2024/12/0
前回の章
試合から一週間が過ぎ、同級生の飯野誠と会う約束をする。
その間、俺はコメディ小説の『膝蹴り』、
ミステリーホラーの『忌み嫌われし子』を賞へ応募してみた。
俺の半生でもある幼少期から高校時代までを描いた作品『鬼畜道』も応募に踏み切る事にする。
クレッシェンドに続き、また授賞できたら面白い展開になってくれるだろう。
彼とレストラン『エトワール』へ食事に行く事にした。
ここは雰囲気のいいレトロな店で、店の人も愛想が良く懇意にしている場所の一つだった。
店頭にあるガラスのショーウインドーに収まったメニューの数々。
品数も豊富な老舗のレストランである。
俺はチーズハンバーグセットと、ナポリタンとカニクリームコロッケ二つのメニューを注文する。
飯野君はビーフシチューを頼んだ。
「あれからゴリの奴、一度も連絡ないんだぜ。ちょっと酷いと思わない?」
「一体どうしたんでしょうね~」
「チャブーみたいな奴は、昔からそういうところがあったから、まだいいやって思えるんだけど、ゴリはさすがに今回の一件で呆れちゃったよね……」
「うん、僕もあれはちょっとないと思いますよ。あ、そうそう…、岩ヤンの本を二冊持ってきたんだけど、サインしてもらっていいでしょうか?」
穏やかな彼の存在は、苛立つ俺の心を静めてくれる。
「そんなのお安い御用だよ。本当にありがとう……」
本にサインをしていると、店の主人が笑顔でやってくる。
「岩上先生…、本当ならビールでも出したかったんですが、お車でいらしたようなんで、代わりにジンジャーエールで乾杯して下さい」
そう言いながら、ゆっくりテーブルの上にジンジャーエールを置いてきた。
「そんな…、申し訳ないですよ……」
「いえいえ、その代わり食事中失礼ですが、先生の本買いましたんで、サインいただいてもよろしいでしょうか?」
主人の心遣いに思わず泣きそうになってしまう。
こういう心温まる店が、まだ残っているじゃないか。
「本当にありがとうございます」
俺は何度も頭を下げてお礼を言いながら、丁重にサインをした。
まだこんな俺を先生と呼んでくれる人がいる……。
川越の店に食事へ行き、このように「サインがほしい」と言ってくれた店は、三軒だけだった。
この『エトワール』、川越駅西口にある『トーゴー』、
そして近所のラーメン屋『呑龍』である。
味噌焼きチキンが絶品の店『トーゴー』では、マスターがアルバイトの子に「おい、今すぐ岩上さんの本を買ってきてよ」とその場で買いに行かせ、サインをしてほしいと来てくれた。
嫌な事ばかりではない。『エトワール』へ食事に来て、俺は大切な何かを見つけられたような気がする。
「いいお店ですよね」
飯野も店内をゆっくり見回し、ニコニコしながら何度も言っていた。
ゴリからは未だ連絡がない。
飯野君と会って気分良くなった俺は、試合にも応援に来てくれた荻原強ことおぎゃんを誘い、酒を飲みに行く事にした。
店は、彼の家の近くにある美食居酒屋『ぼだい樹』へ決める。
ここの若オーナーである中原奈美とは、一時期いい仲になりそうだった。
いつも明るく可愛い奈美は、俺より二つ年下。
彼女はよく仕事が終わってから、整体へ顔を出し、色々な話をしていた。
奈美の母親からも気に入られたのか、岩上整体時代毎日のように弁当などを差し入れしてくれた。
亀裂が入ったのが二千七年三月十五日。
彼女が患者として施術をしているところ、突然品川春美が整体へ来たのだ。
春美はこれまでで一番愛した女性といっても過言ではない。
彼女の為にピアノを弾き始め、小説を書き出したのだ。
それでも俺になびいてくれない春美。
五年ぶりの再会だった。
彼女を忘れようと諦めかけた頃でもある。
だから色々な女に手を出し、やるせなさを誤魔化していたのだ。
「奈美ちゃん…、悪いけど、帰ってくれないかな……」
もう少しでうまく行きそうだった奈美に対し、自然とそう口を開いた俺。
最低なのは百も承知だった。
それでも春美は俺にとって、今でも特別な女性だと実感する。
『新宿クレッシェンド』がまだ賞を獲る前だったので、俺は春美へ「賞を獲れたら俺の女になれ」と伝えた。
彼女は寂しそうに笑うだけでちゃんとした返事をくれず、実際に賞を獲り、みんなが見ているインターネット上から告白するも、フラれた……。
同じ女に数年掛けて口説き、何度もフラれた馬鹿。
それが俺だ。
それ以来俺が『ぼだい樹』へ行っても、営業用のスマイルしかしなくなった奈美。
悲しくもあるが、自分で招いた種なのである。
おぎゃんと店へ到着すると、カウンター席に見覚えのある顔が見えた。
幼少時代のピアノの先生である、飯島敦子先生だ。
「あれ、敦子先生じゃないですか!」
「智君! それに荻野君…。今日はどうしたの?」
ひょんな事におぎゃんの家、化粧品店の目の前に先生の家はあった。
「どうしたのって、ここに飲みに来ただけですよ」
「偶然だね~。私、最近忙しくてさ、ここに来るのも本当久しぶりなのよ」
先生とは整体を開業する前の二千六年の夏、二十七年ぶりの再会を果たし、それ以来いい関係を保っている。
その時紹介してもらった店が、この『ぼだい樹』だった。
先生の娘さんである友美ちゃんは、バトントワリングという新体操のような種目で二年連続金メダルを獲ったすごい子だ。
一度、岩上整体に大会前、敦子先生は友美ちゃんを連れてきて「智君、お金払っとくから、この子の施術しといて」と置いていった事がある。
とても素直で綺麗な子である。
「あ、智君、紹介するね。私の学生時代の同級生の唐木君」
先生の横にいたダンディーな男性は、ペコリとお辞儀をする。
「はじめまして、先生の教え子だった岩上智一郎です」
敦子先生は、唐木に俺のこれまでの流れを簡単に説明してくれた。
「ふ~ん、大したもんだ。早速君の本、五十冊注文しとくよ」
「いえいえ、そんな申し訳ないですよ。お気持ちだけで充分嬉しいですから」
「いや、俺が買うって言ったんだから、絶対に買うぞ!」
豪快な性格の唐木は、話していてとても気持ちがいい人だった。
おぎゃんと一緒に四人で飲む事になり、楽しい宴を過ごす。
「本当智君が、何にもなくて良かったわよ…。もう、二度と試合に出るとか言わないでよね。こっちは気が気じゃなかったんだから」
タイムリーな話題で、どうしても格闘技の復帰戦の話題になってしまう。
「心配掛けてすみませんでした」
「まあ、いいわ。あなたの元気そうな顔を見れたしね」
先生の笑顔はいつだって俺を元気付けてくれる。
帰り際、敦子先生は「ここは私が持つからね」と強引に酒をご馳走してくれた。
頭が上がらない恩師の一人である。
俺とおぎゃんは残ってもう少し酒を飲み、お互いの近況を話し合った。
叔母さんのピーちゃんに何とか小説の事を分かってもらおうと必死に説明するが、憎まれ口を返され虚しく終わる日々。
何でこうも頭が固いのだろうか。
身近な人間に自分のやってきた事を理解してもらいたいという想いは、いつもこうして空振りに終わる。
インターネットの普及により、情報が簡単に入るようになった世の中。
その分、俺の試合や本の事も人々が関心を示さなくなるのも早い。
便利になった分、因果な時代になったんだなと感じる。
街を歩いていると、地元なので知り合いによく会うが、一日五回ぐらいは「本を下さい」と言われ、気分を悪くした。
ふざけた事を言われているのだからと、不機嫌そうな態度をするようになった俺。
一向に動こうとしないサイマリンガルにもイライラした。
順風満帆だった流れが、どんどん傾いていく。
焦りを感じても、どうしようもない。
どうやったらこの嫌な流れを変えられるか、まったく分からないでいた。
地元の本屋を回り、俺の本が置いてあるかをこっそりチェックしてみる。
そうでもしないと不安で落ち着かない。
本川越駅ステーションビルのペペ四階にある本屋には、『地元出身の作家さんです』というポップアップつきで平積みされていた。
作者がこんなところにいるなんて、誰も思わないだろうと考えながら一人ニヤニヤしてしまう。
川越駅ステーションビルの本屋は、行く必要がないだろう。
ケーブルテレビの取材時、あの本屋に『新宿クレッシェンド』が置いてあるのを確認してあるからだ。
逆口にあるデパートのアトレの本屋にも置いてあった。
同級生の本屋『吉田謙受堂』へ行くが、トトの店だけはクレッシェンドを置いてなかった。
あの野郎…、意識してあえて俺の本を入れなかったんだな……。
皮肉な事に多くの知り合いは「智一郎、吉田っておまえの同級生だろ? あそこで本を注文したから」という声は多い。
企業の社長や役職クラスの人になると、一人で五冊も二十冊も予約した人もかなりいた。
トトの本屋で注文したと俺に言ってきた人は五十名ほど。
それでもトトは、『新宿クレッシェンド』を自分の本屋へ置こうとはしなかった。
注文した人間はトトじゃなく、俺に「何故本を店に置いてないんだ?」と責めてくる。
俺は本屋じゃないんだし、そんなのトトに聞けと言いたいところだ。
ただ、俺の為に本を買ってくれた人間に対し、そんな乱暴な言い方などできる訳なかった。
ある日街をブラブラしていると、トトと出くわす。
「おい、何でおまえのところ、俺の本を置いてないんだよ?」
「新刊が一ヶ月でどれだけ出ていると思ってんだよ!」
偉そうに口を尖らせながら抜かすトト。
俺は無意識の内に胸倉をつかみ、壁に叩きつけた。
この男、ジェラシーでワザと置かないようにしているのが分かったからだ。
「口の利き方に気をつけろよ、おい」
暴力的なやり方は本来好まない。
しかし、それでもトトの言い方が気に食わなかった。
身近にいる人間で、一緒に喜んでくれる者が少な過ぎる……。
整体時代、俺は地元の各店をインターネットで取り上げ、買い物に行くにしても、食事へ行くにしても、仲良くしている店を使うよう心掛けてきたのにな。
それが整体には挨拶一つ来ない。
本が出ても知らんぷり。
試合へ出場しても無視。
当時『川越名店街』として取り上げてきた店の数九十六店舗。
その九割の店が俺に対し、そんな状態だった。
笑顔で接するのは俺がその店へ客として行った時のみ。
ずっと地元を愛し、その思想に伴った行動を心掛けてきたつもりだった。
だが、あまりにも冷たいみんなの対応。
ほとほと嫌気が差した。
別に見返りを求めていた訳じゃないのに、何故こんなにも悲しいのだろう?
無関心を装うから悲しいのかもしれない。
俺が回りに対し、甘え過ぎていたのだろうか?
その頃川越ではNHK連続テレビ小説『つばさ』の舞台として放送が決まっており、街の中心を担う商工会議所などはもの凄い勢いで『つばさ』をピックアップして街全体で宣伝し出した。
街を歩く度見掛ける『つばさ』のポスター。
西武新宿線の電車にも、主人公の女性をプリントされたものができたほどである。
地元出身の人間が結果を出しても無視。
しかしテレビに取り上げられると大騒ぎの街。
まるでただのミーハーじゃないか。
ジャニーズを追い駆ける若い女と、ほとんど変わらない現実をまじまじと見させられた俺は、川越という街を次第に嫌いになっていった。
結局十日過ぎても、ゴリからはメール一つない状態。
日にちが経つにつれ、苛立ちを隠せない俺。
さすがに自分からゴリへ電話をしてみた。
「あ、もしもし」
ゴリ特有のダミ声。
「あのさ、おまえは俺の試合が勝ったか負けたかとかさ、怪我はないかとかって気持ち、一つもないの?」
自分で言っている台詞がいかに醜いか、自覚した上で話す。
「ああ、あれから連絡ないからさ。負けたんだなって思ってた」
「あっそ……。分かった。じゃあね」
これを期に、ゴリとのつき合いはやめよう……。
素直にそう思った。
思えば、どれだけ俺は貧乏くじを引いてきたのだろう。
ゴリとの昔からの付き合いを思い出すと、無性に腹が立ってくる。
仲のいい知人に、ゴリの愚痴を何度もこぼした。
いくらこぼしても、心が晴れる事はなかった。
翌日になってゴリから電話が入る。
彼は「これから飯でもどうだい?」と誘ってきたが、とてもじゃないが一緒に食事などできるような精神状態ではなかった。
頭の中に常に住み着くイライラ。
中には試合で負けた事を簡単に笑う馬鹿も多かった。
作家としての仕事が何一つこない現状。
サイマリンガルからは未だ印税を払うつもりがないのか、俺の銀行口座番号を一度も聞いてこない。
毎日のように整体に通ってくれた銀行員の渡辺信さんの言葉を思い出した。
「先生は凄い事をしているんですよ。一年間で整体を開業して、小説で賞を獲って、格闘技の試合まで出場する。それなのにいつも先生は心から喜んでいない。多分ですけど、家の家族…、本当に身近な人間が一緒に喜んでくれないからかなと、勝手に推測しているんですけどね」
