十二月十一日 土曜日…。
朝、目を覚ますと時計の針は十時を回っていた。新宿に仕事行くのが十二時半だから、もうちょっとして出発すればいい頃合いだ。西武新宿駅に寄って、あの駅員二人と話せる時間は多少とれる。素直に謝れば、こんな小さな問題でいつまでもグジグジと言いたくない。男らしく水に流してやろう。
手早く着替えを済ませ、いつもより早めに家を出る。最近、外の空気が冷たい。もう十二月の中旬だし、寒いのは当たり前だ。本川越駅までの歩く距離がこうも寒いと辛くなってくる。家から駅まで、時間にして徒歩七分。運動も兼ねるとちょうどいい場所に住んでいるが、今日ぐらいは途中でタクシーを拾いたいぐらいだった。
駅に着くと、いつものように小江戸号の特急券を買って新宿へ向かう。本川越からだと客席はまばらだが、途中の狭山市駅、所沢駅に停車すると四号車は一気に満席になる。煙の量も満席なので半端じゃない。煙草が嫌いな人だと、絶対に四号車は座っていられないだろう。
そういえばあれから彼女からの連絡がない。昨日、電話で簡単に説明したが少しぐらい心配してくれてもいいんじゃないか。その時、タイミング良くさおりからメールが届いた。
「これから病院&買い物に行ってきます!」
メールを見て、少しムッとした。昨日の事について少しぐらい触れてもいいものを…。私はデッキに出て、彼女に携帯を掛けた。
「もしもし。」
「おはよー。」
「……。」
「どうしたの?」
「ん、いや…。さおりってちょっと希薄だなと思ってね。」
三十秒ほどシーンとした空気が流れる。
「昨日の電車の事を言ってるの?」
「ああ…。」
「龍が大丈夫だと言ったから、私は気にしなくても大丈夫なんだなと思ったの。」
「だからそういう事じゃなくてね。メールくれるにしてもさー、少しぐらい気にかけてくれてもいいんじゃないの?」
「龍はいつも自分の事ばかりね…。」
「何だと?」
「私、龍の事ばっかり気にしてられないから。」
「何だよ、その言い草は?どういう意味だよ。」
「どうせ、そういう風にとっちゃうんだよね…。」
「おまえなー…、自分の事、棚に上げてふざけんじゃねーよ。俺の女なら普通は昨日何かあったみたいだけど大丈夫ぐらい気にするだろ。それを何が病院と買い物に行ってくるねだよ。」
「もういい…。」
「そうかよ。なら今度会った時は別れるつもりでいろよな。」
口調が強くなる。昨日の件も手伝ってか、自分自身イライラしている。分かっているが、ついさおりに八つ当たり気味になってしまっている。感情を抑えられない。お互い口論になり、嫌な気分のまま電話を切った。
ちくしょう。こうなったら浮気でもしてやるか…。イライラしていると、どうでもいい方向に考えがいってしまう。考えてる内に小江戸号は新宿に到着する。
改札右手にある駅員待機室に近づくと、若い駅員がボーっとしていた。時計を見ると、十一時十五分。仕事の時間までまだ一時間はある。簡単に昨日の事を頭の中で整理してから、若い駅員に声を掛ける事にした。
「すいません。」
すいませんとすみません。正しいのはすみませんだが、私は状況に応じてあえて使い分ける事にしている。
「はい。」
「ここのトップを出してくれ。」
「は?」
「ここのトップだ。」
「トップと言われましても…。」
「ここのトップって言ったら普通、駅長だろ?」
「は、はい。失礼ですがお名前は?」
「昨日揉めた者だって言えば通じるよ。」
「は、はあ…。分かりました。」
困惑の表情で若い駅員は窓口にある電話を手に取った。財布の中に昨日書いてもらった一筆の紙は入っている。一度取り出して紙を確認すると、若い駅員も電話を切り終えたところだった。さっきのさおりとのイライラを若い駅員にぶつけてるだけだった。
「すいません。そこの改札口を出た右手にあるドアの前でお待ち願いますか?」
「分かりました。すいません。」
改札に定期券を通して出ると、すぐ右側にドアがあった。中に通されないで、外で待たせるなんて、随分本川越駅とは同じ系列駅でも対応が違うものだ。昨日の事を思い出すと静かな青い炎が音を立てずに、体内で燃え上がってくる。十分ほど待たされてから、ようやくドアが開いた。しかし、出てきたのは昨日の駅長、助役とは違う人だった。胸についている名札を見ると、駅長と書いてあった。
「駅長の間壁です。昨日の件ですが本当に申し訳ございませんでした。話は聞いております。こちらの対応が悪く、お客様に大変ご迷惑をお掛けし、不愉快な思いをさせてしまいまして本当にすみませんでした。」
間壁さんはとても低姿勢で好感の持てる人という印象だった。しかし真壁さんがいくらいい人そうでも、昨日の駅長である大関を出してもらわない事には何も話は進まない。ここはちゃんと言い分を言わないといけない。
「とんでもないです。駅長の間壁さんですね。私、こういうものです。」
間髪入れず、名刺を間壁さんに差し出す。
「あの西武新宿駅の駅長さんて一体何人いるんですか?」
昨日、本川越駅の駅長、村西さんに書いてもらった紙を出して見せる。
「昨日いた、ここの駅長の峰って人を出してもらいたいのですが。」
「本日、峰はお休みになっています。私が今日の勤務ですので代わりに来た次第です。この度は本当に申し訳なかったです。」
改札口の近くなので結構人がいる。そこで周りの目を気にせずに深々と頭を下げる間壁駅長。非常に男気を感じる。私は慌てて制止した。
「こんな若輩者の私に頭を下げるのは辞めて下さい。別に間壁さんが悪い訳じゃないんですから。私は昨日の駅長と助役に会いに来たのです。本川越駅駅長の村西さんに、今日ここに来ると伝えといたはずですが…。」
「はい、お話は聞いております。ただ峰が休みなので、私が承らせていただいているのですが…。」
内心こんなに丁寧で人の良さそうな人に、私の言い分を話すのは辛かった。
「生意気な事を言わせてもらいます。私は昨日の峰さんと朝比奈さんが対応してもらわないと、話にならないんです。本川越の村西さんが昨日、あの二人が大変申し訳ない事をしたと反省してると言ってましたが、どういう事だが私には理解に苦しみます。今日、私は西武新宿に来ると言ったんですよ?それが今まであの二人から連絡は一切無い、駅に来ても休みでいない。謝ってると言っても、何も誠意が感じられません。」
「申し訳ないです。本当にお客様のおっしゃる通りです。」
すまなそうな表情で私に頭を下げる間壁さん。その後ろから年配の駅員がまた一人こちらに近づいてきた。私の顔を見ると、年配の駅員は頭を下げてから口を開いた。
「突然すいません、助役の福島と申します。先日はお客様に大変無礼な事をして、申し訳ありませんでした。」
駅長共々助役の福島さんも一緒になって深々と頭を下げてくる。私は周りにこんな二人の姿を見せたくないという思いでいっぱいになった。
「頭を上げて下さい。別に間壁さんや福島さんが悪い訳じゃないのですから。嫌な言い方ですけど、あの二人が直接謝ってもらわないと、何も意味がないんです。お願いですから私に頭を下げるなんて止めて下さい。周囲の目だってありますから。」
一心不乱に頭を下げる二人の姿に自分の怒りは無くなりそうになる。だが、それ以上に今日いないあの二人が許せない。
「すみません、少しお時間ありますか?」
間壁さんが問いかけてくる。時計を見ると、まだ仕事まで四十分ほど時間があった。
「はい。」
「よろしかったら中にお入り下さい。」
「分かりました。」
改札口横の駅員待機室へ入ると、他の駅員は不思議そうに私を見ている。
「よろしかったらお掛け下さい。」
「失礼します。」
ドアのすぐ近くに折りたたみ椅子が置いてあり、私はその椅子に腰掛けた。
「間壁さんや福島さんに言っても仕方ない事だとは思いますが、昨日の騒ぎの駅員二人がいなません。今日来ると言ったのにもかかわらず、休みでここに来てもすっぽかされ、連絡の一つもありません。これが西武鉄道のやり方ですか?」
「いえ、お客様のおっしゃる通りです。本当に申し訳ありませんでした。」
「間壁さんに謝ってほしくて、こんな事を言っているのではありません。頭を上げて下さい。問題は昨日の二人は駅長、助役という立場です。その二人がこんな無責任な対応で、西武鉄道はこれでいいのかと問いたいんです。今日、休みでここにいないにしても、結局は間壁さんや福島さんにこの場を無責任に押し付けて、自分たちはのうのうと知らん顔。よくそれでここの駅長が務まるなと思います。今現在、峰さんからここに連絡一つ無いですよね?」
「は、はい…。ただ峰、朝比奈たちも非常に反省していまして…。」
「申し訳ないですが、本人たちの行動を見ていると、反省していますっていくら人づてに聞いたところで何も誠意は感じられません。」
「確かにそうです。はい…。」
厳しい事を言っているのは自分自身、百も承知だった。話していて自分自身も心が痛かった。見た感じだけで、人の良さそうな感じがにじみ出てる間壁さんに福島さん。この人たちに冷たい言い方する自分が嫌だった。それでも後戻り出来ない。自分が納得いくまでは…。彼女の事もあってか、自分に言い聞かせた。
「それと昨日の問題を起こした女性客ですが、狭山市駅で降りる時、駅員にちゃんと話をして、名前や連絡先を言うと言ってました。その件で何かありましたか?」
「いえ、何の報告も受けてないので、今のところは何もないです。」
予想通りだ。あの馬鹿な女の言葉は何も信用していなかった。
「やっぱりそうですよね。そう思いました。それで昨日言っておいたんです。」
「はい。」
「あれだけの騒ぎ起こしておいて、都合よく逃げるなら二度と小江戸号に乗るなと。」
「はい。」
「もし乗ってるのを私が見つけたら、あの女は許すつもり一切ありませんので、今度は逃がしません。駅員のみなさんにも協力してもらいます。」
間壁さんは返事をどう返したらいいのか、困った表情で黙っている。無理もない。自分の立場を考えると、すぐ簡単には返答を出せないだろう。私は話題を変える事にした。
昨日のいきさつを細かく話し、この部分がどうしても納得出来ないと伝えた。
「要は私が許せないのはここの駅長の峰さんに助役の朝比奈さん。それにあの女だという事です。」
「すいませんでした。こちらの峰と朝比奈の対応が悪く、お客様にご迷惑掛けてしまい申し訳なかったです。お客様の言い分は正しいです。その女性客も切符を無くしたと言っても、実際にお客様が持ってるのですから、その座席の権利は当然お客様の席となります。その女性客の言い分はおかしいですね。」
「ええ、あの女は私の座る予定だった席に対し、自分は子供用の料金でその席を買ったと言ってました。しかも私よりも遅い時間の購入です。」
「それはありえないです。こちらもコンピュータで座席管理してますので、切符が重複するというのも考えられません。まあ、万が一と言う可能性はあるかもしれませんが…。」
「あの女にはもし本当に切符を買ったとしても、常識がないと言いました。そんな半額の特急券を買って二席分とろうと誰がしてるんだって。私はここ十年間、冗談混じりながらも喫煙車両をもっと増やしてくれって訴えてきました。実際、朝の上りと夜の下りなんてほぼ満席で煙草を吸いたくても吸えない人がたくさんいるじゃないですか?」
「ええ、おっしゃる通りです。」
「それでも喫煙車両を増やさないというのは、西武鉄道も世の中の禁煙運動もあって現状維持というのがやっとという事ですよね?」
「はい、その通りです。」
「でもそこまで世間体を気にするなら、唯一喫煙車両の四号車の切符を買うのに、子供料金で購入出来るようしてあるというのはおかしいと思います。親のエゴで四号車に乗る子供たち。体に悪いというのは誰にでも分る事です。西武鉄道が世間に対して格好つけるなら、四号車は二十歳未満の乗車は禁止ぐらいの格好のつけ方をしてほしいです。そうすれば昨日みたいな件は起こらないし、いい方向にいけると思います。」
「本当にそうですね。そう出来ればいい方向にいくと感じます。」
チラッと時計を見ると、十二時十五分になっていた。そろそろ仕事の時間だ。話を切り上げないといけない。せっかく間壁さんや福島さんともいい感じの雰囲気になってきたのに、残念だが仕方がない。
「すみません。私、そろそろ仕事の時間なんです。出来る限り間壁さんや福島さんの顔を立てる形にしたいと思います。」
「よろしくお願いします。」
「ただ、この件は今度あの二人と直に話してからじゃないと、何とも言えません。」
「何とぞ穏便にお願いします。」
「忙しい中、お邪魔して申し訳なかったです。それでは失礼します。」
私が遠くまで歩いても二人はずっと深く頭を下げたままだった。仕事に向かう前にスッキリして良かった。まだ物事が解決した訳じゃないけど、間壁さんや福島さんと話せて良かったと感じる。昨日の怒りはほぼ消えていた。あとは今日うまくすっぽかした峰と朝比奈の二人と話すだけだ。出来ればことを荒立てたくない。間壁さんや本川越駅の村西さんの顔を立ててあげたい。
仕事場で休憩時間の時に、昨日あった小江戸号の出来事をみんなに話した。私のとった行動について、みんなの意見は賛否両論だった。しかし私の怒りについては誰も間違っていないと言ってくれた。
パソコンでデータを作りながらも、私の頭の中はどう解決しようかと、その事でいっぱいだった。本当は今日、西武新宿駅に行った時点で駅長の峰、朝比奈に文句言って終わりにしたかった。何故、こうも私の思惑からずれてしまうのだろう。仕事が中々はかどらず、考え事ばかりしてしまう。
「龍さん。ハッキリ言って、その駅員舐めてますね。」
後輩の田中が声を掛けてくる。私は作業を一時中止して、田中を見る。
「ああ、ほんとに舐めてるとしか言いようがない。」
「どうするんです?」
「うーん、とりあえず俺は自分の名刺も渡してあるし、携帯の番号も書いてある。向こうから連絡あるのを待って、それから動くといった感じかな。」
「そうですね。」
「まあ、俺も面倒だから裁判とかまで考えてないよ。許す条件として、西武新宿の終電を二時ぐらいにしろとか…。」
「それ出来たら、西武線を利用する人々の間で喜ばれそうですけどね。」
冗談でたまたま発した言葉だが、確かに今の最終は平日で十二時四十六分。それも上石神井駅止まりだ。本川越までだと、十一時五十七分が最終だから終電が早過ぎる。
「駄目元で言うだけ言ってみるか。まず無理だけどな。」
田中と雑談しながら、ふとした事が頭に浮かぶ。私が昨日の話をすると、みんなが面白がって聞き耳を立ててくる。非現実な話だが、いかにもありそうな話題でもあるからだろう。誰に話しても面白く聞いてくれるのなら、もしこの件を元にして小説にして書いてみたら、一体どうなるのだろうか。今まで小説など書いた事などない。学生時代に読書感想文など書いたぐらいだ。もうちょっと話が進んだら、この事を活字にしてみたらどうだろうか。そう考えると自分の事ながら、ワクワクしてきた。
パソコンを扱う事に関しては、会社内で私の右に出るものはいなかった。自分の立場をうまく利用して、経費で一ギガのメモリスティックを購入する。USBケーブルに差し込むだけで、簡単にパソコンデータのやり取りが出来る優れ物だ。試しにワードを使って、小説を書いてみようか。頭に浮んだ事を活字にしていけばいいだけだ。
何故、私は急に小説なんて書こうと思ったのだろうか。多分、今日仕事に行く小江戸号の中で起きたさおりとの口論を振り払いたくてという誤魔化しもあるのだろう。
結局その日は何事もなくいつも通りに家に帰った。あれだけ間壁さんに言ったにもかかわらず、峰からの連絡は何もなかった。携帯番号まで教えているのだから、すぐに謝ってくればいいものを…。考えていると、峰と朝比奈に対する怒りが増してくる。
「けっ。小説でも書き始めてみるか。」
独り言を言いながら自分のパソコンを起動させて、ワードを開く。通常の原稿用紙だと一行二十文字、桁も二十文字だから、一枚で四百文字。ワードは一行四十文字、桁を四十文字に設定すれば、ワード一枚で千六百文字。単純計算で原稿用紙の約四倍になる。まずは書かないと何も始まらない…。
タイトルは…、西武新宿物語。いや、あまり良くないな。小江戸号事件…。別に事件じゃないしな…。まあいい、タイトルなんて後から決めたっていいはずだ。今まで小江戸号に乗って新宿に通った日々を思い起こしながら、様々な実話に近い物語を書いてみよう。
「今日の仕事を済ませ、帰り支度を済ませる。家に帰って飯を喰い風呂に入れば、あとは寝るだけだ。川越と新宿を毎日のように往復して、週に一度だけの休みを部屋でゴロゴロして過ごす。それが三十三歳になった私の日常だ。」
出だしがこんな地味でいいのだろうか。まあ、とりあえず書ける内に出来るだけ先に進めておこう。何ページになるかは全然分らない。初めての試みなんだから、出来上がった作品が駄目だっていい。別に私は今後、物書きとして喰っていく訳じゃないのだから…。
突然、携帯が鳴る。さおりからだった。あれからお互い連絡してなかったが、向こうから我慢出来ずにしてきたのだろう。
「はい。」
「もしもし。」
「何?」
どうしても言い方が冷たくなってしまう。
「あれから色々考えたの。」
「それで?」
「好きなだけじゃ駄目だったんだなって…。」
「別れたいなら、ハッキリ言ったらどうだ?」
「今、家の前に来てるの…。」
「先に言えよ。今、行くから。」
すぐに着替えて外に出る。何であいつは私の子供を妊娠してるのに、軽く物事を簡単に言えるんだ…。頭の中は苛立ちでいっぱいだった。玄関を出ると、さおりが立っていた。
「何なんだ、おまえは…。一体どういうつもりだ?」
「そんな大きな声出さないで。ここじゃ話すのも何だし、私の車に乗って…。」
私は黙ってあとをついて行った。彼女の車に乗り、冷たい目線で睨んだ。
「何であれぐらいの事で別れるとか抜かしてんだ?」
「あなたとは性格が合わないかなって…。」
「おまえ、そんなんでよー。よく子供が欲しいなんて抜かしたな?よく簡単に別れるなんて言えるな?」
普段は大人しめのさおりだが、今日はすごい冷たい表情をして私を見ている。苛立ちはどんどん増すばかりだった。お互い口を開かずに時間だけが無駄に過ぎていく。
「だって龍は何かあると、すぐにキツイ言い方しかしない。全然優しくないじゃない。たまには私だって優しい言葉の一つでもかけて欲しいわよ。」
「甘ったれるな。俺は誰の前だって常に堂々と変わらずに自分を貫いているんだよ。おまえは何なんだよ?いつも人前じゃ無口で、こんな時だけ偉そうに物事ほざいているだけじゃねーか。」
「私たち合わないよね…。」
「別れるって事を言いたいならハッキリ言えよ。」
「そういう事になるかな。」
「そうか…。分ったよ。一時の感情で言ってるんじゃないんだな?」
「うん…。」
「けっ…。お腹の子はどうすんだよ?」
「こうやって話してるのも、この子にいい影響を与えないよね…。」
さおりはそう言って両手でお腹をさすっている。
「いいか?子供は二人の親がちゃんといるからこそ、笑顔で大きく元気に育つんだ。そんな簡単に別れようって奴が、子供を産む資格なんて無いんだからな。」
「……。」
「今、別れるならおろせ…。おまえに俺の子は絶対に産まさせない。ふざけんな。」
かなり酷い台詞を言っているのも自覚していた。かなり感情的にもなっていた。でも自分自身の感情はもう止められない。押さえが利かない。
「分りました…。子供は私が責任もっておろします。」
「信用出来ない。本当にそう思うなら、ちゃんと紙に書け。」
私は手帳を取り出して、白紙のページを一枚破った。彼女にボールペンを渡す。
「本当にそのつもりなら、この紙に一筆書け…。」
黙って千切った手帳にペンを走らせる彼女。その姿を見てると、私の心は残酷な気持ちで支配されていく。
「これでいい?」
「日時もちゃんと記入しろよ…。」
もう後戻り出来ないんだな。こんな簡単に終わりがやってきて、私は一人の命を消そうとしている。さおりは書いた紙を私に渡してきた。
「本当にいいんだな?」
「まだ何か話しあるの?もう終わりなんだから、手短に済ませたいんだけど…。」
「てめぇ…。」
思わず拳を握り締める。私の態度に体をビクッとさせるさおり。
「安心しろよ…。俺は絶対に女は殴らねーよ。」
「そんな事はしないって思ってる…。」
「じゃあ、何でビクッてしてんだよ?ふざけんじゃねーよ。」
「もうそろそろ帰っていい?」
「勝手にしろ。だけど、おろす費用とかどうすんだよ?」
「今まで散々龍に出させてばかり甘えてきちゃったから、私が全部責任もってします。こうなったのも仕方ない事だから…。」
「ふざけるな。別れるのと子供の件は別だ。俺にも責任はあるんだ。」
「もう今日で…、これで終わりにしたいの…。」
そんなに言うほど私は酷いのか。苛立ちと悲しみが頭の中を駆け巡る。
「分った…。もう何も言う事はない…。ただ掛かる費用とかで大変だったら、いつでも連絡してこい…。」
「それは問題ないです…。」
「……。もうこれで最後だ。もう…、連絡はしない…。」
こんなに冷たいさおりは初めて見た。ショックだった。今まで私と付き合ってきて、もう少しでゴールインするはずだったのに…。ずっと私の激しい性格に対し、ただ我慢してきただけだったのだろうか。
気がつくと、勝手に彼女の車から降りて外に出ていた。子供を産むと言ったのに、何であんな覚悟しか出来ないんだ…。やるせない気分で家に戻った。振り向くと、さおりの車は発車して道路に出るところだった。
部屋に戻り、パソコンの前に座る。何があっても西武新宿に対して、私は噛み付いたのだ。この憎悪を西武鉄道にぶつけてやりたい。あんな小さな事からこんなになってしまった。自分のせいにはしたくなかった。今は小説を書き続けるだけだ。しかしキーボードで打とうと思っても、さおりとの事を振り返ってしまい中々進まない。何で何もかも駄目になっていくんだ。今の私には小説にしか当たるものがない。
十二月十二日 日曜日…。
目を覚ますと、パソコンの上に突っ伏していた。どうやら小説を書きながら寝てしまったようだ。どのくらい書けたのだろう。見てみるとワードの設定ページ数にして、たった三ページの途中までしか書けてない。駄目だ、こんなんじゃ話にならない。メモリスティックにデータを保存してズボンのポケットに入れる。続きは仕事の合間にでも、ちょっとずつ書いていけばいい。
スーツに着替えて家を出ようとしてから、変な違和感に気がついた。今日は日曜日で仕事が休みだった事を…。突っ伏して寝たせいか、いまいち寝た感じがしない。もう一度、ゴロゴロしよう。横になって体を休めていると、いつの間にか寝てしまった。
目を覚ますと夕方の五時になっていた。携帯を見ても誰からの着信はなかった。昨日のさおりとの喧嘩を思い出す。あいつ、あれから一切連絡をくれていない。私は完全に一人になってしまったのだなと自覚した。寂しさが周りを包みだしてくる。本当にあいつ、子供をおろすつもりなのか…。メールを打とうと思って携帯を手に取る。
「女とは話し合って完全に終わりにしました。子供もおろさせます。今までいつも相談に乗ってもらったのに、本当に申し訳ありませんでした。ご迷惑をお掛けして申し訳ないです。」
仲のいい知人たちには私に子供が出来た事を伝えていた。これであいつと別れるなら、それなりのけじめを周りにもつけなければいけない。私は自分の打ったメールを繰り返し何度も読み返した。目に涙がにじむ。仕方がない事なのだ。私は知人たちにそのメールを送信した。やるせない気持ちになる。でも自分が犯した過ちなのだ。
すぐに私の恩師ともいえる中学時代の先生からメールで連絡があった。
「残念だったね。考えた末の決断なら仕方ありません。仕事頑張って下さい。」
続いて仲のいい先輩や友達から続々メールが届いた。
「とりあえず、ご苦労様でした。私は別に迷惑を受けたとは思っていないので気にしないで下さい。また飯でも喰おう。」
「俺は大して相談にのってあげられてないから大丈夫だよ。」
「そうかぁ…。終わったかぁ…。ウマくやって欲しかったけど、まぁ、しょうがないことだね。」
「そうですか。了承しました。色々つらいでしょうけど元気出して下さい。」
みんなからのメールを読んで、自虐的な気持ちになる。もっといい方向にいかせられなかったのか。もっと方法はなかったのか。私は携帯をまた持ち、メールを打ち出した。
「もう連絡はしないとは言ったけど、俺はさおりの事を真剣に考えていたからこそ、おまえとのけじめは済んでも、まだやらないといけない事があるのに気づいた。俺はさおりのお袋さんには迷惑掛けたと反省している。だから俺なりのけじめをつける。」
さおり宛にメールを送信すると、すぐに彼女の家に電話を掛けた。
「何の用で連絡してきたんですか?」
さおりのお袋さんの声は非常に冷たく聞こえた。当たり前の事だ。
「今回の件はさおりさんから聞いてますか?」
「ええ。」
「本当に申し訳なかったです。」
「しょうがないです。お互いの考えが食い違ってそうなったのですから。」
「私は確かにガミガミ口うるさいです。でもそれは先の生活を考えて…。」
「すいません…。もう終わったのですから、出来ればそっとしておいて下さい。」
「でも…。」
「あの子も自分なりに考えての決断だったんだと思います。だから私はさおりの意志を尊重したいです。あなたがどうだとか責めるつもりは一切ありません。」
「すみませんでした…。あのー…。」
「あの子なら今さっき病院に行くと言って出掛けています。お願いですから、さおりを放っておいてあげて下さい。」
電話を切ると一気に力が抜ける。何で誰も私を責めてくれないんだ。さおりの母親ぐらい、もっと私を責めたっていいのに…。あいつはもう病院に行っていると言っていた。もう全てが手遅れなのか。私は男だからまだいい、さおりは女なんだ。現実問題として子供をおろすという事に対して逃げられない立場なのだ。自分の甘えなのは重々承知だ。私は彼女にメールを再び打った。
「本当にすみませんでした。今、君のお袋さんに電話して謝りました。これでしつこくしてしまったけど、実質上、俺からは最後の連絡だと思って下さい。さおりを傷つけてしまった事に反省しています。思いやりが足りず、自分の主義思想を押し通そうとしたのが今回の原因だと今は思いました。もう少しスマートなやり方を出来てたらこんな風にはならなかった。やり直したいとか言う訳ではなく、自分にも半分は最低でも責任あるお腹の子に対し、俺は何もせずにこの世から消されてしまう事になんともいえない寂しさを感じます。でもその寂しさは実際に体内に宿し、現実から逃げられない君の立場から比べれば、些細なものなのかもしれません。色々な事を思い出し、酷い事を言ったけど、そこの部分だけは君に心から悪い事をしてしまったと思っている。本当にごめんなさい。これからは個々の道を歩く訳だけど、俺はさおりを本当に愛してたから子供を作りました。その気持ちだけは嘘じゃありません。それを平気でおろせと言えた自分がいけない。つらい事を押しつけてしまって本当に申し訳ない。さおりを傷つけてしまって本当にごめんな。男、父親として情けない限りです。」
しばらく待ってもさおりからの返事は何もなかった。特にする事もないので、小説の続きでも書く事にする。何かしてないと落ち着かないのだ。パソコンを起動させる。その時、私を呼んでいる親父の声が聞こえた。部屋を出て、階段を降りて居間に行く。親父が私を見るなり近寄ってきた。
「おい、おまえは一体、何をやったんだ?」
「は?」
すごい剣幕で怒鳴りつける親父を見て、こいつは何を考えているのだろうと思った。絶対、私に対して何か誤解している。
「西武新宿駅の人から電話が三回もあったぞ。」
「それで向こうは何て言ってたの?」
「いや、おまえが家にいらっしゃいますかってだけで、ハッキリと用件は言わないんだよ。それで三回も電話があるだろ?」
それはそうだろう。何の用件かだなんていえる訳がない。言えばどんどん言っただけ、自分自身の首を絞めるだけなのだから。仮に家に三回電話していないなら、何故、私の携帯にかけてこないのだろう。本当に悪いと思っていたら、そのぐらいの誠意を見せなれないのか。私だったら、まず連絡して平謝りに謝るしかないと思う。
「ああ、それはね…。」
私はこの間の小江戸号での一部始終を詳しく親父に説明した。そして昨日の西武新宿駅での出来事まで…。
「うーん…、それは確かに向こうに落ち度があるな。」
「でしょ?本当はそんなに引っ張りたくないんだ。でも今日だって家に三回も電話しときながら、俺の携帯には何もない訳でしょ。そんなんでいいのかって。」
「まあ、あまり変な風に絡むなよ。」
「俺だって面倒臭いんだ。もっとちゃんとした対応してくれてれば、次は気をつけて下さいで終わりに出来るんだ。でも今の状態だと許す訳にはいかないでしょ?謝るにしても誠意が足りな過ぎるし、礼儀に欠けてるよ。」
「おまえの立場ならそうなるな。」
「酷い事はしないけど、ガツンと言ってやらないと気が済まないからね。」
「出来る限り穏便に済ませろよ。」
「分ってるよ。」
その日は一日中家にいて、小説の続きを書いていた。ページ数にして十二ページまで進んだ。原稿用紙に直すと、約四十八枚計算だ。こんなに文章を書くなんて生まれて初めてだったが、やり始めると結構面白いものだ。もちろんメインはこの間の小江戸号での経緯を書く予定だ。筆が進むとはこういう事を言うのだろうか。
もちろんあれから彼女からの連絡はなく、私にはこの小説を完成させるしかないという明確な意思が生まれてきつつあった。
十二月十三日 月曜日…。
今日からまた慌ただしい一日が始まる。いつものように小江戸号に乗って新宿に行き、帰りも同じように帰ってくる。何も変わった事のない平凡な一日である。唯一違うのは、駅長の峰と自分の彼女から連絡が一回も無かったぐらいだ。駅長の峰に関しては昨日、三回連絡したから、もういいとでも思っているのだろうか。私はやるせない気持ちを指先に伝え、憎しみを込めて小説を書く。何でこんなに全てがうまくいかないんだ。
夜中になっても小説をずっと書き続けていた。自分で打った文章を見直すと、結構な打ち間違いがある。手直ししながら何度も書いた文章をチェックしていく。この表現方法よりも、こっちの方がいいと思った箇所の手直し。中々小説は進まない。やってみて、ただ文字の羅列を並べればいいという簡単なものじゃない苦労が、少しだけ分かったような気がした。小説の手直しの最中に、さおりから一通のメールが届いた。
「今週子供をおろすことになりました。同意書にサインしてほしいのですが、明日の都合はどうでしょうか?」
読んでいて悲しくなる簡潔な冷たい文章だった。ここまで私は彼女を追い込んでしまったのか。精神的に疲れが溜まっていた。自分の主義主張を押し通した結果がこうなのか。だとしたら私はどれだけの罪を背負ってしまったのだろう。さおりとの物語は私のエゴで終わりにしてしまった。周りを巻き込み迷惑を掛け、そこまでして自分を押し通す必要性はあるのだろうか。色々と自分に問いかけても答えは出なかった。彼女のメールに対する返事だけでもしておこう。
「分りました。つらい思いをさせてしまい、申し訳ないです。明日、仕事が終わってからなら問題ないです。明日、仕事が終わったら電話します。」
メールで送る文章でさえ、敬語になっている。もはや恋人とは言えない。完全に他人同士になってしまったのか。いや、他人の方がまだマシだ。ここまでお互いを傷つけ合わなくてもいいのだから…。
全てから逃げ出したかった。今の自分に押しかかる現状がとてもつらかった。西武新宿の件ですら、どうでもいいように思える。あの駅員からは相変わらず連絡が無いが、もう面倒でどうでもよくなった。自暴自棄…。この言葉が今の私には一番お似合いだ。
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