今までたくさんの問題が山積みになり、パニックを起こしそうになるぐらいだった俺。百合子との件は問題なくなった。
あとは西武鉄道の問題。そして『ガールズコレクション』の問題。この二つ。
西武鉄道のほうはもうちょっとで片付くような気がした。本当の問題はあの店だ。
坂本と若松。馬鹿と阿呆には、それなりの使い道を考えなきゃな。ヤバいぐらいの低脳さにはビックリする。若松が確か俺より三つ上だから三十六歳。若松は四十歳は越えているらしい。よく二人ともあの知能で今日まで生きてこれたものだ。日本という国に生まれた事を彼らは感謝したほうがいい。
村川の本音。どこまでが本当で、どこまでが虚像なのかは分からない。どちらにしても俺があの組織から抜けるにはそれなりの覚悟が必要って事か。百合子や家族を犠牲にしてもいいなら簡単だ。だけどそんな事は無理だ。できない事を今さら考えたってしょうがない。
「何であんな馬鹿ばっか集まっちゃったんだろうなあ……」
あえて声にしてみる。巣鴨の留置所を出て、すぐに普通に就職活動していたら、こんな風にならず、今頃子供も順調に育って……。
やめよう。もうすべて過ぎてしまった事だ。俺がそう決断してこうなっているのだから。
一番の罪は俺がこうして生きているという事なんだろう。
じゃあ、死ぬのか? 自殺でもできるのか?
そんな事できやしない。いくら辛くたって、どんなにしんどい状態だって、結局俺はいつだって生に執着しているのだ。
生きているって本当に罪深い。業を重ね、たくさんの後悔をする。
だから亀田先生のところの娘の真由香ちゃんとかに優しくして、せめていい人でいたいって自分自身望んでいるのかもしれないな。
親父に恥をかかせようと思って始まった自衛隊。そこから俺の社会人生活は始まった。
もう三十三歳。普通に会社勤めしていたら、今頃平凡な家庭を築いて、温かいご飯を作ってくれる奥さんがいて、可愛い子供がいて、幸せな日々を送っていられたんだろうな。
普通……。
普通のってよくみんな言うけど、普通って何だろう?
俺は普通か? 普通じゃないからこんな環境になっている。今度俺のこれまでの人生をテーマにした小説でも書いてみるか。ふん、馬鹿馬鹿しい。そんなものはただの自己満足であり、日記に過ぎない。
小説を書いてみたものの、世に出すにはどうしたらいいか分からないし、今書いている『とれいん』だって、何の為に書いているんだ? 西武鉄道の人間に読ませる為と始めたけど、百合子も楽しみに読むようになった。でも、それじゃ世に出まい。
秋奈へ格好つける為に書き始めた小説。ピアノもそうだけど、あれは時間が掛かり過ぎる。毎日弾いてないと腕はサビつくし、どうせ音符なんて読めないからスラスラと色々な曲なんて弾ける訳じゃない。最近そういえばまったく弾いてないなあ……。
部屋の隅で誇りを被ったキーボードを引っ張りだして電源を入れる。ザナルカンドを弾き始めるが、途中でどう弾いていいか分からなくなった。
ほら、やってないからもうこれだ……。
発表会で演奏した月の光なんて、逆立ちしてももう弾けないだろう。
まあ、いいや。ピアニストになりたい訳じゃないしな。
ごめんな、デューク。おまえの夢も最近見ないし、すっかり忘れちゃってたよ。
プロレス、バーテンダー、裏稼業のゲーム屋からピアノ。そしてパソコンを覚えて裏ビデオ屋。今じゃ風俗か……。
一体何なんだよ、俺のこれまでの人生は?
最上さんのパソコンのスキルにちょっとで追いつきたくて始めた小説。違う事をやってと考えた訳だが、プロレス時代の時と同じだ。大地師匠に追いつきたいと思い、向こうがベビーフェイスならこっちはヒールだと亜流で誤魔化しているに過ぎない。
正当な道を歩む人間に、どうしてズルをして追いつこうとする者が超えられる?
一つの事に対して純粋に打ち込んでこれたら、こうはならなかったのかな。
器用だとたまに言われるが、器用貧乏に過ぎない。そんなのは中途半端なだけだ。
今じゃパソコンが必須なものになっている俺。
北方の『マロン』時代、歌舞伎町の漫画喫茶に行き、最上さんと男二人でカップルシートに座って朝まで行った英才教育が、今こうして少しは身を結んでいる訳だ。
こんな中途半端な俺を何故東海林さんは買う?
俺なんかが『ガールズコレクション』を立て直すなんてできるのかよ? あの馬鹿と阿呆の二人と……。
頭が痛くなってきた。もう、今日は寝よう。
布団に入るとメールが届く。百合子からだった。
《今日はもう帰ってきてるの? 連絡ないからどうしたのかなと思って。 百合子》
いっけね。朝、百合子のメールを見ただけで何も返事をしてなかった。それだけ今日一日中ずっと考え事ばかりしていたのだろう。俺はすぐに電話を掛けた。
「ごめんごめん、今日あれからさ、二度寝しちゃって大遅刻して、慌てて走って駅に行ったらサラリーマンにぶつかりそうになって避けたら転んじゃってスーツは破けるわ、怪我はするは、仕事先じゃ怒られるわで最悪だったんだ。さすがに疲れて家に帰ってきたら眠くなっちゃってね」
「そうだったんだ。大変だったんだね。怪我は? 大丈夫なの?」
「もちろん。ただ派手にすっ転んだからさ、膝と左手がまだちょっと痛いぐらいかな」
「気をつけてよ~」
「はーい。まあお互い今日は睡眠不足だろ? ゆっくり寝ようぜ」
「ねえ、明日はイブだよ?」
「あ、そっか…。クリスマスも近いとか思っていたけど、もう明日がイブか……」
「どうする?」
「仕事には行くけど、そのあと食事でもしようか?」
「何かありきたりね」
「だって今までクリスマスなんて、特に意識して生きてこなかったからなあ」
百合子と一緒にクリスマスイブを過ごす。ちょっとは人並みに近づくかもな。
「仕事終わったら連絡ちょうだい」
「ああ、何か欲しいものとかってあるか?」
「全然給料なんて出てなかったくせに無理しなくていいって」
「この間さ、あのケチなオーナーが一応オープンしたから十万くれたんだよ」
「……」
「ん、どうした? 黙っちゃって」
「あまり龍の仕事の人の事は聞きたくないなあと思って……」
当たり前だ。百合子は心にも体にも大きな傷を負っている。こんな短期間で癒える訳がないのだ。
「ごめんな、嫌な思いさせちゃって……」
俺にはあんなところ、さっさと辞めてもらいたくてしょうがないんだろうな。
「ううん…。大丈夫よ」
「派手に明日は行っちゃうか?」
「そんな無理しているとまたいざって時に困るよ?」
「そうだね…。まあとりあえず仕事終わったら連絡入れるよ。それでいい?」
「うん」
電話を切ると、また百合子の事を色々考えてしまう。
他愛のない会話。しかしそれは俺たちの間にできた子供の犠牲があったからこそ、こうして気軽に百合子ともやり取りできるようになったのだ。
もし、おろさなかったら、今頃どうだっていたのだろう……。
現実的に考えたら、あの時の状況では生まなかったほうが良かったかもしれない。俺が一円も稼げない状況だったから。
では真面目に働いて普通の暮らしを望んでいたら?
心の奥深く、静かに沈殿していた悲しみが全身を包む。一気に視界が歪み、大量の涙が出てくる。どうも最近の俺は涙脆い。
あの一件は俺たちをズタズタに傷つけた。特に百合子を……。
今のこの精神状態だったなら、うまくやっていけたかもしれない。
本当に都合いい言い方だが、産んでもらえば良かった。そんな事は今さら百合子に言えやしない。
たらればの事をいくら考えても仕方がない事だが、この思いはずっと俺の中で生涯つきまとうのだろう。
子供を犠牲にしたくせに、明日のイブを楽しもうとしている自分がいる。
俺は生きている事自体が罪だ。
せめて明日は、仕事が終わったら、百合子が喜ぶような料理を作ろうかな。もっと俺は彼女と子供に償わなければいけない。
静かに両手を合わせ、黙祷を捧げた。ごめんな、俺が生きてて……。
クリスマスイブ。そのせいか歌舞伎町だけでなくどこもかしくも外は人で溢れている。ほとんどの人たちが笑顔でいっぱいだ。そういった人たちの幸せを壊さないように、俺は静かに歩く。本当に寒い季節だなあ。
今日も俺は『ガールズコレクション』で変わらずに働く。
仕事が終わったら百合子を楽しませてあげたい。おろした時のあのような顔なんて二度と見たくないし、させたくなかった。
西武鉄道の一件など、本当はもうどうでもよくなっていた。でも、あの時に俺はみんなが笑顔でいられるようにと誓ったのだ。まず近い内、この件から片付けよう。
店に着き、シャッターを開ける。時間は昼の十一時。一時間も早く着いて、俺は何をしようっていうんだ? 開け掛けたシャッターを閉め、少し歌舞伎町をブラブラ歩いてみた。
この街がずっと好きだった。ここで様々な成長もできた。金だってたくさん稼げた。
でも、失ったものが大き過ぎた。その分この街を嫌いになった。
こうやってゆっくり歩くなんて、留置所を出たあとぐらいだ。あの中で知り合った同室のヤクザの原さんは元気でやっているかな? ん、待てよ。俺、出たら事務所に顔出しに行くって約束してたよな……。
俺が出たのが十月の頭だったから、もう二ヶ月以上経っているんだ。約束は約束だ。原さんの事務所にでも顔を出しに行くか。確か原さんて、橘川一家とか言ってたっけ。
