけの事なのに、当時は妙に感心したものだ。こっちでもそういう便利な店があったので、つい寄ってみたかったのである。
本棚のところを見て、新しい『週間少年ジャンプ』が発売されていたのに気付く。俺は百円札も合わせて三百円しか持っていない。しばらく迷った挙句、百円玉と聖徳太子の百円札を使って、百七十円の『週間少年ジャンプ』を買った。
コンビニの店員は、そのお札を見てしばらくビックリしていたようだ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと使えますから」と言うと、店員は「は、はあ」と言いながら三十円のお釣りをくれた。
外に出るとおばさんのユーちゃんに「また無駄遣いをして、この馬鹿たれが」と頭を叩かれる。
半分いじけながら飛行機に乗り、羽田空港へと飛び立った。
約十日間の休みをもらった俺は、夏休みの最後でサッカー部の練習の合流する。
始めは白い目で見ていた同級生たちも、俺がおみやげのお菓子を出すと一斉に群がった。本当にこいつら調子のいい連中だなと呆れたが、桶川俊彦ことデコリンチョと山岡猛には、お菓子とは別に『難おさる』をプレゼントした。
もう夏休みの自由課題や宿題は終わっているので、残り少ない日々をひたすら遊び、部活に明け暮れる。
最後に一度他校との練習試合があったが、長い間休んでいた俺が試合に選ばれる事はなかった。それでいじけてもしょうがないので、仲間がプレイしているのを真剣に応援しながら中学生初めての夏は終わった。
また慌しい日常が始まる。サッカー部の朝連から始まり、授業、部活、勉強という平日を黙々とこなしていく。
小学校の時のほうが気楽で良かったなあ。そう願ってもタイムマシーンでもない限りあの頃には戻れない。戻れたところで母親の虐待が待っているだけだし、やっぱり今がいいのか。
自由仮題で書いた小説『ここに僕がいる』は文化祭の時、教室で発表する予定だった。
文化祭が近づくと、クラスの生徒は妙にそわそわしだした。当然も俺も落ち着きがなくなる。学校内だけの小さな文化祭ではあるが、自分の書いた作品を不特定多数の人に読まれるという行為は、非常に恥ずかしく感じた。
当日が来て、俺は並べたテーブルの上に『ここに僕がいる』を静かに置く。九州でユーちゃんに指摘された部分。それは結局直さなかった。何故ならもう一度五十枚の原稿用紙に同じ事を書くのが、非常に面倒だったからである。
だから誤字脱字と間違いだらけの小説をみんなに見られるのが恥ずかしかったのだ。
文化祭が始まると、同じクラスの学級委員をしている小森彩は、澄ました顔をしながら俺の小説に近づき、手に取ろうとする。
「わあ~、小森っ! ちょっと待ってっ!」
「なあに、神威君?」
ポーカーフェイスの小森は、不思議そうに首を傾げながら俺を見る。
「いや、それを見るのはさ……」
「どうしたの?」
「いや…、あの…、その……」
「は?」
「つまり…、えーと……」
「どうしちゃったの?」
小森綾は綺麗な瞳で俺の顔を見てきた。余計にそれで恥ずかしくなり、俺は『ここに僕がいる』をつかむと教室を飛び出した。
入学当初は従兄弟の水洗寺愛子ちゃんに「何で水洗寺さんと神威君は、同じ筆箱を使っているの?」と聞いてきたぐらいだ。愛子ちゃんは「多分、小森さんは龍ちゃんの事が好きなんじゃないかな」と言った。今では普通に意識もせず話せるようになったけど、あれ以来彼女を意識していた事は事実である。好きなタイプではないが、クラスの女子がそろって「彩ちゃん可愛い」と言うのも理解できた。田坂幸代に失恋し、特別異性を意識していなかったつもりでも、俺は心のどこかで小森彩の動向を気に掛けていたのだ。
そんな彼女が一番始めに、俺の小説を読む。とてもじゃないが、堪えられなかったのだ。
