駅前なので人が多い。女を見つけるのにひと苦労である。
通行人を掻き分けながら、私は女を探した。本当にこういう時は邪魔である。こいつら真っ昼間から何をブラブラしているんだ。他にする事ないのだろうか。
え、私はどうなのかって?
そんなこたぁ、どうだっていいんだ。大した問題じゃない。それよりあやつは、金も払わず、どこに行きくさったんだ?
「ちょっと、どいてどいて」
人混みを掻き分けながら進むと、後ろから肩をつかまれた。振り向くと、今風の若いあんちゃんだった。
唇にピアスをし、鼻にも銀色の鼻くそみたいなピアスをしている。髪の毛は、汚らしい金色といったらいいのだろうか。骨盤よりも、あきらかに下にズボンを下げ、はいているのは流行なのか?
「おまえ、何、人の事を突き飛ばしてんだよ?」
「今、忙しいんだよ」
肩をつかんでいる手を払いのけ、行こうとすると、背中に痛みを感じた。後ろから蹴りを入れられたのだ。私はこれでも三十二歳。今風のガキは二十そこそこ。
「おい、おっさん。どこ行くんだよ?」
一回りぐらい年の離れたガキに、こんな仕打ちを受けるとは……。
私は、顔を引きつらせながら近づく。
「あれ、おっさん。顔が青いぜ?小便でも漏らしてんじゃねえの?」
「いや~、すんません、すんません……」
「今さら謝られてもよ~」
ガキは謝る仮の姿に、すっかり油断している。気安く私の肩に腕を組み、余裕たっぷりの表情で睨みつつ、ニヤニヤしていた。
今だ……。
「ふざけんじゃねえよ、このやろ」
私は、クソガキの太腿に全力で膝蹴りをぶち込んだ。
「うぎゃぁ~……」
不意打ちを食らったガキは、地面でゴロゴロ転げ回る。大袈裟な奴だ。辺りは野次馬が集まり、私とクソガキを見ていた。
このままここにいても捕まる。私は全力で走って、その場から逃げた。
イライラしていた気分は、思い切り膝蹴りをぶち込む事で、すっきりしていた。
気がつけば、女のマンションの方向へ走っている私。荒い息を何とかする為、ゆっくりと深呼吸してみる。
私の膝蹴りは、今風の若いのにも有効である事が分かった。もう必要以上、ビクビクする事はないのだ。この膝蹴りさえあれば、私はある程度、傍若無人に生きる事ができるのだ。
生まれて初めて膝蹴りを振るったのが、小学生。次におばさん。そして若者。様々な年齢層問わず、私の膝蹴りは通用される事が判明された。
汗が引いたのを確認すると、私は女の部屋のブザーを押す。
「はい」とよそ行きの声で応対する女。「俺だ!勝手に帰りやがってよ!」とインターフォンに向かって怒鳴った。
「何しに来たの?帰って」
「おい、ふざけんじゃねえぞ!人を呼び出しといて、食う物食ったら勝手に帰ってよ。しかも金だって払ってねえじゃねえかよ」
「近所迷惑でしょ?お願いだから帰ってよ」
「ふざけんじゃねえって!とりあえず出て来い」
「嫌よ。そんな怒った状態じゃ、何をされるか分からないもの」
「おまえが仕掛けたんだろが!」
「静かにして!そして帰って!」
「分かった。落ち着くよ。でも、来たんだから、ちょっと、話ぐらいさせろよ」
「もう帰って……」
「頼むよ。もう怒ってない」
「……」
しばし会話が途切れた。平静さを装ってはいるが、心の内部は、マグマのようなイライラが煮えたぎっている。
このままの状態で帰る事など出来やしない。とにかく女を部屋から引っ張り出さない事には何も始まらない。
「今日だって話し合いをする為に、俺をあそこへ呼んだんだろ?」
「それはそうだけど…」
「確かに怒り過ぎたよ、ごめん」
「……」
「一回だけでも冷静に話し合いをしようよ、な?」
出来る限り、優しい声で言った。
「……」
しばらく経ち、入り口の扉を開けるカチッという音が聞こえた。
しめしめ…。
私は、思わずにやけてしまう。とうとう燻りだされてきやがった。
静かに開く扉。もうちょいだ。もうちょっと開けば、靴をその合間に捻り込める。
「もう、お願いだから帰って……」
半べそをかきながら、顔を出す女。そんな泣くような事を私がしたとでも言いたいのであろうか?
「ご、ごめんごめん…。ちょっと俺、大人気なかったよ、ごめんな」
鳩にエサをあげる時に出す、特別な猫撫で声で言う。この声を聞けば、いかに私が優しいんだろうなって事が分かるはずである。公園にいる鳩の群れだって、私がエサを持ちながら、この猫撫で声を出すと、一斉に集まるぐらいなのだ。
「……」
「おい、返事ぐらいしてくれよ?悪かったって、心の底から思ってるんだ」
「ここじゃ、目立つから入って……」
チェーンを外す音が聞こえ、ドアが普通に開いた。このアマ、チェーンなど掛けてやがったのか……。
はらわたが煮えくり返りそうな中、私は笑顔を装い女の部屋に入る。
一体、どうしてくれようか?
この黄金の膝から繰り出す脅威の膝蹴りでも、お見舞いしてやるか…。
いや、蹴ったらおしまいだ。別に私はこやつと別れたい訳ではない。それに私の必殺技である膝蹴りをぶち込んだら、きっと泣くどころの騒ぎじゃ済まないだろう。
私は男である。か弱き女性に膝蹴りを叩き込むなど、野蛮な行為はしない。まあ、前に口うるさいおばさんにこの膝を叩き込んだ事があるが、あれはあれでいいのだ。第一、人の怒っているところへ、口出ししてくるほうがおかしい。
「冷たいお茶でいい?」
人が考え事をしているのに、こやつ、何というぶっきらぼうな言い方を…。
「あ、ああ……」
彼女はグラスを棚から取り出し、氷も入れずに烏龍茶を注ぐ。いくら何でもそれは酷いんじゃないか。氷を入れたっていいじゃないか…。
思っただけで口にはあえて出さない。これも男の美学の一つである。
「もうね…。私、限界なのよ……」と、女が呟く。
「え、何が?」
「目玉焼きの件といいね、やっぱりあれは醤油じゃなきゃおかしいよ」
「……」
ふざけるなと言い返したいところだが、ここで私までムキになるのは違う。ここは大人の対応で、おおらかになってやろうじゃないの。
「私がどれだけ醤油派かと言うとね……」
黙って聞いてりゃ、好き勝手言いやがって……。
何が「醤油派」だ。へそが茶を沸かすわ。私がこんな事思っているとは知らず、彼女は延々と醤油について、どれだけの想いがあるかを語りだした。
「例えばよ、醤油を加熱したフライパンの中に垂らす…。すると、ジュワーって何ともいえない香りが辺りを包み込むでしょ。それって祭りでよく出たりするイカ焼き屋のゲソを焼いている時の匂いと近いのよ。あれは人類を幸せにする匂いなのよ。だって考えてみて。あの匂いを嗅いで、怒る人っていないでしょ?」
「ま、まあ…。確かにあれはいい匂いだな……」
「でしょ?だから目玉焼きにはね、醤油しか掛けちゃいけないのよ。何でこの国も、法律をキチンと作らないのかしら。おかしいと思わない?日本人には醤油が王道なのよ。だからあなたもこれからは、気を遣って真面目に目玉焼きには醤油をぶっ掛けてみて」
「え~、それとこれとは話が違うじゃねえのよ」
私の台詞に目をギラつかせる彼女。言っている事がメチャクチャだ。
「ほら、あなたはまるで分かっちゃいない!私がね、どれほどこだわりがあるか分かるの?」
「いや、そんなこだわりうんぬん言われてもさ……」
やばい。このままでは前と同じ展開になるだけだ。何か違う話題をしなければ……。
「こだわらなきゃいけないところってあるでしょ?誰だってさ」
「そりゃああるけど……」
「じゃあ、今、私が目玉焼き作るから、醤油をたくさんぶっ掛けて食べてみて」
「えー!」
「それすら出来なきゃ、私はもう無理よ」
「いや、ちょっと待って。今さっき食べたばかりだろ。お腹いっぱいだよ」
「じゃあ、私が夕食を作ってあげるから、その時、醤油を掛ける?」
目玉焼きを作るぐらいで何が偉そうに夕食を作るだ……。
「あ、あのね、今日はこれから用事あるからさ、今度の時にそれは約束するからさ……」
「今度っていつなの?私、これでも相当我慢してきてるのよ?」
「分かった分かった…。おまえが明日以降、食事を作ってくれる時ならいいだろ?」
「じゃあ、一週間後。それまでお互い連絡取り合うの、やめておきましょう」
「何でそうなるんだよ?」
「当たり前じゃない!私がどれだけこだわっているかって、それを表現するのよ?最低でも一週間は必要じゃないの。それまで私は精神を高めとくわ」
「精神を高めるって、会社はどうすんだよ?」
「あーもう!邪魔よ。私はすっかりモードに入ったから、早く帰って!一週間したら、私から必ず電話を入れるから」
「な、何だよ、モードって……」
「いいから早く出てって!気が散るでしょ」
そんな訳で、私は彼女のマンションから追い出されてしまった。
あと一週間……。
その間、私はどうすればいいのだ?
本当にわがままな女である。
思いつめるとトコトンといったタイプなので、ああなると心配だ。ひょっとして会社もサボるのではないだろうか。
まあ、落ち着くまで、一日二日は様子を見たほうが賢明だ。
どっちにしてもあと一週間したら、私は彼女の作った目玉焼きに、醤油を掛けて食べなければいけない運命にあるのである。
うまく回避する方法はないだろうか?
急に卵アレルギーになったとか……。
焼き鳥を食べていたら、急にジンマシンができるようになったとか……。
いや、あやつには通じないだろう。
それまで私は、この黄金の膝の手入れでもしておく事にするか。
自分の部屋の中を見回す。どこかいい場所は……。
「あった!」
押入れの横にある木の柱。これなら頑丈そうである。私は近くに立ち、右足を軽く浮かせた。
「ほぉ~……」
空手家の使う息吹という特殊な呼吸法。私はやり方も知らないが、前に漫画で見た事がある。見よう見真似で何とかなるだろう。体内の気をこの右膝に込め集中させた。
「ほりゃ!」
右膝を柱に突き立てる。
「あぁ~……」
物凄い激痛が走り、私は叫び声を出しながら、その場に倒れ込んでいた。
「痛い痛い痛い痛い痛い~……」
思わず痛みで目に涙が滲んだ。
私の膝蹴りは、あくまでも生き物限定なのだ。こんな無機質の木などに試しても、痛いだけである。人間にぶち込んでこそ、威力が活きるのだ。
しばらく右膝を押さえたまま、畳の上に横になる私。まだ膝はズキズキしている。
本当なら、彼女のマンションへ押し掛けた時、あのまま強引に抱いてやれば良かった。この私のテクニックでメロメロにさせてさえいれば、目玉焼きの話などにならなかっただろうに……。
何が悲しくて、こんな痛い思いをしなきゃいけないんだ。
生きているのが悲しくなってきた。それでも人は前向きに生きなきゃいけない。誰に教えられた訳ではないが、それが私の生きる道でもあるのである。
生きていれば、辛い事などこれから山のように押し寄せてくるだろう。
あの武田信玄も、何故、風林火山といったのか?
最後に「山」という字を持ってきている事から、私はこう思う。
人生とは、風が林の間をすり抜けてきて、やがて火事になる。そして山の如く辛い事が押し寄せてくるものだと……。
こんな事まで思いつくなんて、私はすごい才能があるのではないだろうか?
そうか、この感動を彼女に教えてあげよう。私は携帯を取り、あやつへ電話を掛けた。
「何よ、一体?一週間、連絡取らないって約束したばかりでしょ?」
電話に出た彼女は、烈火の如く怒っていた。約束ではなく、一方的に一週間会わないと言っただけだろうが……。
「それがね、ちょっと聞いてくれよ。俺さ、すごい事を思いついちゃってね」
「すごい事?何よ?」
「武田信玄の風林火山って知ってるか?」
「そのぐらい知ってるわよ。馬鹿にしないで」
「別に馬鹿にしてないだろ。落ち着いて聞いてくれよ」
「早く言いなさいよ。私は今、集中して精神力を高めているところなんだから」
「あのさ、風林火山っていうのはね、人生に例えている訳なんだよ。風が林の間をすり抜けてさ、それが火事になる。それから山のように辛い事が、どどっと押し寄せてくる事を意味しているんだよ」
「はぁ?」
「おいおい、これを聞いて何が『はぁ?』なんだよ?」
「最初に言っておくけどさ、あんた、武田信玄がどこの戦国大名か知ってるの?」
「う…、ほ、北海道かな……」
「馬鹿じゃないの。信玄は、甲斐の国、山梨県よ」
「し、知ってらいっ!」
「知らなかったじゃないの。何で信玄が北海道なのよ?」
信玄、信玄って気安く抜かしやがって、このアマ……。
「しゃ、洒落で言ってみただけだよ……」
「ふん、何が洒落よ。じゃあ、疾き事風の如く、除かなる事林の如く、侵涼する事火の如く、動かざる事山の如しって、それを信玄が誰の句を元にしたものなのか分かるの?」
何だ何だ?
小難しい事ばかり抜かしやがって……。
「だ、誰の句って……」
「だから風林火山を思いついたの元は何って事」
「り…、李書文……」
「はぁ?誰よ、それ」
「……。や、槍使いの物凄い拳法家……」
「バッカじゃないの?孫子の句を下に、信玄は思いついたんでしょ。移動する時は風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように、守るのは山のように…。これが風林火山でしょうが。何が人生に例えるよ。まったく、呆れちゃうわ」
只の馬鹿ではなく、バッカと間に「ッ」まで入れやがって……。
「そんな信玄の風林火山なんて、どうだっていいんだよ!」
「何よ、あんたから約束を破って、電話を掛けてきて言い出した事でしょうが?」
「知らんよ、そんなもんは」
「もう…。やっぱ別れる!あんたとはやってられない」
「お、おいっ!」
「一週間の約束すら守らないでさ、冗談じゃないわよ!」
怒鳴りだけ怒鳴って、女は電話を切った。何度も掛け直すが、電源を切ったのか繋がらない。
イライラが増してくる。何であやつは、ああ身勝手なのだ。
もう一度、電話をしてみたが、やはり繋がらない。
クソ、あの女め……。
絶対に思い知らせてやる。私は心に固く誓った。
風林火山の意味を間違っていたという理由で、何故、別れなければならないのだろう。
目玉焼きに、醤油を掛けなきゃ別れる……。
あやつは少し、おかしいのではないか?
だいたい李書文を馬鹿にしやがって……。
彼は中国で、かなり大物の武道家なんだぞ。神槍李書文と言われたぐらいの槍の使い手であり、また八極拳の達人でもある。
李書文の打撃は物凄く破壊力があったそうで、「二の打ちいらず」とまで謳われたものだ。これは、ほとんどの対戦相手を一撃で倒し、無敗を誇っていたからである。
負け知らず……。
一撃必殺……。
「待てよ…、これは今の私と一緒ではないか!」
私の放つ脅威の膝蹴り。これで三人の人間を一撃だけで倒してきた。喧嘩は今のところ負け知らずである。
中国拳法の達人である李書文と、私が重なって見えた。
平成の生んだ天才膝蹴り男。
うん、これこそ私の相応しい呼び名である。
一撃必殺の膝蹴りを持ち、戦いも負け知らず……。
こんな素晴らしい男、どこにいるのだ?
あの女め……。
思い出すとイライラしてくるぜ。私は納得がいかない。また携帯を取ると、あやつへ電話を掛けてみた。
「あの野郎……」
何と、あやつはこの天才膝蹴り男である平成の李書文に対し、着信拒否という最も卑劣な手段を用いやがった。
「許せん……」
あえて、ここは口に出してみる。
今からあの女のマンションへ行っても、鍵を掛け、中へ絶対に入れてくれないだろう。では、どうするか?
同じフロアーで、あやつが出てくるのをそっと見張る……。
いかんいかん、これじゃあ、只のストーカーだ。
風林火山を思い出してみる。
移動する時は風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように、守るのは山のように……。
ならば答えは一つだ。明日なら、あやつは普通に仕事へ行くだろう。幸いあやつの職場はイトーヨーカドウ。レジ打ちをしていたはずだ。
風のように速くイトーヨーカドウへ向かい、林のように静かに近づく。そして火の如くあやつへ言いたい事をいい、山のようにでんと構える……。
うん、これは完璧な男である。
脅威の一撃必殺の膝蹴りを持ち、負け知らずの私。しかも、戦略は風林火山をも使いこなす強者。
もはやあやつになす術などなかろう……。
翌日の朝十時まで大人しく自分の部屋で待ち、怒りを充電した。
もう、あの女の身勝手さには、いい加減嫌気が差している。
まさか私が職場に来るとは夢にも思うまい……。
着替えを済ませると、私は一目散にイトーヨーカドウへと向かった。
今まではコソコソしながら街を歩いていたものだが、今は違う。私にはこの黄金の膝があるのだ。胸を張り、堂々と街を闊歩した。
通り過ぎ行く人間が、英雄を見るような目つきで見ているのを感じる。
この平和ボケした日本の中で、唯一の武人が歩いているのだ。みな、注目せずにはいられまい。うしし……。
自然と笑いがこぼれる。
英雄の微笑み……。
やばいやばい、これじゃあ、また通り名が増えてしまう。平成の生んだ天才膝蹴り男だけで、今は充分である。
やっぱり私は選ばれた人間なのだというのを痛感する。え、どこら辺がかって?
そんなもの、私を見ていて気がつかなければ、あんたは凡人だというだけだ。神様はこんな私へ特殊な破壊力を持つ膝を与えていたのだ。学生時代、喧嘩を避けてきたが、何故、この膝を使わなかったのだろうか。
いや、それは違う……。
本能で分かっていたのだ。脆い小動物のような連中相手に、この膝をぶちかましたら大変である。もう大惨事になっちゃうだけだ。だからこそ、三十二年間も封印してきたのである。
優しいものだな、私は……。
ついつい考え事をしていると、自分自身に酔ってしまう。
あれだけ彼女に罵倒されたって、私は膝蹴り一つ、ぶちかましたりしないのである。冒険物のキャラクターでいったら、差し詰め賢者というところだろうか。いや、その前に武道家が相応しい。待てよ、賢者も似合っているし……。
しばらくその場で立ち止まり、冷静に考えてみた。
「そっか!」
賢者の知性を併せ持った武道家……。
うん、これこそ私に相応しいのだ。
目の前にはイトーヨーカドウが見える。待っていろよ、あやつめ……。
私は意気揚々とスキップしながら、建物の中へ入っていった。
ランチタイムに作る材料を買いに、たくさんの主婦たちが世話しなく動き回っている。
この愚民共が……。
そこのけそこのけ、平成の李書文が通るぞ。
出来れば声を大にして言いたかったが、ここではあえて自己を抑える事にしておこう。何故ならば、あやつに会うまでは静かなる事、林の如くだからである。
レジで買い物かごを持ったおばさん連中に紛れながら、彼女を探す。いない……。
冷凍食品コーナーへ行き、店員の格好をしている人間を探した。いる事はいるが、あやつではない……。
缶詰コーナーを過ぎて、カップラーメンコーナーへ向かう。辺りを注意深く見回してみるが、彼女の姿は見つからない。
こんな事なら、どんな仕事をしているんだか聞いておけばよかった。まあ、今さら悔やんでも仕方がない。
惣菜コーナーへ行くと、忙しそうに商品を陳列しているあやつの姿が見えた。
ここまでで、静かなる事、林の如く作戦は終了。お次は侵略する事、火の如く、あやつへ仕掛ける番だ。
私が真後ろに迫っているのに、彼女はまったく気付かない。鈍感な女である。
「おい、ちょっと話がある」
こやつの肩を叩き、手短に声を掛けてみた。私の突然に出現に、彼女はビックリした表情を隠せずにはいられない様子だ。
「し、信じられない…。あのねー、私は今、仕事中なの!お昼前で猫の手も借りたいぐらい忙しいのよ!とっとと帰ってちょうだい!」
何という拒絶反応をするんだ、このアマ……。
「グチャグチャ言ってないで、さっさと来いや!」
腕をつかみ、その場からこやつを連れ去る事にした。自分の職場のせいか、彼女は大人しくついてくる。
カップラーメンコーナーまで来ると、彼女は私の手を振り払う。
「どういうつもり?私、仕事中なのよ?」と、烈火の如く、私に怒鳴りつけてきた。ん、待てよ。烈火の如く、それは私の戦法じゃないか。人のお株まで奪いやがって……。
「何で着信拒否にしてんだよ、おら?」
「もう…、そんな事、あとにしてよ!私、忙しいの!」
「おまえなぁ~…、烈火の如く、怒るのはこっちだぞ!」
「少しは状況を考えてよ!」
「ふざけんじゃねえって!おまえが話に、まったく応じないからだろうが!」
「もう、いい加減にして!仕事中だって、さっきから何度も言ってるでしょ!」
「おまえね~…。俺がどんな気持ちでここへ来たか分かってるのかよ?」
「知らないわよ、そんなもん!帰って、帰ってよっ!」
人が誠心誠意、遥々職場まで来てやったというのに何だ、この態度は…。
「言う事を利かないならよ~」
「何よ?」
「ふざけんじゃねえぞ、オラッ!」
一撃必殺膝蹴りを彼女のケツへ突き刺した。
「うっ……」
ヒステリックだった声も止み、こやつは手でケツを押さえている。乾坤一擲の膝蹴り。これで私の想いよ、届け……。
その場で座り込んだ彼女は、ずっと黙ったままだった。
「少しは冷静になれよ、おい」
私が声を掛けても、こやつは何の反応もしない。二発目を打ち込みたいところだが、そうすると天才膝蹴り男の異名が廃る。しばらく様子を見る事にしておこう。
私の物凄い破壊力を持った膝蹴り。彼女は今、それをケツに喰らい、地べたに座り込んでいた。
人を舐めているからそういう目に遭うのだ。
こやつはしゃがみ込んだまま、ずっと無反応である。顔を下に向け、ワザと私へ見えないようにしているのか。左手でケツを擦っている。無茶苦茶ばかり言いやがって、このアマめ。さて、これからどうしてくれよう。
「ちょ、ちょっと誰か~」
「ん?」
女性の甲高い声が背後で聞こえ振り向く。
「店員さんに暴力を振るっている男がいます!誰か~」
買い物途中だった一介の主婦が、大声を上げていた。四十台ぐらいだろうか。ち、余計な事をしてくれおって……。
私は無言で近づくと、その主婦は「ゴクッ」と唾を飲み込み黙った。
「な、何をするつもりなの……」
私は出来る限り、平和を象徴するような笑顔を作り歩く。
「嫌だな~、おばさん。何か勘違いしてませんか?」
「ひっ、ち、近寄らないで……」
青褪める主婦。まさか攻撃の矛先が、自分に向くとは思わなかったのだろう。世の中そんなに甘くはない。いたずらに大声など張り上げやがって。こいつは制裁する必要がある。じゃないと、いつまで経っても反省などしないであろう。
「まあまあ、落ち着いて落ち着いて……」
優しい声を出しながら、肩へ手を置く。主婦はガタガタと小刻みに震えていた。
「ひ、人を呼ぶわよ……」
このババー、すでにさっき大声で叫んでいたじゃねえか…。
「ふざけんじゃねえよ、このやろ!」
左腿へ得意の膝蹴りを繰り出す。
「ぎゃーっ!」
品のない声で痛がる主婦。やばい、騒ぎを聞きつけ、買い物客が集まりだしてきた。
「きょ、今日はこれぐらいにしといてやる!」
座り込んでいる彼女へ、捨て台詞を残すと、私は走ってイトーヨーカドウを飛び出した。
自分の家まで戻るまで、私は全力疾走した。
まったくどいつもこいつもふざけやがって……。
どうしてみんな、温厚な私を苛立たせるのだろうか?
暴力とは今まで縁がなかったのに……。
ジッと自分の足を眺めてみる。
この黄金の右膝から繰り出される膝蹴りを五発、今までで使用した。
まず、小学生のクソガキ……。
好意であげようとした団子を三本中二本も奪い取りやがった。礼も何もなしである。しかも逃げ出し、捕まえたら口に団子を放り込む始末。初めて膝蹴りを放った瞬間であった。
やられて当然の行為をしたのだ。あのガキは……。
二人目は、そばにいた黒縁メガネのおばさん……。
私に小学生を蹴ったと警察を呼ぼうとした、どうしょうもないババーである。膝蹴りをぶち込んだら、崩れ落ちるようにして倒れやがった。
三人目は、二十歳そこそこの金髪の男……。
こういった輩をやっつけたのは、おおいに自信となるものだ。私より一回りは違う相手。体力的にも、向こうのほうが断然有利なはずである。それが私の膝一発で轟沈する現実。ハッキリ言ってザマーミロという気分だ。
四人目が、まさか自分の彼女になるとは……。
別に膝蹴りをするつもりで、彼女の職場へ行った訳ではない。あやつが、あまりに酷い対応をするものだから、つい膝が出てしまったのだ。あそこまで私を拒絶するなんて……。
今まで付き合っていたのにも関わらず、急に別れるとは何事だ。男が出来たに違いない。時間が掛かってでも、私は真実を追究したい。
五人目は、買い物中の主婦……。
いきなりあんな大声を出しくさってからに……。
やられて当然である。私と彼女の問題に割って入りやがって。本当に邪魔だった。大騒ぎになりそうだったから、あの場は逃げただけで、邪魔が入らなければなと思う。
さて、しばらくは彼女へ近づけないだろうし、私はそろそろ職でも探さないといけない。今までは彼女の金があったから何とか食ってこられたが、これからはしばらく自分で凌がなければならないのである。
近くの百円ショップで履歴書を購入した。
これって色々書くところあって面倒くさいんだよな~……。
名前を書く欄で、フリガナを記入する部分まであるが、それって正直どうかと思うんだ。これから新人を面接して採用しようって側がだよ。何でフリガナをふらないと読めないのと言いたい。
私の名前は、「五木善行」。読み方は、「いつきよしゆき」とそのままである。
これぐらい読めないようじゃ、面接官のほうが会社を辞めたほうがいいって感じるんだよね。
そんな事より、どこで働こうか?
私は三十二歳。真面目にやらないと、そろそろやばいお年頃である。
あ、そういえば、新宿の歌舞伎町で同級生の勝男の奴が働いていたっけな……。
あいつ、馬鹿だったくせに、今じゃそこそこいい給料を稼いでいるって、噂を聞いた事がある。しばらく連絡をとっていないが、電話でもしてみるか。
私はアドレス帳を取り出し、鈴木勝男の連絡先を探してみた。
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