家に帰り、小説を黙々と書いていると、携帯が鳴る。会社からだった。
「もしもし、どうかしたんですか?」
「神威よー、デジカメの件だけどさー。」
「はい。」
オーナーからの電話だった。一体、何の用だろうか。
「ちょっとこっちに出てきてくれないかな?」
その言葉に正直、愕然とした。昨日ちゃんと仕事を休む理由について、ちゃんと話したはずだ。恥も外聞も捨てて、正直に用件は伝えた。確かに今はさおりの手術も済んで、何も予定はない。だけど仕事をする気にはなれなかった。
「すみません。今日、女の件で休むと昨日言ったはずですが。」
「それは分かるけど、この間、撮ったデジカメの画像をパソコンに入れるのに繋ぐコードを持ってくるって、言ってじゃない?だからそれ持って来て欲しいんだよね。」
オーナーの台詞を聞いて、思わずムカッてくる。どうせ私が行かないと、パソコンを誰も扱えないのだから、何の意味もない事だ。
「申し訳ないですけど、その件については明日にしてもらえませんか?今日、どうしても必要なものではないと思いますが…。」
「それはそうだけど、明後日にみんなで打ち合わせするだろ?だから今、来てみんなに説明してほしいんだよ。」
「あのー、お言葉ですが…。今日、私は自分の子供をおろしてるんです。その件につきましては、明日、朝一で私が会社に行ってからやれば、すぐ済む話です。それじゃ駄目なんですか?」
オーナーに対して生意気な対応をしてるのは、百も承知だ。それでも今日ぐらいは、自分を見詰め直したかった。自分の子供をこの世から消してしまった。その事実を受け止めたかった。会社にとっては自分勝手な行動に思われるだろうが、昨日休むと筋は通している。重要な件でならまだ分かるが、どうでもいいくだらない事で呼ばれるのは、イライラしてくる。
「おまえが来ないと話しにならないだろ?パソコン扱えるの、おまえしかいないんだから。とりあえず今日、出て来い。大変なのは分かるけど、夕方出てきて二、三時間の間だけでもパソコンいじって、今日は帰りますなら誰も文句言わないだろう。」
そんなのはただのエゴだ。何の理にもなっていない。しかし私はあくまでも雇われの立場だ。どんなに頭にきても我慢しなければならない。この会社を辞めるしか逆らう手立ては残されていない。それにこの状態でそんな薄情な事を言うなら、別に納得などしてもらわなくてもいい。
「でも、今日は本当にそれどころじゃないんですよ。」
「それじゃみんな納得しないから、出てくるだけ出て来い。」
こんな奴の下で働くのを辞めてやろうかと思った。何故、たいした用件でもないのに、わざわざ新宿まで行かないといけないんだ。
「お言葉ですが…。」
もう辞めると言い掛けて、慌てて思い留まった。今、私が中心で動いているホームページ作成の仕事。今、辞めたら誰が代わりを出来るというのだろうか。気に食わないから、それから逃げると周りから非難されるだけだ。少なくとも今の自分自身が手掛けている仕事はやり遂げないと、辞める訳にはいかない。
「分かりました。ただ、今すぐという訳にはいきません。」
「それは別に構わない。何時ぐらいに来れそうだ?」
「夕方…、そうですね。六時ぐらいには行きます。」
「分かった。」
携帯を切って、布団に寝そべる。早いとこ、ホームページを完成させないと…。全てにおいて、無茶苦茶な要求が多過ぎる。それに短期間で色々な事が起き過ぎた。まず西武新宿の件、子供をおろした事、さおりとの別れ、そして度重なる会社の理不尽な要求。
疲れた…。体や神経が疲れを訴えていた。まだ三時。五時ぐらいの小江戸号に乗れれば、仕事の方は問題はない。私はさおりの事を考えた。今、あれからどうしているだろう。もう私たちの関係は終わったのだ。それでも気にはなる。素直な気持ちをメールで打って彼女に送ろう。私は携帯を手に取り、メールを打ち出した。
