2024/12/03 tue
前回の章
KDDIでの仕事の日々。
覚える事が多く、自分が会社の戦力になれているのか不安になってくる。
俺について指導する上司の東園は焦らなくても、始めはみんなこういうものだと諭してくれた。
まず本来話す口調でなく、正しい話し方をしなければならない。
何々ですかは、何々でございますでしょうか。
何々を言われるは、何々を仰られますになる。
相手の話に対して相槌を打つ「はい」と「ええ」。
「はい」は正しいが、「ええ」は相手に対して失礼に当たるようだ。
まだ仕事の基礎的な部分を学ぶ段階だから、急ぐなと自身へ言い聞かせる。
今までした事のない新しい仕事をしているのだ。
初心に返り、一から学ぶ姿勢を崩してはいけない。
この仕事で給料をもらい、生活をしていくのである。
今は少しずつで吸収し、確実に前進していく。
これまでの経験も考えもすべて消し、頭を真っ白にして道理を叩き込め。
古木との約束の日がやってくる。
場所は天下鶏。
俺と古木が先に到着する形になり、あとから説得する子が来る。
事前にある程度の情報を古木から聞いて把握しておきたい。
俺より三つ年下の古木英大は三十四歳。
現在の彼女、調理師の牧田順子も三十四歳。
今回の話のメインになる二股の片割れが、影原美優三十一歳。
牧田順子とくっついた古木は、これまで女性関係がこんなトントン拍子にうまく行った事がなかったので、図に乗ってしまった。
出会い系サイトなどを使い、牧田へ内緒で他の女性とも遊びだす。
そこで現れたのが影原美優。
古木曰く男っぽい牧田順子より、顔は断然影原美優のほうが可愛いと言う。
元々遊びのつもりが、次第に古木は影原美優へも熱を入れて行くようになる。
そして牧田順子にバレて、一気に修羅場に……。
この時が俺の試合の前日の話。
俺にどちらか片方を選べと言われ、牧田順子を選んだ古木だったが、影原美優は別れようと何度も言っても了承しなかったようだ。
「古木君の意思は伝えたんだから、連絡を一切遮断するとか自然消滅する方向へ持っていくしかないんじゃないの? まあ今日は俺が直に会って話すんだろうけど、あまり意味が無いと思うよ」
「いえ…、それがですね…。あの……」
何か言いたそうで言えないしどろもどろな古木。
俺にしか相談できない……。
確か前にそんな言葉を言っていた。
嫌な予感がする。
「何度も別れようと説得したんですが、美優は一向に応じなくて……」
「だから二人とも切るべきだと、最初に俺は言ったでしょ。牧田順子と結婚も考えているって言うからあの時協力したのに、付き合ったら他の女に手を出してバレて牧田順子を選んだけど、そっちが切れませんじゃ、話にならないでしょ」
「散々言ったです、別れようと…。でも本当に聞き分けがなくて」
「いや、聞き分けがないとか……」
古木は携帯電話を取り出し、俺に一枚の画像を見せてきた。
「……、何これ?」
風呂場だろうか?
湯船に湯が張ってあり、女性らしき左手首だけが写っている。
湯の色が若干赤く見えるが、バスクリンか何か溶かし始めたような色合い。
「美優は自殺未遂したんです……」
古木はそう言って、その子からのメールの文面を見せてきた。
『私はもうこの世からいなくなります。来世で幸せになろうね。 影原美優』
「……」
何だ、この展開は……。
俺、ひょっとしてこれから自殺未遂した女と会って、古木と別れるよう説得するの?
絶対に無理でしょ……。
「それで自分、美優のところへ駆けつけてしまったんです……」
「まあ、勝手に死ねとは返せないよね……」
「それで…、あの…、一つ大きな問題がありまして……」
「え?」
大きな問題?
自殺未遂をしでかして置いて、さらに問題?
「美優は…、現在妊娠四か月目なんです……」
「はあ? 何それ?」
「それが自殺未遂で駆け付けたあと、関係がズルズル続いてしまい…、美優が安全日だからと俺を騙して……」
「……」
何をこの男は抜かしているんだ?
