体が何をしても動かない。俺は大地さんの一撃で完全にノックアウトされた。俺などしょせんこの程度だ。
体を揺さ振られているのを感じる。誰だろう。ひょっとして大地さんが気遣ってくれているのか? しかしまぶたが重く目も開かない。
「ねえ、起きてってばー」
女の声が聞こえる。
「龍…、どうしたの?」
百合子の声だ。さっきまで大地さんと向かい合っていたのにどうして……。
「ねえ、龍。大丈夫?」
心配させちゃいけない。俺は懸命に目を開こうとする。
「百合子……」
顔を覗き込むようにして、心配そうな顔をしている百合子。
「大丈夫? ずっとうなされていたけど……」
「……」
「龍?」
「夢か……」
「夢?」
「現実じゃなかったんだ……」
そう、大地師匠はこの世にとっくにいない。俺が二十八歳の時だから、亡くなってもう五年も経つんだ。何で今になってあんな夢を見たんだろう。戦いのステージからはとっくに降りているのになあ。まだリングに未練でもあるのか? 以前出た総合の大会の主催者サイドの汚さに嫌さを差して、もう懲りたんじゃないのか。いや、堂々と戦えるなら、あの光輝くリングに向かって、俺の好きなテーマ曲でまた入場したいさ……。
「どうしちゃったの?」
「師匠に夢の中で説教されたみたいだ」
「師匠?」
「以前、俺は大和プロレスにいたろ?」
「うん」
「その時お世話になった師匠である大地さん…、夢に出てきたんだ」
「そうだったんだ。ずっとうなされてたから心配したよ」
「まだまだだな……」
「何が?」
西武新宿の一件から、どうやら俺は自分の思想が絶対だという慢心がどこかにあったのかもしれない。今の自分に満足したら、そこで成長は止まる。大地さんが俺の事を心配して夢に出てきてくれたのかな。そんな気がする。
「現状で満足しちゃいけないって師匠に教えられたよ。いつからそんな偉くなったんだってね」
「龍は頑張ってるよ。私はそう思ってるよ。」
「ありがとう。でも俺はそれで頑張ってると満足した時点で、成長は止まると思うんだ。現時点じゃ、少なくても自分自身に俺は満足できないよ。もっと上に駆け上がりたい。思ってるだけじゃなく、行動も伴わないとね」
そうする為にも一日でも早くあの西武鉄道の問題にけじめをつけなきゃ。あと『ガールズコレクション』も。
「すごいな、龍は……」
「何でよ?」
百合子は甘えた表情で俺にもたれ掛かってくる。
「別にいいじゃない、私が勝手にそう思っているだけなんだからさー」
「ところで今、何時よ?」
二人して時間をすっかり忘れていた。時計を見ると九時を過ぎている。俺は十二時に出勤だから問題ないが、百合子は完全に遅刻だ。
「おい、百合子。会社、大丈夫かよ?」
俺が言うより早く、百合子は携帯で電話をしていた。
「あ、もしもし…。はい…、はい。ええ、そうです。すみません。はい…。それで今日、体調もおもわしくないのでお休みをいただきたいのですが…。はい…、申し訳ございません。ええ、それでは今日はゆっくり家で寝るようにしています。それでは失礼します」
電話を切った百合子は俺のほうを向いてペロッと舌を出した。
「まったく……」
「えへへ…、ズル休みしちゃった。龍も今日休んじゃえば?」
「無理に決まってんだろ。しかも今日クリスマスだし…。そんな日に休んだら、どんなにいい言い訳考えたって疑われるだけだ。仕事終わったらすぐに帰ってくるよ」
本当の事なんて百合子に言えないよな、さすがに。本音を言えば、今すぐにでも辞めてゆっくり二人でこうしていたいぐらいだ。
「分かってるよ。龍、仕事に対しては真面目だもんね。ちょっと言ってみたかっただけ」
「どっちにしろ俺は十時三十分の小江戸号か、五十八分の通勤快速で行くようだからな。じゃないと遅刻だ」
「じゃあ、五十八分ので行こうよ。少しでも長く一緒にいたいもん」
「分かったよ」
馬鹿と阿呆を二人相手に、また憂鬱な一日が始まるのか……。
このクリスマスの日、家業でちょっとした出来事があった。俺が高校生時代に入ってきたパートの茜さん。彼女が辞めたのである。約十五年もいたというのに、配達の金をちょろまかし、旦那と娘と息子を置いて別の男と逃げ出したらしい。
うちのおばさんのユーちゃんより一つ年下のおばさんだったが、当時俺は明るくていい人が来て良かったなあと懐いていた。ある日親父が昔から付き合っていた三村という世界一嫌いな異性と共に茜さんは家に乗り込んできた事があった。親父と茜さんができていたという事実を知った高校生の俺は酷いショックを覚えたものだ。それから茜さんは親父と仕事の事以外、一切口を利かなくなりユーちゃんと一緒にプールに行ったり、食事に行ったりとべったり懐いていた。コバンザメのような女だった。