「さおり、今まで本当にありがとう。時間にしたら短い期間だったかもしれないが、愛し合いし過ぎたぐらい俺とおまえはお互いを求め合ったと思う。お互いの誕生日だって祝えたし、旅行だって行けた。俺には本当に新鮮で面白かったよ。初めておまえがサンドイッチ作ってくれた時は感動したよ。さおりの事、とても大事に想っているし、今でもそれは変わらない。だから今日みたいな事になって本当に残念だ。傷つけ、そこまで追い込んだ俺が悪かった。お互いの関係は終わったけれど、今日の事を戒めに頑張って生きていきたい。もし、おまえが誰か今後、素敵な人と巡り会ってその人との子供を産んだとしての話だけど、将来成長してその子が大きくなった時、あの人と私は付き合ってた事あるんだよって誇りに思えるような人間になりたい。さおりに対しては間違った愛し方だったかもしれない。だけど俺でも人を愛する事が出来たんだなと、初めて思わせてくれた。本当にありがとうと感謝している。ずっと何年も一緒にいた感じがしたよ。嫌な思いさせてごめんね。今日みたいな事させてすまなかった。困ったらいつでもいいから俺に言ってきな。俺は傍にはいないけど、そんな時があったら素直に頼ってくれ。俺は頑張って生きる。さおりも頑張って生きてくれ。今日亡くなった子の事は、ずっと心に刻み込むよ。俺から最後の言葉だ。本当にさおりが大好きだったよ。今までありがとう。」
送信する前に何度も打ったメールを読み直した。読んでいて涙が出てくる。申し訳ないという思いでいっぱいにだ。時計を見ると、四時半を過ぎていた。そろそろ仕事で新宿に向かわないといけない。目一杯気持ちを込めて、私はメールを送信した。
新宿へ着くと、年末も近付いたせいか、人の数がいつもより多い。人ごみを掻き分けて会社に向かう。もうとっくに涙は乾いていた。これからは自分一人の戦いだ。西武新宿の件も仕事の件も簡単に片付けてやる。みんなが幸せな形に出来る限りなれるように…。
「すいません、仕事の件でみんなを困らせて申し訳なかったです。」
会社に着くなり、低姿勢で頭を下げた。もうイザコザは沢山だ。
「まあいい。このデジカメの撮ったのをパソコンで見るにはどうしりゃいいんだ?」
「このUSBケーブルをパソコンに繋げて、こちらの部分をカメラに繋げて下さい。カメラの電源を入れます。これでパソコンはデジカメを認識しました。今、中の撮った画像をパソコンに送ります。これは枚数があるほど、時間が掛かりますので、その辺は予め了承して下さい。」
時間にして一分半、全ての作業が処理出来た。パソコンの中にコピーされた画像をみんなの前で見せる。こんなどうでもいい事でわざわざ呼び出しやがって…。
「おお…。」
「これ写真に出来るのか?」
「もちろんプリンターも高性能の物を買ってますので、その白紙の光沢写真用紙を使えばきれいに出来ます。」
「便利な世の中になったなー…。」
こんなパソコン初心者でも出来るような事で呼び出されるとは…。
「この風景をうまくいじったりは?」
「もちろん可能です。例えば、プロのデザイナーがよく使ってるこのアプリケーションソフトを起動させましょう。」
「何だ?アップリケって?」
「簡単に言えば、この写真を加工したり色々出来る便利なものの事です。」
「加工?」
「だから写真をさっき言われたようにいじったりする事です。」
「ふーん…。」
こんな感じで私は四時間半ほど、説明をしながら次々と作業をこなしていった。時計の針は十一時近くになっている。その時、携帯が鳴った。聞き覚えのある着信メロディ…。さおりからの着信だった。一体どうしたのだろう。何かあったのか。
「おい、神威。この写真をこうやって、こんな感じに出来るか?」
「すいません、ちょっといいですか。」
私はみんなの前から離れて、さおりからの電話を出た。
「……。」
「さおり、どうした?どうしたんだ?」
「あのね…。……。やっぱりいい…。ごめんね…。」
「いいって事あるかよ。何か言いたい事があったから電話したんだろ?」
「……。」
電話の向こうでさおりは鳴き声を押し殺している。
「何でもいいから言ってみな。な?」
「やっぱり…、いいの…。何でもない。だ、大丈夫…。ごめんね。」
「泣いてんじゃないかよ。大丈夫な訳ないだろ?何でもない事でもいいから言いなよ。」
「……。」
「さおり、黙ってちゃ分からないよ。言い辛くても言ってみな。」
「……。」
「じゃあ、何でわざわざ電話を俺にしてきて泣いてんの?」
「あ…、あのね…。」
「うん、何だい?」
「きょ、今日は自分の部屋に行たくないの…。」
「俺にどうしろって言うんだい?」
「今日…。……。逢ってくれないかな…。」
「ああ、分かった。ただ、今、仕事で新宿にいるんだ。すぐ帰るからそれまで大丈夫かい?ほら、そんなに泣かないで…、な?」
「うん。」