橘川一家の事務所の場所を留置所の時に聞いていたので向かう。狭い街なので、三分も歩けば到着してしまう。
ヤクザの事務所を俺から訪ねるなんて、『マロン』のビルの三階にあった笹倉連合の親分に言いに行った時以来だ。やっぱ妙な緊張はあるなあ……。
ゆっくり深呼吸をしてからインターホンを押す。
すぐに入口が開き、柄の悪そうな若いヤクザが出てきた。俺を見ると、一礼してくるのでこっちもお辞儀をする。
「あの…、どこの組の人でしょうか?」
柄が悪そうだけど、結構礼儀正しいんだな。妙に感心する。
「あ、いえいえ…。自分はただの一般人です」
そう言った途端、ヤクザ者の目つきが変わる。
「おい、コラッ! 素人衆が何の用事でうちに来たんだ、オラ?」
「そんな怒んないで落ち着いて下さいよ」
「何をコラッ! 筋者おちょくってんのか!」
どんどんエスカレートするヤクザ。こいつ、相当カルシュームが足りないぞ。
「自分は神威って者です」
「素人が名前名乗って何を粋がってんだよ、おい?」
まいったな。こっちはただ挨拶に来ただけなのに……。
「おいおい、マサル! その人と喧嘩したら殺されるぞ」
俺の横で懐かしい声が聞こえる。
「あ、原さん、どうもっす」
急に柄の悪いヤクザは大人しくなる。振り向くと原さんが笑顔で立っていた。
「お久しぶりです、原さん」
「おう、よく来てくれたね、神威ちゃん」
久しぶりといっても三ヶ月ぐらいだったが、とても懐かしい気分になっていた。多分、それだけこの三ヶ月間で色々あったせいだろう。
「元気でやってんの、神威ちゃん」
「ええ、元気だけが取り柄ですからね」
「あ、あの原さん、この方はどちらさんで?」
柄の悪いヤクザが恐る恐る聞いてくる。原さんって結構この組じゃ偉いほうなんだなあ。あの時も仲間が色々裏で動いてくれていたみたいだし、当たり前といえば当たり前か。
「神威ちゃん。コイツに今度喧嘩の仕方教えてやってよ。どうもこの馬鹿、喧嘩っぱやくてねえ」
「え、原さん。俺、そんなに短気じゃないっす」
「馬鹿野郎、テメーは充分短気だろうが!」
そう言いながら頭を引っ叩く。
「いてっ! 原さん、痛いっすよ」
「神威ちゃんはな、俺の友達であり、格闘家なんだよ」
「え、すごいっすね!」
原さんも大袈裟な…。まあ、柄の悪いヤクザも大人しくなったし、変につっ込むのはやめておこう。それにしてもこの若いヤクザ、俺以上に単純な奴だな。
「今日は俺、これから色々忙しくなっちゃうんだけどさ。今度近い内、一緒に飯でも食べに行こうよ。今度連絡するからさ」
「ええ、喜んで。あ、俺のプライベート用の名刺渡しておきますね」
「ありがとう。あの時はさー、すげー面白かったよね」
「俺の家族を壊す気かーって馬鹿とかですか?」
三度の食事が終わるといつも吠えていた一室の問題児の真似をする。原さんはゲラゲラ笑った。
「もう人生真っ暗です……」
今度は原さんが若い自衛官の真似をする。俺はつい吹き出した。
「あいつも今頃は自衛隊に復帰して匍匐前進しているんですかね?」
「どうだろうね。公務員だからクビじゃないの? 自衛官が駅でスカートの中を写真撮っちゃマズいだろ。それより神威ちゃん、あれは? カレーは?」
「ああ、あの乞食いたじゃないですか」
「うんうん、彼どうした?」
「俺が出た時もまだいたんで、ひょっとしたら今頃まだ巣鴨にいるのかもしれませんね」
「立ってちゃ駄目? カレーカレーって?」
原さんが物真似をする。あまりにも似ていたので、俺たちは腹を抱えて大笑いした。そばで柄の悪いヤクザだけが、不思議そうに俺たちを見ていた。
もしあの乞食が歌舞伎町を歩いていたら、絶対にカレーライスをご馳走してやろう。
『ガールズコレクション』に戻った俺はオープン準備を済ませ、コーヒーを淹れる。
さて、今日はどうやって改革していこうかな。
「寒いねえ」
そう言いながら、いつも東通りに立っている真庭組のヤクザ者のオヤジが店内に入ってくる。よく顔を合わせるので自然とお互い会話をするようになったが、未だ俺はこの人の名前すら分からない。
「おはようございます。本当に寒いですよねえ」
「お、おいしそうなもの飲んでんじゃん」
「良かったら飲みます?」
「え、いいの?」
「大袈裟ですね。コーヒー淹れるのに、一杯も二杯もそんな変わらないじゃないですか」
「ありがとう」
「ただ、お客さん来たら、パッと出ていって下さいよ」
「当たり前じゃん。商売の邪魔なんかしないよ」
そう言ってヤクザのオヤジは人の良さそうな笑顔で笑った。しばらく世間話をして元の定位置へ帰って行く。
さて、何から取り掛かるかな? まずはシフトか、男陣営の。昼の十二時から夜の十二時まで営業だから十二時間。六時間ずつでもいいけど、さすがにそれじゃマズな。八時間ずつで、間の二時間一緒にいる時を作ったら引継ぎなんかもスムーズにいけるな。
俺は昼だから昼の十二時から夜の八時まで。阿呆の若松は夕方の四時から来させよう。坂本の馬鹿は面倒だから、来てから八時間やれってところでいいか。で、俺か若松が休む時、空いたほうのシフトをこなさせる。うん、これならいいかもな。休みがまったくないと、百合子もいつか切れそうだし……。
シフト表を作成していると、『ミミ』が「おはようございます」と笑顔で入ってきた。
「あ、おはようございます」
「今日は遅刻しなかったんですね」
「ええ、さすがに申し訳ないじゃないですか」
「昨日は結局二人だけでしたけど、ちょっとずつ増えていくといいですね」
実はその二人もすべてサクラなんだよなあ。本当ならちゃんと言えば、この店は大事にしてくれるって思うと思うんだけどな。何で坂本の馬鹿、あえて秘密にしているんだろう。
「そうですね。じゃあ、今日もいっぱいつけられるよう自分も頑張りますから」
「はい、私も頑張りますね」
性格はいいんだけど、何であの子、風俗なんかやるんだろう? 確か俺と同じ年だって言っていたから彼女も三十三歳。容姿的にも年齢的にも厳しいのは自覚しているだろうに…。不思議だ。クリスマスイブだというのに、数千円の金の為に他人のチンチンをくわえに来るなんて、どういう人生を歩んできたのだろうか? 大きなお世話か。
とりあえず女の子がそろう前に、会社として成り立つようなシステムを完成させないとな。自分一人で三人分の仕事をこなすようだから、本当に大変だ。
それにしても何故坂本は、サクラをあえてやるのか? 普通、風俗タダにするからおいでよとなんて話があったら、いくらだって人など呼べるはず。あれだけの馬鹿だ。あれとこれまで関わってきたみんなは、いくらタダでも坂本と絡みたくないのかもしれない。
サクラをつけるという行為自体、外部の人間に店が流行っていないと宣伝し、また店の赤字にも直結する。そんな事をするぐらいなら、週にちゃんと四日以上、何時間以上出るといった決まりを作る代わりに、一日誰もつかなかったらいくら分保障しますというような制度を作ったほうが、よほどいいだろう。
まあ頭の悪い奴の考えをいくら何故と思ったところで意味ないか。
三時過ぎに、坂本がアクビをしながら入ってくる。
俺は早速シフトの提案をしてみた。
「うん、いいんじゃないのそれで……」
面倒臭そうに坂本は言った。
「じゃあ、これでやりますけど、あとで若松さんにも伝えておいて下さい。休みの時だけ空いたほうに坂本さんが入ってほしいんですよね。そうすれば、みんな休みを取れます。理想だと思いませんか?」
「何を言ってんの? 休みなんてある訳ないじゃん」
「は?」
「日払いの商売やってんだよ? 一日出て何ぼ。それが俺たちじゃん」
「それは分かるけど、何で休みがないんですか?」
「オーナーたちにあれだけ金を出させているんだよ? 昨日も百補充してもらったしさ。だから利益なんて出てないのに、休むなんてとんでもないよ」
この野郎…。よく回るそのアゴを砕いてやろうか……。
また昨日も百万補充した? つまりもう五百万もこの店に掛かったという事だ。ほとんどこの馬鹿と若松で使ったくせに、何が利益を出すまで休みを取れないだ。自分で話している言葉をちゃんと理解しているのか、こいつは……。
「坂本さん…、今、店の資金はその百万入れて全部でいくらあるんです?」
「そんなの店長である俺の仕事だから、神威ちゃんはそこでパソコン打っていればいいんだよ」
「あのですね……」
「だいたいさ、店長は俺だよ? シフトとかさ、そういうのアイデアを出す分には構わないけどさ。決めるのは俺だよ。決定権は俺が全部握っているんだよ。分かってる?」
「何だとこの野郎……」
思わず立ち上がり、拳を握り締める。
「な、何だよ……」
ゆっくりその場で深呼吸をしてみた。うん、少し落ち着いてきた。また椅子に座る。
「何でもないですよ。いつもここに座りっ放しだから、たまには立たないと体がおかしくなりますからね。で、店の資金はいくらあるんです?」
「百万だよ」
「昨日もらった以外の金で、端数分は?」
「うーん、いくらだっけなあ……」
「坂本さん…。これから金は、俺が管理します」
「ふざけんなよ!」
金の話になると妙にムキになる坂本。馬鹿のくせに金だけは執着がある。
「ふざけてないですよ。別に俺が勝手に使うとかじゃなくて、風俗とはいえ、あくまでも会社なんですね。だから金額を把握しときたいんですよ。この金は何に使ったとか」
「あ、そう。なら、いいよ」
「あとですね。もうこれ以上、勝手に無駄遣いはやめて下さい」
「何を言ってんの? 俺なんか可愛そうなもんだよ。店長なのに、神威ちゃんとかと同じ給料なんだよ?」
馬鹿でプライドが高い。最低の人種だ。ここまで人間的に腐った奴は、この歌舞伎町でもそうはいない。種類は違うにせよ、この馬鹿に匹敵する奴は、『ワールド』時代、運良く早番の責任者になった吉田と、『マロン』を乗っ取った北方ぐらいだろう。
「とにかくこれからは何か使う時ちゃんと報告して下さい」
「あのさ、俺、店長なんだよ?」
「分かってますよ、坂本店長」
小馬鹿にしたように言うと、坂本の顔が真っ赤になった。
「ちょっとさあ、神威ちゃんよ。図体でかいからって俺を舐めてんじゃないの?」
顔面神経痛に掛かったような表情をして俺を睨む坂本。どうやら本人はビビらせようと威嚇しているようだ。まともに喧嘩さえしてこなかったのか。
「別に舐めてはいないですよ。こっちは何にいくら使ったか、パソコンに数字をつけるようなんですね。何でそれをそこまで嫌がるんですか?」
「あんま昔の事は言いたかなかったけどよ…。俺、関東で最大の族に入っていたんだぜ?」
村川たちから俺の事を何も聞いていないのか、このクズは? それに本当にそうだったとして、だから何なのだろう。
「ああ、珍走団の事ですか?」
「はあ? 馬鹿だな。族って言ったら暴走族に決まってんだろ?」
「だから今は暴走族って、珍走団って呼ばれているの知らないんですか?」
「何だよ、そりゃあ? 格好悪いじゃん」
ニワトリだって三歩歩くまで忘れないのに、この馬鹿はもう怒っている事すら忘れているようだ。
「ええ、だからそうやって呼ぶようになったらしいですよ」
「ふーん。でもさ、神威ちゃんよ」
「何ですか?」
「今までちょっと体がでかいからって、みんな喧嘩売らなかったかもしれないけどさ。族上がりには考えたほうがいいよ?」
コイツ、これで俺を遠回しに脅しているつもりなのだろうか? 一応まだ怒りは残っているみたいだな。ニワトリよりは頭がいいのか。
「大丈夫ですよ。護身術ぐらい習ってましたから」
「あのさ、そういうレベルじゃないのね? 俺らがやってきた事っちゅうのは」
「へえ、何をしたんです?」
大方シンナーを吸ったぐらいだろう、この馬鹿じゃ。何か歯も溶けているようだし。
「何をしたって、そんなのちょっと考えれば分かるじゃんよ」
「まあ、そんな事よりも今は、店の事を話しましょうよ」
「まあね」
「女の子はどうなりました?」
「ああ、神威ちゃんが昨日うるさいから、今日夕方ぐらいに来るよ」
「本当ですか!」
「嘘なんてついたって誰が得するよ」
やっとこの馬鹿が初仕事をしたようなもんだ。
「最初にそれを言って下さいよ。夕方って何時頃です?」
「五時ぐらいかな?」
「すごいじゃないないですか、坂本さん」
いつもテストで零点だった馬鹿が、初めて三点取れたようなもんだが、妙に嬉しく感じている俺は、ちょっとおかしいのだろうか……。
「まあね、俺がちょっと本気出せばね」
四百万使ってたった女二人かよ、このクズ。
「もうちょっと本気出して、明日は二人お願いしますよ」
これだけ吹っ掛けておけば、一人ぐらい連れてこれるかもしれない。
「うーん、まあ考えとくよ」
それだけ言うと、坂本は店から出て行った。何をしにここに来たんだ、あの馬鹿……。
ようやく仕事を終えて店を出る。
シフトを作った俺に、若松はもの凄い勢いで怒鳴りつけてきた。そんなに四時に来るのが嫌だったのだろうか? 働くのが嫌だったら辞めればいいのに。まあ執行猶予中の阿呆じゃ、他に働き口もないだろうけど…。
だいたい楽して金だけもらおうなんて考え自体間違っているのだ。同じ従業員なんだから、いる限り時間内はちゃんとやってもらう。じゃないとあの店はどんどん沈没する。すでにほとんど沈没しているようなものではあるが……。
休みの件をハッキリできなかったのが癪だが、まあもうちょっと様子を見てから決めればいいか。
川越に着いたら買い物をして、久しぶりにちゃんとした料理を作ろう。
考え事をしている内に駅に着く。五分前に小江戸号が出てしまったので、次の特急券を購入する。
西武新宿駅の改札を通ると、駅長の間壁さんの姿が見えた。電車に乗るにはまだ三十分ほど余裕があったので声を掛ける事にした。早くこの問題も終わらせたい。
「先日はどうも」
「あ、お世話さまです。本当に先日はすみませんでした」
「いえいえ、もう助役の朝比奈さんとは何の問題もないです」
「そうですか。それは良かったです」
「ただ、駅長の峰さんですけど……」
「何かありましたか?」
俺は間壁さんにあれ以来の何の対応もしようとしない峰の現状を話した。聞き終わると間壁さんは厳しい表情になっていた。
「そうですか。それは大変申し訳ございませんでした」
「謝罪したいという事で謝るのは分ります。でもいちいち言い訳をしていたら謝罪にはならないと思うんですよ」
「ええ、おっしゃる通りです。峰の件については私も謝りますので……」
「間壁さんが謝る事はないですよ。実際朝比奈さんとはもう普通に会話しているんですから。峰さん自身が理解しないと駄目なんですよ」
「そうですね。しかし彼も非常に反省はしています」
「でも峰さんは私から一度こっちに出向いて話しただけで、その時は冗談じゃないと帰ってます。それから何も連絡ないですし、それだけはそう言われても反省してるとは思えないんです。実際に間壁さんや福島さんに頭を下げられて、自分だって心苦しいですよ。多分間壁さんだっていい気持ちはしないと思います。それなのに何で張本人である峰さんはああなんだと言いたいだけなんです」
厳しい言い方だったが、自分の気持ちを理解してほしかった。
「本当に申し訳なかったです」
深々と頭を下げる間壁さん。
「もう間壁さん、そんなに謝らないで下さいよー」
「いえいえ、大変失礼な真似をしてしまい……」
「大丈夫ですって。間壁さんの顔も立てたいから、訴えるだとかギャーギャー騒ぐつもりは一切ありませんから」
その言葉にホッとしたのか、間壁さんは安堵の表情を漏らす。
「ええ」
「ただこのまま中途半端にさせるつもりはないんです。だから峰さんについては少しお灸を据える意味でも、ちょこっと言いますから」
「どうか、お手柔らかにお願いします……」
「大丈夫ですって。できればみんな笑顔で解決にもっていきたいですしね」
「ありがとうございます」
「あとこの件で小説も書き始めているんです」
「え?」
また間壁さんの表情が一変する。無理もない。普通に聞いたら、ただ西武鉄道の失態を中傷する内容の作品だと誰でも思うだろう。
「それも問題ないですよ。別に西武の悪口を囲うと思ってやってる訳じゃないですから。読んだ人が良かったと思えるようなものを作ってますので、そんな心配そうな顔をしないで下さい。中傷記事を書くのとは違います」
「そうなんですか。少しビックリしましたよ」
「完成したら間壁さんにちゃんと持ってきますね」
「それは楽しみですね。どんな感じになるのか想像がつかないです」
「確かにあの小江戸号の一件をメインに持ってく訳ですから、非常に地味で他の人にはどうでもいい事かもしれません。それをどう面白く書けるか。しかも面白いだけでなく、人間としてのテーマを色々と入れていきたいです」
俺と百合子の間でできた子供の為にも、この作品は残したかった。俺にとって六作品目にあたる小説だが、エゴで消してしまったあの子に捧げたい。
「とても楽しみにしてます」
「それでは今日はもう帰りますので」
「気をつけてお帰り下さい」
「あ、間壁さん」
「はい?」
「本当はもうあんな電車の件なんて、もうどうだっていいんですよ。私のエゴでこんな風にしちゃって申し訳ありませんでした」
俺が小江戸号に乗るまで間壁駅長は深々と頭を下げたままだった。あんなにいい人で親身になってくれる駅長が西武新宿駅にいる。西武新宿線をずっと利用してきて良かったなあ。心の底からそう思える。
電車に乗って、外の景色をボーっと眺める。
そういえば百合子に仕事終わってこれから帰ると伝えるのをすっかりを忘れていた。すぐメールを打ち始める。
《仕事終わったのでこれから帰りますよん。これから逢えるかい? 実は今、もう所沢辺りなんだけど、色々考えていてメール送るの遅くなった。ごめんね。 神威龍一》
今日は駅構内で抱き合っているカップルの姿がよく目につく。
電車がもうちょっとで本川越駅に着く頃、百合子から返事が来た。
《もっと早く言ってよー。龍が逢おうって言ってくれるの、ずっと待ってたんだからね。もちろん今日は逢うに決まってるでしょ。連絡なかったから仕事が忙しいのかなと思っちゃったよ。早めに着替えて龍の家に向かいまーす。 百合子》
確かにもう少し早めに言っておけば良かった。今日はイブなんだもんな。俺の気遣い不足だと反省した。
ちょっとした気遣いで百合子が喜んでくれるなら、いくらだって気遣おう。まだ子供をおろしてから何日も経ってないのだ。あいつには笑顔でいてほしかった。
《了解です。ごめんな。でもそんなに急いでこないでいいよ。事故に遭ったら大変だしさ。俺は家で料理作ってるから適当な時間においで。 神威龍一》
川越の町並みもすっかりクリスマスモードで綺麗なイルミネーションがあちこちで飾ってある。見ていて少しだけ華やかな気分になる。
寒いし今日は暖かいものでも作ってあげよう。スーパーへ寄ってみる。
店内はジングルベルの音楽が鳴っていた。俺は百合子に作ってあげたい料理の材料を買い物かごにどんどんぶち込む。クリスマスイブに鍋というのも違和感あるが、彼女は鍋が好きだから問題ないだろう。せっかくの機会だし、大和プロレス仕込みのちゃんこ鍋を作ってあげよう。作るのは久しぶりだったが、この腕がちゃんと覚えている。
できればもう一度、大和プロレスのちゃんこ鍋を食べたいなあ……。
家に着いて料理の準備をしていると、百合子からの電話があった。
「もしもし」
「あ、龍。ごめんね。お風呂入って出掛ける準備してたら、今まで時間掛かっちゃった。これから家を出るから、あと二五分ぐらい掛かるけど大丈夫?」
「問題ないよ。気をつけておいで。今、料理しててさ、火を点けっぱなしだから悪いけど電話切るぞ」
「うん、じゃあ、あとでね」
「あいよ」
ご飯は炊けたし、サラダも作ってある。鍋はもう少し煮込まないと駄目だから、時間的にもちょうどいい。
鍋を煮込んでいる間、クリスマス用のチキンをオーブンで焼く。これは百合子とその家族用におみやげで持たせてやればいいだろう。
その他にジャガイモの芽を取り、フライドポテトを油で揚げる。それが終わると鳥の唐揚げを作る。ついでにサンドイッチも作った。このぐらいあれば百合子の家族も喜んでくれるだろう。
サラダを食卓に並べたところで携帯電話が鳴る。ちょうどタイミングがいい。百合子からだ。
「もしもし、着いたのか?」
「うん」
「玄関まで迎えに行くよ」
携帯を切り、急いで玄関まで向かう。ドアを開けると百合子が待っていた。
「まあ、上がんなよ。外、寒かったろ?」
「寒いねー」
「鍋作ってあるぞ。おまえ、好きだろ?」
「ほんとー」
「ああ、しかも俺の大和時代のちゃんこ鍋を作ってみた」
「嬉しー、楽しみ」
居間に連れて行くと、百合子の表情が輝く。
「すごーい、これ龍がぜんぶ作ったんでしょ?」
「当たり前だろ。他に誰が作るんだよ」
「そりゃそうか。えへへ……」
昔はよく料理を作ったものだ。よく親父に「女みたいな事をしやがって」と殴られても、泣きながら野菜を切ったよなあ。百合子が見ただけでこうも喜んでくれるのなら、頑張って作った甲斐があるというものだ。
「もう見てたらお腹ペコペコ…。食べていい?」
「ああ、食べなよ」
二人で食べるには量が多過ぎるがとても優雅で楽しい食事だ。ある程度食べてから讃岐うどんを入れる。
「え、うどんまで入れるの?」
「結構いけるぜ。俺の作ったちゃんこ鍋用のタレあるだろ」
「うん」
「それがまたうどんにも合うんだよ。色々なもの入れてるから鍋の中はいいダシが出てるしね」
「そういえばそうだね」
「ま、食べてみな」
「うん」
うどんを少しだけ口に含んで味見をするようにして食べる百合子の顔を俺は覗き込んだ。
「おいしー」
「だろ?」
「でももうお腹いっぱいだよ。苦しくなってきた」
「無理して食わなくてもいいよ。ちょっと待っててな」
先ほど用意しておいたお土産用のチキンやサンドイッチなどを持ってくる。
「ほれ」
「え、どうしたの?」
「これは持って帰って家族みんなで食べなよ」
「でも……」
「別にいいじゃんよ。イブになったのにちゃんこ鍋だけじゃ味気ないしな」
「龍の家で食べるんじゃ……」
うちの家族は、俺の作った料理なんて誰も口してくれない。
「うちはいいの。百合子が持って帰るの迷惑だというなら、仕方がないけどね」
「ううん、そんな事ないよ。ありがとう。大変だったでしょ?」
「たまにはいいじゃんよ」
そう言って優しく百合子に微笑んだ。
「ありがとう。本当にありがとう。ねえ、龍、あのさー……」
「何だ?」
「今日、泊まってってもいいかな?」
「ああ、構わないよ」
お互いが元の状態に戻ってきたなという実感が湧く。何故、今の状態を保てなかったのだろうか。幸せを感じる度、その後悔が付きまとう。
「龍、どうしたの?」
「い、いや、何でもないよ」
「何か考え事してたでしょ?」
「おまえが喜んでくれて良かったなと思っただけだ」
「へへ…。あ、そうだ。忘れないように、龍の作ってくれた料理、車に置いて来るね」
二人で百合子の車まで行く。外はとても寒かったが、これで雪でも降ったらロマンティックなんだけどなあと思った。そんな神様も甘くないか。
部屋に戻ると軽くシャワーを浴びてくる。その間百合子は部屋を掃除してくれた。シャワーから出ると、もう夜中の一時になるところだった。
「百合子、もう一時だよ。明日も仕事だろ?」
「うん」
「もうそろそろ寝よう」
「そうだね」
百合子に腕枕をしてやる。質素で地味かもしれないが、こうやって異性と二人でクリスマスを過ごすなんて、考えてみたら生まれて初めてかもしれない。
疲れていたせいかすぐ眠りに落ちた。
自分の入場テーマ曲である地球を護る者(challenge of the psionicsfighters)が、鳴り響く。眩い照明が照らすリングに向かい、俺は花道をゆっくりと歩く。
観客がブーイングを飛ばしてくるが、俺は通路で立ち止まり、あえて客を挑発した。会場はブーイング一色になる。
非常に心地良い。思わず笑みが出てくる。
出来る限りふてぶてしく堂々とリングに向かう。会場中の観客の視線が、全部この俺に向いているのを思うとゾクゾクしてくる。
対戦相手はリング上から見下ろして、生意気な態度をとっていた。
体中で会場内を意識していたが、全神経を対戦相手に切り替える。騒がしい歓声が何も聞こえなくなる。
ゆっくりとロープをくぐり、ようやくリングインすると、テーマ曲が消えた。レフリーに体をチェックさせる。反則行為などの説明を受け、ゴングが鳴り響く。
同時に相手が低姿勢で突っ込んできた。後ろにステップバックしてガッチリとタックルを受け止める。上から覆い被さり相手の自由を奪いにいく。下から懸命に足間接をとろうと足掻く対戦相手。まともに相手するのが面倒だった。
「悪く思うなよ」
ニヤリと笑って右親指を突き立てる。そのまま真横から親指を相手の横っ腹に突き刺す。
「ギャー……」
強くなりたい。そんな想いがこの技を編み出した。『打突』……。
人間の体に穴を開ける最低最悪な卑劣技……。
相手は悶絶しながらリング上を転げまわる。横っ腹からあふれる血がマットを赤く汚していく。俺はその光景を見ながら唇を軽く上に吊り上げワザといやらしい笑顔を作る。
リングの上から会場内を見回すと、場内はシーンと静まりかえる。その時背後から強烈な打撃を喰らった。
「神威、キサマはまだ分からないのか? この馬鹿野郎が!」
マットに倒れたまま、振り返ると師匠であるヘラクレス大地さんが立っていた。
「だ…、大地さん……」
師匠の目に涙が光っていた。
「誰がそんな事をしろと教えたんだ? 人を破壊する為におまえは…、いや、人を殺す為におまえは試合をしてるのか?」
俺には大地さんのような強さがない……。
あなたのようにできる事ならなりたかった。でも自分じゃ器が違い過ぎて、同じ事してたんじゃ、絶対に無理なのも自覚していた。
まともにやっても俺は強くない。ならどんな形でも、あなたに少しでもいいから並びたかった。
あなたは誰もが認める完全なベビーフェイスだ。だったら俺は完全なるヒールでいい。とことんリングの上なら絶対的な悪党になってやる。
誰にも分かってもらえなくていい。観客がブーイングを送ってくれて、自分の存在価値があればそれでいい。
頭の中で考えている事をすべて大地さんに伝えたかったが、言葉として口から出てこない。
何故だ?
何故、自分の主張が言えないんだ……。
ずっと思ってやってきた事が……。
「いいか、格闘技、プロレスは殺し合いをするものではない」
「……」
「人を壊す為でもないんだ」
「でも…、プロレスに対する今の世間の評価って、知ってるんですか?」
「それがどうした?」
「どんどん軽く見られているじゃないですか!」
「だからあの技を使ったとでも言いたいのか?」
「そうです。でもそれだけじゃないです。他の格闘家連中がずいぶんと偉そうな台詞をほざいているじゃないですか? 俺たちは真剣勝負でやっていると……」
「それで?」
「おまえらだけが真剣にやってんじゃねえって言いたいんですよ。俺に言わせれば何が違うんだと言いたいんです。もしそれでも自分たちとプロレスがやってる事が違って言うなら、実際に戦って分からせてやるだけです」
「どうやって?」
「おまえらが真剣勝負だと言うなら甘いと…。そう言いながら、関節決めて骨を折ったり筋を伸ばしたりしてるのか? 試合で真剣、危険だというのを売り物にしているけど、いつ試合で相手を殺すまでやっているんだと。実際にレスラーと他の格闘家が試合して大一番で負けてきたが、レスラー側はその団体で育てた日本人しか出せない。でもそっち側は外人を出してくる。日本人が出てきたとしても都合のいいルールを要求し、揉めてそのルールに近い状態で試合をする。やり方が汚いだけ…。そんなザマで偉そうに吹くなら俺がおまえら日本人とやってやる。自分はそうやって分からせてやりたいだけです」
「偉くなったもんだな」
「え?」
「ずいぶんと偉くなったもんだなと言ったんだ。いつからそんな偉そうな口が利けるようになったんだ?」
「……」
「かかってこい」
「い、いえ……」
師匠である大地さんに手を上げるなんて、俺にできる訳がない。
「老いた私を倒せないで、おまえに何ができるんだ」
分かってほしい。『打突』は憎しみがある相手じゃないとできない打撃技である事を……。
「無理です。大地さんに俺が勝てる訳ないじゃないですか? そして手も出せません」
「以前おまえが言ってた『打突』とやらを使ってみたらどうだ?」
「あれは相手を壊す目的で繰り出すだけの打撃技です。大地さんにそれを打てる訳がない……」
当時レスラーとしては線の細い俺が、そのハンデを補う為に編み出した技。でもこれを使用するという事は、ナイフで相手を刺すのと変わらない。
戸惑う俺に、大地さんが迫ってくる。普段あれだけ優しい表情の大地さんが今は鬼のような形相をしている。
「やってみろ」
殺気を感じた。『打突』を打たないと自分がヤバい。本能的にそう感じた殺気を放っている。右手が無意識に動き出す。何をしてんだよ、俺は……。
「大地さん……」
恩師でもある大地さんに俺は、非人道的な技、『打突』を放ってしまった……。
「何だ、その程度か……」
「え?」
大地さんの顔を見上げると、何事もなかったように立っている。
馬鹿な……。
『打突』がまともに横っ腹へ決まったのに何故?
「以前にちゃんと言ったはずだ。何をやられても壊れない体を作る。レスラーはまずそこからだと」
強烈な打撃が俺を襲う。一瞬で意識が切断された……。