まあ家の事なんて俺は継ぐ意思もないし、無関係だからどうでもいいか。
ただ残された茜さんの子供が可哀相だなと感じた。
そういえばここ最近ずっと『ガールズコレクション』の件で頭がいっぱいで、家の事なんかまるで気に掛けていなかったなあ。今度ケーキでも買ってこよう。
さて今日も仕事に行ってくるとするか……。
新宿に着くと、昨日と同じぐらいカップルの数が多い。あちこちでイチャイチャしている。しかし見ていても別に何とも思わなかった。百合子とさっきまで一緒に居たのだから当然といえば当然だが……。
百合子と再びうまくやっていく事で、すべてがスムーズに進行していうような気がする。二人の間でできた子供を失い、それも乗り越えられた。まだ乗り越えたばかりだが、このまま持続…、いや、さらにあいつを幸せにしないと駄目だ。
今朝別れ際、俺が仕事終わったら逢いたいと百合子は言っていた。俺だって逢いたい。仕事の時間が長く感じる。
「どうだ、今度のポスターのできは?」
背後からオーナーの村川が声を掛けてくる。百合子の事を考えていながらも、マウスを片手に持っていたので勝手に仕事していると誤魔化せたようだ。慌ててフォルダを開いて、作りかけの画像をモニターに出す。
情報館に提示するようのクリアパネルのデザインをするようだった。
在籍している女の子は『ミミ』と昨日新しく入った『かのん』のまだ二人。
女の子ですべて決まる風俗なのに、これじゃあ何もできやしない。だから女の子を使わない幻想的なイメージでデザインをしていた。
「うーん、そうですねー。あとここら辺の色合いと、光加減の調整で何とかなると思いますよ」
作業をしている時にあれこれ言われると本当に邪魔だ。
「そうか、頼むぞ。これでうちのイメージが決まるんだからな」
でもいくら綺麗に作れても、これじゃあ客は来ないよ。女に興奮して高い金を払いに行くんだから……。
「ええ、分かってますよ。まず、ここにぼかしを入れて、ここを自動選択ツールで囲んでと…、ここはテクスチャのクラッキングとテクスチャライザどっちがいいですかね?」
「そんな事言われたって俺はパソコン全然分かんないだから知らねえよ」
ひと言ボソッと呟いて逃げるように村川は外に行ってしまった。パソコン用語を連発して聞けば、嫌な顔をするだろうぐらいは思ったが、こうまで予想通りにいくとおかしくなってくる。百合子から一通のメールが届く。
《仕事頑張ってる? 龍、ありがとね。昨日、龍の作ってくれた料理、家族みんなで喜んで食べてます。仕事で忙しく疲れているのに本当ありがとね。 百合子》
この腐った環境に差し込む唯一の癒しの光。
俺はこんな場所で一体何をやってんだかなあ……。
今日は珍しく客が店に入ってきた。夜の八時までで『ミミ』は三人、『かのん』は五人も客がついた。聖なる夜ぐらい女の乳を揉みたかったのだろう。
ゲーム屋にいた頃は、別にクリスマスでも特に気にしなかったなあ。何で人間って全部がクリスチャンでもないのにこうやってクリスマスだって騒ぎたがるのだろう。混むし、料金は全体的に高くなるし、別の日にクリスマスだって騒いだほうがよほど利口だと思うんだけどな……。
まあみんな、そうやってイベントごとに乗る事で幸せを感じたいのだろう。クリスマスだって騒ぐだけで笑顔になれるのなら、それはそれで問題ないか。
家じゃ、昔からクリスマスパーティーなんてした事ないなあ。男ばかりの家族だからか。百合子ともし家庭を築く事になったら、世間一般のようにイベントに乗って楽しむのもいいかもしれない。想像すると温かい家庭というイメージが沸いてくる。
仕事を終えて歌舞伎町を歩く。昼間とは比べ物にならないほどすごい人混みだ。カップルの数が出勤前よりも数段多くなっている。昨日今日と多くて当たり前か。
お互いが求め合った通常の恋人同士もいれば、偽りのカップルもいる。ホストや飲み屋の女にしてみたら、ある意味稼ぎ時だ。イベント事は客の心をつかむ最大のチャンスでもある。
クリスマスがキープでイブが本命。どこかで聞いた事のある台詞だが、そんなものはその人次第でいくらでも気持ちを切り替える事はできる。果たしてこの中に何人、本物のカップルがいるのだろう?
約一週間で今年も終わりになるのか。そう思うと西武新宿駅長の峰の件が終わっていないので、どうもスッキリしない。帰りに偶然峰に会えたらガツンと言ってやろう。
そう考えながら西武新宿駅に行き、小江戸号特急券を購入する。改札を通ると助役の朝比奈さんの姿が見えたので近付く事にした。間壁駅長と先日話をしたが、峰からは何の連絡もない。
「どうも」
「あ、お疲れさまです」
「忙しそうですね」
「ええ、おかげさまで」
「もう朝比奈さんはいいけど、峰さんに対してはまだ何も許していないって伝えといてもらえます?」
「え……」
「朝比奈さんはあの時、ちゃんと謝ってたじゃないですか。だからあれ以来何も私は言ってないですよね? 今はもう、何とも思っていないし」
「はい」
「あの時、最後に私はちゃんと言って帰ったはずです。峰さんに対してね。あんな謝り方ってないじゃないですか。しかもこの間峰さんに小江戸号待ってる時にすれ違っても、無視して行かれましたしね」
「はぁ…、申し訳ないです」
「朝比奈さんはもう謝らなくていいですよ。峰さんにこのままじゃ許さないと伝えて下さいって事です」
自分で繰り返し同じ台詞を言っていてしつこいと思ったが、この件を早く解決するには仕方がない。
「分かりました」
「私だって早くこんなちっぽけな事、とっとと終わりにしたいんですよ。ただ、いい加減で終わりにしたくないだけです。けじめをつけたいだけなんです」
自分にも言い聞かせた台詞だった。じゃないとあの子が浮かばれない。
「はい」
「じゃあ、どうも」
「お疲れさまです」
俺は朝比奈さんに一礼して、小江戸号に乗り込んだ。
そういえば百合子にクリスマスプレゼントを何も買ってない。時間を確認すると八時二十七分。発車までまだ十一分ある。急いで小江戸号から飛び出すと、駅を出て歌舞伎町を走り回った。
近くの薬局で福袋の販売をしていたので立ち止まる。値段も千円、三千円、五千円、一万円と色々ある。俺は迷わず一万円の福袋を買った。ダッシュで小江戸号に向かって走る。発車二分前には何とか間に合った。
こんなもんしか用意できなかったが何もないよりはマシだろう。百合子にメールを打つ。
《これから川越に帰るよ。だいたい着くの十二時二十五分ぐらい。今日も仕事が忙しかった。着いたら電話するよ。 神威龍一》
何だかんだ慌しい一日だった。座席に座りタバコを吸っていると、まぶたが重くなってくる。睡魔が襲ってきた。小江戸号が発車してすぐに俺は眠りについた。
「お客さーん。起きて下さい」
駅員に起こされて目を覚ますと電車は本川越駅に着いていた。車内を見回すと誰もいない。どうやらずっと寝てしまったようだ。
「すみません」
駅員に頭を下げて電車を降りる。そうだ、百合子は……。
携帯電話を取り出して見ると、着信が一件に、メールが二件入っていた。すべて百合子からだった。歩きながらメールを見る。
《駅まで迎えに行きまーす。 百合子》
《龍、電車が到着しているのにもう十五分経っているよ。何かあったの? 次の電車に乗っているのかな? 連絡待ってます。 百合子》
すぐに電話を掛ける。
「百合子、ごめん。電車に乗ってて今まで寝ちゃったよ。今、どこ?」
「良かった……」
「え?」
「すごい心配したんだから」
そうだよな。俺は前にも巣鴨警察にパクられ心配させている。
「ごめん」
話しながら走り、改札を抜ける。ロータリーに百合子の車が停まっていた。急いで近付きドアを開ける。
「ごめんな、百合子。すっかり寝ちゃってたよ。本当にごめん」
「別に怒ってないよ。ただ全然連絡こないから少し心配しただけ」
「ゲッ?」
「どうしたの?」
百合子の為に買った福袋がない。焦って駅を出たから、小江戸号の中に忘れてきたみたいだ……。
「いや、電車に忘れ物しちゃってさ……」
「忘れ物? だっていつも龍、手ぶらで仕事に行ってるじゃない。一体、何を忘れたの?」
そこをつっ込まれると痛い。あの福袋はクリスマスプレゼントを買えなかった代わりとして誤魔化しで買った物だし…。下手にプレゼントと言って、百合子を期待させるのも嫌だった。
「いや…、あの、その……」
「もしかして龍……」
百合子は動揺した俺の様子を見て、とても嬉しそうな顔をしている。ヤバい…、こいつ、絶対にいい方向へ勝手に勘違いしている。
「たいしたもんじゃないんだ、全然…。と、とりあえず戻って探してくる」
「龍」
「悪いけど、もう少しそこで待っててくれ、なっ?」
そう言いながら俺は本川越駅に全力で走った。改札口まで行くと、若い駅員が福袋を持って駅員待機室に入ろうとしている。
「駅員さーん!」
大声を上げて近付くと、駅員はこちらを不思議そうに見ていた。
「それ…、そ、その袋…。お、俺の……」
若い駅員の顔を見る。どこかで見たことのあるような…。駅員は俺があまりにも勢いよくいったので、ビックリして固まっていた。
「それ俺が小江戸号の中で忘れてったやつなんだ」
「お客さまのですか」
「そう、四号車にあったやつでしょ?」
「はい」
「良かったー…。ところで君、どこかで俺と会った事ない?」
「え、ええ。先日うちの村西駅長と駅長室で、お話されたお客さまですよね?」
思い出した。あの時お茶を出してくれた駅員だ。
「そうそう、あの時はご馳走さまでした。この福袋あって本当良かったよ。ありがとね」
「いえ、とんでもないです。見つかって良かったですね」
「村西駅長にもよろしく言っといて下さい」
「はい、分かりました」
「じゃあ、失礼します。ありがとうございました」
お礼を言って駅から出る。百合子に福袋を手渡した。
「ほれ、クリスマスプレゼントって訳じゃないけど、買う暇なくて、こんなもんしか用意できなかったんだ。今度時間合ったら一緒に何か買いに行こう。とりあえず今日はこれで我慢してくれ」
文句を言われないよう百合子の顔を見ずに、マシンガントークで一気に話し終えた。
「何、言ってんの、充分嬉しいよ。ありがとね、龍」
「面目ない……」
「私は龍と一緒にいられるだけで満足なの。だからそんなに気を使わないでよ」
そう言って優しく微笑む百合子。こいつと知り合えて本当に良かった。心の底からそう思える。百合子とずっと一緒に仲良く生きよう。それがおろした子供に対する最大の償いなのかもしれない。
「そんな落ち込まないでよ」
「ああ、分かったよ。ところで百合子、腹減ったろ? どこか食いに行こうよ」
「へへー、実は今日私が手料理を作ってきたんだ。だから龍の部屋行って一緒に食べようよ。ね?」
「悪いな、何から何まで…。素直に嬉しいよ」
会話の最中何度もお腹の音がグーグーと不満の声をあげていた。
部屋に着いくと、百合子が作ってきたご馳走を広げる。鉄火巻きにとんかつの海苔巻き。ポテトサラダにフライドチキン。昔懐かしいナポリタンに春巻き。豚キムチ炒めにほうれん草のソテー。これだけ作るのにとても時間を使っただろう。あんなに辛い目に遭わせた俺に対し、また優しく接してくれる百合子に感謝してもしきれなかった。
「早く食べてよ」
「ん、ああ…。ありがとうな、百合子」
「へへ……」
「おいしい。すごいおいしいよ」
「そう? 良かった」
「作るの大変だったろ?」
「それは昨日の龍だって一緒でしょ?」
「まあ、そりゃそうだけど……」
「仕事忙しかったんでしょ。どんどん食べてよ」
「でもこんなに一人じゃ食べられないよ。百合子も一緒に食べようよ」
「その前にこれ、はい」
百合子は黒い手さげ袋を渡してくる。
「何だよ、これ?」
「開けてみてよ。クリスマスプレゼント」
「俺、何も用意できてないのに、そんな気を使わないでくれよ」
「早く開けてよ」
「ああ」
中を見ると綺麗に包装された箱が二つあった。中身は黒い財布と名刺入れだった。ちょうど俺自身の財布が傷んでたので、そろそろ新しいのを買おうかと思っていたところだ。横でちゃんと細かいところまでチェックしててくれたんだ。
何から何まで…。言葉が見つからない。無意識に百合子を抱き寄せる。力加減をしながらギュッと抱き締めた。
「龍……」
クリスマスの聖夜は刻々と時間を刻んでいく。たまにはこうやって俗世間に溶け込むのも悪くない。
朝、目を覚ますと百合子がいなかった。
何時だろう? 時計の針は九時を指していた。パソコンのキーボードの上に一枚の書き置きがあった。
【お先に仕事行ってきまーす。龍、いくら起こしても起きなかったから、一応書き置きしときます。最近仕事も休みなしで疲れも溜まってたんだね。時間の許す限りゆっくり休んでね。それでは……。 百合子】
プレゼントされた財布が目に入る。早速使おう。今使っている財布の中身を出して、百合子にもらった財布に移し変える。仕事上、受け取る名刺も財布にしまっていたが、プレゼントで貰った名刺入れにキチンとしまう。今度時間作って百合子に何かちゃんと買ってやらないとな。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
《もうちょいしたら仕事に行って来ます。今日、百合子が出て行くの、気付けなくてごめんよ。もう今年も一週間ないんだな。どっちにしろ今までうやみやになってた西武の件もそろそろケリをつけないとな。仕事頑張ってな。 神威龍一》
百合子にメールを打って送信すると、風呂に入る事にした。寝起きで体が冷え切っている。湯船に豪快に入ると体中ジンジンきた。巣鴨の留置所の風呂を思い出した。
西武新宿の一件から色々な事があった。整理して考えてみる。
西武の件は駅長の峰にキチンと頭を下げてもらえれば、それで納得がいく。近々時間を作って駅に乗り込もう。
その間に私たちのおろした子の事を考えると、胸がとても痛い。
あの子が俺と百合子の仲を戻してくれたようなものだ。自分たちの子供を犠牲に可哀相な事をしてしまった。
情けない真似はもう二度とできない。
いや、したくない。
あんな想いはもうたくさんだ。
先日見た大和プロレス時代の夢。師匠大地さんの言葉。
あれは思い上がった現実の俺に対しての叱咤激励だと思いたい。今は形的に何の繋がりもなくなってしまったが、例え夢という形であれ、そう感じていたかった。
結局、大地さんには何の恩も返せないまま先に逝かれてしまった。その悔いはずっと今でも残っている。どれだけ考えても、一生この悔いは消えないだろう。
焦っても仕方のない事なのは理解しているが、考えているだけじゃ駄目だ。
行動、口で言うだけでなく、言ったからには行動も伴わないといけない。
天国から微笑んで俺を見てくれるように、今後もまだまだ頑張らないとならない。あの子も遠くで私の生き様を見ていてほしい……。
しかしこれは非常に都合のいい考え方だ。
俺はどれだけの罪を重ねて生きてきたのだろうか?
それでもまだこうして生きようとしている。それならずっと十字架を背負って生きていくしかないのだ。
今は周りにいる身近な人しか大事にできない。でもそれを続ける事によって人と人の輪は広がり、いい人間関係を築いていけるような気がした。
『ガールズコレクション』に到着する。看板をしばらく眺めていたが、よくもまあこんな店名にしたものだ。コレクションなんて言ったって二人しかいないし、ガールズなんて誰もいない。二人とも三十歳を超えているのだから。
もっと馬鹿の坂本をうまく乗せて女の子を集めさせないと駄目だな。
坂本は適当な時間に出勤しては、待機席のソファーで鼻くそをほじりながら漫画を読むだけだ。暇だと「神威ちゃん、サクラつけようよ」と言うぐらいで、あとは何もしない。タダで風俗嬢と遊べる条件なのにサクラをつけるなんて、本当にこいつ友達いないんだな。
何とか店を良くして流行らせたいが、人間には限界というものがある。いくら俺一人やる気になったところで、馬鹿と阿呆のコマしかいないんじゃ話にならない。
仕事の時間中、プリンターのライトマゼンダのインクがきれた。補充用に買っておいたつもりが、たまたまなかったのでビックカメラに俺自身が買いに行こう。ちょうどいい、百合子のクリスマスプレゼントもついでに買える。
「坂本さん、ちょっとプリンターのインク買ってきます」
「何だ、それなら俺が行ってくるよ」
外へ遊びに行きたいだけだろうが……。
「いえ、プリンターの機種も様々ですし、自分で行ったほうが間違いないです」
本当は機種の型番を見れば誰でも分る事だが、外に出る口実が欲しかった。もう少しプリンターの説明やパソコンの細かい事などを適当に並べたてれば、坂本も面倒臭がって分かったと言うだろう。
「だって神威ちゃんはやらなきゃいけない事たくさんあるじゃん」
少しはおまえも被ってみろ。俺の大変さが分かるから。
「それはそれですけど、今使っている機種はエプソンのPM970Cです。全部のプリンターのインクが同じなら問題ないですけど、これは各一色ずつの七色で構成され、端から順に言うと、イエロー、マゼンダ、シアン、ブラック、ライトシアン、ライトマゼンダ、最後にダークイエローとなっています。誰か一色なくなっても印刷はできません。書類は黒しか使わないだろうとみんな思いますが、通常の書類を印刷してるのも実はブラック以外に他の色を少しずつ混ぜながら黒の色を出しているんです」
「はあ?」
うん、やっぱり馬鹿には理解できないだろう。もうちょっと付け加えておくか。
「それに今使っているパソコンも、そろそろメンテナンスしたほうがいい時期です。ローカルディスクの最適化やディスクのクリーンアップ。それにエラーチェックからウイルススキャンもしておいたほうがいいと思うんですよね」
本当はこんな事は頻繁に行っていたので、今すぐやらなくてはならないものではなかった。でもどうせ坂本には分かるまい。案の定、馬鹿は困惑の表情を浮かべている。
「で、その何とかをするからって何で買い物へ行く訳?」
「ただし、これらの動作にはどうしても時間が掛かるので、その間俺が買い物に行けば無駄な時間もなくなるかなと思ったんです。どうですか?」
「分からねーよ。相変わらず神威ちゃんの言う事は…。とりあえずクリーンエラーとか何とかっていうのやって、サッサと買い物行ってきてよ」
馬鹿の逆切れ。クリーンエラー、また訳分からない事を言ってるが気にしないでおこう。
「了解です」
勝った。俺は心の中で呟き笑いを堪えるのに苦労した。タクスマネージャーの画面を出し、パフォーマンスのタブをクリックする。CPUの使用率のグラフとかを見せておけば、坂本は馬鹿だから何かチェックでもしているのかと納得するだろう。
俺はインクを素早く購入したあと、ルイヴィトンの店に入った。クリスマスあとでもたくさんカップルがいた。
ブランド物には疎いが、女だったらヴィトンのバックを貰って嫌がる女はいまい。財布の中を確認すると十二万入っていたので適当に店内を見て歩く。こんな柄の入った茶色のバック一つで十何万もするのには驚いた。
女がベタベタ甘えて男は財布の紐をほどく。その結果女は茶色のバックを手に入れ、それと引き換えに男は金を吐き出していく。女は心から笑い、男は心で泣き堪える。でも女の笑顔を見て、男は幸せを感じる。普通のカップルのケースはだいたいこうだろう。
これが飲み屋の女に貢ぐケースだと、買う過程までは同じでも最後が違う。バックを手に入れた女は股を開き、男は腰を振って幸せを感じる。もしくはバックを手に入れた女、金がなくなった男。ワザと女は喧嘩になるような台詞を使って男はキレる。「あんたみたいな人とは怖くて会えないわ」と言われさよならって感じかな。
くだらない事考えていないで、何か買うか……。
しっかし本当に高いなあ。何でこんな茶色のバックやチェックの入っただけの財布が数万から何十万もするんだ?
こんな物に大金をかけてまで欲しいなんて、女という生き物は理解不能な生き物だ。俺は男に生まれて本当に良かったと思う。でも百合子がこの茶色のバック一つで喜んでくれるなら、まあいいかなと思った。俺は売り場の店員に近付き声を掛ける。
「お姉さん、これちょうだい」
「はい」
店員は俺の指したバックについて細かい事をペラペラ話しているが、何を言ってるのかサッパリ理解できなかった。きっと坂本にパソコンの件で言った時の反応と同じようなもんだ。
「よく分からないけど、これ自分の女にプレゼントしたら喜ぶのかな?」
「ええ、きっとお喜びになられますよ」
「もし、お姉さんがこれプレゼントされたら?」
「すごく嬉しいです」
「思わず抱きついちゃうかもしれないぐらい?」
「さ、さあ…、それは個人差があるかと思われますが……」
「ふーん、まあいいや。じゃ、それちょうだい。いくら?」
「はい、税込みで十一万と三千二百円になります」
「げっ……」
「あのー、どうかなされましたか?」
「いや、何でもない」
金はギリギリあるが、そんな高いのか……。
まあいいや、百合子が喜ぶならな。あいつの顔を思い浮かべてみる。
あれ、何で楽しそうな顔が思い浮かばないんだろう……。
「あまり龍の仕事の人の事は聞きたくないなあと思って……」
百合子の呟くように言った台詞を思い出す。この金は百合子をどん底まで傷つけた薄汚れた金だ……。
そうだよな。俺が間違っている。そんな金でブランドをプレゼントしたからって喜ぶ。そんな女じゃない。
「お姉さん、ごめん」
「はい」
「すげー格好悪いかもしれないけど、やっぱやめとくわ」
「は?」
「今度さ、別の機会にする。本当にごめんなさい」
「はあ……」
店員は拍子抜けしたような顔で、俺の顔をまじまじと見ていた。綺麗な女だな。『ワールド』時代だったら金にものを言わせて口説いていたかもしれない。でも、もうそういうのからは卒業だ。今の俺には百合子がいる。
格好なんかつけないで、素直に百合子には謝ろう。いつか綺麗な金で一緒に買いに来ればいいさ。
第四十九回有馬記念(GⅠ)。言わずと知れた競馬の年末最後のGⅠレースである。店に着いて、日刊スポーツ新聞を読んでいても一面にデカデカと扱われている。
『ガールズコレクション』では客が来ないといまいち暇を持て余す。『とれいん』の執筆をしようとしても、途中で糸が切れたようにとまってしまう。何故か? 西武鉄道の問題があれから何一つ前に進んでいないからだ。
三十三歳になってから今までいい事があまりなかった。
いきなり警察に捕まり、この店の準備期間と称しながら二ヶ月間給料をもらわず、挙句の果てに百合子との間にできた子供までおろした。まだ誕生日から三ヶ月ぐらいしか経っていないのに、あり得ないような出来事が一気に連続でやってきた感じだ。
でも徐々に良くなっていく気がした。百合子との仲も最近では以前に戻りつつある。運気が少しは上昇してきたのかもしれない。
過去散々やりつくした俺は、もうギャンブルをやらないでいた。新聞を見ている内にたまには運試しもいいかなと感じる。有馬記念をやってみようと思った。
いい気分転換になるだろう。ドカッと賭けられれば気持ちいいだろうが、そんな金があるなら百合子に使ってやりたい。あくまでも運試し程度でいいのだ。
坂本は店を出る際、「神威ちゃん、二人にサクラつけといてよ」とだけ言い残して行ってしまう。
俺は『ワールド』時代の部下である島根と倉下を呼んだ。タダで遊べるので二人は三十分もしない内にやってきた。島根は池袋にあるゲーム屋、倉下は歌舞伎町の二丁目にあるゲーム屋でそれぞれ働いているらしい。
「あれ、龍さんが競馬の出馬表見るなんて珍しいですね」
島根が声を掛けてくる。
「まーね。もう俺いっぱい傷つき過ぎて、ギャンブルなんてやめたじゃん」
「急にやるなんてどうしたんですか?」
「最近ちょこっとだけ運気がいい方向に向いてきたのかなと思ってね。ちょっとした運試しだよ」
「はぁ……」
「そうだ、倉下」
「はい?」
「おまえ、俺の選んだ馬券買ってきてくれよ。おまえ、競馬やるでしょ? 俺、ここにいるようだし外へ出れないんだよ。ちゃんとお駄賃もあげるからさ」
「別に構わないですよ。俺も有馬には勝負賭けてますから。買う馬券、早いとこ用紙に記入して下さい」
「分かった」
新聞に目を通すと、様々なデータが記載してある。
一番人気は一枠一番、ゼンノロブロイ。二番人気は三枠四番、コスモバルク。三番人気は五枠九番、タップダンスシチー。まあこの三頭で決まる事はないと思って予想をする。個人的に気になった馬は三枠五番、ハーツクライ。四枠六番、シルクフェイマス。七枠十三番、ツルマルボーイの三頭だった。
やるとしても予算は一万円までしかやらないようにしよう。
馬連の一‐六、一‐十三、九‐十三の三点。
枠連で一‐|四、一‐七、四‐七の三点。
三連複で一‐五‐六、一‐九‐十三、一‐六‐九の三点を各千円ずつ買う事にした。
「倉下、これ全部で九千円だろ? 一万渡すからお釣りの千円あげるよ」
「いえ、いいですよ」
「悪いじゃん。少ないけどとっといてよ」
「だって風俗だってタダで遊ばしてもらって……」
「そんなの気にするなよ」
「じゃあ、この千円で適当に何か買っときますよ」
「好きにしていいからさ、馬券頼むよ」
「分かりました」
人気と気になった馬を適当に数字を組み合わせただけの馬券。昔はいくら躍起になっても外れたもんだ。今回運が良ければ当たるだろう。ギャンブルなんてそんなもんだ。
島根は『かのん』、倉下と『ミミ』をあてがい、それぞれが笑顔で店を出て行く。
ボーっとしていると、オーナーの村川が入ってきた。
「おう、どうだ?」
「サクラを二人ともつけているところです」
「はあ……」
「坂本のケツを叩いといて下さいよ。女の子二人しかいない風俗店なんて、歌舞伎町じゃ他にないですよ」
「まあな。分かった。俺からも言っておくよ」
「ところで村川さん、年末っていつまでやるんです?」
村川に今年は三十一日まで仕事をやると言われ、少々落ち込んでいた。これじゃ休みの計画も何も立てられたもんじゃない。
とりあえず元旦から三日までは『ガールズコレクション』自体が休みなので、百合子と一緒にいられる。
最近休みがなく毎日が忙しい状況なので、すっかり西武新宿の件が疎かになっていた。自分から動かないと何も片付かない。今日辺り、帰りに新宿駅へ寄ってみるか。
それにしてもあれ以来向こうから何も言って来ないというのはどういう事だ。助役の朝比奈にはこの間、俺の言い分をちゃんと伝えたはずだ。駅長の峰は何を考えているのだ。そろそろケリをつけたいのに……。
仕事のデータを片付け、小説『とれいん』の続きを書き始める。百合子と会ったり、クリスマスを過ごしたりであれ以来進んでいなかった。
一度読み直すと、結構誤字脱字が目立つ。手直ししながら、再度チェックした。
小江戸号でのメガネの女とのトラブルの部分を読んでいる内に、再び怒りが沸いてくる。
あの女、あれから小江戸号で見ないが、今度見つけたらメチャクチャ苛めてやる。早く完成させる為にもいい終わり方をさせなければ……。
「龍さん、やりましたね」
『ミミ』と済ませ、レンタルルームから帰ってきた倉下が店に飛び込んできた。
「え、何が?」
「有馬ですよ。有馬……」
「何が来たの?」
「馬連が一‐九で、枠が一‐四。そして三連複が一‐六‐九です」
「なんだ。当たってねえじゃん」
「何、言ってんですか? 龍さんの馬券をよく見て下さいよ」
見直してみると、先ほど自分の書いた予想の三連複のところに一‐六‐九と一点追加で記入してあった。倉下が気を利かせてお釣りの千円でこの三連複を追加してくれてたのだ。
「これじゃ、俺が当てたって訳じゃないじゃん。悪いからこの馬券あげるよ」
「いいですよ」
「よくないよ。倉下がこの数字を記入しなければ当たってないんだから」
「大丈夫なんですよ、俺は……」
倉下はそう言ってニヤニヤしている。
「は?」
「自分もその三連複、一万買ってあったんです」
「そうなんだ。何倍ついたの?」
「えーと五千八百六十円だから、五十八・六倍です」
「え? じゃあ五十八万六千円になったの?」
「そうなんですよ。だから気にしないで下さい。龍さんの買い目見て、この数字抜けてるなと思って、自分の馬券も慌てて付け足したんです」
「そうは言っても、やっぱ悪いからいいよ」
「じゃあ今度、飯でも奢って下さいよ」
「わ、分かったよ。ありがとな」
「いえいえ、タダで風俗も遊ばせてもらったし」
棚からぼた餅とはこの事だ。俺自身もたったの千円が五万八千六百円になった。
今日は百合子に焼肉でも食わせてやろう。倉下の寝る方向には当分、足を向けて寝れないな。こういうのを本当に運がいいと言うのだろう。百合子に誘いのメールを打った。
《久々に競馬やったら、今日の有馬記念当たったぞ。あぶく銭だから焼肉でも行こうよ。おまえにおいしいもの食わせたい。 神威龍一》
本川越駅に到着すると、いつものように百合子が出迎えてくれる。今日は本当に仕事の時間が終わるのが待ち遠しかった。久しぶりにウキウキしていた。
百合子からもメールの返事がすぐあり、真っ直ぐ帰ってきたのだった。今日ぐらいは西武新宿の件や店という嫌な事を忘れたかった。
競馬が偶然的に当たった流れで、今後風向きが変わってくれればいいが……。
百合子に道を説明しながら焼肉の『松坂』という店に行く。ここは以前食べに行った時、肉がおいしいのはもちろん、店長の対応も大変丁寧で感じが良かったので、また食べに行きたいと思っていた店だった。まだ百合子を一度もここに連れてきた事がなかったので、ちょうどいいタイミングだったと思う。
「おいしい!」
「当たり前だろ。だからおまえをここに連れてきたんだから」
すごいおいしそうに食べる焼肉を食べる百合子は、終始笑顔で機嫌が良かった。倉下に感謝しないといけない。明日にでもまたお礼を言っておこう。
俺の家に着くと、夜の十時半になっていた。百合子に家の歩道側へ車を止めさせ、部屋に戻った。
「また今度あそこに行きたいなー」
「そうだな。頑張って稼いでくるよ」
「でも無理しないでね」
「ちょっとぐらいの無理はするのが男ってもんだ」
たまたまギャンブルがじゃなく、いつか普通の仕事をして汗水垂らした金で連れていってやる。
目を覚ますと横に百合子がいる。それだけで俺は幸せ者だ。時計に目をやると朝の七時。そろそろ百合子を起こさないと会社に遅刻してしまう。
「おい、起きな。もう七時だぞ」
「うーん……」
「ほら、起きなって」
「眠いよー……」
「仕事行く準備しないと遅刻だぞ」
ガバッと起き上がる百合子。だがすぐに俺を睨んでくる。
「今日、月曜日だから私、お休みでしょ? 飛び起きて損しちゃったよー」
「何が損なんだか。温かい缶コーヒーでも買ってきてやるよ」
「ありがとー」
外に出て家の前にある自動販売機まで行くと、地面にチョークで何か書いた跡がある。
「何だ?」
よく見ると百合子の車のタイヤにチョークは続いていた。嫌な予感が……。
案の定見事に駐車禁止のワッカが百合子の車のバンパーについていた。血液が上昇してくる。
俺はすぐに部屋に戻った。百合子はまた二度寝していたので叩き起こす。
「あ、龍。昨日の焼肉おいしかったね」
「何、寝ぼけてんだ。とにかく起きろ」
「なーに、どうしたの?」
「おまえの車が駐禁になってる」
「えー」
「車の通る車道じゃなくて、自分の家の前の歩道内だぜ? 三分の二以上家の敷地内だ。しかも夜に停めて…。あそこじゃ誰が見たって歩行者の妨げにならないだろうし、近所で文句を言ってくる奴も絶対いない場所だ。ふざけやがって……」
「……」
「川越の本署まで来いってご丁寧に張り紙までしてあるから、早速行こう」
「う、うん」
「そんな心配そうな顔すんなって。俺が罰金も点数も全部被るから。とりあえず川越警察署に行くぞ」
単なる駐車禁止ならしょうがない。理不尽な警察の行為に俺は怒っていた。
車が違反をとられた時間は夜の十一時半。家の前に停めて僅か一時間ちょいで駐禁をとられたって事だ。狙い撃ちされてやられたようなものだ。
全身がイライラしてくる。わざわざ家の前に停めてある百合子の車を夜中に目ざとく見つけて駐車禁止のワッカをつける。もっと迷惑な駐車をしている車なんていくらでもあるのに、何故狙ったように……。
やった奴を絶対に許せなかった。
川越警察署へ向かう途中で巣鴨警察署に電話を掛ける。俺が捕まった時担当刑事だった溝口さんを呼び出してもらう。数分して溝口刑事が電話に出た。
「おう、神威か。久しぶりだな。元気で真面目にやってるか?」
「お久しぶりです。真面目にやってるに決まってるじゃないですか」
「どうしたこんな早い時間に?」
「実は自分の家の前に車を停めていたら駐禁をきられたんですよ。しかも夜中にですよ」
「駐禁か……」
「溝口さんの顔で何とかなりません?」
「そりゃ無茶だよ。課だって違うし……」
「冗談ですよ。どうにかして駐禁を覆すってできますかね?」
「うーん…、難しいな……」
「ですよね…。分かりました」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫って何がですか。ワッカ外さないとしょうがないでしょ。素直に受け入れますよ」
「そうか、でも神威」
「はい?」
「あんまり警察官、困らせるなよ」
本当にこの人は俺の性格を知り尽くしているもんだなあ。これから俺がやろうとする事をもう分かっている。さすが調書を取りながら色々話しただけはあるな。
「分かってますよ。じゃあ、また時間ある時でも連絡させてもらいますよ」
「おう、じゃあな。お手柔らかにしてやれ」
「ははは、すみませんでした」
電話を切ると、百合子が不安そうな表情で俺の様子を伺っている。
「何、そんな顔してんだよ。知り合いの刑事に聞いたけど覆すの難しいみたいだな。とりあえずこういう理不尽な駐禁に対してはどう対処するか、俺が実際に目の前で見せてやるよ。百合子、スキッとさせてやる」
そう言って俺は不敵に微笑んでやった。