「川越に着く頃になったら連絡するから。」
「分かった。待ってるね。」
「さおり、体の方は大丈夫かい?」
「うん、大丈夫。」
「じゃあ、今もうじき十一時だから多分、十二時ぐらいまでには着きそうだ。」
「うん。」
携帯を切ると、オーナーの下へ行き、帰らせてもらうと、ハッキリと自分の意思を伝えた。今度はさすがに文句を言う者は誰一人としていなかった。今日、わざわざ呼び出されて来たのに、結局どうでもいい事ばかりだった。帰り支度をしているとオーナーが声を掛けてきた。
「あんまり気を落とすなよ。俺なんか今までで、四人も子供をおろしてんだぞ。」
「……。すいません、急いでるので失礼します。」
素っ気なく挨拶をして駅に向かう。もう私がこの会社で働くのも長くはないなと感じた。あなたと私とでは感覚が違い過ぎると言ってやりたかった。頭がおかしいんじゃないかと思った。自慢でもしてるつもりなのか。よくもそんな台詞を吐けたものだ。私は子供をおろすなんて、あのような思いは二度と味わいたくない。よく四回もおろせただなんて平気で言えたものだ。オーナーのおろすと、私のおろすのとは、明らかに種類の違うものなんだろう。社会的地位、金銭ではオーナーの方が私より遥かに上だ。しかし、私の方が人間として遥かに上をいっている。
どうでもいい事を考えながら、西武新宿駅に着く。改札を抜けて、小江戸号の特急券を購入すると、特急車内清掃待ちの乗客が列を作って並んでいる。私も列の最後尾に並び、小江戸号の清掃が終わるのを待つ。駅員が特急券の確認目的の為の捺印を前から押しながら近付いてくる。どこかで見たような…。そうだ、この間の駅長の峰だ。私はずっと峰の顔を睨みつけた。しかし峰は素知らぬ表情で私の切符に捺印して、さりげなく素通りして過ぎ去った。後ろを振り返り、峰を睨みつけても完全に私を無視しているようだった。さっきのオーナーの件といい、今の峰の態度といい腹が立つ事ばかりだ。
列の先頭が動き出す。清掃が終わり、電車のドアが開いたようだ。私も列の進む速度に合わせて歩き入り口まで行くと、若い駅員が立っていたので声を掛ける。
「おい、今日の駅長って誰よ?」
「は?」
「今日の駅長は?」
「は、はい。本日は峰駅長です。」
「そいつに言っとけ。告訴されねーと、分からねーのかって。」
「は、はい…。」
半分八つ当たりだが、向こうの出方がああだから、このぐらい言っても罰は当たらないだろう。若い駅員には気の毒だったが、少しだけ気分がスッとした。
十二月十九日 日曜日…。
本川越駅に着いて改札を出る。時刻は十二時を回り、日付が変わっていた。携帯を掛けようとすると、さおりの車がロータリーに停まっていた。私は駆け足で近付く。
「ごめんな、遅くなって…。」
ドアを開けながら車の中に入ると、思わず言葉が止まってしまった。さおりのうつむいた横顔を見た瞬間だった。今日の手術後の時よりも、更に酷くやつれていた。
「さおり、大丈夫か?」
「うん…。」
「でも、すごい疲れきった顔してるぞ。体調は大丈夫?痛くないの?」
「うん、大丈夫。」
「そうか、でも本当に無理はしないでくれよ。」
「大丈夫だよ。ただね…、今日だけは家にいたくなかったの。親が私を心配するのは当たり前でしょ?でもそんな状態で家にいたとしても、どんどん悪い方向にいくような気がして…。」
私は男で彼女の苦悩は理解出来ないが、その気持ちは分かるような気がした。
「ああ、分かったよ。でもどうすんだ、これから?お腹は減ってないか?」
出来る限りゆっくり優しく話した。
「うん、平気。大丈夫。」
「じゃあ、俺の部屋に来るか?」
「きょ、今日は誰もいないところの方がいいな…。」
「ああ、分かったよ。その辺のホテルでいいか?」
「うん…。」
静かに車を発進させて、近くのホテルに向かう。ホテルに着くまでの間、お互い無言だった。さおりの横顔を見ていると、何も言葉が思い浮かばなかった。
「ここは私に出させて。」
「何、言ってんだよ。」
「お願いだから…、ね?」
「うーん、分かったよ。」
彼女の気持ちを素直に受け入れる。ホテルの部屋に入り、コートと上着を掛け、椅子に座る。煙草を吸おうとして慌てて火を消した。さおりが妊娠中だった時、つわりのせいか煙草の煙でよく気持ち悪そうにしていたのを思い出したからだ。
「もう煙草、大丈夫だよ。気にしないで吸って。」