状況を把握するのに、しばらく時間が掛かった。
つまり古木は二股を続け、美優は現在妊娠四か月、その状態で牧田順子と一緒に生きていく、片割れとはこれから会って俺が別れるように説得……。
「無理に決まってんだろっ!」
つい大声を出した俺に、天下鶏オーナーの田辺が近寄ってくる。
「どうしたんですか、智さん!」
「あ、すみません…。お酒のお代わりをお願いできますか」
その時入口のドアが開き、女性一人が入ってくるのが見える。
初めて見る顔だが曇った表情、纏った暗い雰囲気から影原美優だと思った。
「えーとですね、紹介します。こちらが影原美優です。…で、こちらが岩上さんと言って……」
古木がお互いを紹介しようと口を開く。
「知っています…。インターネットやニュースで見て、顔を知っていますから……」
影原美優が棒読みのような冷めた言い方で、古木の紹介を途中で遮る。
この子を俺が古木と別れるよう説得する?
絶対無理でしょ、この子……。
自殺未遂までしでかした突発的な行動。
妊娠四ヶ月というおろせるまで、あと一ヶ月しかないタイムリミット。
こんな状態で、古木は牧田順子を選ぶと言っている。
一度整理しよう。
俺は影原美優を古木と別れるよう説得し、お腹の子供をおろさせる……。
何…、この当日になって無茶苦茶な展開は……。
二股がバレて、片方が説得に応じないから俺に言って欲しいって話じゃなかったの……。
えーと、俺の試合が一月十四日。
古木が牧田順子と観戦に来たのも同じ日。
今が九月で、妊娠四ヶ月というと仕込んだのが四月か五月……。
つまり古木は俺に黙って二股関係をズルズル続け、自殺未遂され妊娠四か月目になってどうしょうもなくなり、俺に何とかしてくれと……。
それでいて牧田順子を選ぶから、影原美優を説得しろと?
いや、どう考えても無理でしょ……。
しかも俺、まったく無関係なのに何よ、この展開は……。
「あ、岩上さん…、自分、ちょっとお金下ろしてきますんで」
古木はそう言って席を立ちあがり、外へ出て行く。
え、自殺未遂して妊娠四か月目の子を目の前に、二人きり?
本当早く戻ってこいよな……。
「あ、岩上智一郎です…、えっと今日は……」
「知ってます。先ほどそれは伝えたと思いますけど」
機械的な喋り方。
明らかに俺に対し敵意剥き出し。
まあ彼女にしてみたら、古木と別れてくれと説得する為に用意された相手なんだから、当たり前だよな……。
「喉乾いたでしょ? お酒は……」
「妊娠中なんで、烏龍茶でいいです」
「あ、ごめん…。そうですよね……。あ、田辺さん…、烏龍茶一つお願いします」
俺は天下鶏オーナー田辺の元へ近寄り注文する。
「智さん…、何か険悪な空気ですけど?」
田辺が横目で見ながらボソッと呟く。
俺は黙れという合図で彼の尻を軽く叩いた。
席へ戻り、影原美優に「お腹減ってない?」と聞くと「こんな状況で食欲あるはずある訳ないですよね」と返される。
早く古木の奴戻って来いよ……。
シーンとした空間の中、無駄に時間だけが過ぎていく。
チラッと時計を確認すると、古木が出て行ってから三十分は経過していた。
「古木はここへ戻って来ないと思いますよ」
影原美優が無表情口を開く。
「え、だってお金下ろしに行っただけでしょ?」
「今日会う前からおかしかったので」
「おかしかった?」
「急に会おうと昨日言われて、今日になって知り合いの人も急に会うようになったって言われて……」
「……」
何よ、古木の奴…、俺をこんな状況に引きずり込んどいて、何も段取りしていなかったの?
「えーと、じゃあ俺の事は何も?」
「はい、ただ何となく予想はつきますけど」
「…と言うと?」
「岩上さんは、私に古木と別れろって言う為に来たんですよね?」
とりあえず古木に戻って来てもらわないと話にならない。
俺は古木へ連絡をしてみようと携帯電話を取り出す。
「無駄だと思いますよ」
「え…、何で?」
「さっき岩上さんが注文しに行った時、何度か古木の携帯電話へ掛けましたが、着信拒否になっていました」
「……」
あの野郎…、一体どういうつもりだ……。
何の説明も無く、簡単にお互いの名前だけ言って金を下ろすと逃げて、あと俺にどうしろと?
「あ、影原さん。とりあえず俺の携帯から彼に電話してみるよ」
コール音は鳴るが、二十回鳴らしても出る様子が無い。
天下鶏の店内が混み合ってきた。
田辺に悪いので、とりあえず会計を済まし、一旦外へ出るよう影原美優へ促す。
場所を変えて、一度彼女の言い分を聞く必要性があるな。
クレアモールをゆっくり歩きながら、元岩上整体のあった方向へ曲がった。
本川越駅前の交差点に差し掛かる。
真っ直ぐ横断歩道を渡れば元岩上整体。
右手にはJAZZBarスイートキャデラック。
俺は店の説明をしながら古木とはここで知り合ったと教えると、影原は「知っています。彼は一度も私を連れて行ってくれた事は無いですが」と無表情で話す。
常に棘のある言い方の彼女。
「分かった。じゃあ俺が紹介するから入ろう」
「え、でも……」
「だってこれから君はどうするつもり?」
「古木の家へ行こうと思います。絶対に居ないでしょうけど」
整理すると、この子は馬鹿だけど古木の一方的な被害者ではある。
自殺未遂をして妊娠四か月目。
誰も味方などいない。
少しだけ家の中の自分の環境と重ね合う。
孤独とはとても辛いものだ。
彼女にとって現状は四面楚歌。
話をするつもりで川越まで来たのに、当の本人である古木は姿を眩ませた。
さすがに放っておけない。
「話はある程度聞かされている。そんな身重な状態でそんな意味の無い行動してもしょうがないでしょ」
「でも……」
「ごめんね、俺はよく分からない状態だけど、こうして変に関わってしまったんだ。それで君の状態を知りながら、放り出して帰るような真似は後々後悔するだろうからできない」
誠意を込めて自分の考えを伝えた。
「……」
「ここのコーヒー美味いんだ。ご馳走するよ。それで影原さんさえ良かったら、話は聞くよ。俺は古木からの一方的な話しか聞いてないしね」
「分かりました。ありがとうございます」
こうして俺と影原美優は、スイートキャデラックへの階段を上っていった。
シックなノンヴォーカルなJAZZの音楽が流れる中、俺たちは向かい合わせのテーブルへ腰掛ける。
他に客は誰もいないようだ。
マスターが気を利かせたのか流れる音楽がジョーンコルトレインのマイフェイバリットシングスに切り替わる。
俺が聴いた中で一番好きなジャズの曲。
「コーヒーは温かいのがいい? それとも冷たいの?」
「岩上さんと同じでいいです」
「マスター、アイスコーヒーを二つ。それと……」
「グレンリベットですね」
「ご名答」
正面にいる影原美優の顔をハッキリ見る。
確かに男っぽい牧田順子と違い、女性らしく少しタレ目で儚く可愛らしい感じだ。
「正直に言うね。君が現在妊娠している最中で、自殺未遂までしているというのは古木から聞いた」
「……」
「それもほんのちょっと前にね。俺も今日聞いたばかりの情報だ。その前は二股がバレた。俺に相談に乗ってほしいとね。それで今日時間を作って、君と会う予定だった。そしたら古木は現在どこへ行ったのか知らないけど逃げている。そして俺と君は、このジャズバーに来た訳だ」
「はい……」
「古木は俺に言った。牧田順子を選ぶと。それで俺から君に説得してほしいとね。古木は君に対し、何て言ってきたの?」
「岩上さんの言うように向こうを選ぶ。私と別れたいと……」
「それで君は何て答えたの?」
「嫌だとハッキリ言いました」
確かに妊娠までしている状態で、向こうを選ぶから別れてくれは通らないだろう。
「何故自殺未遂なんて真似を?」
「古木は来る度一方的に別れ話しかしなくなり、生きているのが嫌になりました」
アイスコーヒーと酒が運ばれて来る。
俺はショットグラスにグレンリベットを注いで軽く飲む。
影原は目の前にあるアイスコーヒーに手を付けようともしない。
「マスター、音楽止めてもらってもいいですか」
俺はピアノのあるステージへ近付きながら声を掛けた。
ドビュッシー作曲の月の光を弾いた。
演奏を終え、またマスターへ曲を流してもらうよう伝える。
再びコルトレインの曲が鳴り始めた。
「ピアノね…、好きな人がいてその子の為に弾き出したんんだけど、結婚しちゃってね…。だから影原さんに弾いてあげようかなと思ってね」
「何ですか、それ…。意味不明です」
俺の一連の行動がおかしかったのか、初めて影原美優はクスッと笑った。
「さ、せっかくだからアイスコーヒーをどうぞ。ここのコーヒーは本当に凝っているから格別に美味いから」
そう言うと、ようやく影原はコーヒーに口をつけた。
「ピアノ…、途中とちりとちりであまり上手くないですね」
笑いを堪えながら話す影原美優。
「しょうがないだろ! だって二千三年を最後にピアノ弾かなくなったんだから。今、二千八年でしょ? 五年だよ、五年。それだけブランクあるんだから、少しくらい下手糞なのはしょうがないじゃん」
「それで私にピアノをいきなり弾こうってやるから、変におかしくて」
この女…、結構毒舌だな……。
まあトゲトゲしているよりはマシか。
「うるせー、少しは俺のピアノで癒してやろうと思ったんだよ。お腹は?」
「減ってません」
「まあいい。本題に戻ろうか。何故影原さんは、こんな状況になっているのに古木をまだ求めるの? 彼は君を置いて逃げちゃったんだよ? 意地で? 何かそこまで拘る理由あるの?」
「……」
再び表情に陰りが見えた。
「答えたくないなら無理に答えろなんて言わないよ。でもさ、このままそんな身重な状態で彼に付き纏っても、何もいい事ないのは自覚しているよね?」
「……。はい……」
「この先どうするつもりなの?」
一分ほどの静寂が流れる。
俺も酷な質問をしているのは百も承知だった。
「子供を産んで、古木と暮らします……」
「それは君の考えだけであって、古木は現に逃げっちゃっているじゃない。本当にそれでいいの?」
「じゃあ、どうしたら……」
「気を悪くしないでほしい。俺の意見はこんな状態で子供を産むのには反対する」
「何でですか!」
「少し考えれば分かるだろ? 今のまま産んだところで、幸せにできるのかよ?」
「……」
百合子の子供をおろした時の事を思い出していた。
地獄…、地獄のような何とも言えない無力感。
あの時の生気を失った百合子の表情。
それと同じ目に、俺は影原を遭わそうとしている。
こんな状況の彼女を放って逃げた古木。
その間で生まれる子供。
とてもじゃないが幸せな家庭など、到底不可能にしか思えない。
俺には元々何の関係もない話。
このまま放って帰ればいいのか?
その場合どうなる?
逃げ回る古木。
すべてを放り捨てて牧田順子のところへ身を寄せれば、それも可能かもしれない。
影原美優はどうなる?
子供を産んだとして、認知すらされない。
「私…、実はバツイチで……」
影原が喋り出した。
「娘が一人います」
娘がいるのに自殺未遂したのか?
理由が知りたかった。
「えっと…、じゃあシングルマザーという感じで今は?」
「いえ…、大阪に住んでいた時ですが、親権で娘は元旦那に取られました」
余程のケースでないと、男性側に親権など行きはしない。
「影原さん…、あんたさ…、娘がいるのに自殺未遂を何故した?」
自分の口調が荒くなっている。
「……」
「一度過去に失敗している…。詳しく聞いてないから俺には分からないよ。たださ、古木は今も逃げ回っている。そんな状況で子供を産むと言う。どうなるか分かってんのかよ!」
ポケットに入れた携帯電話のバイブの振動がした。
誰かからの着信。
古木からもしれない。
「大きな声でごめん…。ちょっとトイレ行ってくる」
トイレの中で携帯電話を取り出す。
案の定古木からの着信だった。
どうする?
いや、コイツは卑怯にも彼女を放り出して逃げたのだ。
今になって不安で、俺と彼女はどうなったのか気になったのだろう。
電話を掛けるか?
いや、手順が違うだろ。
俺は彼の便利屋じゃない。
今は影原との話を最優先にしよう。
俺は携帯電話の電源を切る。
大きく息を吐き出した。
「…ったく、面倒臭いなあ……」
ポツリと独り言を漏らしながら、トイレのドアを開けた。
一礼して席へ座る。
影原は黙ったままだ。
タバコに火をつける。
目の前にいるのは妊婦だぞ?
慌てて消そうとすると、影原は手で制しした。
「私の事なんて、気にしないでいいですから」
タバコを乱暴に揉み消す。
「そうもいかないだろ!」
「いいです…、私なんて……」
「良くはないだろ! じゃあ何故俺の目の前にずっと居るんだ? 何かしら影原さんも話したい事が…、伝えたい事があるからじゃないのか?」
「……」
「一つ質問させてくれ……」
「どうぞ……」
「こんな状況で責任放棄して逃げている古木は、男として下の下だ。しかも妊娠した君じゃなく、牧田順子を選び、君を捨てようともしている。ここまでは間違っていないよな?」
「……。はい……」
「そんな卑劣な男に対し…、何故君は、まだそう拘っているんだ?」
しばらく黙ったままの影原。
「ちょっと離れたところでタバコ吸ってくる」
それだけ言うと、俺はカウンター席へ腰掛けマスターへ一礼してタバコへ火をつけた。
「岩上さんも何だか大変そうですね……」
俺に聞こえる程度の小さな声で、マスターが声を掛けてくる。
三回ほど煙を吐いてから「本当そうですね」とだけ返し、席へ戻った。
影原は俯いたままである。
「もう一度聞くよ? 何故、古木へ拘る?」
彼女は視線を俺の目にキッチリ合わせて口を開く。
「好きなのに理由って必要ですか?」
理由……。
確かに本能で求めているものに対し、理由などいらない。
かつて俺が品川春美を本能的に求めたように。
一つだけ違う事がある。
俺は男で、彼女は女という点だ。
しかも妊娠している。
確かおろせるギリギリのラインが五ヶ月目だったと思う。
子供を産むという影原美優。
まず、その部分を何とかしなきゃいけないと感じた。
「俺さ…、あんまり怒ったりしないんだけどね。本当に怒らせると自分で言うのも変だけど、凄い怖くなるのね」
「はい……」
「古木がね…、このまま俺たちを放って逃げたままで、いられると思う?」
「いえ……」
「俺に対して凄い舐めた真似を彼はしてくれた訳ね」
「はい…。岩上さんの事は、古木からいつもよく聞かされていたのである程度は分かります」
「これから俺がまた彼に連絡をしてみる。もしそれでもバックレるようなら、俺はどんな手を使っても、この川越へ住まさせないと思う。連絡していいかい?」
「はい……」
携帯電話の電源をつけ、古木へ連絡する。
二回コール音が鳴り、すぐ彼は電話に出た。
「何をしてたの?」
「す、すみません…。色々考えていたら…、混乱してしまいまして……。どうしていいか、分からなくてずっと川越の駅の方を行ったり来たりしていました」
「このままっていかないの分かるよね?」
「はい…、分かっています。すみませんでした……」
「今彼女とスイートキャデラックなんだ。ここじゃ話し辛いよな?」
「はい……」
「とりあえず俺たちはチェックして店を出る。だから古木君はこっち方面へすぐ来て」
「分かりました。すぐ向かいます」
電話を切ると俺は会計を済ませ、外へ出る。
再びクレアモールの商店街へ向かう。
影原から少し距離を取り、タバコに火をつけた。
本川越駅に繋がるクレアモールの交差点で待つ事五分。
ようやく古木の姿が見えた。
「本当にすみません、岩上さん……」
何度も深く頭を下げる古木。
「俺にじゃない。まずは彼女へ謝りなよ。筋道が違う」
すると古木は影原を睨み付けだした。
「まったくおまえが人を騙し打ちするような事をするから……」
「ちょっと待てっ! 散々逃げといて何を言ってんだよ。まあいい。とりあえず立ち話もなんだからそこの居酒屋に入るよ」
黙ったままの影原と、思い違いをしている古木を連れ、俺たちは目の前の居酒屋へ入った。
両方の話を聞いた俺。
古木の言い分は、牧田順子を選び影原美優とは別れる。
影原の言い分は、古木とは別れず、子供を産む。
古木の望むように事が進むのは、自殺未遂までして妊娠させた事を考えると都合が良過ぎる。
また影原の要望も、古木がこのような考え方をしている以上無理があった。
まずは二人で話をしろと促す。
「別れてくれ」
「嫌です」
「頼むから別れてくれ」
「絶対嫌です」
黙って聞いていると、双方ずっとこのやり取りだけを永遠と続けた。
「ちょっと待った! あのさ…、二人共何なの? 何も話し合いじゃないじゃん」
古木は軽蔑の眼差しで影原を見る。
「安全日だからって、人を騙し討ちして妊娠するような女なんて……」
「ちょっと待った! 古木君さ…、自分で抱いて出しといて、その言い草は無いでしょ?」
「でも…、自殺未遂の写真とメール送ってきて、本当は死ぬつもりなんて無かったはずなのに、俺を騙して……」
「だからそう思ったあとで、彼女を抱いたのは自分の意思でしょ?」
「あ…、は、はい……」
「だったら見苦しい真似をして、彼女に責任を押し付けるような言い訳はしないほうがいい。これ以上男を下げるな」
「は、はい……」
「…で、影原さん」
「はい……」
「彼は実際会ってもこんな風で、どう見ても君へ好意を寄せているとは思えない。それでも彼がいいの?」
「はい……」
この子はいわば究極の駄々っ子なのだろう。
これだけ嫌がられているのに諦めない。
そして安全日と偽って妊娠までしている。
それでも避けられているのに、一向に自分の考えをまるで曲げない。
この二人の落とし所は、一つしか考えられなかった。
「古木君…、俺に何とかしてくれと言ったよね?」
「はい……」
「俺の出す結論なら納得できる?」
「は、はい!」
二人の顔を交互に眺める。
暗く下を俯く影原美優。
妙にソワソワした古木英大。
「古木君が彼女へ対してやった事を考えると、この子と別れて牧田順子とくっつこうとするのは虫が良過ぎる。向こうと別れて、影原さんとくっついて責任を取るべきだ」
「えっ! で、でも……」
驚いた顔をする古木。
別れ話を頼んだ相手が、逆にくっつけと言ったのだ。
それはそうなるだろう。
「でも…、だから何?」
「じゅ、順子にはキチンと今日別れてくると…。それに彼女からキツくちゃんとしてこいと言われていますので……」
まるで女の腐ったような言い訳をする彼。
「あのね、俺まで無関係なのにこうして駆り出されて、牧田さんが言うから? 違うでしょ! 自分が影原さんを妊娠させて、牧田さんに言われたから別れる? そこに自分の意思は無いの?」
「……」
黙ったままの古木。
「じゃあハッキリ言うよ。牧田順子と別れて影原さんと一緒に住みなさい」
「え、それは……」
「牧田順子が怖い? 今日この場に俺が来る事を彼女には言っているんでしょ?」
「はい……」
「ならこう言いな。岩上先生が君と別れなさいという判断を下したと。俺がそれで彼女から恨まれるのは仕方ない。古木君も、俺のせいって言えるなら言いやすいでしょ? それでこの件が解決するなら、それでいいよ」
「は、はあ……」
結局この男は自分の意思というものが、とても希薄なのだろう。
思えば彼女ができないと俺に相談に来た時からそうだった。
こうしなさい。
ああしなさい。
その通りにして結果が出ると、妄信的になる。
だから俺の意見を岩上マジックだと絶賛し、その方法を色々な女手試しだした。
元々顔は悪くない古木。
図に乗った彼は牧田順子と付き合えただけで感謝すればいいものを別方向へ情熱を向けてしまう。
そこで出会った影原美優。
大方かなり適当な格好つけ方をして、影原はその気になる。
二股する形になり、牧田順子にバレた。
その時試合直前の俺に連絡してくる。
だからゴリから解放された朝方直前なのにも関わらず、電話をあの時掛けてきたのだ。
二人共切れと俺は言った。
古木はそれを拒む。
だから片方を切れと伝える。
試合当日、古木は牧田順子を連れて観戦に来た。
俺がリング上からそれを見て、勝手にケリはついたと思っていたのだ。
牧田に言われ古木は影原へ別れ話をしに行く。
拒む影原。
古木を振り向かせる為に、自殺未遂。
その画像とメールを古木に送る。
焦った古木は影原の元へ。
関係を切れず、そのままなし崩し。
安全日だからと中出しを要求する影原。
妊娠して四ヶ月経ち、古木は俺に相談。
ここは悪役になって、俺が答えを出せばいい。
二時間ほど古木は、一人で悩んでいた。
影原美優は古木が自分を選ぶ言葉を心待ちにしている。
時計の針は深夜を回っていた。
「古木君、悪いけど俺は朝からKDDIの仕事があるんだよ。俺からの回答は出した。あとは個々で話し合ってくれ」
「待って下さい、岩上さん!」
「何? 俺、仕事があるって言ってんじゃん」
「岩上さんの言うように、順子にハッキリ伝えます!」
古木も腹を決めたようだ。
「うん、多分そうするしか無いと思う。それで、影原さん」
「はい!」
古木の心境が変わり、いきなり元気良くなっていやがる……。
「彼との子供を産むのは、俺は反対だ。まあ君と古木君との話だろうけどね」
俺の発言に顔を強張らせる影原。
これ以上、この件に俺は関わるのはよそう。
「古木君、ここまで俺に面倒を掛けたんだ。ここの支払いはご馳走になるからね」
「はい!」
二人を置いたまま、俺は店を出る。
さて、朝に備えて少しは寝ておかないと……。
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