男子トイレで小説を持ったまま立ち尽くしていると、同じクラスで野球部の飯田君が入ってくる。
「あれ、神ヤン。どうしたの?」
「ん、いや…、別に……」
「神ヤンって文化祭に、自分で書いた小説を出すんでしょ? 僕、機会あったら読んでみたいなあと思って」
「な、何で?」
「だってまるで本に興味なかった僕に、面白さを教えて図書館にまで連れていってくれたのは、神ヤンでしょ。そんな神ヤンが書いた作品なら、やっぱり読んでみたいよ。あの帰り道に食べたコロッケとか、本当においしかったなあって今でも思い出すもん」
「……」
彼になら、『ここに僕がいる』を読ませてもいいんじゃないかな……。
「あれ? その手に持っているのがそう?」
四百字詰めの原稿用紙を半分に折り、穴を開けて紐を通し、自分で男の子の絵を描いた表紙をつけた質素で格好悪い小説。自然と俺は彼に手渡していた。
笑顔で小説を受け取ると飯田君は、その場でパラパラと捲り出し、「すごいなあ、神ヤンは。こんなに文章を書けるんだもの」と感心したように首を振る。
「あー、飯田君。ちょっと待って。ここで読むのは……」
仲が良くてもやはり恥ずかしい。できれば俺のいない場所で読んでもらいたかった。
「あれ、神ヤンと飯田君じゃん」
デコリンチョと正行がトイレへ入ってきた。正行は飯田君の持っている俺の本を取り上げると、「何だ、こりゃ?」といやらしそうに笑う。
「おい、返せよ」
「何だよ、これ? ひょっとして神ヤンが書いたの?」
ふざけた笑いをしながら正行はパラパラとページを捲る。
「うるせえな、返せって言ってんだろ?」
強引に本を取り返す。
「何だ、この『ここに僕がいる』って?」
からかうように喋るデコリンチョ。
「うるせんだよ、このデコッパチが」
苛立った俺は、桶川俊彦のおでこを手でパチンと叩く。
「何だ、テメー。このガムが」
「うっせえんだよっ!」
俺はデコリンチョの頭に左腕を回し、その手首を右手でつかみながらギュッと締め付けてやる。プロレスでいうヘッドロックという基本的な技だが、地味に痛い。必死にデコリンチョは抵抗するが、俺のほうが力があるのでなかなか外せずもがいていた。
「おい、やめろよ、神ヤン」
「俺とこいつの問題だ。邪魔するんじゃねえ!」
正行がとめに入るが、俺は技を外さなかった。
気まずいまま文化祭を過ごし、俺は教室に『ここに僕がいる』を置いたまま、宛てもなく校舎をブラブラした。どうせ誰かが見るのだ。その場にいないほうがマシだった。
廊下から窓の外を眺めていると、背後から声を掛けられる。振り向くと同じクラスの八幡敦だった。
彼は従兄弟の水洗寺愛子に惚れ、気持ち悪く間単に解ける暗号文を俺に伝えてほしいと電話してきた事がある。愛子ちゃんに電話でそれを伝えると、逆に不機嫌にしてしまう。俺は頼まれた事をしようと思っただけなのに、八幡は感謝も何もせず、苛立って暴言を吐いたから殴った。それ以来ロクに会話一つしていなかった。
妙にニコニコしているが、どういうつもりだ、このタラコ唇め……。
「何か用かよ?」
「いや、神ヤンの書いた小説読ませてもらったけど……」
「だから何だよ」
「字が癖字だから読みづらかったけど、結構面白いなあと思ってさ」
「小説の感想を言いに来たのか?」
「いや、本当はそんな事どうでもいいんだけどさ、神ヤンって内海洋子さんと親戚なんだって? 水洗寺さんとはどういう関係なの?」
すごい嫌な予感がしたが、愛子ちゃんはともかく、母親方の従兄弟の洋子には関わりたくもなかった。
「何だっていいじゃねえかよ……」
「そんな冷たい事言わないでさ」
「だから何だよ?」
「内海さんって結構可愛いじゃない。それで従兄弟である神威君にね……」
「悪いけど、この間の愛子ちゃんの件で、もうそういうのは懲りているから」
「そんな殺生な事言わないでさ、ね? 神威君」
「何が神威君だよ…。おまえには悪いけど、俺はあの女の事じゃ協力なんてできない」
「そんな言い方しないでよ。可愛い子じゃない。内海さんは」
小学時代から今まであの女の身勝手な言動で、どれだけ俺は傷つき困ってきたか。口論になっても負けるだろうし、かといって女だから殴る訳にもいかない。
「じゃあ聞くけど、八幡は俺に何をしてほしいの?」
「いや~…、従兄弟の神威君にさ、内海さんに俺の考えた暗号文をね……」
「ごめん。悪いけど、そんな事はできないし、やりたくもない。それにあいつとは本当に仲が悪いんだ。力になれないよ」
「ふざけんなよ。こっちが恥を忍んでお願いにくれば、いい気になりやがって」
急に八幡の口調が激変する。
「あ? 今、何て言った?」
そう、こいつは以前、愛子ちゃんの件で本性を知っている。
「このガム、ガム、ガムーッ! ガム公!」
また俺は咄嗟に八幡を殴っていた。身勝手な頼み事をして、それが通らなければすぐにこうやって本性を出す馬鹿。殴ってもまるで罪悪感などない。
「すぐ暴力に訴えやがって! やっぱおまえの家はお母さんを寄ってたかって追い出したんだな? 噂で聞いていたけど、汚い野郎だ。このガム、ガム、ガム公!」
頭の中が真っ白になりそうで、俺はまた八幡の顔面を蹴飛ばしていた。
誰も追い出してなんかない。勝手に母親が俺たちを捨てて出て行っただけなんだ。泣きそうになるのを堪えながら、八幡の顔面を数回殴り飛ばした。こいつが泣くまで攻撃をとめなかった。
校舎を出て、外のグランドへ向かう。何で人の傷口に塩を平気で塗り込んでくる奴が、こういつもいるんだろうか……。
別に人なんて殴りたくない。でも、俺の心の奥深くに封印した傷に対し、土足で踏み込んでくる奴には別だった。そんな奴、殴られて当然だからだ。
九月だが日差しが降り注ぎ暑いので、樹木の蔭に隠れる。そういえばこの樹木って、プロゴルファーの樋口久子が記念として、学校に寄付したものなんだよな……。
樹木にゆっくり手を当てる。こんな中学生の俺でも知っているぐらいの有名人が、この学校に当時いたという事実。確かうちの親父が前に、樋口久子の弟と同級生だったと言っていたっけな。
部活は駄目、クラスでもいまいち馴染めず、女にもフラれ、成績だって一位じゃない俺が、こんな大物になれるなんて、まずないだろう……。
先ほど殴った八幡の顔を思い出す。強さという点で言えば、俺のほうがあいつよりも強い。でも今どう思っている? 正直いい気分じゃない事だけは確かだ。ムカついて人を殴ったところで、結局は何の解決にもならないのだろう。俺が廊下を去る時、八幡は怨念の籠もった目で睨みつけていた。そう、無意味な暴力は、悪戯に遺恨を生むだけなのだ。
そんな事を分かっていながらも、俺は母親の件で言われると、また暴力を振るってしまうのだろう。
強いってどうすれば強いのか?
喧嘩で誰にも負けないぐらい強くなり、それを周りが認めるぐらいならいいのか?
違うな……。
だってそれじゃ男は黙らせても、女は理解なんぞしてくれないだろう。
強さじゃなく、馬鹿にされなければいいだけなんだ。
心の奥底に静かに憎悪は眠らせてある。だからそこに手をつっ込んでさえこなければ、ある程度の事なら我慢はできる。
じゃあ、そうされないようには?
やはり強さを誇示する?
でも、それじゃ人に嫌われる……。
考えれば考えるほど、ゴールのない迷宮に入り込んだ心境になった。
憂鬱だった。
非常に気分が重かった。
金持ちでも何でもなくて、普通のささやかな家庭に生まれたかった。
家に帰れば優しいお母さんが、おいしい料理を作ってくれる。
外へ働きに出るお父さんは、日曜日になると一緒に遊びに連れて行ってくれる。
そういうごく普通の家庭だったら、こんなどうでもいい悩みなんてなかったはず……。
クラスのみんなは、こんな俺をどのような目で見ているのだろうか?
従兄弟の愛子ちゃんは、こんな俺と同じクラスになって迷惑じゃないのか?
最近気になっていると自覚した小森彩。彼女はどんなつもりで俺の書いた小説『ここに僕がいる』を手に取ったのだろう?
飯田君はあれを読んで、どう感じてくれるのか?
ゆっくりと誰もいないグランドを見渡す。
「あれ……」
ブラスバンド部に入った唯一の男であり、ドラムの得意な岡崎龍典ことちゃぶ台が、同じ部活にいる他クラスの女生徒、竹原智子と一緒にいるのを見掛けた。
あいつ、校舎の影でイチャイチャしやがって……。
こんな場所で悩んでいるのが急に馬鹿馬鹿しくなり、俺は教室へ戻った。
クラスへ戻ると、小学時代から一緒の益田清子が俺の作品を手に取って眺めている。また恥ずかしくなり、校舎をウロウロして暇を潰した。
ようやく文化祭が終わる。
教室へ行くと、何故か俺の小説が見つからなかった。飯田君が鈴本勉と話をしていたので聞いてみる事にした。
「ねえ、勉に飯田君。俺の書いた小説ってどこにいったか分かる?」
「え、小説? う~ん、ごめんね。ちょっと分からない」
「そう…、勉は?」
「俺も知らないなあ……」
「そっか……」
教室内を探し回るが、どこにも見当たらない。誰かがどこかへ持っていき、こっそり読んでいるのかな。それも何か恥ずかしいな。
掃除の時間が来る。まだ小説は見つからない。
廊下で沼田正行が、飯田君にふざけて組み付いていた。飯田君は俺の顔を見ると、「神ヤン、助けて!」と言ってくる。
「おい、マーちゃん、やめろよ。飯田君、嫌がってんじゃんか」
正行を振りほどこうとすると、彼は睨みつけてくる。
「何だよ、神ヤンはさっきトイレでトシにヘッドロックした時、自分で『邪魔すんじゃねえ』って偉そうに言って、自分じゃそうやって邪魔するのかよ?」
いまいち筋道があるのかないのか分からないが、正行の言いたい事は何となく理解できた。確かに俺はあの時正行にとめられても、デコリンチョへ攻撃をやめなかった。
飯田君は必死に抵抗している。本当に嫌なんだろう。
「さっきはそうだけど、やっぱりやめろよ。飯田君、本当に嫌がってるぞ?」
強引に正行を引き離すと、彼はイライラしたように飯田君の腿をパチンと強く叩いた。廊下に突っ伏したまま肩を震わせる飯田君。泣いている姿を見られたくないのだろう。
「おい、正行……」
「いちいちうるせーんだよ、おまえは」
「何だ、この野郎……」
小学時代から因縁のある正行と睨み合いになる。慌ててちゃぶ台や勉がとめに入る。
「やめろよ、おまえら」
よくも飯田君を泣かしやがって……。
俺は離されながらも正行を睨みつけた。
「おい、ガム」
その時八幡敦がふざけたように声を掛けてくる。苛立っていた俺は、八幡へ近づく。
「何だよ、この野郎。喧嘩売ってんのかよ?」
「ち、違うって…。ゴミ箱に小説があったからさ、教えてやろうと思ったんだよ」
俺の書いた作品がゴミ箱に? どこのどいつだ……。
すぐゴミ箱へ行き、『ここに僕がいる』を拾う。
「……」
表紙には誰かがマジックを使い悪戯で『ガム』と大きな字で書かれていた。それだけじゃない。中身はビリビリに破かれ、とてもじゃないが本の形すらしていないぐらいボロボロだった……。
しばらくの間、怒りに震え無言だった。
そりゃあ小説家が書いた作品に比べたら、俺の書いたものなんて、つまらないだろうしくだらないものかもしれない。でも、必死に想いを込めて書いたのだ。
ゆっくりクラス中を見渡す。
こんな事をやりそうな奴は……。
デコリンチョ……。
または沼田正行……。
それか八幡敦ぐらいしか考えつかない。
「自分の本にもガムって書かれてんじゃん。やっぱおまえはガムだ」
からかうようにタラコ唇を開く八幡。
「テメーかよ……」
「な、何だよ……」
俺はまた八幡に殴り掛かった。
「やめろって、また正樹に見つかったら大事だぞ?」
「落ち着けって、神ヤンッ!」
クラスメイトがとめる中、俺は新たなる憎悪が心に刻み込まれた。
サッカー部では村八分、クラスでもいまいち自分の居場所がない俺。
学校に行くのが嫌になってきた。まだ飯田君やちゃぶ台、そして勉が話し掛けてくれるから、挫けずに済んでいる。
クラスの女子からは、格好悪いって思われているんだろうな……。
休み時間になると、背後から「ガム、ガム」とからかって逃げる八幡。コテンパンに殴ってやりたいが、そうするとまたクラスから浮いてしまう。無視する事で我慢をするようだった。
「ちょっと八幡って性格悪いよね」
隣の席に座る松田忍が声を掛けてくる。彼女とは、勉や森野純治君や斉木洋介君と同じ幼稚園出身だった。ただ従兄弟の内海洋子の家と近所のせいか、いつも二人は一緒だった為いまいち信用できない。それでもそう声を掛けられ嬉しく思う自分がいる。
初めてチャレンジした小説『ここに僕がいる』は、誰の評価も分からないまま無残にゴミ箱の中へ消えた。
俺はあの時八幡がやったものと判断したが、結局犯人は分からずじまいだった。担任の鈴本正樹先生に言えば、誰がやったのか割り出してくれそうな気もしたが、そんな格好悪い事なんてできない。するつもりもない。
忌々しい思い出として、胸の中で刻み込まれるだけの出来事。いや、いっその事忘れよう。別に小説家になるつもりなんてないし、あれはただの自由仮題である。思い詰めるよりは、忘れたほうがいい。
勉強をして、同級生に迷惑が掛からないように部活にも出て、毎日を生きていこう。
そう決めた俺に、八幡は休み時間になると近くに来て、「ガム、ガム」と繰り返し逃げていく。よほど愛子ちゃんにフラれた事を言ってやろうと思ったが、それでは彼女に迷惑が掛かる。苛立つ毎日が続いた。
ジレンマを抱えながら学校へ向かう。
開かずの踏切に引っ掛かった時、デコリンチョが坂を上ってくるのが見えた。
「おっす」
「おはよう」
こいつのいいところは馬鹿だけど、日数が経つと喧嘩や口論した事をケロリと忘れる事だ。先日ん文化祭でヘッドロックをした事なんて、もう忘れているのだろう。
「最近タラコの八幡ってしつこくね?」
元と言えばおまえが『ガム』と言い出したんじゃねえかと、おでこを叩きたくなったが、懸命に自分を抑える。
「思い切り殴りたくなってくるよ、あの馬鹿が」
「今度さ、あいつがガムって言ってきたら、『タラコ』って言い返しなよ」
「同レベルに立てってか?」
「いや、そういうんじゃなくて、あいつはそういうのが迷惑だというのを分かってないでしょ?」
おまえが言うなと怒鳴りつけたかった。
「まあな……」
「じゃあ、同じ風に言い返せば、あのタラコも分かるでしょ」
「どうだかな」
「今の状態が嫌なら言ってみたら?」
「ふん、そこまで言うなら試してみるよ」
結局開かずの踏切のせいで、俺とデコリンチョは仲良く朝練を遅刻になった。部長から「おまえらずっとグランド走っていろ」と怒られ、朝から走りっ放しだった。
顔を洗い、授業に備える。タオルで顔を拭いていると、登校してきた八幡が「あ、ガム、ガム」とからかいながら教室へ入っていく。
俺は静かに後ろをついていき、あいつが席に着くと声を掛けた。
「おい、八幡」
「あ?」
「おまえの唇って、本当にぶ厚いなあ…。タラコ唇ってこういうの言うんだな」
ワザと感心したように言うと、八幡の顔は真っ赤になった。
「何だと? このガム、ガム」
「別にガムでいいよ。タラコのタラちゃんよりはマシだしね」
「おい、何がタラコだよ?」
「ありのままを言っただけだろ? おまえ、よくその唇であんな呪文のような暗号文なんて、俺に言ってきたよな? 鏡見てあれ考えたの? 頭大丈夫? 恥ずかしくないの?」
「うるせーっ!」
デコリンチョの言った通り、効果覿面だったようだ。俺は笑いながら自分の席へ戻った。
それからは八幡が嫌がらせで「ガム、ガム、ガム公」と言う度、「タラタラ、タラコのタラ」と言い返すようにした。自分から言い出したくせに、彼は自分がタラコと言われると、目に涙を浮かべながら去っていく。これで少しは辛さを分かっただろう。
休み時間になると、デコリンチョや山岡猛、鈴本勉が「やーい、タラコタラコ」と派手にやりだした。
「タラッタタラタラタラコのダンス」
デコリンチョはオリジナリティに溢れるタラコ節を炸裂させた。
「タラタラタラタラちゃーん、タラララー……」
山岡猛はベートーベンの『エリーゼのために』とタラコで表現しながら唄う。クラスの何名かはそれでクスクス笑っていた。
「ふざけんじゃねえぞ、おらっ!」
どんなに八幡が怒っても、三人は攻撃をやめない。
別に俺がとめる筋合いもないので放っておく事にする。
一週間後、八幡は突然学校へ来なくなった。
自分がした事を連日お返しされるようになり、来辛くなったのだろう。少しやり過ぎたかなと感じたが、お灸を据えたようなもんだ。
八幡が休みでも、日常はまるで変わる事がなかった。クラスのみんなも、特に気にする様子もなく一日が終わる。
翌日になっても八幡は来なかった。鈴本先生はホームルームで「誰か原因を知らないか?」と尋ねたが、それに答えるクラスメイトは誰もいない。
淡々と授業を受け、サッカー部へ向かう。
一年同士でパス練習をしていると、二年生の正ゴールキーパーである市原さんに手招きをされる。
「どうかしましたか?」
「神威…、ちょっと来い」
真面目な顔で言われたので、また何か先輩の逆鱗に触れるような事をしたのかと心配になった。バレーボール部の前を通り、テニス部のコートまで来ると、左へ曲がる。技術家庭科の校舎前まで来ると、市原さんは口を開いた。
「今から俺が言う事は、誰にも言うなって約束できるか?」
「え?」
「約束できるかって言ったんだよ。どうなんだよ?」
「は、はあ…、約束します……」
「じゃあ、そこに座れ」
「は、はい……」
地面にそのまま座ると、市原さんまで同じようにしゃがむ。
「おまえは確かに部活をサボるから、部長からも目をつけられているし、試合にだって選ばれないよな?」
「ええ、すみません……」
「謝れって話じゃねえんだ。おまえらの代って、キーパー松平だけだろ?」
「ええ、そうですね」
「おまえさ…、キーパーやってみないか?」
「はあ?」
「もし、やるっていうなら、俺のキーパーグローブとか一式やるよ。正直松平じゃ、キーパーを任せられねえ。神威…、おまえならいいと思ったんだ」
「俺がキーパーっすか? やった事ないですよ?」
「だから、俺がやるんならキッチリ教えてやる」
一人でも俺をそんな風に見てくれる先輩がいたという事が素直に嬉しかった。松平は人間的に嫌いだ。あいつのポジションをそれで奪えるなら、しかも今回は先輩公認である。面白いかもしれない。
「でも……」
まったく経験のない俺が、いきなりキーパーなんてポジション変更して、本当に大丈夫なのか? また回りの部員から白い目で見られる可能性だってある。
「いいか? 三年の代のキーパーだった熊倉さんは背番号二十一。俺はその二十一を受け取った。これからは俺が富士見中のキーパーだ。次の代は、神威…、おまえに二十一番を譲りたいと俺は思っている」
そう言って市原さんは、ゆっくりと手を前に差し出す。俺のどこが気に入られたのか分からないけど、ここまで期待されるならいいんじゃないのか。元々走り回るのは嫌いなほうだし……。
「市原さん、俺、やってみます!」
「おお、そうかっ!」
ガッチリと握手を交わし、再びグランドへ戻る。他の同級生らは俺が先輩に呼び出され、怒られたと思ってニヤニヤしていた。馬鹿な連中だ。
「あー……、桶川俊彦…、至急相談室へ来いっ!」
グランドへ足を踏み入れた瞬間、全校放送で怒鳴り声が聞こえた。この学校の生徒なら誰でも分かる我が担任の鈴本先生の声だった。
デコリンチョは校舎を見ながら暗い表情になり、小刻みに体を震わせている。これから殴るぞという予告を全校生徒に告知されたようなものだ。そうなるのも無理はない。
「おい、早く行って来い」
先輩の一人が優しくトシの肩を叩く。
「は…、はい……」
まるでギロチンに向かう死刑囚のように両肩をうな垂れ、一歩一歩歩いていった。
「やーい、デコリンチョ、呼び出された」
後ろで山岡猛がからかっているが、トシはまるで気にせずゆっくり校舎へ向かう。俺の横を通る時「ガム……」と力なく呟いたので、「早く行け、デコッパチ」と言い返した。普段ならムキになって言い返してくるトシなのに、さすがにうな垂れていた。
ダッシュを織り交ぜた緩急ある駆け足を何十本もやりヘトヘトになる俺。休憩時間になり、地面に座る。隣で山岡猛も疲れたように息を切らしながら腰掛けてくる。
「今頃デコリンチョ、正樹にやられているのかな」
「だろうね……」
「何をやったんだろ?」
「さあ…、あいつはいつも人をおちょくる癖があるから、誰かが先生にチクったんじゃないかな」
「すごい怯えていたね」
「うん、あの野郎。あんな状態でも『ガム』なんて抜かしやがった」
「トシらしいや」
俺たちは相談室の窓をそう言いながら眺めた。すぐ泣いてしまうトシの事だ。今頃わんわんと泣き叫びながら怒られているのだろう。気の毒に。
ネット越しの向こうにいる女子バスケット部を自然と眺める。あ、田坂幸代だ。相変わらず可愛いなあ。女バスって結構粒そろいなんだよね。館山留美江や中田豊美に薄川由美の中央小トリオも可愛いし、あとは…、そのぐらいか……。
野球部側のグランド中央には陸上部がいる。この部活の人気ある女子と言えば、同じクラスの小森彩だろう。個人的には豊田直美も捨てがたい。他クラスでは大山亜希子が人気あるよな。
その陸上部の裏では体操部。同級生じゃ八幡一人しかいない。あいつは男だからどうでもいいか。
テニス部は苗田由梨絵ぐらいしか可愛いのいないし、川田美奈子がいるせいか、どうもブサイクぞろいといったイメージがある。以前こいつのせいで、俺は鈴本先生に殴られたのだ。
「はい、休憩終わりー」
部長が叫ぶとみんな気だるそうに体を起こし、サッカーボールへ向かう。
市原さんはキーパーをやれと言ったけど、どのタイミングでやるのかな? フィールドプレイヤーたちと同じ練習を始めながら、そんな事を考えていた。
その時スピーカーが「ガガッ」という音を立てたあと、「一年六組の神威龍一っ! 至急相談室へ来いっ!」と鈴本正樹先生の怒鳴り声で呼び出しが聞こえた。
「ゲッ……」
デコリンチョに続いて俺まで? ひょっとして八幡が学校へ来なくなった件で、俺の責任にされているのか。
こりゃあ行った瞬間、殴られるんだろうな……。
まあ、いい。殴られても言い訳というか、発端を話せばいいんじゃないか。気がとても重かったが、俺は部長のところへ向かう。
「大変だな、神威…。サッカー部は気にしなくていいから、行って来い」
「は、はあ……」
部活の妨げになるからって部長も一緒に行ってくれよ…。無理か、そんな事は……。
深い溜め息をしながら、俺は校舎へ向かってトボトボと歩く。
あの放送のせいで、他のクラブの連中すべての視線が、俺に注目しているのが分かる。
「やーい、神ヤンも呼び出されてやんの~」
後ろから山岡猛の声が聞こえる。
俺は振り向くと、「うるせえ、馬鹿」と怒鳴りつけてやった。