さり気ないさおりの気遣いが心に突き刺さる。煙草を気にしないで吸っても大丈夫なようにさせたのが、私のせいなのだ。その為に失い、傷ついたものが多過ぎる。
「辛い思いさせちゃって本当にごめんな。体、異常はないか?」
「うん…。」
「無理しないで休みなよ。ベッドに横になったら?」
さおりをベッドに寝かせて、私は再び椅子に腰掛けた。一時間ほど昨日の出来事を振り返ってみた。いくら後悔しても二度と戻る事は出来ない悲しみ。犠牲になったものが、多過ぎた。もう彼女は寝たかなと思い、ベッドの方を振り返る。
「お願いがあるの…。」
振り向いた瞬間、さおりと目が合い、いきなり声を掛けられたのでビックリした。まさかまだ起きていたとは…。
「な、何だ?」
「腕枕してくれる?」
「そんな事ならもっと早く言えばいいのに…。」
私もベッドに入り、右腕をさおりの方にゆっくり伸ばす。少し前なら当たり前の光景が、今では遥か昔の事のように感じる。そっと右腕に頭を乗せる彼女を私は優しく抱き締めた。
「辛かったろ?大変だったろ?我慢しないで、思いっきり泣いたっていいんだぞ。」
「……。うっ…。」
声を殺しながら私にしがみついて泣くさおりの姿を見て、私も涙が出てきた。懸命に涙を堪えようとしても、我慢出来なかった。
二人で抱き合って思い切り泣いた。どのぐらい泣いただろう。私はさおりの顔を見てゆっくり話した。
「俺もおまえも今日失った命…、いや、子供をずっと想いながら生きよう…。こんな辛いなら、強引にでも止めれば良かったよ。都合いい言い方かもしれないけどね。」
「私…、手術の前になっても…、受付の時でも…、泣いてでもいいから止めればよかった。なんでこんな事になっちゃったんだろって…。」
自然と抱き締めている腕に力が入る。
「最後に言ったろ?俺…、本当にいいのかって。」
「……。もうね…、遅かったんだ…。」
「何で?」
「前日、龍に電話したでしょ?」
「ああ。」
「あれから子宮口を広げる処置をしに行ったの…。二日間に渡って手術を行うようなもんなの。病院によって一日のところもあるみたいだけどね。だから龍にこれから病院に行きますって電話したでしょ?」
いくら妊娠の事に知識が無かったとはいえ、馬鹿な台詞を言ってしまったものだ。あの時のはにかみ笑いをしたように見えたのは、そのせいだったのかもしれない。
「もう、すでに手遅れだったんだ…。ごめんな。」
「ううん、しょうがないよ。きっとお互いに余裕がなかったんだし、おろした子には可哀想だけど、これで良かったんだと思うよ。」
「……。」
何て答えていいか分からず、何も言葉が見つからなかった。
「そんなに落ち込まないで…。」
「だって…。」
「いつもの龍らしくないよ。」
「あ、当たり前だろ…。」
「もう…、元気出してよ。」
あれだけ辛い思いをしたのに私を気遣ってくれるさおり。何を自分自身、落ち込んでいるんだ…。今は自分の事よりさおりを元気づけないといけないのに…。
「ごめんな。俺、どうかしてた…。」
「しょうがないよ。」
「俺だけはそれで済ませちゃいけないんだ。」
「へへっ。」
「何だよ?」
「ようやくいつもの龍らしくなってきたなって思って。」
気がつけば朝の五時半まで、私とさおりは延々と話をしていた。お互い今日の仕事は辛い状態で迎えなくてはいけない。それでも会話は止まらなかった。
「何でもっとこういうふうに話、出来なかったんだろうね。」
「そうだな。」
「電車の件はどうなったの?私、あれから何も聞いてなかったし…。」
「ああ、小江戸号の件か…。」
この話をすると、とても長くなるが、私は西武新宿駅での出来事を細かく話した。
「結局、そのメガネの女の人が一番悪いんじゃないの?」
「そうだな。でも、その場の駅員の対処も悪いし、謝罪するのも遅過ぎる。俺は別に金銭を要求してる訳じゃない。反省しているのなら、ちゃんと謝れって言いたいだけなんだ。おろしてしまった子供に対して、俺がちゃんと正々堂々と生きないと申し訳ない。どこかで俺を見ていてくれって思っている。恥かしい生き方は出来ない。俺は俺らしく生きる。それがせめてもの供養だと思っている。」
「うん…。」
「実は今、小説を書いているんだ。」
「小説?」
「ああ、さおりが手術終わった時、俺、パソコン開いてただろ?あの時も小説を書いてたんだ。今話した西武新宿の事がメインになっているけどね。ただ中傷的な内容じゃなく、出来ればみんな笑顔で終われるようなエンディングにしたい。その為にも今、揉めている駅長の峰はちゃんとけじめをつけさせなければいけない。もうじき今年も終わる。みんな、笑って年を越したいじゃん。」
「うん、そうだね。」
そう言ってさおりは最高の笑顔を私に見せてくれた。
ほとんど寝ずに彼女と別れ、仕事へ向かう。本川越駅まで送ってもらい、小江戸号の特急券を買いに行く。別れ際に言われたさおりの言葉が頭の中で蘇る。
「今日逢ってくれて本当にありがとう。私を見捨てずに付き合ってくれてありがとう。また逢おうね。」
逢った時はやつれ酷い表情をしていたが、別れる時は笑顔になっていた。その変化が分かっただけでも良かったと感じる。
「すいません。十一時三十分の小江戸、喫煙で。」
駅員に口頭で伝えながら財布を取り出す。何か違和感を感じる。
「四百十円になります。」
「あ、はい。」
とりあえず金額を払って切符を受け取り、改札口を通る。小江戸号に乗り込んでから、早速メールを彼女に打つ。
「頑張れよ。もっと早く今日みたいな素直さだしてたら、お互いいい方向に転んでたと思うぞ。でも顔つきが昨日今日で全然違って良くなってたから安心したよ。俺も色々話せてスッキリ出来たしね。本当にさおりは俺無しじゃ、駄目な奴だ。眠いだろうけど仕事あまり無理するなよ。体、ゆっくり休めて大事にな。」
メールを送ってから、先程の違和感を思い出す。再度、財布の中身を確認してみる。私は面倒臭がりやで、いつもいくらあるかキッチリ見ている訳ではないが、どう考えても三万円ほど中身が多い。中の札を数えてみる。十二万と七千円…。どう考えてもおかしい。十万以上は無かったはずだ。あいつが入れた以外、思いつかない。メールでさおりに確認してみる事にした。
「さおり、俺の財布に三万ぐらい入れただろ?十万以上は入ってなかったはずなんだ。こんな事されても困るよ…。」
何でこんな真似を…。窓の外の景色を見ながら今朝の様子を思い出す。
朝、目が覚めた時は十時半過ぎだった。さおりの姿は横にいないので、焦って飛び起きたらシャワーを浴びていた。ホッとしたものの、会社の出勤時間遅刻だろと訪ねると、彼女は半日だけ、代休使ったから大丈夫と言っていた。そのまま私はコーヒーを入れて、少し話してくるまで駅まで送ってもらった。どう考えても私が寝ている間にさおりが財布にお金を入れたに違いない。それにしても何であいつは何故…。
その時、携帯に明かりが点き、Eメール受信中になった。
「ばれた?確かにお財布に三万入れました。龍に直接言ったら龍は絶対に受け取らないでしょ?私、龍がいつもだしてくれてる分、私の財布分で今後の資金にとっておこうと、へそくってたの。入居費用に家電だって家具だって買い足すはずだったし…。その中から昨日の費用も出したし…。だから龍が困る事なんてないのよ。ただ私の貯金計画も六月頃まで見越しての皮算用だったから微々たるものなんだけどね。だからそれは当たり前に受け取って。お願いだから…、ね?」
隣に乗客が座っていなかったら、泣いていたところだった。あいつ…、こんな事、思っていたならもっと早く言ってくれればいいのに…。そうすれば、子供をおろせだなんて…。本当に大馬鹿野郎だ。そんな事に気付きもしない私は、更に大馬鹿野郎だ。
「あぶなく人混みの中で泣きそうになっただろ。もっと早く言えば良かったんだよ…。おまえは何でそうなんだよ?俺はさおりを妊婦だというのに、気も使わないで俺たちの子供をおろさせて、散々ボロボロに傷つけた最低野郎なんだぞ。金の事じゃないぞ。そういう優しい気持ちを持っていたなら、あの時出して欲しかった。自分が情けないよ…。」
メールを打っていると、画面が曇ってよく見えなくなる。目に涙が滲んでしまい、周りに悟られないようにするのが精一杯だった。さおりに対して、自分のした行動の愚かさを呪う。スッキリしたつもりが、全然スッキリしてなかったのだ。更にメールを打ち続ける。
「もっと俺を罵ってくれればいいのに…。その方が楽だよ。俺は許されちゃいけない事をおまえにした最低な男だぞ。こんな周りまで巻き込んで、俺をこんな気持ちにさせて、どうしたいんだよ?さおりをスッキリさせられたと思ってたのに、俺の潜在的な…、悲しみの部分が一気に大きくなって…。まだ…、全然さおりの事、大好きなんだって気付いた。その気持ちに気付くと、さおりにしてしまった事に対して自分自身呪ってしまうよ。馬鹿なのは俺だけだったんじゃないかよ。俺は生きる価値もない…。」
メールを送信すると、小江戸号は西武新宿に到着する。これじゃ今日は仕事する気分じゃない。でも現実からは逃げられないんだ。自分自身を見詰め直して情けないのが、よく分かった。自信持って生きてきた分、ショックが大きかった。それでも私は前に出て、頑張っていかなければいけない。自分だけじゃないのだ。亡くした我が子の分も、さおりの分もすべて背負って生きなくては…。それが私の宿命だ。
誰かが言っていた言葉、女は偉大である。今はそれがよく分かるような気がする。
仕事を終えて、帰りの小江戸号に乗ろうと駅に向かう。さおりからの返事はまだなかった。改札を通り特急券を買おうとすると、喫煙席がすべて売り切れになっていた。私の後ろに列が沢山出来ているので、仕方無しに禁煙席のボタンを押す。
「先日はどうも。」
背後から声を掛けられたので振り向くと、助役の朝比奈が笑顔で立っていた。彼に対してはもう何も文句はなかったので、私も笑顔で応対した。あとは駅長の峰がちゃんと謝れば済む事なのだ。
「寒いですねー。」
「そうですね。」
「お仕事帰りですか?」
「ええ、年末だから忙しいですよ。」
他愛もない世間話をしてから小江戸号に乗り込む。電車が所沢駅を通り過ぎる辺りで、さおりからメールが届いた。
「何、言ってるの。昨日、私がわがまま言って逢いたいって言ったら、見捨てずに一緒に居てくれたじゃない…。私、一緒に居てくれた事、感謝してるんだから。生きる価値が無いなんて、情けない事言わないの。龍一人が悪い訳じゃないでしょ。お互いが話し合いで決めた事なんだから…。元気出しなさい。」
さおりからの激励のメールを読んで、いかに自分が甘えていたか自覚した。彼女とは今後どうしていくとかなどの話し合いは何もしていないが、こんな状態になっても心の絆は切れてなかったのだ。あんな酷い目に合わせといて、さおりは何故、私に優しくしてくれるんだ。そう考えると余計、心が痛んだ。周りに乗客がいるのに涙が滲む。ここで泣く訳にはいかない。
涙を堪えながら、さおりのメールを何度読み返しただろう。気がつけば、小江戸号は本川越に到着していた。
家まで道程を一人寂しく歩く。遠くにさざん子ラーメンの看板の明かりが見える。昔はさざん子ラーメンによく行ったものだ。頑固一徹なマスターは元気だろうか。久しぶりに小腹も減ったし、寄ってみるか。私はさおりにメールを打った。
「ありがとう。さおりの言葉が身に沁みたよ。俺、もっと頑張るよ。情けない姿というか台詞を吐いちゃったな…。まずは腹減ったから、久しぶりにさざん子ラーメンに寄って、ガーリック丼を喰って来るよ。とりあえず、それ喰って元気になるぜ。」
メールを送信してから、さざん子ラーメンのドアを開ける。マスターがこちらをジロリと見てくる。全然変わってない。少しホッとした。
「おう、誰かと思えば神威さんじゃないの。久しぶりだねー。相変わらずいい男っぷりだ。以前ここに連れて来た彼女は元気かい?」
「お久しぶりです。あいつなら元気ですよ。しばらく顔も出せなくてすいませんでした。仕事がほんと忙しかったんです。滅茶苦茶ガーリック丼食べたくなって寄っちゃいました。あと餃子ももらえますか?」
「あいよー。でも神威さんも前に比べたら随分と少食になったねー。」
「もう現役じゃないですからね。」
「うーん…、体も小さくなったもんなー。」
「当たり前ですよ。何年前の話をしてんですか。」
マスターとの会話に隣の客が聞き耳を立てている。
「お兄さん、前に何かやってたの?」
興味津々といった感じで私に聞いてくる。
「大した事ないですよ。ちょこっとだけ格闘技をかじっただけです。」
「へー、何やってたの?」
「言えるような事してないですから。」
自分自身の格闘技の歴史など、偉そうに言える訳ない。右拳の親指をつき立てて、しばらく眺める。強くなるという事は敷き詰めると、人間をいかに壊せるかという事だ。格闘技というものは、観客がいて興行という形で初めて成り立つもの。もし観客など関係ないという格闘家がいたとしたら、それはアマチュアだ。それが弱いというつもりではなく、ただ金を稼げないからプロではないという事だ。格闘技で試合して、それで喰っていかないとアマチュア扱いになる。ただ強いだけでも人気が無ければ客は呼べない。強さのみを追求していると、試合ではなく、ただの殺人ショーになるだけだ。もちろんそんなものはテレビじゃ放送出来ない。リアルなファイトをすればするだけ、矛盾と葛藤が付きまとうようになっている。少なくとも私はそう思っている。この右の親指がそれを教えてくれたような気がする…。打突…、人間にしようしてはいけない殺人技…。
「へい、神威さん、ガーリック丼お待ち。」
考え事をしてる間に、ガーリック丼が出来てきた。
「あ、すいません。」
「それと餃子もね。」
「はい。」
これを食べるのは何年ぶりだろうか。相変わらず味は変わってなく、抜群に旨かった。ガーリック丼を食べていると、あの頃を思い出す。がむしゃらにトレーニングを繰り返し強靭な肉体を作り上げていた頃を…。もう、私は三十三歳なった。あれから約十二年の時が過ぎた。それでも私は師匠だった大地さんに対して、何の恩返しも出来ていない。
「ほれ神威さん、これも喰いな。」
マスターがつけ麺をサービスで出してくる。
「マスター、もうそんなに食べられないですよ。」
苦笑しながら言うと、マスターは更にご飯をどんぶりによそって、海苔を三枚上に乗せている。まさか、これもサービスだから喰えと言うのでは…。
「そんな事、言わないでこれも喰いな。」
「わ、分かりました。すいません…。」
マスターの迫力に押され、ついご飯まで受け取ってしまう。これじゃ三人前分の量はあるだろう。しかし全部食べないと、マスターの気持ちに対して申し訳ない。私は集中して一気に食べた。苦しい…、胃袋が悲鳴を上げていた。
「相変わらずいい喰いっぷりだ。綺麗に食べたねー。」
「ご馳走様です。おいしかったです。」
バイブにしてあった携帯が震えている。見てみると、さおりからのメールが届いていた。
「おいしいもの沢山食べて元気出して。それから今日は早く寝てね。」
何故、私はさおりにあんな酷い台詞や行動をしてしまったんだろう。二人の間は子供をおろした時点で終わったと思っていたが、これじゃさおりの事を忘れられない。
「おう神威さん。どうしたい、元気ねーなー。」
「いや、そんな事はないですよ。マスターご馳走様です。おいくらになりますか?」
これ以上、くよくよしてられない。もっと前向きに行かないと…。
家に帰ると、早速さおりに電話を掛ける。無性にさおりの声が聞きたかった。
「ただいま、今、帰ってきた。」
「おかえり。」
「体は大丈夫なのか?」
「さおり、あんな事されちゃ困るよ。」
「あんな事って?」
「俺の財布に三万入れた事。」
「別にいいじゃない。全然おかしくないでしょ?」
「だって手術代だっておまえが全部出してるじゃないかよ。昨日のホテル代も…。」
「何言ってんの。今までほとんどのデート代からすべて龍が出してきたでしょ。私に全然使わせてくれなかったじゃない。だから先の事考えてちゃんと貯めてたの。だから気にする必要なんて何もないのよ。」
「そうは言ってもさー…。」
泣いちゃいけない。分かってはいるが、自然と涙が出てくる。
「も、もっと…,早く…、い、言ってくれ…、れば…。」
「なーに?」
「もっと早く言ってくれれば…、俺は…、俺は…。」
「どうしたの?」
全部私の一人よがりで、さおりをこうまでさせてしまった。いくら反省しても後悔しても、けして戻ってはこない。
「こんなんじゃ、俺はおまえに会わす顔がない…。」
「何言ってんのよ。そんな事ないよ。」
「俺は…、もうおまえに会えない…。」
「何でそうなっちゃうの?」
「自分が馬鹿で…、いや、大馬鹿だという事に気付いたから…。」
「龍も疲れてんだよ。とりあえず今日は早く寝て、ね?」
「う、うん…。」
「龍には感謝してるって言ったでしょ?そんなに自分を責めないで。」
「そうはいかない。だって俺は…。」
「いつまでも過ぎた事を言わないの。分かった?」
「……。」
「返事は?」
「うん…。悪かったよ。今日はさおりの言う通り早く寝るよ。」
「そうだね。今日は早く寝て休んで。」
「ああ、ごめんな。さおりは明日も仕事なのかい?」
「ううん。私、明日は休みだから、家でゆっくりしてるね。」
「うん。」
「じゃーね。」
「ああ、おやすみ。」
「うん、おやすみなさい。」
携帯を切り、布団に寝転がる。今日はとてもじゃないが、「とれいん」の続きは書けそうもない。さおりに言われた通り、ゆっくり休もう。
十二月二十日 月曜日…。
目を覚ますと、朝の十時だった。久しぶりにゆっくり寝られた。さおりに気遣いと優しさに感動し、胸が詰まってしまった昨日の夜。情けない限りだ。私は自分の子を宿した彼女を守れず傷つけ、感謝している師匠に対してすら何の恩返しも出来ていない。すべてに対して中途半端だ。このままじゃいけない。最近の自分自身を振り返るとくだらない自己満足に陥っていた。いつからこんな腑抜けになったんだ。今、出来る事。それはさおりを大事に思うなら、大事にしてやらないと…。
難しく考えるな。シンプルに生きよう。シンプルな事すら出来ないでどうするんだ。一番辛い思いをしたのは、さおりなんだ。私が彼女を癒さないで、反対に癒されてどうする。さおりに今の正直な気持ちをメールで表そう。
「昨日はごめんな。俺、色々考えたけど、さおりに償わないといけない。さおりが俺と逢いたいなら逢おう。逢ってさおりがまた逢いたいって言ったら、また逢おう。もしさおりが気持ちの整理がスッキリついて、逢わなくても大丈夫だと割り切れたなら、俺はおまえに逢いたくても我慢して、笑顔でありがとうと言いたい。だからさおりはもっと自分の気持ちを素直に出してくれ。今の俺の考えです。」
送信してから急いで仕事へ行く仕度をする。十時半の特急に間に合わないと遅刻だ。時計を見ると十時二十分。やばい、急げ…。
本川越駅までダッシュで走り、小江戸号の切符を購入する。家から五百メートルぐらいの距離を走ったぐらいで息切れがするなんて、私も体がなまったものだ。指定席に座り、息を整える。さおりはまだ家でゆっくり休んでいるだろうか。さおりに逢って抱きしめたいという感情が今にも爆発しそうだった。
西武新宿駅に到着して会社まで歩いている時に、さおりからのメールが届く。
「おはよう。償うとか償わないとか、そういうのじゃなくて…。そうしたらまた改めて始めてみようよ。逢いたいっていう気持ちから…。焦らないでお互いが、自分たちがどうしたいのか一緒に考えてみようよ。今、私…、やっぱりすごく龍に逢いたいと思ってるよ。とりあえず今日も頑張ってお仕事行ってきて。いってらっしゃい。」
読んでいて全身に力がみなぎるのを感じる。社会人に成りたての頃から知り合い、今までの間に色々な事はあったが、さおりは私をずっと見守ってくれていた。この先、生きていくにしてもずっと横にいて欲しいのはさおり以外、考えられない。本人の目の前で素直にありがとうと言いたい気持ちでいっぱいだった。
会社に着く前に電話を掛けてみる。三回電話のコールが鳴り、さおりが出る。
「おはよう。」
「おはよう。もう新宿に着いたの?」
「うん。まだ少し時間に余裕あるから電話してみた。昨日はおかげ様でゆっくり寝られたよ。あれから前向きに考えるようにしたんだ。」
「うん。」
「まず今の仕事に対しての身の振り方を考えてるんだ。さおりとああなる前に、もっと考えて行動しなきゃいけなかったんだ。いつも仕事の事とかでピリピリしてたしね。おまえが不安になって当然だよな。もっと自分自身の為になって、生き甲斐を感じられるような生き方をしたい。変なプライドを持ったせいで、さおりを傷つけ過ぎた。」
「全然そんな風に思ってないよ。」
「ありがとう。でも俺の言う償いとは、その辺の自己の改善からだと思っているんだ。」
「考え過ぎだよ。私は充分、龍の事を評価してるよ。でもね、すごいなぁと感じる龍だけを好きな訳じゃないよ。優しいところや弱い部分も、たまらなく好きなんだからね。これからも色々な事があると思うけど、焦らず前向きに頑張ろうよ。」
「そうだな…。」
「でも龍だけが頑張るんじゃないからね。少しは私にも頼ってほしい。一緒に頑張っていこうよ。ね?」
「ああ、ありがとう。元気になった。お、もうこんな時間か…。とりあえず仕事に行ってくるよ。」
「いってらっしゃい。」
「いってきます。」
心のつかえが一つ溶けたような気がした。さおりのおかげだ。もう今年も終わる。せめて西武新宿の件だけは、いい感じで終わらせたい。みんなが笑って済ませる事が出来るように…。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます