2024/12/04 wed
前回の章
コマ劇場を左折しレンガでできたセントラル通り、さくら通りを通過し、行き止まりの東通りへ差し掛かる。
どうもこの通りを歩くと、あの忌々しい風俗店『ガールズコレクション』を思い出してしまう。
歌舞伎町交番のある花道通りへ向かって進むと、途中に右折する細い路地がある。
黙ったまま先へ行くと、背後から従妹の直ちゃんが声を掛けてきた。
「ねえ、智ちゃん……。大丈夫なの、こんな細い道を歩いて……」
確かに初めての人間だと心細くなるだろう。
道は人が一人通れるぐらいの狭さで、歌舞伎町の中でもコア的な場所だ。
左手には裏ビデオ屋が密集し、右手の壁側には客が二、三人しか入る事のできない掘っ建て小屋のような飲み屋もある。
そのせいか、ほとんどの人間はここを歩かない。
「まあ普通ならこんな場所、誰も歩かないだろうね。安心して、俺と一緒なら問題ないから」
「う…、うん……」
直ちゃんとおぎゃんは、不安そうに肩を狭めてついてくる。
少し道に沿って曲がると、すぐ『叙楽苑』はあった。
店に入る前、さらに細い道を指で示し、「ここが『新宿クレッシェンド』の著者写真の撮影の時撮った場所だよ」と説明した。
「へえ、こんなところで撮影したんだ。出版社の人、怖がってなかった?」
「怖がるより、こういうコアな場所があったんだって感動のほうが強かったみたいだね。そろそろ叙楽苑に行こうか。ここの中華、本当においしいよ」
中へ入ると、台湾人のママが笑顔で出迎えてくれる。
「おう、岩上さん。お久しぶりね。元気だったか?」
「元気ですよ。さっき新宿で試合をしてきたばかりですよ」
「おう、そうかそうか。岩上さん、私の息子みたいなものね」
どこまで俺の日本語を分かっているのか知らないが、ママが好意を持って接してくれるのだけは、この十年以上の時が教えてくれる。
「ママ、とりあえずビールとトウミョウを下さい。あと春巻きも」
「あい、トウミョウね。ビール、私、サービスする」
「そんなに気を使わないで、ママ」
「大丈夫、大丈夫ね。岩上さん、ビールサービスするね」
陽気なママは、ニコニコしながら階段を上がっていく。
「ねえ、智ちゃん。トウミョウって何?」
従兄弟の直ちゃんが不思議そうに聞いてくる。
トウミョウとは日本語の料理名ではなく、向こうの呼び方なのだ。
「ああ、こっちで言うエンドウ豆の芽炒めだね。ここのは本当にうまいんだ。前菜にはもってこいだよ。料理は俺が適当にチョイスするからさ。味はすべて保障するよ」
「へえ、それは楽しみですね~」
「あ、直ちゃん、遅くなったけど紹介するね。こちらは俺の小学時代の同級生の荻野力さん。昔っから仇名で『おぎゃん』って呼んでいるけどね。彼とは小学校を卒業して以来、ほとんど面識なかったんだけど、『岩上整体』を閉めると告知した際、すぐ電話で予約して来てくれてね。それからまた昔のようによく会うようになったんだ。…で、おぎゃん。こっちが俺の従兄弟の岩上直孝。直ちゃんって呼んでるんだ。親父の弟の子供になる」
二人が挨拶をしている間に、ビールが運ばれてくる。
俺たちは乾杯をしてビールを飲み干す。
トウミョウが出されると、二人は恐る恐る口へ入れた。
「何これ? 凄い美味い!」
「本当に美味しい!」
二人とも驚愕の声を出しながら舌鼓を打ち、あっという間にトウミョウを平らげてしまう。
さっぱりとした味付けの中、歯ごたえのあるシャキシャキ感。
なかなか日本ではこういった味付けの料理には出会えない。
「だからとりあえず食っとけって言ったでしょ。あとは肉や腹に溜まるものを頼むから」
マーボーチークワィ(若鶏の唐揚げの麻婆和え)、台湾風骨付き豚ロースの唐揚げ、五目やきそば、絶品の麻婆茄子を注文し、紹興酒もボトルで頼む。
うまい料理と酒を胃袋へ入れながら、俺たちは試合の話を中心に盛り上がり、楽しい宴を過ごす。
途中、先に姿を消した先輩の岡部さんや、同級生の飯野君、歌舞伎町時代の仲間の長谷川昭夫、斎藤裕二たちから連絡があった。
みんな、気を使って仲間と試合後は打ち上げでもするのだろうと先へ帰ってしまったようだ。
まあ、俺が試合に勝っていれば、また違った展開になっていたかもしれないが。
飯野君は新宿駅近くの紀伊国屋書店へ行き『新宿クレッシェンド』を購入したらしい。
「岩ヤンの名前を言い掛けた途端、店員が『ああ、新宿クレッシェンドですね』ってすぐ出してくれましたよ。今度会う時、二冊買ったんで、二つともサインもらえますか?」
心優しい彼の気遣いには、本当に感謝である。
また電話が鳴る。
ずっと俺の事を心配していた望からだった。
「もしもし、智さん…。試合…、無事でしたか?」
「うん、全然問題ないよ。試合には負けちゃったけど、身体はまったく怪我も何もないぐらいだ」
「良かった……」
電話口ですすり泣く望。
二千六年の九月、俺がインターネットで初めて『新宿の部屋』を始め出した頃、仲良くなった教会の神父の妻。
最初は俺の小説の読者としてだったが、チャットをするようになった頃、食事へ行く約束をする。
この頃付き合っていた百合子とは、本当にうまくいっていない時期でもあり、俺は他の女性と会ってイライラを消したかったのも手伝った。
初めて俺と会った彼女は、旦那と結婚して十年間、他の異性と一対一で会った事すらなかったらしい。
教会の神父の妻である。
とても清楚で真面目な子だというのが第一印象。
普段大人しいが、一旦火がつくと気性が荒く、とことん俺を罵倒してくる彼女だった百合子と比べると、話をしているだけで自然と心が落ち着いた。
食事を終えたあと、プリントクラブでも撮ろうと誘い、肩を組んで映っている間、俺は彼女の唇を奪ってしまった。
小動物のようにか弱い身体。
ほのかに発する女の匂い。
食事へ誘ったのも、こういう女を抱いてみたかったからなのだと自覚した。
キスをされた望はほんのり頬を赤らめ、無言で下をうつむく。
俺はあごに指を差し入れて、顔を上に向かせ、何度もキスをする。
望はそんな俺の行動を拒まないでいた。
まだ暑い時期でTシャツ一枚だった彼女の服の上から胸をまさぐりだし、半ば強引に乳首を触る。
そこで現実に戻ったのか、望は少しだけ抵抗をした。
笑顔でその場は別れたが、俺はどうしても望を抱いてみたかった。
それから約一ヶ月後、再び俺と望は会い、とうとう抱いてしまう。
お互い旦那と彼女がいるのを分かっていての行為なので、完全な不倫と浮気である。
真面目だった望は、他の男に抱かれたという事実を受け止めようとするあまり、かなり悩んでいたようだ。
それまで毎日のようにあった連絡も日に日に少なくなり、俺が『岩上整体』を開業していた二千七年の一年、行きたいとは言っていたが、とうとう来なかった。
しかし年が明けようとする十二月末、俺が整体を閉めようと決意した頃、久しぶりに彼女から連絡があり「食事へどうですか?」と誘いがある。
本の出版、格闘技の試合前と様々な事で疲れていた俺は、救われたような気分で望と会う。
夜道をドライブしながら、一年ぶりの会話を楽しんだが、彼女は「そろそろ帰らないと」と言い出した。
正直に「また君を抱きたい」と想いを伝えた俺は、朝まで望を抱いた。
小説や格闘技に対する話をしながら過ごし、何度も抱いて、俺の心はとても癒されていたのだ。
命が亡くなっても主催者側へ責任の追及をしないという誓約書の事を話すと、泣きながら「お願いだから無事でいて」、そう言ってくれた。
この日からメールを打つ際も、会いたいという言葉から、逢いたいと自分の中で意識して変えるようになる。
一年経っても未だ忘れられない百合子の罵倒の数々。
そのせいか整体時代たくさんの女性を口説き抱いたが、ほとんど心は満たされず、また異性と付き合いたいとまるで思わなかった俺。
望のような心優しい女性だったら、一緒にいてもいいなと感じるようになっていた。
「また近い内逢って色々話そう。今さ、友達と中華料理食べているから、また落ち着いたら連絡するよ。連絡ありがとう」
「はい…、連絡待ってます」
人妻という立場を忘れ、完全に一人の女となっていた望。
罪悪感を覚えながらも、俺は彼女を求めている。
叙楽苑での食事を終え、西武新宿線へ乗って帰ると俺たちは別れ、各自家に戻った。
帰り道電話が鳴る。
整体時代よく通ってくれた小料理屋『こしじ』の女将である岩沢さんからだった。
「先生…、お怪我はなかったでしょうか?」
「ご心配掛けて申し訳ありませんでした。無事、何とか試合を終え、これから帰るところです。試合には負けてしまいましたけどね」
「勝ち負けよりも、先生のお身体に何もなくて、本当に良かったです」
自分の親世代ぐらい年が離れた女性である岩沢さんは、いつもこうやって俺の事を心配してくれる優しい人だった。
『新宿クレッシェンド』が賞を授賞した時も、俺の大好きな酒『グレンリベット十二年』のボトルを六本もお祝いに持って駆けつけてくれたぐらいだ。
頭が上がらない患者さんの一人である。
また時間を作って『こしじ』へ顔を出しに行かないとな……。
たくさんの知り合いからの連絡をもらい、試合には負けたが得たものも大きいような気がする。
本当に大切な人間は、俺の勝ち負けよりも、身体の安否を気遣ってくれるのだ。
これからは小説家として別の人生を歩む。
もう人を殴ったり、蹴飛ばしたりするような世界とはこれでお別れだ。
周りを心配させてしまう。
一つだけ苛立つ事があった。
中学時代からの悪友ゴリである。
俺は誰一人「試合へ応援に来てくれ」と言わなかった。
唯一言ったのはゴリだけだ。
何故なら奴には来なければいけない義理があるからである。
しかし奴は「仕事だから無理だよ」と素っ気なく断った。
そんなゴリが試合前の夜になって突然連絡を入れてくる。
あいつが三年間通い続け、ずっと口説いていた飲み屋『エルミタージュ』の女、武田結菜。
源氏名はそのまま本名の『結菜』。
その女から三行半をつきつけられ、焦って連絡をしてきたのだ。
散々利用され、金まで貸していたという事実を知った俺は、試合前にも関わらずゴリの話に付き合った。
俺らより一回り年下の武田結菜は、本当にふざけた女だった。
金も返してもらえず、図に乗らせたまま終わりではあまりにもゴリが可哀相だ。
せめてギャフンと言わせなきゃと、俺は悪魔的思想を練り込み、武田結菜をが怯えさせるような作戦を思いつく。
焦った結菜は、すぐゴリに「今から会えない」と電話を掛けてきた。
ゴリは「今月十四日に岩上の試合があるから、一緒に応援しに行かないか?」と言い出したので、俺はやっぱり応援に来てくれるんだと嬉しく思っていた。
しかし結菜がゴリの申し出を断った為、「ゴリさ、そんな事よりも俺の試合一緒にって誘ってたけどさ。もし、結菜が行くって言ったらどうするつもりだったんだよ? 仕事なんでしょ?」と確認してみる。
「ああ、そしたら仕事なんか休むよ」
コイツ、あれだけ仕事だからと抜かしていたくせに……。
「じゃあ試合のチケットは、ゴリの分一枚だけでいいの?」
「いや、仕事だから試合には行けないよ」
「……」
結菜となら仕事を休んでくるが、一人だと来られないとでも言うのだろうか……。
「さーて、明日はゆっくり休んで仕事に備えるか」
長年の付き合いだったが、この男とはこれ以上一緒にいても意味がない。
そう感じた俺は、そのまま帰ってしまったほどである。
せめて今日の試合のあと、電話一本ぐらいあれば、水に流そうと思っていたのだ。
しかしこの日、ゴリから電話の一本すらなかった。
試合前あんなに俺を引っかき回し徹夜で行かせといて、試合がどうなったのか、それに怪我が無かったのかなどの心配を一つもしないのだろうか?
先日の件で呆れてはいたが、さらに呆れてしまう。
もうじき夜の十二時を回る。
あいつからの連絡は無かった。
そんな気遣いすらできないなんて、どうしょうもない奴だ。
「あの野郎…、ふざけやがって……」
俺は夜道を歩きながら、通り掛かりにあったコンクリートの壁に向かって思い切り回し蹴りを打ち込んだ。
家の近くまで来ると、応援に来てくれた弟の徹也とその後輩たちが道端でだべっている。
「あ、智一郎さん、今日はお疲れさまでした」
後輩たちが俺に気付くと、一斉に礼儀正しくお辞儀をしてきた。
「みんな、応援に来てくれてありがとう。悪かったな、いいとこなしで負けちまって」
十名はいる後輩たちと家の近くの道端で話し、夜中になって解散する。
徹也だけは無表情のままで、つまらなそうにしていた。
後輩たちがそれぞれ帰ると「どうだ、セコンドについた気分は?」と明るく話し掛ける。
「……」
無言のまま一別する徹也。
「何だよ? 言いたい事あるなら言えよ」
「おかげでいい赤っ恥を掻いたよ」
「何だと…、このクソガキ……」
無意識に徹也の胸倉をつかんでいた。
「ロクにトレーニングにしないで試合に出て、あっさり負けてしまうんじゃ、セコンドについていた俺は、恥ずかしくてしょうがなかったよ」
「おい…、別にテメーなんぞ、セコンドについてほしいなんて、頼んだ覚えなんぞねえぞ。あれター坊が『弟さんなんだから、一緒についてもらいましょう』って入場する前、いきなり言い出すから仕方なくつけてやっただけだ」
「昔の身体ならともかく今の兄貴の身体を見て、呆れていた観客だっていたぜ」
「じゃあ、俺の目の前に連れて来いよ、そいつら。結局目の前じゃ何も言えない奴らじゃねえかよ。そんなもんの対応をいちいち気にしてどうする?」
「兄貴はそうやって、いつも人の意見を何も聞こうとしない」
「ふざけんなっ! やったのは俺だ。文句がある奴は、直に言いに来ればいいだろうが」
「もういいよ…。兄貴が聞く体勢にないなら、俺からはもう何も言わない」
「ケッ! じゃあ、とっとと俺の目の前から消えろっ!」
リングに立った事がない奴に、そんな言われ方をされる覚えはない。
親しい仲にも礼儀ありと言うが、相手の気持ちを考えず世間的な悪い評価しか気にできないのは、人として悲しく思う。
俺の安否を気遣い、無事を笑顔で喜んでくれた人たちと比べると、徹也の発言は許せないものがあった。
そういう俺も、世間体を気にしている……。
整体の経営を続けられないほどの状況に追い込まれていたとはいえ、辞め際を本の校正と格闘技の復帰を理由に閉めた。
本当は金が続けられる金が無かったらとは、恥ずかしくて口が裂けても言えなかったのだ。
最後の最後で騙して二十万円を持っていったヤクザの内野。
家賃すら払えない現状。
手っ取り早く金になる何かにすがりつくしか方法がなかった。
そして急遽決まった一ヵ月後の試合。
俺には受けるしか道はない。
もちろんコンディション不足で試合に臨んだのは、自分自身一番理解している。
だけどこのケースではしょうがないじゃないか。
そんなもの自分が一番分かっているんだ……。
やはり『打突』を使い、試合に勝てば良かったのか?
違うって。
そんなチンケな勝利と引き換えに得るものなど、俺の人生の汚点にさえなるだろう。
戦いの本質は相手を壊せばいい。
だけど、俺はそのステージに上がっても、人間を思い切り殴れなかった。
ナイフを押せば簡単に人に刺さってしまう理屈。
『打突』の使用はそれに近い感覚がある。
刺さると分かりながら刺せる人間は、ただのクズだ。
それに人間を殴る事に何の矛盾を感じない者同士が、勝手に殴り合えばいい。
恨みも苛立ちもない相手に対し、俺は殴る行為などできやしないのだ。
金が無いから出場せざるおえなかった俺。
命を張ってまで得たファイトマネーは、たったの三万円だった……。
会場は満員御礼で、立ち見の観客まで多数いた。
それでもこの程度の金しかもらえない現実。
でも、そんな条件でさえ、俺は出なきゃいけないような状況だったのだ。
世間体を気にしたせいで……。
俺の処女作『新宿クレッシェンド』が全国書店に発売される中、赤字経営で『岩上整体』を潰す。
それだけは言えなかった。
しかもスズメの涙ほどのファイトマネーや、試合に向かうまでの経緯などを説明したところで自分が惨め過ぎる。
今年に入りずっと上昇気流に乗っているつもりが、この日を境に落下していくような感覚がした。
「俺たちの世代は、横の繋がりがあまりねえ。同級生の絆ってもんが薄いんだ」
よくこの台詞を多用した内野。
あの馬鹿はヤクザになっていつも人を威嚇するような行動しているので、他の同級生からは相手にされていない。
「岩上だけだよ、俺と普通に話してくれるのはよ」
そんな事を言いながら、よくも困っていた俺から金を騙し取りやがったな……。
先ほどの徹也の言葉でイラついていた俺は、内野とバッタリ会ったら渾身の力を込めて横っ面を殴り飛ばしてやろうと心の中で固く誓う。
「クソがっ!」
思わず家のコンクリートの壁に右の拳を叩きつける。
拳から伝わる衝撃と痛み。
そして流れ出る血。
記念すべき日が、最後で最悪の気分になっていた。
ヤニで少し黄ばんだ白い天井を見ながら、しばらくボーっと寝転がる。
戦いのステージからは遠ざかり、代わりにピアノを弾くスキルと、小説を書くスキルを得た。
初めて書いた作品が賞を獲り、世に出る。
そしたらもっと明るい未来が待っているはず。
ずっとそう想い描きながら頑張ってきたつもりだった。
群馬に住む不思議な先生からは、当時歌舞伎町で裏稼業をしていた俺に対し「あなたはもっと光輝く表の道を歩きなさい」、そう言われた。
戦う道を再び選ぶとは、自分でも想定外だったのだ。
壊してきた代わりに、多くの人を治す整体。
しかしそれさえも自分の生活を苦しめるようになってしまった現実。
一体俺って、何なのだろう?
たまたま運良く賞を獲り、たまたま昔の貯金で試合に復帰しただけ。
今の俺の価値など、せいぜいそんなものか。
「おかげでいい赤っ恥を掻いたよ」
先ほどの徹也の言葉が蘇る。
試合に出て負けた事が、そんなに赤ッ恥だと言うのか?
鋭利な刃物で心の中をズタズタにされたような気がした。
慌しかった日常も、今日でやっと終わる。
これから俺はどうすればいいのだろうか?
新たに小説を書くような気分でもない。
かといってまたトレーニングをして、リングの上へ立つつもりもない。
格闘技と小説は関係ないと言い切った担当編集者の今井貴子。
絶対にそれは違う。
少なくても書く事で、俺はこれまでバラバラだった点が、一つの線になりつつあるのだ。
小説家がリングに上がる。
格闘技界は興味を示し、マスコミも飛びついた。
本を売るといった点では、宣伝効果として最高のものなはず。
出版社のサイマリンガルからは特に何の連絡もない。
命を懸けて行った宣伝を無下にした馬鹿な連中たち。
自分たちで金を出して本を作ったのに、何で何も動かない?
売る気がないのか?
あの会社は今日の祭日は休みだったはず。
それなのに何故誰一人、俺の応援に来なかった?
せめて『新宿クレッシェンド』を会場に運んでくれていれば、DEEPの社長もサイン会をしてほしいと言っていたほどだから、もっといい展開になれたのだ。
多くのマスコミ関係者も来場する場所で、絶好の宣伝になったものを……。
それにクレッシェンドの表紙や、本につく帯にも未だ苛立ちを隠せないでいる。
作者自身が描いた表紙を使えば、小説、扉絵、格闘技と、三つの話題になれたのだ。
それを今井貴子のくだらない意見一つ「ピアノを弾く物語じゃないので」と、あっさり没にしやがって……。
帯だって社長が「岩上さん、誰を表紙に使いたいですか?」と聞いてきたのだ。
俺は現全日本プロレス社長である天才レスラーの武藤敬司を使いたいと言ったはずである。
それさえも「岩上さん自身が表紙になっているので、芸能人を使うと表紙がボケます」と言い出し、『生きた新宿を書く新星、岩上智一郎』と文字だけのつまらない帯を勝手に作ってしまった。
あの無能な女のせいで、すべてが台無しになった気がする。
「フー……」
ゆっくり深呼吸をして息を整えた。
もうやめよう。
マイナス的な事を考えると、イライラが募るばかりでキリがない。
みんなの前で大々的言ったものを一応すべてちゃんとこなしてきたじゃないかよ。
もっと自分を誇れ。
そして今はゆっくり休めばいいんだ。
目を閉じると、あっという間に睡魔へ引きずり込まれた。
翌日になり、昼まで部屋でゴロゴロして過ごす。
そうだ、昨日の試合の事を自分のブログに書かないと……。
俺はパソコンを起動して、『新宿トモの部屋 セカンド』を開く。
負けてしまいました。
二千八年一月十四日。
応援してくれたみなさま、ごめんなさい。
負けてしまいました。
写真の花束はサイマリンガルより(新宿クレッシェンドを出版してくれた会社)。
でも、大きな怪我もなく、無事試合も終わりました。
会場に来てくれたみなさま、ごめんなさい。
そしてありがとうございました。
満員御礼、立ち見の人までいましたね。
来場してくれた方々、ありがとうございます。
明らかに練習不足とブランク。
でも、言い訳になりません。
みなさま、すみませんでした。
対戦相手の権田選手には、これからも頑張ってほしいですね。
ター坊、今日は本当にありがとう。
お疲れさまでした。
格闘技って色々な人の想いで成り立ち、たくさんの温かい観客の声援で熱を帯び、とてもいい経験と勉強になりました。
最後にこのような場を設けてくださった主催者のDEEPさん、ありがとうございます。
岩上智一郎
日にちを昨日にして上で記事を書き終え、セブンスターに火をつける。
煙をゆっくり吐き出しながら、自分の書いた記事や画像をしばらく眺めた。
この試合でもらったファイトマネーとか、サイマリンガルの意味不明な行動をハッキリ書いたら、みんな驚くだろうな。
まあ、そんな事こんな時期に書ける訳ないけど。
それにしても、本当に時間が流れるのが早く感じた日々だったなあ……。
忙しかったけど、それなりに充実していた証拠だ。
先輩の坊主さんから電話が入る。
「おまえの試合は負けたら映像消すって言ったけど、家にあのあと帰って裕子に見せたら、『智君頑張ったんだから、ちゃんと渡してあげなさいよ』ってうるさいから、ネット上にアップするから」
「ありがとうございます、坊主さん!」
いつも坊主さんは皮肉を言うくせに、根っこの部分では優しい。
「智が負けた映像なんて取っといてもしょうがない」と試合前、何度も言っていたぐらいだ。
腹が減ったので、一階の居間へ向かう。
ちょうど叔母さんのピーちゃんが昼食の準備をしていたので、俺も席へ座る。
おじいちゃんと従業員の伊藤久子もいたが、特に試合の事は聞いてこない。
あまり格闘技には興味がないのだろう。
トーストを食べながら世間話をしていたので、俺は昨日試合に負けた事を伝える。
しかしピーちゃんは、どうでもいいような対応しかしなかった。
仕方なく小説の話題に切り替えようとすると「おまえの作品は、読んでいて暗く嫌な気分になるから読みたくない」と簡単に言われてしまう。
幼少期から俺を育てているピーちゃんからすれば『新宿クレッシェンド』の主人公である赤崎隼人の虐待シーンが、俺の実体験だという事ぐらい分かるはずだ。
それにしても、酷い言われようである。
「ピーちゃんはそうでも、こんな俺の作品を喜んでくれる読者だってたくさんいるんだ」
「おまえの本は、二時間もあれば読めてしまう。そんな短い時間で読める本に、九百八十円も出すのはもったいない」
何をしても完全な俺否定。
いつだってそう。
全日本プロレスへ入門した時も、岩上整体を開業した時も、すべて否定から入るのがピーちゃんだった。
「あのさ…、一応俺、賞を獲って本を出したプロの作家なんだけど?」
本当はこんな風な言い方などしたくはない。
しかし応援してくれる読者に対し、このぐらいの言い方をしないと申し訳ないと感じた。
「あの程度の賞で、何を言ってんだよ」
呆れたように笑うピーちゃん。
「おい…、おまえが自分で同じ事をやってから、簡単に言えや、コラ……」
俺が凄みながら言うと、横にいた伊藤久子が口を挟んでくる。
「本当だよ、智ちゃん。あのぐらいで天狗になっていたら、笑われちゃうよ」
「……」
あのぐらい?
処女作で賞を獲った事をあのぐらいと簡単にこの人は言えるのか……。
昔、伊藤久子は学習院大学の文学部に所属し、選考委員などもした経緯があるらしいが、以前俺の作品をこれでもかと言うぐらい罵倒された。
おかげで考え過ぎた俺は二千五年の一年間、一つも作品を完成できず大スランプになった過去がある。
結果を出し、本まで出版した俺に向かって、まだそんな言い方をするのか。
クレッシェンドだって、応募数五百部ほど集まった中で、一位に輝いた作品なのだ。
大手出版社の角川文庫だって、作品応募数はそう変わらない。
選考委員をやった経験があるのに、その価値すら分からないなんて……。
だから世の中、どうでもいいつまらない本ばかりが評価を得て、そんなものが本屋に羅列するのだ。
気分が悪くなりそうだったので、俺は外へ散歩に出掛ける。
賞を獲ってのが去年の八月三十一日なので、四ヶ月以上の時間が過ぎた。
日本全国ネットでニュースになったにも関わらず、川越の人間はまったく意に欠かさない状態だった。
俺の事をよく知る知り合いのみが、作品に関する話題をするぐらいだ。
近所の早稲田大学を出た酒屋さんには「一回賞を獲ったぐらいじゃ、駄目だよ。二回も三回も獲らなきゃ」と簡単に抜かしていたが「じゃあ、あんたが一回でもいいから獲ってみなよ」と言いたい。
学校に本を卸す大手の本屋の息子である同級生の吉田智行。
通称トトには発売前「俺の本が発売されたら、おまえのところの本だけは全部サインしといてやるよ」と道端で会った時伝えた事がある。
しかし、トトは「サインされると返品利かねえんだよ」と小生意気な事を抜かした。
幼稚園からの同級生だった守屋純一からは「岩ヤンが賞? ちゃんと本になるんだ? もっと胡散臭い賞かと思ったよ」と言われる始末。
川越市役所に至っては「川越出身の作家として賞を獲ったのは、岩上智一郎さんが初めてでずが、本を出す為、営利目的になるので市の広報へ載せる事はできません」と言われた。
「おじいちゃんには、いつもお世話になっています」
「お父さんには、いつもご馳走になっています」
そう人の顔を見る度抜かす川越の住民たち。
だけど俺がした事に関しては、何の興味も示さない。
地域活性化を謳う川越。
どこが人情味に溢れた街なのだろうか?
「智一郎さ~ん」
俺を呼ぶ声がしたので振り向くと、川越祭りで同じ連々会に属している女の子二人だった。
「おう、どうした」
「私たちに…、『新宿クレッシェンド』を下さ~い。あとサインもして下さ~い」
いきなり手を前に出して本をせがむ二人。
「……」
呆れて何も言えなかった。
ここから歩いて五分ほどの距離にある岩上整体を開業した際、一度だって挨拶に来た事がない。
試合だって当然応援にすら来ないし、激励さえない。
挙句の果てに、まだ本までねだろうというのか?
あくまでも俺は本の作者であり、本屋ではない。
彼女らが言った台詞を額面通りとると、俺がわざわざ本屋に行って自腹で『新宿クレッシェンド』を買い、サインまでしてプレゼントしなきゃいけないのかって感じだ。
ヤクザの内野にしても、何でこの街は、たかり思想の奴らが多いのだろうか。
あの忌々しい記憶もそうだ。
賞を授賞した日にたかってきた角川文庫下請け会社取締役の水野と、大学教授の日野。
あいつら記念すべき日に、祝おうと近づきながら最後の会計では「あれ、金が無い」と、うまく俺に支払いを押しつけてくるような五十代後半のオヤジ連中。
いや、地元だけじゃない。
思い返せば、歌舞伎町の連中だって人を利用しようという人間は多かった。
あの頃はまだ多額の金を稼いでいたから、そう気にならなかっただけなのかもしれない。
裏稼業は日本の法律では罪になる。
でも、俺が過去にやってきたものは、少なくても人を騙すような商売などしていない。
それなのに犯罪者扱いされる現実。
人をうまく利用する事のほうが、よほど罪深い事なんじゃないのか?
だからこの世の中が、どんどんおかしくなるのだ。
整体時代、よく来た同級生の岩崎智典ことチャブーも酷い奴だった。
俺の診療時間中、患者がいようと平気な面をしながら来て、自分の悩みを話す。
岩沢さんとかいい患者に恵まれていたおかげか、たまたま怒るような人間はいなかっただけで、俺にしてみればいい営業妨害である。
俺に当時付きまとってきた京都のカウンセラー山崎ちえみ。
あの女を追い駆け京都まで行ったチャブーは、それ以降ほとんど俺と関わろうとしなかった。
昔から女とのトラブルが無くなると、急に付き合いをしなくなるような男である。
現に俺の授賞した日の祝賀会には「眠いから」のひと言で参加せず、試合だって「仕事だから」と来なかった。
あいつもゴリ同様、電話の一つもない。
今までの小さな事が、一つの大きな憎悪になっていくのを感じた。
応援しろとか、協力しろなんて言わない。
せめて俺を利用したり、邪魔しようとしたりするのだけは本当にやめてほしいものだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます