十二月二十一日 火曜日…。
今の私は不思議と勢いに乗っている。仕事先で嫌な出来事があっても、サラリとかわせるようになった。どうでもいいつまらない事で、時間を無駄にしたくなかった。
あの件は西武新宿駅駅長の峰、彼がキチンと謝れば許せる。彼以外の他の駅員は自分のせいではないのに、みんな低姿勢で私に謝ってくる。心苦しいし申し訳ないが、それでは何も問題の解決にはならない。
仕事を終えて帰り道、本川越駅駅長の村西さんの姿が見えたので、少し立ち寄ってみるつもりで声を掛けた。
「こんばんわー、村西さん。」
「おお、どうも。」
「お久しぶりです。先日は申し訳なかったです。」
「いえいえ、お騒がせしてすみませんでした。」
「よかったら中へどうです?」
「はい、お言葉に甘えます。」
村西さんに促されて、奥の駅長室へ行く。ソファに腰掛けるとお茶が出される。
「すみません。」
若い駅員にお礼を言ってから本題に移る。
「西武新宿の朝比奈さん、助役の方はちゃんと話し合ったので、もう問題は何もないです。ただ駅長の峰さん、彼についてはかなり問題があります。」
「…と、言いますと?」
「まず謝るという事についてですけど。」
「はい。」
「最初に謝っても私の言い分に対して、いや、あれはこうです、これはそんなつもりはなかったですとか、言い訳を言われても本来の謝罪とは明らかに違うものだと思うんです。要するにいくら謝られても言い訳を言ってる限り、見苦しいだけにしかとれません。」
「ええ。」
「助役の朝比奈さんはずっと頭を下げてすみませんでしたと、何度も謝っていたのでこれ以上、何も言うつもりはありません。」
「ありがとうございます。」
「駅長の峰さんだけが問題なんです。」
「それについては、彼も責任感じてるんで…。」
「村西さんの気持ちも分かりますけど、現状ではしょうがないんです。ただ事を大袈裟にしたいとか、そういう訳ではないんです。村西さんを始めとして西武の間壁さんや福島さん。様々な人が申し訳ないと頭を下げてもらってます。自分だって心苦しいです。それなのに当の本人である峰さんは、何故あんな態度でいるんだと分からせたいんです。」
「それはそうですね。」
「ただ、あの件からもう十日は経ってますけど、一度私が西武新宿に出向いて話しただけで、それからは実際、何の連絡もありません。それで責任感じてると言われても私は納得いきません。」
「そうですね。」
「だから少しお灸をすえる意味でも、これからちょっと攻撃するんで黙って見ていて下さい。みんなが笑顔で解決出来るようにもっていきたいんで…。」
私の言い分を話し終わると、村西さんは笑顔になり頷いた。
「分かりました。」
「村西さんや間壁さんまで、こんな親身になってもらっているのに、西武自体を攻撃したいだなんて思えないです。それに今、この件を元にした小説を書いているんです。」
「へー、小説ですか?」
「ええ、別に西武新宿を中傷するようなものじゃないですよ。あくまでも小説なので、読んだ人が呼んで良かったと思えるものを書きたいですから。」
「それは出来上がるの楽しみですね。」
「ちゃんと完成したら村西さんに持ってきますから。」
「期待してますよ。」
「あ、それと車掌の石川さんは…。」
「安心して下さい。何の処分もないですよ。むしろよくやったと社内で評価は上がっています。だから問題ないですよ。」
「それは良かったです。」
村西さんとまた話せて良かった。あれだけ重かった心の中が段々いい方向に向かっているのを感じる。
家に帰ると、早速パソコンを起動して小説の続きを書き始める。そうだ、その前にさおりにメールを打とう。
「ただいま。仕事帰りに本川越駅に寄り、駅長の村西さんと色々話し合ってきました。まだ解決まではいかないまでも少しずついい方向に向かっているようです。今は家に帰って早速「とれいん」を書こうとしているところなんだ。体の調子はどう?ちゃんとご飯食べてるかい?」
メールを送信してから、「とれいん」の自分で書いた扉絵をさおりに見せてみたくなった。パソコンで画像を処理して携帯電話でも見られるように作ってみる。再度、メールを送ろうと思っているところに、向こうから返事が届いた。
「おかえりなさい。仕事や西武新宿の件もそうだけど、色々とお疲れ様でした。ご飯の方はちゃんと食べてるから心配しないで。体調は良くなってきてるよ。出血もほとんど無くなってきたし、一応土曜日、大和産婦人科に行って診てもらうつもり。でも龍の書く小説がどういう風になるのか楽しみだな。出来たら是非見てみたいな。ゆっくり休んでね。」
画像を添付してから、さおりにメールの返事を書く。
「そうか、ほんとに申し訳なかったな。病院も出来たら一緒に行きたいけど、オーナーが仕事を休ませてくれなさそうだな。明日、休めるか言ってみるけどね。「とれいん」の扉絵を一緒に添付しておきました。これ作るのとても苦労したよ。それでは小説の執筆に取り掛かります。さおりはゆっくり休んでね、おやすみ…。」
今の私には小説を一日でも早く完成させるしかない。久しぶりに心が躍っている。近い内、西武新宿駅駅長の間壁さんにも会って色々話してみたい。あんなつまらない件をいつまでも引きずりたくなかった。ハッピーエンド、現実も小説の中もそういう風になりたい。さおりの件などで落ち込む事は多かったが、今はそれをバネに頑張りたい。
小説を書いている内に時間はどんどん進んでいる。さすがに目がトロンとしてきた。携帯が鳴っているのが聞こえるが、出ようと思っている内に眠気が襲ってきた…。
十二月二十二日 水曜日…。
昨日は「とれいん」を書きながら寝てしまったようだ。確か携帯が鳴っていたような…。確認してみると、さおりからのメールが届いていた。
「とれいんの表紙見たけど、ダーク系なんだね。黄色いイメージがあるからビックリしました。中身、今度読ませてね。話がどういうものなのか全然分からないから興味があるの。早く完成させてね。病院は一人で行くから大丈夫だよ。一応、念の為に行くだけなんだから。気にしてくれてありがとう。明日、龍と逢いたいな。仕事終わったら連絡してね。」
日時を見ると、昨日の十二時十二分になっていた。寝ていて返事を返してないから、すぐ返さないと…。
「おはよう、昨日はさおりのメール届いた頃には寝ちゃってたよ。今日、逢うのは問題ないよ。だいたいこっちに帰るの十一時ぐらいになるかな。仕事終わった時点で連絡入れるよ。体に気をつけてな。俺もそろそろ新宿に行ってくるよ。」
ワードで書いた小説をメモリスティックに保存する。風呂に入り、着替えを手早く済ませるとメモリスティックをポケットに入れる。さてと今日も頑張るか。
ちょっと早い忘年会なのか、夕方になると新宿は陽気な人で街があふれかえっている。土曜日、仕事を休めるかオーナーに聞いたところ、案の定駄目だと言われてしまった。自分のやるべき仕事だけを済ませると、あとは「とれいん」の執筆作業に取り掛かる事にした。もうじきクリスマスだが、それさえも休ませてくれないだろう。仕事が終わって、さおりにメールを打ってから駅に向かった。
帰り掛けに本川越駅のコージコーナーに寄って、チーズケーキとチョコレートケーキを購入する。さおりはチーズケーキが大好きだった。クリスマス前に別として買っても、嫌がられる事はないだろう。改札を出ると駅のロータリーにさおりの車が停まって待っていた。思わず私は走った。
「ただいま、結構待った?」
「おかえりなさい、お疲れ様。そんな事ないよ。五分も待ってないから。それより早く乗ってよ。」
「ああ、ほれ。これ喰うか?」
車に乗り込み、ケーキの入った箱を手渡す。箱を見るなり、さおりの表情は嬉しそうに変化する。買って本当に良かったと思えるような笑顔だった。
「わー、ありがとう。嬉しい。あ、そうそう、これ龍…。」
さおりが手さげ袋を渡してくる。中を覗くと、いい匂いがしてくる。
「弁当作ってくれたのか?ありがとう。腹ペコペコだったんだ。」
「龍の部屋に行く?」
「そうだな。」
私の家に帰りスーツを脱いでいる間に、さおりは部屋を簡単に整理してくれた。私はパソコンを起動してメモリスティックを差し込む。小説「とれいん」を開いて、さおりに見せる。
「へー、初めて小説書いたんでしょ?すごいね。」
「どうなんだかね。実際書こうと思ってやってみただけだからね。」
「私、これ読んでるから、龍はお弁当食べてよ。」
「ああ…、おっ。おいしそうだねー。いただきまーす。」
さおりの作ってくれた料理はマーボ茄子、豚肉のしょうが焼き、卵焼きに唐揚げ。サラダに炊き込みご飯と豪華なものだった。一口食べてみる。
「うまい。」
思わず口に出てしまうほど、おいしかった。さおりは笑顔で私が弁当を食べる様子を見てくれている。以前も作ってくれてはいたが、今回は更に気合いの入ったものだった。
「今日、龍のとこ泊まってもいいかな?」
「全然構わないよ。でも明日は仕事だろ?」
「うん、だから朝七時ぐらいには出るようだけど。」
「分かった。目覚まし掛けとくよ。」
その夜、私たちは久しぶりにお互いを求め合い愛し合った。
十二月二十三日 木曜日…。
携帯が鳴っているのが聞こえる…。目を覚ますと、横でさおりが気持ち良さそうに私の腕枕で眠っていた。以前なら当たり前の光景が今はとても新鮮に、感動的に映る。
「おーい、もう六時半だぞ。起きろよ、さおり。」
「うーん…、おはよー。」
まだ眠たそうなさおり。私は唇を重ねる。
「目が覚めたか?」
「もっとしてくれなきゃ覚めない。」
ようやくいつもの彼女らしさが出てきたみたいだ。さおりが出掛ける準備をしている間、私は簡単な食事を作ってくる。
「おいしそー。」
「時間ないんだから早く喰っちゃえよ。」
「いただきまーす。」
朝食を食べ終え、七時になったのでさおりを家の玄関先まで見送る。
「それじゃあ、行ってくるね。」
「ああ、いってらっしゃい。」
「龍が寝ている間、とれいん読んだけど、すごい面白いよ。早く続きが読みたい。」
「へー、そっか。ならもっと頑張らないとな。」
笑顔でさおりを見送ると、布団に入って横になる。そういえば、十二日の日曜日から仕事を休んでいない。少し疲れを感じる。冬場になって布団の中に入ると気持ち良くてずっとこのままでいたくなる。昔は違った。寒い時期だろうが何だろうが、とにかくトレーニングに没頭した。全身から吹き出る汗でトレーニングウェアーを脱ぐと、両肩から湯気が出ていたぐらいだ。あの頃を懐かしく感じる。それに比べると今は随分と情けなくなったものだ。私は布団から出て、上半身裸になる。寒い…、とても寒い。その場でストレッチを始めだす。
すっかり固くなった体。以前は股割りでペタッと地面につけられたが、今はとんでもなかった。これが老いというものだろうか。周りからはまだ体格がいいと言われるが、自分自身が一番衰えを感じていた。もうあの頃には戻れないのだろうか。何がパソコンだ。どんなにパソコンの腕が上がろうが、私の心は全然満たされない。出来る事ならまたリングの上で戦いたい。だが現状を考えるとトレーニングする時間さえ、間々ならない。
色々考えている内に私は二度目の眠りについた。
夢を見た。若い時の自分が汗だくになってトレーニングしている。この場所は…、大和プロレスの道場だ。必死になってスクワットをしている。一体、何千回やったのだろう。
「はい、次はねー。腹筋行くよ。とりあえず百回。終わったら腕立てね。」
大和プロレスの看板レスラーであるヘラクレス大地さんが、私に言ってくる。私ははいと言いながら、回数をどんどん重ねる。肉体の疲労がピークになってくる。腹筋が終わると腕立て、腕立てが終わると今度はスクワットといった感じで、一切休憩する時間をくれないで延々とやっていた。
「僕が腕立てや腹筋の合間に、何で休憩をくれないのかって思ってるんでしょう?」
「ハァ、ハァ…、そ、そんな事…、ハァ、思って、ないです…。」
大地さんは人の良さそうな笑顔で微笑みながら、うれしそうに話し掛けてくる。
「ちゃんとね、僕は休憩時間をあげてるんだよ。今、腕立てをしてるけど現時点で腹筋とスクワットの時の筋肉が…、腹筋をしてる時は腕立てとスクワットの時の筋肉はちゃんと休んでいるんだよ。」
そんなの休憩時間なんて言いませんと突っ込みたかったが、そんな余裕すらなかった。何だか非常に懐かしく感じる。がむしゃらに続けている内に、次第に目の前が薄暗くなってきた…。
目を開けると、また別の懐かしい光景が目に入る。よくここで、ちゃんこ鍋を食べて体を大きくした。テーブルの席にはヘラクレス大地さんとコーチ役の峰信長さんが座っている。ボーっとしている私に先輩レスラーの夏川さんが促してくる。
「おい、今日おまえはお客さんだじゃら飯も最初に喰わせてやる。腹減ったろう?頑張ったんだからガンガン喰ってけよ。ほら、そこの空いてるとこ座れよ。」
「すいません。」
目の前にバカでかい鍋を始めとして、様々な料理が並んでいる。まるで走馬灯を見ているみたいだった。確かこの後、大河さんが…。
「いやー、いい汗掻いたー…。ちゃんこ鍋出来た?」
今、大河さんや夏川さんを筆頭に新たな「バルゴ」という団体を作った伊達さん。大河さんは現在そこのチャンピオンで、他団体からのレスラーの挑戦もねじ伏せ勝ってきたので、完全王者と呼ばれるようになっていた。その完全王者である大河さんの若い時代と、私は一緒に時間を共有出来たんだ。
「ほら、ボケッとしてないで、ガンガン喰えって。」
「はい…。」
夢なら覚めないでほしい…。
目を開けると、自分の部屋の天井が見える。やはり夢だったのか…。若きし頃の思い出が夢となって現れたのか。現実の世界に返っても懐かしいと感じた気持ちは消えなかった。大和プロレス時代の夢を見たというのは何かの啓示だろうか。いや、考え過ぎだろう。しばらくボーっとしていると、携帯が鳴る。会社からだった。
「はい、もしもし。どうしたんですか?」
「馬鹿野郎。何時だと思ってんだ。」
いきなりオーナーの怒鳴り声が聞こえてくる。時計を見ると、昼の一時半になっていた。通常、私は十二時に会社に出勤すればよかったのだが、どうみても完全に遅刻だ。
「すみません、寝坊しました。今すぐ向かいます。」
「まったくよー。何時ぐらいになんだ?」
「えー…、三時前ぐらいには…。」
「早くしろよ。」
「はい、すみません。」
やばいやばい…。電車の時刻表を見ると、一時五十八分の快速急行があるのを確認する。特急小江戸号の次に早い電車だった。これで行くのが、一番早い行き方だろう。急いで着替えをしてるところに、さおりからメールが届く。
「今日はありがとう。ケーキ買ってくれて嬉しかった。仕事終わったらケーキいただくね。でも、わざわざよかったのに…。さすがに昨日あんまり寝てないから、ちょっと眠いかな。龍もあんまり寝てないから仕事大変だろうけど頑張ってね。」
すぐに返事を返す余裕がなかったので後回しにする。本川越駅までダッシュで走り抜け改札を通り過ぎる。まばらに駅構内の中にいる人々が驚いて道を空けてくれる。あと発車まで一分を切った。周りの人たちには迷惑だが、全力で走った。
「ひっ…。」
真っ直ぐ直線な進路を突き進む私の目前に、一人の中年のサラリーマンが戸惑った顔で立ち塞がっていた。いや、逃げ遅れたというべきか。このまま行ったらぶつかる。相手は大怪我をするだろう。私は転ぶのを覚悟で体のバランスを変えた。あまりにもスピードが出ていた為、軸が崩れ体が言う事を利かなくなる。もはや制御不能だ。私の体はそのまま派手に転び、床を滑っていった。端のコージコーナーのウインドーガラスまで滑って、ようやく止まった。あちこちが痛い。周りを見ると、私をみんなが物珍しそうに見ていた。
「見世物じゃねーぞ。」
とりあえず威嚇して左足を引きずりながら、電車に向かった。時間にはギリギリだが、何とか間に合った。さっきの状況を思い出すと、恥ずかしかった。まあ起きてしまった事は仕方がない。
電車の中で椅子に腰掛けていても、左膝がズキズキしている。痛みを堪えて携帯を取り出し、さおりにメールを打つ。
「おはよー、今さっき起きて大遅刻です。会社に行ったらオーナーに大目玉だー…。」
どうでもいい内容のメール。しかし私たちの子供の犠牲があったからこそ、今こうして気軽にさおりともやり取り出来るようになった。実際に子供をおろしたという事実は、どうだったのだろう。現実的に考えたらあの時の状況では生まなかった方が良かったかもしれないという面もあったが、お互い…,特にさおりを傷つけたというマイナス面が多い。今のこの状況だったなら、きっとうまくやっていけたという思いもある。都合いい言い方だが、産んでもらえば良かった。そんな事はさおりに今更言えやしない。たらればの話をしても仕方がない事だが…。こういう思いはずっと私の中で付きまとうのだろう。
オーナーに遅刻の件でこってり絞られて今日の仕事が終わる。あまりにも言われたので言い返そうとは思ったが、自分自身のせいなので何も言わずに黙って堪えた。
「自分の立場ってもんに自覚はあんのか、神威?」
「はい、すみませんでした。以後気をつけます。」
「たるんでんじゃねーぞ。」
「はい。」
しつこい野郎だ。いつまで似たような台詞を吐けば気が済むんだ。内心ではボロクソにけなしながら我慢した。
そういえば明日はクリスマスイブか…。特にさおりとの予定をとってなかったが、多分あいつは逢いたいと言うに決まっている。今日の遅刻がなければ、明日仕事を休むぐらいは言えたが、さっきのオーナーの様子ではまた怒らせるだけなのが関の山だ。仕事が終わってから逢えばいいだろう。さおりからメールが届く。
「結構怒られちゃったかな?龍も疲れが溜まってるんだね。そんなに無理しないでよ。明日イブだけど龍の都合はどう?」
とりあえず溜まっている仕事は山ほどある。とっとと片付けないと…。オーナーの目が厳しく、メールを返す暇さえなかった。
ようやく仕事を終えて会社を出る。遅刻が響いてすっかり遅くなった。最終の小江戸号は、確か十一時半ぐらいだったな。時間的にはまだ十一時十分前だった。ただ今、行っても特急券はもう売り切れになってるだろうから、最終のやつで帰る事にしよう。明日のイブに備えて川越に着いたらスーパーで買い物をしておくか。たまにはさおりに料理を作ってあげよう。考え事をしている内に駅に着く。予想した通り、十一時ちょうどの小江戸号は満席になっている。私は三十八分の小江戸号の特急券を購入する。西武新宿駅の改札を通ると、駅長の間壁さんの姿が見えた。電車に乗るにはまだ四十分ほど余裕があったので、近付く事にした。
「先日はどうも。」
「あ、お世話様です。本当に先日はすみませんでした。」
「いえいえ、もう助役の朝比奈さんとは何の問題もないです。」
「そうですか。それは良かったです。」
「ただ、駅長の峰さんですけど…。」
「何かありましたか?」
私は間壁さんにあれ以来の峰の対応を一部始終話した。聞き終わると間壁さんは厳しい表情になっていた。
「そうですか。それは大変申し訳ございませんでした。」
「謝罪したいという事で謝るのは分ります。でもいちいち言い訳をしていたら謝罪にはならないと思うんですよ。」
「ええ、おっしゃる通りです。峰の件については私も謝りますので…。」
「間壁さんが謝る事はないですよ。実際、朝比奈さんとはもう普通に会話しているんですから。峰さん自身が理解しないと駄目なんですよ。」
「そうですね。しかし彼も非常に反省はしています。」
「でも峰さんは私から一度こっちに出向いて話しただけで、その時は冗談じゃないと帰ってます。それから何も連絡ないですし、それだけはそう言われても反省してるとは思えないんです。実際に間壁さんや福島さんに頭を下げられて、自分だって心苦しいですよ。多分間壁さんだっていい気持ちはしないと思います。それなのに何で張本人である峰さんはああなんだと言いたいだけなんです。」
厳しい言い方だったが、自分の気持ちを理解してほしかった。
「本当に申し訳なかったです。」
深々と頭を下げる間壁さん。
「もう間壁さん、そんなに謝らないで下さいよー。」
「いえいえ、大変失礼な真似をしてしまい…。」
「大丈夫ですって。間壁さんの顔も立てたいから、訴えるだとかギャーギャー騒ぐつもりは一切ありませんから。」
その言葉にホッとしたのか、間壁さんは安堵の表情を漏らす。
「ええ。」
「ただこのまま中途半端にさせるつもりはないんです。だから峰さんについては少しお灸を据える意味でも、ちょこっと言いますから。」
「どうか、お手柔らかにお願いします…。」
「大丈夫ですって。出来ればみんな笑顔で解決にもっていきたいですしね。」
「ありがとうございます。」
「あとこの件で小説も書き始めているんです。」
「え?」
また間壁さんの表情が一変する。無理もない。普通に受け取ったら中傷する内容だと誰でも思うだろう。
「それも問題ないですよ。別に西武の悪口を囲うと思ってやってる訳じゃないですから。読んだ人が良かったと思えるようなものを作ってますので、そんな心配そうな顔をしないで下さい。中傷記事を書くのとは違います。」
「そうなんですか。少しビックリしましたよ。」
「完成したら間壁さんにちゃんと持ってきますね。」
「それは楽しみですね。どんな感じになるのか想像がつかないです。」
「確かにあの小江戸号の一件をメインに持ってく訳ですから、非常に地味で他の人にはどうでもいい事かもしれません。それをどう面白く書けるか。しかも面白いだけでなく、人間としてのテーマを色々と入れていきたいです。」
私とさおりの間で出来た子供の為にも、この作品は残したかった。初めて書く小説だが、出来が良かったらあの子に捧げたい。
「とても楽しみにしてます。」
「それでは今日はもう帰りますので…。」
「気をつけてお帰り下さい。」
「失礼します。」
私が小江戸号に乗るまで間壁駅長は深々と頭を下げたままだった。あんなにいい人で親身になってくれる駅長が西武新宿駅にいる。西武新宿線をずっと利用してきて良かった。心の底からそう思えた。
そういえばすっかり返事を返すのを忘れていた。思い出して、すぐさおりにメールを打ち始める。
「仕事終わって電車に乗ったとこ。今日これから逢うか?来るなら何か料理でも作るよ。返事ちょうだい。」
電車が所沢駅に着く頃、さおりから返事が来た。
「もっと早く言ってよー。龍が逢おうって言ってくれるの、ずっと待ってたんだからね。もちろん今日は逢うに決まってるでしょ。連絡なかったから仕事が忙しいのかなと思っちゃったよ。早めに着替えて龍の家に向かいまーす。」
確かにもう少し早めに言っておけば良かった。私の気遣い不足だと反省した。本来なら明日でも良かったが、川越に帰る頃には日付も変わってイブになっている。ちょっとした気遣いで、さおりが喜んでくれるならそれで良かった。まだ子供をおろしてから何日も経ってないのだ。出来る限り、あいつには笑顔でいてほしかった。
「了解です。今日、遅刻で仕事いっぱい溜まっちゃってて、遅くなってしまったよ。ごめんな。俺は家で料理作ってるから適当な時間においで。」
十二月二十四日 金曜日 クリスマスイブ…。
小江戸号が本川越駅に到着する頃には、もうイブに突入していた。町並みもすっかりクリスマスモードで綺麗なイルミネーションがあちこちで飾ってある。見ていて少しだけ華やかな気分になる。
寒いし今日は暖かいものでも作ってあげよう。川越には幸い二十四時間営業のスーパー、マルエツがある。家に行く帰り道途中なので寄ってみる事にした。
店内はジングルベルの音楽が鳴っている。私はさおりに作ってあげたい料理の材料を買い物かごにどんどんぶち込む。クリスマスイブに鍋というのも違和感あるが、さおりは鍋が好きだから問題ないだろう。せっかくだから大和プロレス仕込みのちゃんこ鍋を作ってあげよう。作るのは久しぶりだったが、この腕がちゃんと覚えている。出来ればもう一度、大和プロレスのあのちゃんこ鍋を食べてみたかった。
家に着いて料理の準備をしていると、さおりからの電話があった。
「もしもし。」
「あ、龍。ごめんね。お風呂入って出掛ける準備してたら、今まで時間掛かっちゃった。これから家を出るから、あと二五分ぐらい掛かるけど大丈夫?」
「問題ないよ。気をつけておいで。今、料理しててさ、火を点けっぱなしだから悪いけど電話切るぞ。」
「うん、じゃあ、あとでね。」
「あいよ。」
ご飯は炊けたし、サラダも作ってある。鍋はもう少し煮込まないと駄目だから、時間的にもちょうどいい。鍋を煮込んでいる間、クリスマス用のチキンをオーブンで焼く。これはさおりとその家族用におみやげで持たせてやればいいだろう。その他にジャガイモの芽を取り、フライドポテトを油で揚げる。それが終わると鳥の唐揚げも揚げる。ついでに、サンドイッチも作った。このぐらいあれば、さおりの家族も喜んでくれるだろう。鍋やサラダを食卓に並べたところで携帯が鳴る。ちょうどタイミングがいい。さおりからだ。
「もしもし、着いたのか?」
「うん。」
「玄関まで迎えに行くよ。」
携帯を切り、急いで玄関まで向かう。ドアを開けると、さおりが待っていた。
「まあ、上がんなよ。外、寒かったろ?」
「寒いねー。」
「鍋作ってあるぞ。おまえ、好きだろ?」
「ほんとー。」
「ああ、しかも俺の大和時代のちゃんこ鍋を作ってみた。」
「嬉しー、楽しみ。」
居間に連れて行くと、さおりの表情が輝く。
「すごーい、これ龍がぜんぶ作ったんでしょ?」
「当たり前だろ。他に誰が作るんだよ。」
「そりゃそうか。えへへ…。」
昔はよく料理を作ったものだ。ここまでこだわって作る事はなかったが、さおりが見ただけでこうも喜んでくれるのなら、頑張った甲斐があるというものだ。
「もう見てたらお腹ペコペコ…。食べていい?」
「ああ、食べなよ。」
二人で食べるには量が多過ぎたが、非常に楽しい食事だ。ある程度、食べてから讃岐うどんを入れる。
「え、うどんまで入れるの?」
「結構いけるぜ。俺の作ったちゃんこ鍋用のたれ、あるだろ。」
「うん。」
「それがまたうどんにも合うんだよ。色々なもの入れてるから鍋の中は、いいだしが出てるしね。」
「そういえばそうだね。」
「ま、食べてみな。」
「うん。」
うどんを少しだけ口に含んで味見をするようにして食べるさおりの顔を私は覗き込んだ。
「おいしー。」
「だろ?」
「でももうお腹いっぱいだよ。苦しくなってきた。」
「無理して喰わなくてもいいよ。ちょっと待っててな。」
先程、用意しておいたおみやげ用のチキンやサンドイッチなどを持ってくる。
「ほれ。」
「え、どうしたの?」
「これは持って帰って家族みんなで食べなよ。」
「でも…。」
「別にいいじゃんよ。イブになったのに、ちゃんこ鍋だけじゃ味気ないしな。」
「龍の家で食べるんじゃ…。」
「うちはいいの。さおりが持って帰るの迷惑だというなら、仕方がないけどね。」
「ううん、そんな事ないよ。ありがとう。大変だったでしょ?」
「たまにはいいじゃんよ。」
そう言って出来る限り優しくさおりに微笑んだ。
「ありがとう。本当にありがとう。ねえ、龍、あのさー…。」
「何だ?」
「今日、泊まってってもいいかな?」
「ああ、構わないよ。」
少しはお互いが元の状態に戻ってきたなという実感が湧く。何故、今の状態を保てなかったのだろうか。私にはずっとその後悔が付きまとう。
「龍、どうしたの?」
「い、いや、何でもないよ。」
「何か考え事してたでしょ?」
「おまえが喜んでくれて良かったなと思っただけだ。」
「へへ…。あ、そうだ。忘れないように、龍の作ってくれた料理、車に置いて来るね。」
二人でさおりの車まで行く。外はとても寒かったが、これで雪でも降ったらロマンティックなんだけどと思った。
部屋に戻ると、軽くシャワーを浴びてくる。その間、さおりは部屋を掃除してくれた。シャワーから出ると、もう夜中の三時になるところだった。
「さおり、もう三時だよ。明日も仕事だろ?」
「うん。」
「もうそろそろ寝よう。」
「そうだね。」
さおりに腕枕をしてやる。疲れていたせいか、私はすぐ眠りに落ちた。
自分の入場テーマ曲である地球を護る者(challenge of the psionicsfighters)が、鳴り響く。眩い照明が照らすリングに向かい、私は花道を歩く。観客がブーイングを飛ばしてくるが私は通路で立ち止まり、あえて客を挑発する。会場は私に対するブーイング一色になる。非常に心地良い。思わず笑みが出てくる。出来る限りふてぶてしく、堂々とリングに向かう。会場中の観客の視線が、全部私に向いているのを思うとゾクゾクしてくる。
対戦相手はリング上から見下ろして、生意気な態度をとっていた。体中で会場内を意識していたが、全神経を対戦相手に切り替える。騒がしい歓声が何も聞こえなくなる。 ゆっくりとロープをくぐり、ようやくリングインすると、テーマ曲が消えた。レフリーに体をチェックさせる。反則行為などの説明を受け、ゴングが鳴り響く。
同時に相手が低姿勢で突っ込んできた。後ろにステップバックしてガッチリとタックルを受け止める。上から覆い被さり相手の自由を奪いにいく。下から懸命に足間接をとろうと足掻く対戦相手。まともに相手するのが面倒だった。
「悪く思うなよ。」
ニヤリと笑って右親指を突き立てる。そのまま真横から親指を相手の横っ腹に突き刺す。
「ギャー…。」
強くなりたい。そんな想いがこの技を編み出した。打突…。人間の体に穴を開ける最低最悪な技…。
相手は悶絶しながらリング上を転げまわる。横っ腹からあふれる血がマットを赤く汚していく。私は唇を軽く上に吊り上げて、いやらしい笑顔を作る。リングの上から周りを見回すと、場内はシーンと静まりかえる。その時、背後から強烈な打撃を喰らった。
「神威、貴様はまだ分からないのか?この馬鹿野郎が。」
マットに倒れたまま、振り返ると師匠であるヘラクレス大地さんが立っていた。
「だ…、大地さん…。」
師匠の目に涙が光っていた。
「誰がそんな事をしろと教えたんだ。人を破壊する為におまえは…、いや、人を殺す為におまえは試合をしてるのか?」
私には大地さんのような強さが無い…。あなたのように出来る事ならなりたかった。でも自分じゃ器が違い過ぎて、同じ事してたんじゃぜったいに無理なのも自覚した。正方向にやっても私は強くない。どんな形であっても、あなたに少しでもいいから並びたかった。あなたは誰もが認める完全なベビーフェイスだ。だったら私は完全なるヒールでいい。とことんリングの上なら絶対的な悪党になってやる。誰にも分かってもらえなくていい。観客がブーイングを送ってくれて、自分の存在価値があればそれでいい。
頭の中で考えている事をすべて大地さんに伝えたかったが、言葉として口から出てこない。何故、自分の主張が言えないんだ…。ずっと思ってやってきた事が…。
「いいか、格闘技、プロレスは殺し合いをするものではない。」
「……。」
「人を壊す為でもないんだ。」
「でも…、プロレスに対する今の世間の評価って知ってるんですか?」
「それがどうした?」
「どんどん軽く見られているじゃないですか?」
「だからあの技を使ったとでも言いたいのか?」
「そうです。でもそれだけじゃないです。他の格闘家連中が随分と偉そうな台詞をほざいているじゃないですか?俺たちは真剣勝負でやっていると…。」
「それで?」
「おまえらだけが真剣にやってんじゃねぇって言いたいんですよ。俺に言わせれば何が違うんだと言いたいんです。もしそれでも自分たちとプロレスがやってる事が違って言うなら、実際に戦って分からせてやるだけです。」
「どうやって?」
「おまえらが真剣勝負だと言うなら甘いと…。そう言いながら、関節決めて骨を折ったり筋を伸ばしたりしてるのか。試合で真剣、危険だというのを売り物にしているけど、いつ試合で相手を殺すまでやっているんだと…。実際にレスラーと他の格闘家が試合して大一番で負けてきたが、レスラー側はその団体で育てた日本人しか出せない。でもそっち側は外人を出してくる。日本人が出てきたとしても都合のいいルールを要求し、揉めてそのルールに近い状態で試合をする。やり方が汚いだけ…。そんなざまで偉そうに吹くなら俺がおまえら日本人とやってやる。自分はそうやって分からせてやりたいだけです。」
「偉くなったもんだな。」
「え?」
「随分と偉くなったもんだなと言ったんだ。いつからそんな偉そうな口が利けるようになったんだ?」
「……。」
「かかってこい。」
「い、いえ…。」
師匠である大地さんに手を上げるなんて、私には出来るわけない。
「老いた私を倒せないで、おまえに何が出来るんだ。」
分かってほしい…、打突は憎しみがある相手じゃないと出来ない打撃技である事を…。
「無理です。大地さんにはかないません。手も出せません。」
「以前おまえが言ってた打突とやらを使ってみたらどうだ?」
「あれは相手を壊す目的で繰り出すだけの打撃技です。大地さんにそれを打てる訳がない…。」
当時、レスラーとしては線の細い私が、そのハンデを補う為に編み出した技。でもこれを使用するという事は、ナイフで相手を刺すのと変わらない。戸惑う私に大地さんが迫ってくる。普段、あれだけ優しい表情の大地さんが今は鬼のような形相をしている。
「やってみろ。」
殺気を感じた。打突を打たないと、自分がやばい。そう思わせるような殺気を放っていた。右手が無意識に動き出す。
「大地さん…。」
恩師でもある大地さんに私は非人道的な技、打突を放ってしまった…。
「何だ、その程度か…。」
「え?」
大地さんの顔を見上げると、何事もなかったように立っている。馬鹿な、打突がまともに横っ腹へ決まったのに何故…。
「以前にちゃんと言ったはずだ。何をやられても壊れない体を作る。レスラーはまずそこからだと。」
強烈な打撃が私を襲う。一瞬で意識が切断された…。
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