十二月十四日 火曜日…。
朝早くに目を覚ます。今日は打ち合わせがあるので、三時までに新宿へ向かえば良かった。時間的にもゆとりが持て、リラックスした状態で打ち合わせに望めそうだ。ただ昨日のさおりからのメールがずっと心に引っ掛かり、尾を引いている。考えても仕方がない。もうお互い後戻り出来ない状態になってしまったのだ。あまりあいつの事は考えないようにしよう。新聞に目を通している内に、再び睡魔が襲ってきた。
どのぐらい寝たのだろう。頭がボケッとしている。薄っすら目を開けると、辺りは漆黒の暗闇に包まれていた。部屋の電気が消えているせいだろうか。周りの様子が何も見えない。暗闇の中、目をよく凝らして見ると背後に人の気配がする。振り向くと小さな子供の形をした影が宙に浮いていた。男の子か女の子かすらも分からない。子供の形をした真っ黒な影が見えるだけであった。見ていて不思議に怖いという感情は無かった。むしろ親しみを感じるような気持ちをその影に抱いている。私はその影を見ている内、再び眠りに落ちていった。
携帯の目覚ましが鳴る。慌てて飛び起きて時間を確認すると昼の十二時を回っていた。さっきのは夢だったのか。さおりとの間に出来た子供が、何かを私に訴えたかったのだろうか。どっちにしても今日、仕事が終わったら彼女と会い、同意書にサインをするのだ。私に何が出来るというのだ。今の私にはネガティブな考えしか湧いてこない。そろそろ出掛ける準備でもしよう。ゆっくり風呂に入る。気分を変える為に、のぼせるぐらいお湯に浸かってから風呂を出る。部屋に戻ると、私の携帯に着信有の表示が出ていた。見てみると知らない番号だったので、あえて返信する必要もないだろうと思った。パソコンの前に座り、小説の続きをやろうとした時、親父から私宛に電話だと呼ばれた。
「誰?」
「西武新宿って言ってるぞ。」
やっと連絡がきたか。もしかすると私が風呂に入っていた時に、知らない番号で着信があったのは西武新宿からだったのかもしれない。まあ、あれから四日間経ったとはいえ、せっかく連絡してきているのだ。私は急いで部屋を飛び出した。
「もしもし…。」
「こちら西武新宿駅の朝比奈と申します。連絡遅れて申し訳ないです。」
「ええ、本当に遅過ぎですね。」
「申し訳ありません。」
ここは相手も謝るしか方法はないだろう。
「いいかい?」
「はい…。」
「今更電話でそんな謝られ方されても、何も誠意が伝わらないよ。俺はあの日の内に自分の連絡先まで教えたし、次の日、新宿まで直接行くとも言っておいたはずだよ。」
「すみません…。」
「その事は伝わってなかったの?」
もし、これで相手が聞いていなかったと誤魔化したら、その責任は本川越駅駅長の村西さんの責任になるだけだ。
「いえ、本川越駅の駅長から連絡は受けていました。」
「じゃあ、要するに俺を馬鹿にしてるって事だ?ただの若造がほざいたぐらいだから、別に気にする必要もないだろうって思ってるんだ?」
「そういう訳ではないです。」
「ふざけんな。そうじゃないなら何なんだ?俺の立場からしてみたら、そう思うの当然だろう?新宿行ったらすっぽかされ、連絡も今日やっとあったぐらいで…。」
「おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした。」
「一昨日、三回も家に電話したからもういいだろうと思ったの?」
「いえ、違います。」
これ以上、彼を責めてもどうにもならない。話題を変える事にしよう。
「あんただろ?最初に電車の中で俺に応対したのは?」
「そうです。」
朝比奈の声は明らかにか細くなっている。こうなるしかないのを承知で私は続けた。
「何だあの対応は?俺が何か間違っていたのか?それともあの女が間違ってるのか?こんな馬鹿にされて、公衆の面前であんな赤っ恥かかせられてよ。」
「申し訳ございません。」
「とりあえず電話じゃいくら謝られても気が済まない。」
明日…、いや今日、彼女との件があるから日にちはずらした方がいいだろう。
「明後日、そっちの駅に顔出すからその時に話し合おう。それでいい?」
「はい。本当に申し訳ございませんでした。」
電話を切ってから煙草に火を点け、一息入れる。ゆっくりと煙を吐き出しながら、明後日、駅に行ってからの事を頭の中でシュミレーションしてみる。ちゃんと向こうが非礼を詫びればそれで済む話にしたい。ついでに今、書いている題名の決まってない小説も、少しプリントアウトして持っていこう。出来れば、今回のこの騒動はいい方向に行かせたい。小さなどうでもいい事からここまでの騒ぎになってしまった。私的には後戻り出来ない。深々と私に頭を下げてくれた間壁さんに福島さんの姿を思い浮かべると胸が痛む。自分であの二人の駅員を責めながらも、心が非常に苦しかった。そこまでしてまで自分の主張が大事なのか。すぐに答えは出せない。それでも自分でサイは投げてしまったのだ…。様々な葛藤や矛盾が渦巻く中、事態はどう動くのだろう。答えは全て明後日で決まる。