そう、信さんの言う通りかもしれない。
生まれてからまだ可愛かった時期ぐらいなのだ、俺が家族に愛されていたのは……。
小学二年生の冬に家を出て行ったお袋。
子供の教育など一切気にせず家の金を自由に遣い遊び呆けていた親父。
両親に共通する点といえば、暴力や虐待だった。
小学四年生の時に親父と不倫をしていた加藤皐月。
過去何度も家に上がり込み、トラブルを巻き起こしてきた女。
そんな世界で一番嫌いな女が、今では戸籍上俺ら三兄弟の母親となっている。
籍を入れた事さえ言わなかった親父と加藤皐月。
気付けば岩上家に住み着き、好きなように社長婦人面をして態度がデカくなっている。
そして親父の妹であり俺らの育ての親でもある叔母さんのピーちゃん。
いつからか、俺を憎しみの対象なのかと思うぐらい、酷い台詞を浴びせ続けるようになっていた。
何でこうまで俺の人生って、呪われなきゃいけないのだろう……。
ずっと笑顔で平穏無事に暮らす事なんて、絶対にない。
ひょっとして俺が一番いけないのか?
高校を卒業してお袋と親父を離婚させた。
しかしそれが原因で、加藤皐月は家に入り込んでしまった。
それをピーちゃんはいつも俺に責めてくる。
家業の支店だった南大塚の店。
親父が家を継ぐと決まった瞬間、独立をしたいと言い出した。
あの馬鹿な親父と一緒に仕事なんて、とてもじゃないができなかったのだろう。
一切の関係を絶つ為、南大塚は土地も買いたいと申し出てきた。
家賃収入も目処に入れていた親父サイドは、猛烈にそれを反対。
親父は加藤皐月だけでなく、その義理の息子である大室まで家業に引っ張り込んだ。
それで七年勤めていた一番下の弟の貴彦は、辞めるきっかけとなる。
「兄貴たちが好き勝手にやったから、俺が継いだんだじゃないか!」
いつだがそうやって俺に文句を言った貴彦。
「兄貴はいつだって無関心じゃねえかよ」
歌舞伎町時代、自分の事だけを考え日々遊び呆けていた俺に、弟の徹也に言われた台詞。
そこで初めて家の状況を知り、役員会議にも委任状をもらって出るようになった。
南大塚を説得して土地の登記を済ませ、四千万の金を会社に作った俺。
それさえも親父と加藤皐月が好き放題使える金を用意しただけに過ぎなかった現実。
おじいちゃんに何かあったらと心配のあまり、地元で腰を落ち着けようと『岩上整体』を開業したのだ。
今じゃその整体は潰れ、小説は売れているのかどうかさえ分からない。
試合にも敗れ、今後の見通しさえつかない現状。
呪われているんじゃないのか、俺の人生って……。
平凡にサラリーマンをやって月給を稼ぎ、嫁さんをもらって普通に暮らしているほうが、どれだけ幸せだろうか。
いや、他人の人生を羨んでも仕方ない。
自分がこれまですべて決断した道のりなのだ。
歌舞伎町時代はまだ良かった。
金があったからである。
今は金も地位も何も無くなった。
あるのは『新宿クレッシェンド』の作者という肩書きと、復帰して負けた格闘家というだけしかない。
街を歩く度、試合で負けた件の嘲笑や罵倒がもの凄く、俺の精神は壊れそうになっていた。
だから味方してくれる人間に対し、感謝を感じられる余裕さえなくなっていた。
身近な存在である弟からは「いい赤っ恥を掻いた」と蔑まされ、俺は整体を失っただけでなく、これまでの自信と誇りさえ打ち砕かれた。
命を懸けて臨んだものが、こんな風になるなんて思いもしなかった……。
金も無い。
唯一の誇りだった力さえ、今じゃ意味のないものになっている。
働かなきゃいけない。
そう思っても、何をしていいのか分からない。
小説の仕事の依頼が来るものだと思っていた。
しかしどこも来ない現実。
しばらく部屋に籠もり、何もできないでいた。
俺を騙した奴を恨み、利用した奴を憎むようになった。
本当はまだ岩上整体を続けたかったのに……。
俺を利用した周りの連中からしてみれば、大した事をしていないと思っているのだろう。
でも、そういった一つ一つの積み重ねが、整体の破滅を招いたのだ。
もう、俺なんて生きている価値など何もないかもな……。
三十六歳で無職、金なし。
これからの人生、何の意味がある?
日々、そんな事を自問自答した。
『新宿クレッシェンド』という子供をこの世へ一冊残せたんだ。
出版社から連絡がないって事は、ほとんど売れていないが、小さな歴史を刻む事だけはできた。
あんな馬鹿な両親に生まれた子供にしては上出来じゃないか。
もう何をするにも疲れた……。
死んでしまえたら、どんなに楽だろうか?
俺は人間的に弱い。
とても弱過ぎる。
そして大馬鹿だ。
家じゃ厄介者が消えてくれたと喜んでくれるかもしれない。
前にこんな風に考えた事があったっけな……。
全日本プロレスを駄目になった二十一歳の時か。
あれから十五年経つのに似たような事を考える俺。
まるで進歩がない。
あの時、坊主さんが「頼むからおまえは生きろ」と励ましてくれなきゃ、とっくにこの世を去っていたかもしれない。
こんないじけた俺に、みんなとっくに呆れているさ。
これ以上生き恥を晒すのか?
楽に死ねる方法ってないかな。
いつだって俺は臆病だ。
首を吊って死ぬのが楽か、飛び降りるのがいいか。
そんな事を思う内に、その過程をリアルに想像してしまい、自殺志望のくせに何一つ行動できやしない。
何故もう死ぬんだから、痛かろうが苦しかろうが関係ないだろって思えないのか?
こんな状態で生き恥を晒してまで、まだ生にしがみつこうとしているのかよ……。
でも、俺は誰からも必要とされていない。
それなのに何で日々ブログを更新している?
コメントをくれる人たちがいるから?
つまり俺は、イメージ的なものでしか、人間と関われなくなっている……。
自分でも精神が病んでいるのが自覚できた。
プロレスを駄目になり、必死に自分の居場所を探し続けたホテル時代。
どんなに小馬鹿にされたって、あの頃は全日本プロレスにいたという自負を常に抱きながら行動していたのにな。
あれほど自信に満ち溢れた俺は、一体どこへ行ってしまったのだ?
違う……。
それ以上の経験を踏まえて生きてきて、それがこんな結果になっているからこそ、訳が分からなくなっているんだ……。
コンコン。
ドアをノックする音が聞こえる。
開けると一番下の弟である貴彦が真面目な顔をして立っていた。
「兄貴さ…、ちょっといい?」
「何が?」
塞ぎ込む俺に対し、貴彦は「いつまでも何をやってんだよ。ただの現実逃避じゃねえか」と文句を言ってくる。
すっかり弱っていた俺は、何故こうなったのか言い訳をした。
「小説で賞を獲ったのは確かに凄いと思うよ。でも、だから何だよ」
「おい、簡単に抜かすな。どれだけ苦労してやってきたと思っている。試合だって小説だってな、いい加減にやってきてねえんだよ!」
すると、「兄貴が試合に出られたのはター坊のおかげだろ? あいつが主催者側に言わなかったら、ター坊の顔がなかったら試合にさえ出られなかったじゃねえか。陰で、そう言っている人間だっているんだぜ」と簡単に言われた。
そこまで言われ、俺の中で悶々と屈折していた苛立ちが全開に爆発した。
「どこのどいつがそんな事を抜かしたっ! 今すぐ俺の目の前に連れて来い」
「連れて来れる訳ないだろ? 兄貴はどうせぶっ飛ばすだけだろうし」
「当たり前だよ。人を小馬鹿にするような連中なんぞ、思い切りぶん殴ってやるよ。誰が言ったんだよ? それともおまえが勝手に想像で言った狂言か?」
過去の自分の立場も忘れ、よくも偉そうに俺へそんな事を言えたものだ。
貴彦が怪我をして家に籠もっていた頃、俺は毎日のようにたくさんの金をやった。
しかし金を受け取りながらも、貴彦は感謝というものがまるで感じられなかった。
世の中の人間が何故働く?
すべて金を稼ぐ為だからだ。
金がすべてではないが、金があればある程度の事はできる世の中。
今まで兄らしい事をしてやれなかった想いが、つい貴彦を甘くさせてしまった。
徹也には金を渡している件で「兄貴は甘いよ。そんな事をする必要性なんてないじゃん。余計につけ上がるぜ」と注意された。
それでも当時自分の部屋で膝を抱えながらボーっとしていた貴彦を思い出すと、何とかしてやりたかったのだ。
「絶対に本人には言うなよ? 口止めされてんだから……」
「言わねえし、絶対に追求しないから言えや、コラッ!」
誰が言ったか聞いてしまえば、こっちのものだ。
そんな生意気な野郎は、骨の髄まで俺の恐ろしさを思い知らせてやる……。
「兄貴のセコンドについた、ター坊だよ」
「……っ!」
貴彦の口から出た言葉が、まるで信じられなかった。
「ター坊の顔があったからこそ、兄貴は試合に出られただけじゃねえか」
「本当にあいつが、そんな事を抜かしたんだな……」
「ああ、ハッキリ言ったよ。でも、絶対にター坊にはこの事言うなよな」
「うるせー……」
「兄貴っ!」
「じゃあ、おまえもあいつの顔で試合に出てみろよ? 出れるんだろ、簡単に?」
「そういう問題じゃないだろ!」
「うるせーっ! 目の前から消えろ! おまえなど、兄弟じゃない」
俺は心の底から憎悪を込めて、怒鳴りつけた。
あの時の恩も忘れ、よくもそんな口が利けたものだ。
恩知らず、礼儀知らずとはこういう奴の事を言うのだろう。
もう兄弟とすら思うまい……。
貴彦が消えると、俺は奴の言葉を思い出し、ゆっくり頭の中を整理してみた。
あのター坊が、陰で俺の悪口を言っていた?
あれだけ俺の前じゃ慕い、「智さんの試合を俺はこの目で見てみたい」と言った後輩のター坊が、本当にそんな事を言ったのか?
ショックで頭がおかしくなりそうだった。
「自分は岩上四兄弟の末っ子だと思ってますから」
常に俺と会う度調子のいい事を言っていたター坊。
歌舞伎町時代、金を稼いでいた頃はよくキャバクラへ飲みに連れて行きご馳走してやった。
一緒に食事へ行く際も、一度だって金など払わせた事がない。
裏ビデオ屋で働いていた頃、あいつは「智さん、自分の知り合いが裏ほしがってんですけど、自分も小遣いないから何か小遣い稼ぎになれそうな事ありませんか?」と頼んできた事だってある。
その頃の俺は羽振りなど良くなかったが、それでも困っているだろうと仕入れの金以外の売上は、ター坊にすべてあげようと思った。
しかしそんな俺の好意をター坊は知らず、惚けたまま、未だ売上すら持ってこない状況だった。
ヤクザの世界なら、少しの金であれ完全なルール違反である。
けじめをつけさせるところだが、俺はヤクザじゃない。
だからこそこの件は、誰にも言わず心の中へ秘めておいたのだ。
あいつも生活が苦しいのだろうと割り切る事で、理解してやろうと思ったから……。
すべては弟のように可愛がっていたからこその行動だった。
「智さんは、俺のおかげで試合に出れたんすよ」
貴彦の前で調子良く言う奴の顔を思い浮かべる。
ター坊…、よくも俺を裏切るような真似を……。
調子のいい笑顔を思い出すと、静かな殺意すら沸いてくる。
こうして俺は、完全な人間不信に陥った。
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