部屋で煙草を吸いながらボーっとして時間を過ごす。A4サイズで書いた小説をプリントしてみたが、いまいち格好がよくない。本として読むには大き過ぎるのだ。この半分のA5サイズならしっくりきそうだ。三時に新宿だから、一時半の小江戸号に乗っていけばいい。私は早めに家を出て、文房具屋でA5サイズの用紙を購入してから、新宿へ向かった。打ち合わせが終われば、帰って同意書にサインをする。考えると気が滅入りそうになる。現状を打破するには、どんなに仲良くても男女の終わりは、こんなもんなのだと割り切るしかない。
その日は打ち合わせの最中も上の空で、全然仕事に身が入らなかった。時間を気にしてばかりで上司にもたるんでいると怒られた。事情を話す訳にはいかず、ただ私は頭を下げた。六時を過ぎた頃に彼女へメールした。
「今日、八時頃には川越に戻れそうです。着いたら連絡します。」
五分もしない内に返事は来た。
「分かりました。着いたら連絡下さい。待っています。」
私は何度もメールを読み直した。どう見ても、冷たく覚めたメールにしか見えない。
仕事を終えて、七時三十分の小江戸号に乗って川越に向かう。着くのはだいたい八時十五分ぐらい。さおりに会ったら、何て言葉を掛ければいいのだろう。これで本当に私たちの子供をおろしてしまう事になるのか。頭をフル回転させても名案は思い浮かばない。
小江戸号は高田馬場、所沢、狭山市と、私にお構いなく通過して行く。同意書…。それにサインするという事は、一人の尊い命を消す事だ。今まで感情的になり、酷い言葉を容赦なく浴びせてしまった。そして周りの人々も沢山巻き込んでしまった。本当に子供をおろした方がいいのだろうか。だが、それを覆すには大変な作業だ。私には何が正しい判断なのか分からなかった。車内アナウンスで本川越駅に到着する声が聞こえてくる。
駅に着くと、私はさおりにすぐに電話をした。十回ほどコールが鳴り、留守電に切り替わった。昨日、向こうから言ってきた事なのに何故電話に出ないんだ。少しばかりの苛立ちを感じる。この寒い中、ここで待っていても仕方がない。私は家に帰る事にした。道を歩いていると、携帯が鳴る。さおりからのメールだった。
「ごめんなさい。二時間ほど残業でした。今、仕事が終わったのでこれからそちらにすぐ向かいます。二十分ぐらいで着くと思います。」
それならちょっと前に連絡をくれてもいいものを…。苛立ちがどんどん募る。家に着いても、私は彼女が来るのを外で待っていた。あまりの気温の寒さに体が震えたが、少しも気にならなかった。家の前の道路を走る車を眺めていると、さおりの車が到着する。
「おい、残業になるなら前もって言ってくれてもいいだろ?」
「すいませんでした。これにサインして下さい。お願いします。」
冷静なさおりの台詞に、私は電車の中で色々と考えていた言葉が全部吹っ飛ぶ。
「分かったよ。サインすればいいんだろ?」
「お願いします。」
神威龍一。自分の名前を同意書に書き、続いて判子を押す。あれだけあった躊躇いは、不思議となかった。
「もう俺たち、やり直せないんだろ?」
つい、質問口調で卑怯な言い方をしてしまう。
「だって私たち、やり直せないでしょ?」
お互い、いつも先に相手の答えを求め合う堂々巡り…。これ以上、何の言葉も見つからなかった。これでさおりは今週の土曜日に病院で、私たちの子供をおろす事になったのだ。私と彼女のエゴで一人の命が消えていく…。それでも私は何もさおりに言葉を掛けてやれない。そしてお互い無言のまま別れた。私はさおりに別れ際一筆書けと書かせた紙切れを取り出してみる。
「子供は責任もっておろします。 十二月十一日 さおり」
感情的な口論からとうとうここまできてしまったんだな。自問自答を繰り返す。私は何も出来なかった。何かしら言ってやれないのか。言えないからこうなった。子供が可哀想だ。いや、この状態で無理に産んでも不幸なだけだ。どちらが悪いのか。両方に責任がある。完全に噛み合わなくなってしまった歯車。修復不可能だ。今後、本当に苦しいのは私ではなくさおりである。私は精神的にだけだが、彼女は精神的プラス肉体的苦悩も加わる。精神的だけでも私の数十倍は上なはずだ。どうしたらいい。もう私には何も分からない。お互いが納得して同意書に判子を押したのだ。何も出来ないだろう。早く忘れろ。考えても暗くなるばかりだ。早く忘れよう…。
十二月十五日 水曜日…。
同じ日常を過ごす。家を出て、小江戸号を使って新宿に行って仕事をする。終わったら同じく小江戸号を使って家に帰る。何も変わらない。いつもと違う事をしたとしたら、今、書いている小説を「A5」サイズに直してプリントし、読みやすいようにしたぐらいだった。それを西武新宿駅の峰や朝比奈に読ませたかった。
明日行ってハッキリさせる。お互いスッキリ出来たら私はこの小説を完成させる。西武鉄道の人たちにこれを見せて、面白かったら応援してもらう。自分勝手な理想だが、もしこうなったら今回の件に関わった人、全てが笑顔でいい方向にいけそうな気がする。一部、あのメガネの女を除いてではあるが…。彼女は騒ぎを巻き起こし逃げたのだから、そこまで私が気にかける必要もないだろう。
解決は明日。私は小説を早く完成させたい。十ページまでプリントしたものをまとめる。キーボードを叩きながら、ワードに文字をどんどん打ち込んでいった。ページ数もそこそこ進んだと同時に物足りなさも感じた。肝心のタイトルが決まってないからだ。どのような題名がいいだろうか。どうせなら電車に関係ある題名にしたい。電車、英語に直すと、トレイン。これじゃそのまんまだ。
とりあえずパソコンのデザインソフトを使って、小説の扉絵を作ってみよう。出来れば小江戸号の絵を表紙に使いたい。写真のままじゃなくて、利用してる人が見れば分かる程度の感じで…。
デザイン的に黒い感じの暗い表紙にしたい。見た目は地味だけど、ちょっと気になる程度の表紙。思いつくままに色々作ってみた。二時間ほど時間をかけて、自分で納得する表紙が出来上がった。あとはタイトルを入れるだけだ。題名を考えるのにまた三時間ほどかかる。頭の中にちょっとした閃きが走る。
「トレイン」
誰でも電車の事だと分かるだろう。もし、これをひらがなに直してみると…。
「とれいん」
これだ。これしかない。この小説のタイトルは、とれいん。これでいこう。時計を見ると、夜中の三時を回っていた。表紙にタイトル名を入れて完成させた。もうそろそろ眠らないと、明日に支障をきたす。
十二月十六日 木曜日…。
あれからちょうど一週間近くの時間が過ぎた。今日は西武新宿駅で駅長の峰と助役の朝比奈に会う事になっている。仕事をしていても小説を書いていても、常に苛々していた。当たり前だが、さおりからの連絡はあれから無い。私自身、出来る限りその件について考えないようにしていた。あと二日で彼女は子供をおろす。せめて男として何か出来ないのか。彼女の為じゃなくていい。お腹の子の為に何か出来ないのか。自分自身振り返ると、父親になる覚悟が全然足りてなかった。情けない男だ…。
身支度を整えて、新宿へ向かう。自作の小説「とれいん」はもちろん持っている。こんな状況になっても私は働いて給料を稼がなくてはならないし、西武新宿との一件も片付けなきゃいけない。今、私が出切る事はその二つだけしかないのだ。駅の件に関して私は絶対的に正しいという信念を持っている。
西武新宿駅に到着すると、改札口のところに見覚えのある顔があった。一昨日、電話で話した助役の朝比奈だった。私の表情が険しくなる。すでに朝比奈は私に気付いている様子で、真剣な顔で近付いてきた。
「先日はお客様に対し、本当に失礼な応対をしてしまい申し訳ありませんでした。」
「あのさ、あんたたちの行動を見てる限り、どう見たってそうは思えないよ。」
「もし、よろしかったら、こちらへどうぞ。」
以前、駅長の間壁さんと話す際に通された改札口横の駅員室へ入る。他の駅員は不思議そうな表情で私を見ている。促されるまま予め用意してある椅子に腰掛けると、あの時の駅長である峰も近付いてきた。私は峰に睨みつける。
「先日は本当に申し訳ありませんでした。」
二人とも平謝りだが、あれから時間が経ち過ぎている。そのせいも手伝ってか、素直に許すという気持ちにならなかった。
「あなたが駅長の峰さんですね?」
「はい…。」
「私的には先日の件について、迅速に動いたつもりです。その日の内に連絡先を教えて、次の日にここに来ると言ったはずです。」
「ええ、お客様の事はちゃんと聞いていました。本当に失礼な真似をして申し訳なかったです。すみませんでした。」
峰の横で立っている朝比奈も同時に頭を下げる。
「いいですか?私はあなたに公衆の面前で赤っ恥をかかされたんです。」
「い、いえ。別に私はそんなつもりで言った訳ではないんです。」
「他にどんな意味があるんですか?」
私は目を剥き出して、峰を見つめた。
「あの状況で…、あの時、あの場に立ってたのは私なんです。お客さんのせいでこれ以上電車を遅らせる訳にはいかないと言いましたよね?あの女は席に座ってます。電車の中からだって、外からだって傍から見たら、どう見たって私が誤解されますよ。違いますか?あれで赤っ恥をかかせるつもりじゃない?いい加減な事を言わないで下さい。」
「いえ、そんなつもりは…。」
「峰さんはあの時、お客さんのせいでこれ以上、電車を遅らせる事は出来ないと言ったじゃないですか?その台詞はあの時、言いませんでしたか?」
「言いました。ただ、そういう意味で言った訳では…。」
「あなたがどういうつもりで言ったか私には分かりません。ただ誰に聞いたって、みんなそれはそう思う事ですよ?誤魔化さないで下さい。」
聞いていて、非常に見苦しい峰の台詞。心の奥の静かな炎が一気に燃え上がってきた。
「それに朝比奈さんは、あれからしばらくしてからだけど、謝罪の電話をしてきた。でもあなたはその間、何をしてたんですか?」
相手の痛いところをガンガン突いてやった。さおりとの事で、やり場のない怒りをぶつけていた。自分で言ってて情けなかった。分かっていながら、それでも言葉は止まらない。
「私が間違ってるんですか?事の始まりはくだらない件で、しかもすぐに治まる事なんです。私は何回か治まるチャンスは作ったつもりです。簡単に言えば、あの女にこの席はこちらのお客さんのですから、どいて下さいで済む問題なんですよ。席に置いてあった荷物だって勝手にどかすと、セクハラだって騒ぐ馬鹿な女がいるから立って待っていたんです。それをあの女は戻ってきても、すいませんの一言も無しに知らん顔。当然、私に席の荷物をどかせぐらい言われてもしょうがないでしょ?」
「は、はい…。」
「そしたら、あの馬鹿女、逆切れじゃないですか。それで駅員さんを呼ぼうと、あの女も呼べとか偉そうに抜かしてたんで、こちらの朝比奈さんを呼んだんですよ。そうですよね、朝比奈さん?何か今までの状況で違うとこありますか?」
「おっしゃる通りです…。」
「あの時、駅員さんがあの馬鹿に、席の荷物をどかせと言ってくれれば問題になる事も何もないんです。でも朝比奈さんの対応は、あの女寄りの対応でしたよね?」
朝比奈は戸惑った表情をしながらも、私から視線を逸らさなかった。私の心の中はどんどん残虐的な気分に支配される。
「いえ、そのような…。」
「あの状況であの女の目線に沿って、座って応対してたじゃないですか?何時に切符買ったのかって、どうでもいい事をわざわざ聞いてくるし…。駅員なら切符の大きさ見れば、一目瞭然でしょ?客である立場の私にだって見れば分かりますよ。大きい切符は事前じゃ変えないって。前もって切符を購入している証拠でしょ。あの馬鹿は切符も無いくせに、身勝手にエスカレートしてギャーギャーうるさいし…。」
これだけ言ってもまだ言い足りない。自分自身の気が済まなかった。
「そこで峰さんがあとから来て、ようやく話の分かる人が来たと思ったら、あれでしょ?あんな赤っ恥かかされるとは思わなかった。十年間、この小江戸号に乗ってて、こんなの初めてだよ。それから謝罪の電話があったのも、結構時間が経っての一週間ぐらいあと。その二日ぐらい前に自宅には電話あったらしいけど、私は自分の携帯番号もちゃんと教えていましたしね。どう考えても馬鹿にしてんじゃないのかって思うでしょ?」
「携帯の方はですね。お仕事中だったら大変失礼にあたると思いまして、自宅の方へかけた次第です。」
苦しい言い訳をする峰。もちろんそんな言い訳が私の耳に届いても納得する訳にはいかない。
「ガキの使いじゃないんですよ。ガキの使いじゃ…。携帯番号を教えたって事は、普通、そっちに連絡をしろって意味でしょ?仮に仕事中で大事なようだったら、ちゃんと今は無理だって言えば済む話だし、そんなのは言い訳にしかならないですよね?」
私はあの時の状況を再度説明してから、その後の対応が悪いと繰り返し責めた。何度同じ言葉を使っただろう。自分でもウンザリするぐらい怒りをぶつけた。
「ではお客さん。あの時の乗車券代、四百十円をお返しします。」
峰の言った台詞が私の心に刺さる。本川越駅駅長の村西さんも同じ事を言ったが、峰が私に対して言うのは絶対に間違いだ。
「ふざけんなって。馬鹿にしてんのか?俺はそんな四百十円が欲しくて、こんな事してる訳じゃねえんだ。いらないですよ、そんなもん。あんまり馬鹿にしないで下さい。」
「決してそういう訳では…。会社の規則でそう決まってるんです。」
「もういい。どっちにしても今日はこれから仕事だし、俺はもう行きますから。」
「お客さん…。」
私は興奮しながらも、持ってきた「とれいん」の小説の途中まで印刷したものを見せた。
「今回のこの事はノンフィクションの小説として書き始めてます。これがその小説の一部です。良かったら見て下さい。」
「いや、結構です。」
駅長の峰は私の差し出した小説を受け取ってくれなかった。
「そうですか。まあ、今日の話し合いはこの辺で止めときます。あなたたちの出方次第で、私はどう出るか考えさせてもらいます。」
交渉は決裂。出来れば温和にいきたかったが、これでは話にならない。どうケリをつけてくれよう。プライベートでもうまくいかず、この件もこんなザマだ。今の私は憎悪の炎でいっぱいになっていた。
十二月十七日 金曜日…。
昨日の峰、朝比奈との話し合いが折り合いつかず、私は小説「とれいん」を寝る間も惜しんで書きまくった。憎しみを文字に変えて書いた。もう謝らせるだけじゃ済まさない。あの二人というより、西武新宿駅駅長の峰に対しての憎悪がどんどん膨れていった。許す方法として一つは、最終電車時刻を二時にさせる。無茶なのは承知だ。ただ、もし終電を二時に出来たなら、西武新宿線を利用する人々から感謝されて痛快だろう。もしくは電車の車内広告。その車内広告全て、今、書いている私の小説「とれいん」を宣伝させる。これも出来たら非常に気持ちいいだろう。相手の迷惑や受ける気持ちを気にしなければ、どんな方法だって出来るんだ。
仕事中でも、仕事そっちのけで小説を書き続けた。維持でも完成させてやる。初めての試みのはずだった小説を書くという行為が、全然違った方向に向かっていた。明日、彼女は私の子供をおろす予定だ。何も出来ない私は、せめて自分の主張が正しいと思ったら、それをとことん貫き通す。誤魔化しじゃない自分自身の心。自分の生き方を変えたくなかった。悪いものは悪い。いいものはいい。常にストレートに生きて行きたい。そんな自分の姿を自分の子供に見せてやりたいという思いが強かった。
「おい、神威。」
作業中にオーナーが声を掛けてくる。
「何でしょう?」
「日曜日はいつもなら休みだけど、全員出勤になったから。」
「えー。」
「うるさい。今、忙しいだろ?仕方がないんだ。」
「分かりましたよ…。」
理不尽な会社の要求。雇われである以上しょうがない事なんだと自分自身を納得させた。
三時半になって携帯が鳴る。聞き覚えのある音楽。さおりからの着信だった。もう彼女から連絡は無いと思っていたので、正直ビックリした。今になって一体何の用だろう。仕事中にも構わず電話に出る。
「もしもし…。」
途切れそうなほど弱々しいさおりの声。
「何だ?」
それでも彼女に対し、冷たい声しか出なくなっていた。
「これから病院へ行くところだけど、明日…、おろす事になりました。あなたも責任はあると言ってたし、報告だけはしておかないとって思って…。」
さおりからの突然の電話に、動揺を隠せなかった。充分理解していたつもりでも心が苦しかった。気持ちの整理はついていたんじゃないのか…。
「明日…、俺も病院に付き合うよ。一番大変でつらい思いをするのも、辛い思いもするのもおまえなんだ…。でも、俺は何も出来ない。それでもその子は俺にも責任はあるんだ。だから明日は俺も一緒に行きたい。これは逃げちゃいけない事だと思う。それでもさおりが来るの嫌だと言うなら、俺は我慢する…。」
今の自分で考えられる全てを精一杯彼女に伝えた。嫌がられようと私は最後を見届ける義務がある。自分のしでかした責任。それについて逃げては人間として失格だ。自分でもビックリするぐらい正直に言えた。ただ、相手の返答を聞くのが怖かった。
「分かりました。明日、九時に病院に行きます。」
「どこの病院なんだ?」
「大和産婦人科です。」
あそこの病院なら家から車で十分ぐらいだ。
「分かった。明日、九時にそこへ向かうよ。それでいいか?」
「はい。」
電話を切ると、オーナーにすぐ明日の事を伝えた。言い難い事だが、この際仕方がない。
「すみません。明日、自分の子供をおろすんです。それで一緒に病院へ付き合うので休みもらえますか?」
いきなり話を繰り出す私に対し、オーナーはジロリと一別する。
「別にいいけど、今、うちの仕事忙しいの分かってるだろ?しっかりしてくれないと困るよ。まあ状況が状況だからしょうがないけど。」
「すみませんでした。」
家に帰ると、以前さおりが渡してくれた私たちの子供の写真を手にとって眺めた。二枚のエコー写真。私の子供の写真…。彼女と楽しく過ごしてきた少し前の会話が、頭の中に思い出してくる。
「何だ、これ?全然どこに写っているのか分かんないじゃん。」
「ほら、ここ。ここに写ってんのが私たちの子供よ。まだそら豆太郎だけどね。これエコー写真っていって、特殊なカメラで撮ってんだよ。」
「何だよ、そら豆太郎って?」
「まだ小さいからちゃんと人間の形してないの。」
「それで、そら豆か。」
「えへへ…。」
「ここに写ってるのが、俺の子供か…。見てもいまいちピンとこないな。」
「何、言ってんの。あなたの…、龍の子よ。ねえ…、男の子かな?女の子かな?」
「絶対に男だ。」
「そんな事、言ってもし女の子だったら可哀相でしょ。」
「いや、俺には分かるんだ。絶対に男だってね。」
「もう少ししたら性別分かるみたいだけど、聞きたい?」
「さおりは?」
「私は出来たら聞きたくないなー…。現実的な話だと、男か女か分かっていれば、準備も出来るだろうけど、産まれてきて、初めてどっちか分かるっていうのも良くない?」
「まあ、産むのはおまえだ。好きにしなよ。」
「ありがとう…。」
気付くと私は涙を流していた。二枚の写真を持ちながら、私は静かに泣いた。
十二月十八日 土曜日…。
朝の五時、自然に目が覚める。これから九時にさおりと大和産婦人科で会う。愛し合っていたからこそ出来た愛の結晶。それを消し去ってしまおうとしている。そう考えると、非常に心苦しい。今、彼女はどんな心境でいるのだろうか。多分、男には一生掛けても理解出来ないほどの辛さなのだろう。
風呂に入り、ゆっくりと湯船に浸かる。のぼせるぐらい湯に浸かってから、シャワーを浴びる。温度調節のつまみを一気に下げて、水のシャワーを体に掛けた。全身一気に冷える。こんなもんじゃないんだ。あいつの辛さは…。私は水のシャワーをしばらく浴びていた。いつから私はこんな風になってしまったんだろう。昔は本当に体を鍛えてきた。今の体は鏡で見て、本当に情けなかった。私に何か出来ないのか。こんな水を体に掛ける事しか思いつかないのか…。風呂場の窓を開けると外はとてもいい天気だった。
車で九時二分前に大和産婦人科に到着する。入り口の自動扉を開けると、左手に受付があり、さおりが椅子に座っていた。同意書にサインしてからたったの四日間だが、遠目に見ても彼女の姿は酷くやつれているように見えた。軽く深呼吸をしてから私は近付いた。
「大丈夫なのか?」
最初、何か言わなくてはと思って口を開いてみたものの、馬鹿な台詞をはいてしまったと我ながら後悔する。ここまでさおりを追い込んでしまったのは私自身なのだ。それを会うなり大丈夫かはないだろう。それでも彼女は少し微笑みながら軽く頷いてくれた。
受付を済ませてから、エレベータを使って二階に行く。看護婦が彼女に色々細かい説明をしているのを私はただ見ているだけだった。看護婦が去り、並んで椅子に腰掛ける。
「ほ、本当にごめんな…。こんなになっちゃって…。」
「ううん…、しょうがない事だったんだよ。」
「受付でお金払ってたけど、いくら掛かったんだ?」
「え…、ううん…。それはいいの…。」
「全然良くないって。俺にだって責任はあるし、何言ってんだよ。」
「お願いだから…、ね?」
「さおり…。お願いされても、そういう問題じゃないだろ?」
「お願い。今は…。お願いだから私の言う事をきいて…。」
これから手術に臨むさおり。真剣な眼差しで私を見ている。今は言う通りにしておいた方がいいだろう。私はそう判断した。これ以上、さおりに負担や嫌な感情を抱かさせては絶対にいけない。
「分かった。ごめんな…。」
「龍だけが悪い訳じゃないの。お互いが無理し過ぎちゃってたんだよ。きっと…。」
「うん…。」
「ずっと待ってるの?」
「当たり前だ。」
「でも一時ぐらいまで手術、掛かると思うよ?」
「何時になったって待つよ。そのぐらい当たり前だろ?そんな気遣いなんかより、もっと自分自身を大事にしてくれよ。俺なんかより、ずっとおまえの方が辛いんだ。」
「……。」
「さおり…、本当に…、ごめんな…。」
「ううん…。」
「こんな風にさせるつもりじゃなかったんだ…。ごめん…。」
「うん…。」
それから十五分ほどお互い黙って待っていた。ちょっとして看護婦が近付いてくる。いよいよ子供をおろす時が来てしまったんだ。今の気持ちをどう表現すればいいのだろう。いや、それよりも彼女に私は何も言葉を掛けてやれないのか。彼女と共に椅子から立ち上がり、看護婦の説明を聞いた。私は看護婦がさおりに何を言ってるのか、何も聞こえなかった。拳をギュッと固め、力を入れる。
「それでは行きましょう。」
看護婦がさおりに言った瞬間、体が勝手に動いた。
「本当にいいのか?」
私はさおりと看護婦の間に割って入り、目を見て聞いた。彼女に私が掛けてやれる最後の言葉だった。さおりは少しはにかみながら、ゆっくりと頷いた。どんな気持ちで頷いたのだろう。私には分からない。分かっているのは自分は男として最低な奴だという事だけだ。
「よろしくお願いします。」
私は看護婦に頭を下げた。もう自分には何も出来ない。せめて彼女に負担掛からないよう誠心誠意、心の底からお願いした。少し戸惑った表情で看護婦は私を見ていた。
看護婦について遠ざかっていくさおりを見て、胸に穴がポッカリ開いた感じだった。
一人残されて、ただ手術が終わるのを待つしかない私。本当にこれで良かったのか…。いくら考えても、もうどうにもならない。周囲の視線が一斉に非難の眼差しで見られているような錯覚に陥る。しかしそんな事はどうでもよかった。今まで生きてきて、一番辛かった。ただジッと待つ。それだけの事がとても苦痛だった。手術を受けるさおりの状態を考えると、気が狂いそうだった。出来る事なら私が変わってあげたい。タイムマシーンがあったら、ちょっと前に戻りたい。でもそんな事は絶対に不可能で、単なる自分自身への気休めにしかならない。考えれば考えるほど後悔の念が強くなるばかりだった。
今さっき手術に向かう前のさおりのはにかんだ顔を思い出す。果たしてあれははにかんだ顔と言うべきなのか…。どう表現していいのか分からない。ただそのはにかみの裏にはとても辛く、恐怖心だってあるに違いないはずだ。そんな状態なのに私に対して見せてくれたさおりの優しさだったのか。心が痛い。せつない。涙が出てくる。ここじゃ、人が多過ぎる。私は急いでトイレに向かった。トイレに駆け込むと、嗚咽を漏らしながら思い切り泣いた。過去に二度だけ、このぐらい泣いた事があった。やり場のない悲しみ。でもその時とは明らかに種類の違うものだった。いくら泣いても全然すっきりしない。悔やんでも悔やみきれない。
私は上着から手帳を取り出して、白紙の部分を捜す。今日、今現在の事は一生心の中で噛み締めなきゃいけない。今の心境を素直に手帳に書き出してみた。
仕事も休み、九時に大和産婦人科でさおりと会う。何を言っても、どうにもならない事を分かりながらも、俺は色々と話す。九時二十分頃二階に行き、もう少しで手術が始まる。看護婦が「行きましょう。」と迎えに来た時に最後の確認をした。「本当にいいのか?」おまえは少し考えてから俺にはにかみながら頷いた。そのはにかんだ表情が何を意味してるのかは分からない。でも一番辛い思いをするのは、俺ではなくさおり自身なんだ。俺は看護婦に頭を下げて、よろしくお願いしますといった。俺には何も出来ないし、何もしてやれない。心の底からお願いした。これから一時ぐらいまで俺は一人でおまえを待つ。ただ待っている事も出来ずに、今、こうして文章を書いている。何故、こうなってしまったのだろう。以前から腹を括ったと、さおりに俺自身言っていたが、もう少し違ったやり方が出来たんじゃないか。周りから頭が切れると言われ、自分でもそう思っていたが、単なる馬鹿だったという事だ。結果的にお互い嫌な思いをして、おまえを傷つけてしまっただけなのだから…。男が生まれたら「大地」と名前をつけたかった。以前、さおりに話した事あったよな?俺の師匠でもう亡くなってしまったけど、ずっと…、今でも忘れずに恩を抱いている人がいた事を…。何の恩も返せないまま、先に逝かれてしまった。俺に生き方を教えてくれた素晴らしい人だったんだ。その人の名を出来たらつけたかったんだ。都合のいい言い方だが、本当にそう思っていた。しばらく俺はずっと一人で生きていくだろう。俺たちの子の事はずっと心にとどめながら生きていくのが、せめてもの償いだと思う。一人の生命を…、愛し合って出来た生命を消してしまった。俺とおまえのエゴで消してしまったのだ。でも深く傷ついているのはさおりだ。俺は精神的なだけで…。本当にごめんな。そして男か女か分からないけど我が子よ…。俺が悪かった。
読み直して見ると、まるでさおり宛てに書いた手紙のようだ。手帳に書き終わり、時間を確認するとまだ十時半だった。一時までかなり時間がある。このまま待っていると、気が狂いそうだった。病院内にいるのが嫌で堪らない。気がつくと、私は外の駐車場にいた。車に乗り込み発進させる。
自宅に向かって運転する。ただ待つという事に我慢が出来ない。自分の生き方を少しでも誇りに思えるようにしたい。今、私が出切る事。それは西武新宿の件に対して、後ろ指を指される事なく正々堂々と決着をつける事だ。実際に彼女やお腹の子には関係ないかもしれないが、自分の正しいと思った主義思想は投げ出さずに頑張りたい。今日までは西武新宿に対して、悪い方向に考えていたと思う。終電時間を二時してみようとか、私の書いている小説を広告で宣伝させるとか…。そんなんじゃない。これからでも自分自身で恥じない生き方をしよう。
部屋に着いて、ノートパソコンをバックにしまう。待っている間だけでも「とれいん」を書き進めよう。西武新宿の中傷内容じゃない、いい形の物語を作ろう。
病院に着いて先程の待合場所に向かう。周囲の目など一切気にせずに、私はパソコンを起動させた。読んだ人が良かったと思えるものを書きたい。一心不乱にキーボードを叩きながら、物語を進めていった。
十二時五十分。さおりが言っていた手術が終わる予定の時間まであと十分。私は構わずに小説を続けた。横には赤ちゃんが産まれたばかりの幸せそうな家族が看護婦と話をしている。見ていて辛いが、結局のところ実際に自分の招いた種なのだ。現実を受け入れろ。これ以上、自分に甘えるな。どんどん物語を完成させろ。自分を叱咤激励させた。
「俺はこれ以上、自分の行き方を間違わない…。」
そっと心の中で呟いた。その時、遠くから通路を歩くさおりの姿が目に入った。手術が終わったのか…。私はジッと見つめながら、彼女が近付くのを待った。
「……。」
何て表現したらいいのだろう。手術前と手術後でさおりの顔がまるで別人のようになっていた。魂が抜けたような感じを受けた。自然に私は駆け寄り抱き締めた。
「さおり、大丈夫か?大丈夫か?」
「……。」
目も虚ろでどこを見ているか分からない彼女の姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。何が自分にも責任あるだ。こいつ自身は充分償いを済ましている。悪いのは全部私だ。今まで何故もっとさおりに気遣ってやれなかったのだろう。マタニティブルーという言葉があるぐらいだ。さおりは妊娠していて、精神状態だって安定してなかったのだ。今になってそんな大事な事に気付いても遅過ぎだ。私は大馬鹿だ。本当に大馬鹿だ…。
「ごめんな。さおり、本当にごめんな…。」
「ううん…。」
エレベータで一階に降りて受付近くの椅子に座らせると、ようやく彼女は口を開いた。
「大変だったろ?辛かったろ?大丈夫か?」
ありきたりの言葉しか掛けられない自分が情けない。この程度のボキャブラリーしかないのに、よく小説を書こうだなんて思ったもんだ。それでも私は思いつくまま話し続けた。
「おまえがどんな思いで手術に望んだのか、俺には分からない…。ただとても大変で辛かったのだろうって事ぐらいは分かりたい。そんな簡単な言葉じゃ、さおりの気持ちを言い表せないのかもしれないけれど…。手術終わった後のおまえの表情を見て、俺が悪かったんだなと本当に反省した。すまなかった…。」
ゆっくり時間を掛けて彼女は唇を開く。
「ううん、もう…。もういいの。」
「ごめん…。」
「これで…、これで終わりに…、しよう…。」
「……。うん…。」
相手の言い分を優先させたい気持ちでいっぱいだったが、どこかが引っ掛かっている。これで私たちの関係を終わりにするとしても、もっとちゃんと話し合ってスッキリさせてやりたい。自分勝手な考えだが、そうするのがお互いの為になると思った。
「ああ、これで俺たちは終わりだ。俺、手術で待ってる間、ずっと色々考えていたんだ。確かに待ってるのが辛くなっちゃって、パソコンで小説書いて自分を誤魔化してたけどね。俺はさおりが好きだよ。今だってね…。もちろんおまえもそうだったと思ってる。ただ、お互い好きと言っても、その度合いが違ってた事に、気付かなかったんだと思う。こうなるまで、ずっとお互い責任があると思っていた。だけど手術が終わった時のさおりの表情を見て、ハッキリ分かったんだ…。俺が全て悪かった。やり直したいとか、そういう事を言ってるんじゃない。おまえが妊娠中なのに、何故もっと俺が気遣ってやれなかったんだって後悔してる。この気持ちはずっと…、いや一生背負って生きていくつもりだ。」
「……。」
「あと、これだけはお互い必ず約束しよう。」
「え?」
「以前、さおりに子供を産む資格はないと言ったが訂正する。俺もおまえも、もしいい人と巡り会って子供を作る事になったとしても、その前に籍をちゃんと入れてからにしよう。じゃないと産まれてくる子供が可哀相だ。約束出来るか?」
「はい。」
「あと何か俺に言いたい事あるか?」
「ううん…。」
「分かった。今まで本当にごめんな。」
「そんな事ない。ありがとう…。」
「帰りはどうするんだ?送って行こうか?」
「今朝もそうだけど、友達の麻子ちゃんが帰りも送ってくれる約束してるから大丈夫。」
「そうか…、何時に来るんだい?」
「一時ぐらいにはって言ったけど…。」
時計を見ると、一時半を過ぎていた。
「とっくに過ぎてんじゃん。もっと早く言ってくれよ。俺なんか気にしないで連絡しなよ。ほら早く。」
「うん。」
携帯を取り出して友達に電話を掛ける彼女を見て、一つの恋が終わったんだなと自覚した。寂しいけど自分の蒔いた種だ。現実を受け入れるしか私には選択肢がない。
「麻子ちゃん、もうとっくに駐車場で待ってたんだって…。」
「じゃあ、早く行ってやりな。」
「うん。」
二人で立ち上がり、病院の玄関に向かう。私は傍でさおりの体を支えながらゆっくり付き添って歩いた。外に出ると、友達の麻子ちゃんの車が待っていた。
「今日の病院の費用、いくら掛かったんだい?そのぐらい俺に払わせてくれ。」
「大丈夫。」
「さおり、そういう問題じゃないだろ。俺の気が済まないんだ。」
「あなただけが悪い訳じゃないでしょ。お互いが余裕なさ過ぎたんだよ。きっとね…。だから大丈夫。今までデート代から何から、ほとんど龍に出してもらったでしょ?いつも悪いなって、これでも思っていたんだよ。」
「今はそんな事を話してる訳じゃないだろ。せめていくら掛かったぐらい教えてくれ。」
「駄目、言わないよ。」
そう言ってさおりはあれ以来、初めて微笑んでくれた。麻子ちゃんが車の中から心配そうな目で私たちを見ている。
「分かったよ。さっきから友達も待ってるだろ。早く行ってあげなよ。最後に本当に困ったら何でも言ってきな。」
「うん…。」
またさおりは私に微笑んでくれた。少しだけ救われた気持ちになる。私は麻子ちゃんの方に歩いて行き、礼儀正しく頭を下げた。
「迷惑掛けてしまいすみません。よろしくお願いします…。」
「いえ…。」
私はさおりの乗った車が発進して見えなくなるまで、その場に立って見送っていた。自分がした事は許されない行為だ。でも彼女の最後に微笑んでくれた笑顔でスッキリ出来た。
今日、自分のエゴで我が子の命を奪ってしまった。ずっとこの事は背負っていくしかない。忘れてはいけない事だ。大事なのは今後の私自身の生き方だ。西武新宿の問題、いい方向で自分を示したい。今、書いている小説「とれいん」は出来る限りいい作品にしたい。相手を憎むんじゃない。あの件はみんなが出来る限り笑って済ませるようにもっていきたい。それが今現在、我が子、さおりに対する償い方だと思った。これだけ辛い目に合っても私はまだ生きようとしている。それなら胸を張って生きていきたい。我が子よ…。頑張って生きるから見ていてくれ。
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