2024/12/04 wed
前回の章
どうでもいい三角関係がある程度形がつき、初めて自分自身の事へ目を向けられる。
家のクリーニングを不当解雇されたパートの伊藤久子のところへ顔を出した。
俺も協力するから親父たちへ不当解雇だと戦おうと提言するも、揉めるのは嫌な彼女は大人しく引き下がる選択をした。
親父と同じ年の伊藤久子の仕事状況が、どうなったのか気になったのである。
聞くと、現在介護施設の調理を始めたようだ。
「智ちゃん、気に掛けてくれてありがとね」
俺が整体をした時に祝い金を持参して来てくれたのだ。
それ以降も患者として定期的に来てくれた恩がある。
家業と関係無くなったとはいえ、そのままそうですかという訳には行かなかった。
介護施設以外にも市役所へ申し込み、ベビーシッターの仕事も引き受けたらしい。
ある日呼ばれたので訪ねると、まだ幼稚園くらいの男の子がいた。
名前をオーちゃん。
美容師をするシングルマザーからの頼みでベビーシッターをする事になったようだ。
俺は以前百合子の弟家族の子供で散々あやしに行った龍星用に過去たくさん作ったDVDのコレクションを持っていく。
昔の戦隊モノや各種映画、プロレスの映像が五十枚以上あるので、幼いオーちゃんは目を輝かせ喜ぶ。
伊藤久子一人で、幼稚園生を面倒見るのは大変だと判断したのだ。
彼女はお礼にと、三人で安い焼肉の食べ放題の店へ連れてってくれる。
「よく考えると不思議なもんだねー」
「何がです?」
「私と智ちゃんとオーちゃん…、六十代に三十代、それから十代にもならない三人の組み合わせだけど、親子でも何でもない。でも周りの客から見たら、家族にしか見えないでしょ」
「そういえばそうですね」
まだ何も分からないオーちゃんは、がっついて肉を頬張っている。
いくら安いとはいえ三人分の会計をしたら、今日の稼ぎじゃ足りないだろうに……。
それで伊藤久子はご馳走してくれた。
彼女なりの感謝の証だったのだろう。
覚えてしまえば同じ事の繰り返しなKDDIのコールセンターの仕事。
ある程度のコツを掴んだ俺は、みるみるうちに成績が上がった。
丁寧な日本語を話せとは言われるが、会社へ架電してくるほとんどの客層はクレームが圧倒的に多い。
電話に出た瞬間、罵声を浴びせてくる客などしょっちゅういた。
「テメーKDDIこの野郎!」
いきなりこんな感じで怒鳴ってくる客。
まるで話にならない人も多い。
精神的に疲労し辞めていく新人も多かった。
一緒に研修で学んだ中の佐藤もその一人である。
日に日に表情が暗くなる彼に対し、声を掛けた。
「いやー、岩上さん…、自分はこの仕事合わないような気がします」
よく彼の愚痴を聞きつつ、せっかくここまで頑張ったのだからもう少しだけやってみようと促す。
それでも限界が来たようで佐藤は退職した。
俺の同期は二十代が多い。
残った同期は松本、幸、それと女性の島田のみ。
その中で一番年上の俺は、仕事中はともかくプライベートくらい仲良くいい雰囲気でいたい。
共通するのは働き始めでみんな金が無いところだった。
だだっ広い休憩室がせっかくあるのだ。
俺は以前望から教わったミートローフの料理をメインに、一部上場企業の二十八階で、昼休みにパーティーをしようというアイデアを出してみた。
みんな具体的に何をするのか聞いてきたので、単純に俺が早起きしてパーティー料理を作って持ってくるから、みんなは参加して楽しんでくれればいいと伝える。
翌日俺は四時起きでご飯を炊き、ミートローフやパスタと様々な料理を作った。
川越の家から人数分の料理をKDDI新宿事業所ビルまで持っていくのが一番大変だったが、これでみんなが楽しんでくれるならと頑張って運ぶ。
うちの課のトップの田中も参加し、ボイスコミュニケーショントレーニングの講師であるおあやの先生こと富岡香織も面白そうに参加した。
あとは俺と男の同期二名。
俺はこの様子の映像を撮り、ユーチューブへアップした。
後日になり、これが大問題として発展する。
六十人以上いる課の中の誰かが、面白くないと上に密告したのだろう。
数日後出勤すると、田中から呼び出され会議室へ向かう。
神妙な表情の田中と富岡香織が座り、俺も隣へ腰掛けた。
メガネを掛けた見た事のない男が、入ってくるとみんな顔を強張らせる。
きっも田中より上のお偉いさんなのだろう。
対面に座ると俺を一瞥し「あなたが岩上さんですね?」と声を掛けてきた。
「ええ、自分が岩上智一郎です」と答える。
「あなたね…、どれだけだいそれた事しでかしたのか自覚ありますか?」
「いえ、まったくありません。仲間内で楽しいパーティーをしたら面白いなと思い、行動したまでです」
「岩上さん、あなたがした事は情報漏洩に当たります」
休憩室に料理を持ってきて、みんなで食べただけの何が情報漏洩なのだ?
俺は何も会社に、迷惑が掛かるような事はしていないとハッキリ伝える。
「もし仮にそれで田中さんや富岡さんまで罰されるようでしたら、俺個人が勝手にした事です。俺だけに責任を負わせて下さい」
「岩上さん…、あなた一人の責任で済むような話なら、私がここへ来る事なんてないんですね」
「じゃあ何がいけないのかハッキリ言って下さい! どの辺が情報漏洩なのかを」
お偉いさんの説明によると、俺と松本は同じ課で同じIDカード。
幸だけ同じ課ではあるが、ちょっと違う部署なのでIDカードを首に掛ける紐の種類が違う。
そこにKDDIのロゴが入っていると指摘された。
確かによく見てみると、KDDIの文字が肩紐から見える。
この程度で大問題なのか?
「ではどうしたらいいでしょうか?」
「まず岩上さん、ユーチューブの当社の映像を消して下さい」
「構いませんが、私用で会社のパソコン使わせてもらえないんですよね?」
「もちろんです。ただ私がこうして来た以上同席の元で映像を消してもらいます」
「どうしたらいいんですか?」
「私が岩上さんの家へ出向き、そこでも構いません」
「別にいいですけど、うち川越ですよ?」
「一向に構いません」
大企業って本当に面倒臭いなあと思った。
これから一時間掛けて川越のうちまでお偉いさんと共に行って、ユーチューブの映像を消すだけ。
「あ、それなら会社の近くに漫画喫茶あるじゃないですか? IDとパスワード分かればそこでも同じ事できるんで、そっちのほうが効率良くないですか?」
俺がそう意見を伝えると、それで行く事になる。
「だから田中さんやおあやの先生の責任は問わないで下さいよ」
「映像を消せば、この件はおしまいです」
「じゃあ行きましょうか」
こうして俺とお偉いさんの二人は真っ昼間会社を抜け出し、近くの漫画喫茶へ向かう。
カップルシートの席を頼み、二人で並んで座る。
漫画喫茶の店員にコイツらゲイなのかと思われないか、少しだけ心配だった。
俺のチャンネルへ入るのを見ているお偉いさん。
一部上場企業でパーティーの動画を探す。
他の俺の格闘技動画や、ピアノ演奏の動画などを見たお偉いさんは、不思議そうな表情で「岩上さん…、あなた何者なんですか?」と聞いてくる。
「え? 今はKDDIで飯食ってますけど?」
「いや…、格闘技とかピアノとか……」
お偉いさんも、さすがに混乱しているようだ。
俺は簡単な素性を伝え、出版社から未だ印税をもらえないから、こうして真面目に働いていると正直に話す。
いきなり笑い出すお偉いさん。
こうして変な打ち解け方をして、ユーチューブ映像事件は終了した。
『古木は未だ牧田順子と陰でコソコソ会っているようです。 影原美優』
何気に頻繁に届く影原美優からのメール。
俺はそれに対し、別段返事はしなかった。
そんなろくでなしを選んだのも自分である。
古木英大や牧田順子からも、相変わらずメールは届いていた。
目を通すのは影原のみ。
古木に関しては、関わるとロクな目に遭わないというのは過去で実証済みである。
意味不明なのは牧田順子だ。
俺を軽蔑すると目の前で言っておきながら、未だ依存してくる始末。
とっとと古木と離れ、レズビアンにでも戻ればいい。
未だに俺は忘れられない。
影原が愛和病院で子供をおろす手術の日、古木は自分で妊娠させときながらその場を逃げ、別れたはずの牧田順子と共にいたのだ。
こうなるともう人間の所業ではない。
家畜以下だ。
都合いい時だけ俺にへつらい、気に食わないと悪態をつく。
JAZZBarスイートキャデラックの常連客は問題ある奴が多い。
五十代後半の角川書店下請け会社取締役の水野。
同じく同世代の大学の教授をしている日野。
あいつらは俺がグランプリを取った記念すべき日に、友人らが祝っているところへ割り込んできて、強引に俺を寿司屋へ連れていった。
会計時「あれ財布が無い」や「持ち合わせが……」などとふざけた事を抜かし、俺にたかってきた屑。
社会的地位があろうが、そんな真似を一度でもしたら、それは人間の屑でしかない。
こうまで困ったちゃんたちが俺に近付いてくる理由。
それは俺自身にも原因があるのかもしれない。
優しいと甘いは違う。
俺は優しいのではなく、ただ単に甘いだけなのだろう。
何かをされる前、何かに巻き込まれる前に、俺はもっと慎重にならなきゃいけない。
影原美優に関しては、まともな相談事なら答えるつもりだった。
古木がなどそういった愚痴などは一切無視。
嫌なら別れればいいだけなのだから。
俺は自身の生活もちゃんと考え、何故こんな風になってしまったのか。
一度ゆっくり振り返ってから、出版社サイマリンガルと対峙しなければならない。
いつ頃から振り返ればいいのか?
決まっている。
総合格闘技手前辺りから、現在まで振り返ってみればいい。
何かしらの気付きがあるかもしれない。
運良く小説の賞を授賞し、全国書店にて出版を果たした俺。
総合格闘技DEEPからのオファーを受ける形で、約七年半ぶりに現役復帰もした。
準備期間一ヶ月もない状況の中、俺は『岩上整体』を締める決意をする。
良心的にやってきた整体は、自らの首を絞める結果になっていた。
駅前の高額な家賃。
様々な形で引かれていく経費や維持費。
オマケに小学時代の同級生だった内野から騙し取られた金。
精神的にもこれ以上『岩上整体』を続けていく気力が無かった。
本の校正作業、そして格闘技の試合と多忙を理由に、ようやく辞められるのだ。
色々な事があったなと思い出しながら、整体の後片付けを始めた。
二千十年一月十日。
トレーニングする時間もないまま時間は過ぎ、処女作『新宿クレッシェンド』が全国発売される。
地元の川越ケーブルテレビの取材が来て、ニュースを流してくれた。
試合前日には、総合格闘技団体DEEPでの記者会見。
俺の人生にようやく転機が訪れ、上り調子に昇っていくのだろう。
そう思うと、しんどいけど心地良い疲労感だった。
しかし試合当日、出版社サイマリンガルの人間は、誰一人会場へ来なかった。
DEEPの社長は「岩上さん、何で出版社の人間が来ないんですか? それに『新宿クレッシェンド』はどうしたんです?」と試合前にも関わらず何度も言い寄ってくる。
そんなものこっちが何故と聞きたいぐらいだ。
スカイパーフェクトTVのテレビ中継も来ている中、俺はブランク七年半という期間があるのに、メインイベント扱いで試合の日程を組んでくれた。
ヤフーやスポーツナビといった大型のマスコミも俺の試合を取り上げてくれ、多くの人の関心を集める事にも成功した。
賞を獲ったばかりの小説家が総合格闘技のリングの上に立つ。
人々は本当なのかと興味を抱くはず。
すべて計算通りだったのだ、ここまでは……。
思えば俺の本の担当編集者の今井貴子はまるで覇気が無く、魂の欠片さえ感じさせない女だった。
だから試合当日会場にも来なければ、本だって持ってこないのである。
何が「私は『新宿クレッシェンド』を世界で一番理解しています」だ?
どこの世界に格闘技の試合へ出場し、タダで本を宣伝させようとする作家がいる?
あの出版社自体、何で賞を設立し、わざわざ高い金を掛けて本を出版したのか、まったく理解できない。
格闘技と本は、関係ない。
そうあの女は俺に言った。
じゃあ、他に宣伝方法を考えたのか?
何故あんな無能な奴を担当にしたのか意味が分からない。
苛立ちと焦り、そんな混乱を抱えたままリングへ上がった俺は、フロントチョーク、ガッチリと両腕で首を極められ試合に負けた。
リングに忘れたものを取り戻しに……。
そんな目的で臨んだ復帰戦で得たものは、長年考えていた強さとは何かである。
二十歳の頃から強さを目指す為にトレーニングを続け、答えが出なかったもの。
その答えがようやく分かったのだ。
久しぶりのリングの上。自分の入場テーマ曲『地球を護る者』に乗って入場した俺は、ワイヤーが中に入った最上段の黒いロープを右手でギュッとつかんだ瞬間、心が満ち溢れてしまったのだ。
人生これまで生きてきて、最高に至福の瞬間。
そう、試合が始まる前に俺はノスタルジーを感じ、そこで満足してしまったのである。
とっておきの技『打突』をあの時相手の腹へぶち込んでいれば、今頃は……。
いや、あの技を使わなかったからいいんだ。だからこそ胸を晴れる。
天国にいるジャンボ鶴田師匠も、きっとこんな俺を笑顔で見守ってくれたはず。
カンカンカンカーン!
試合終了のゴングが聞こえる。
意識が無くなる前にタップした俺は、マットの上へ大の字で仰向けに寝転がり、天井の眩い光を見つめていた。
負けちゃったか、まあしょうがねえか……。
ゆっくり上半身を起こし、自分の入場した青コーナーの右側の席へ顔を向ける。
最前列で応援していた先輩の岡部さんは、泣きそうな顔をしながらも笑顔でリングのエプロンサイドまで駆けつけ、マットを両手でバンバン叩いていた。
「智一郎っ! 良かった。本当に怪我がなくて良かった。お疲れさん! 頑張ったな」
普段物静かな岡部さんが興奮しながら声を掛けている。
ずっと俺に対し「頼むから死ぬなよ」とうるさいぐらい心配してくれた。
本当に世話になってばかりだな……。
先輩へ近づき、ロープ最下段を両手でつかみながら「すみません、負けちゃいました」と笑顔で自然と言えた。
それから後方を向くと、重たいカメラを肩へ担いだまま坊主さんが見える。
彼は微動だにせず、黙々とカメラを向けたままだ。
二十一歳の時に挑戦した全日本プロレス。
二十九歳の時に出場した総合格闘技の試合でのセコンド。
歌舞伎町時代に教わったパソコン。
三十一歳の時に出場したピアノ発表会。
そして今……。
俺の人生の要所要所で必ず傍にいてくれた頭の上がらない先輩だった。
今日も俺の勇姿をカメラに収めようと、自分の感情を押し殺し、こうして俺をファインダー越しに撮っている。
横には中学時代からの同級生の飯野誠。
小学時代からの同級生、荻野力。
そして歌舞伎町時代世話になった裏稼業大ボスの平野の姿が……。
他にも応援に駆けつけてくれた大勢の人たちの顔が、みんな俺を見ていた。
格闘技の試合は勝った負けただけがすべて。
それなのに、応援へ来てくれた人たちの表情は無事で良かったと言うような笑顔だった。
もう俺も三十六歳。
気付けば年を取っていた。
「ありがとうございました」
頭上で声が聞こえ見上げると、対戦相手だった権田雄三が近くに立っている。
深々とお辞儀をしながら真剣な眼差しで俺を見ていた。
『打突』をこの子に使わないで本当に良かった……。
立ち上がり彼の肩を抱く。
そして頭をポンポンと叩いた。
馬鹿にしている訳じゃない。
よくやったなという激励の意味合いだ。
権田のセコンドがいる赤コーナーへ向かい、お辞儀をする。
セコンド陣の二人も笑顔でロープ越しに握手をガッチリした。
レフリーにうながされ、俺はリングを降りる。
【私は大会中の事故、怪我等に関して、主催者および関係者に一切の異議、責任を申し立てない事を誓います。
※万が一、大会中に身体に障害を受けた場合、死亡した場合など、いかなる場合も一切の責任は自己責任となります。】
こんな誓約書へ勢いでサインしてしまったが、無事生還できた訳だ。
観客が手を出してくるので、一人一人握手をしながら花道を戻る。
「負けちゃってすみません」
何度この台詞を笑顔で言いながら歩いただろうか。
見せ場といえば、最後のフロントチョークを三十秒ぐらい堪えたぐらいかな。
まあ、ちゃんとトレーニングもしていなかったんだ。
怪我が無かっただけでも上出来だ。
控え室のある幕をくぐり、薄暗く細い通路を右へ曲がる。
「悪かったな、ター坊……」
セコンドへついてくれた後輩のター坊へ、歩きながらボソッと言った。
「しょうがないっすよ。練習でできたものを本番で必ず出せる訳じゃないし」
「今回その練習すらほとんどしないままリングへ上っちまった。情けない身体の状態で」
「まあ、何にせよ、智さんの怪我がなくて俺は良かったっす」
本当なら強かった頃の俺を目の前で見せたかった。
二十九歳の極限状態だったあの頃が懐かしい。
「じゃあ、自分と徹也さんはここまでにしておきますね。自分は社長にも挨拶行ってきますんで。帰りは別々になっちゃいますけど、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ないよ。俺も知り合い待っているだろうしね。ター坊、お疲れさま。今日は本当にありがとう」
急遽セコンドへついた弟の徹也は仲間が待つ観客席へ、ター坊はディーファ社長の元へ消えた。
徹也は俺の負けが気にいらなかったのか、終始無言で冷めた表情をしている。
元はといえば、ター坊が『岩上整体』へ顔を出したのが、この試合のきっかけだった。
俺がリアルに戦う姿を見たい。
以前からそう強く思っていたター坊は、冗談で「試合へ出てもいい」と言った俺の言葉を真に受け、総合格闘技DEEPへ連絡を入れた。
DEEPの社長は二つ返事でこれを了承。
俺がサインをすれば会場も押さえてあるし、すぐ試合ができると伝えてきたのだ。
準備期間一ヶ月じゃ、多忙過ぎて何の準備もできないまま慌しく試合へ臨む。
それでも出場すると決めたのは自分だし、何を言ったところですべてが言い訳に過ぎない。
通路を歩きながら、先ほどの試合を頭の中で振り返っていた。
何故、試合開始と同時に相手の膝へ前蹴りをして膝を砕かなかった?
多分作戦上思ったところで、相手の関節を壊すつもりなど毛頭もなかったからだろう。
力でコーナーへ押し込んだ時、何故『打突・改』を相手のこめかみにぶち込まなかった?
親指第一間接を折り曲げた骨の部分でなら、刺さる心配もない。
一度権田の左腿へ打ち込んだ『打突・改』。
それで彼の身体は敏感に痛みを感じ、動きが一瞬止まった。
脚でこうだ。
とてもじゃないが、勝利の為にこめかみへ『打突・改』を打ち込むなどできなかったのだ。
それに強引にコーナーへ押してから、受け狙いで逆水平チョップをやるぐらいのプロレス頭があっても良かったのにな。
あの時強引に両腕を相手の身体へ回し、ガッチリとクラッチを組めれば、そのままスープレックスで投げられた。
しかし、実戦から遠ざかっていた俺は試合中思ったように行動できなかった。
最後のフロントチョークを極められた時、思えば逃げようはあった。
一つは禁断技の『スクリュー』。
相手の手首を捻って関節を極め、あの体勢から脱出する。
そして手首から肘、肘から肩をロックして腕を伸ばす。
相手の真横へ来たら、俺が腕を軸に宙を回転する技。
馬鹿な、そんな事をしてみろ。権田の手首、肘、肩はよくて靭帯が伸び、最悪すべてが複雑骨折になってしまう。
観客のいるような試合で、そんな凄惨なシーンなど演出できない。
やれば話題になり、観客は歓喜の声を上げるだろう。
しかしそれを引き換えに対戦相手の身体は再起不能になる。
もう一つの方法は、首を絞められたまま持ち上げてしまう。
以前の体力なら余裕でできただろう。
高く持ち上げ、そのままマットへ相手を叩きつけてしまえばいい。
だけど自分の首の心配もある。
無茶をすれば頚椎損傷する恐れもある体勢なだけに、賢明な方法とはいえない。
最後の手段として真横へ上げた右腕。
ゆっくりと突き出した親指。
がら空きの胴体に向かって鍛え抜いた親指を突き刺せば『打突』が決まり、勝利を得られたはずだった。
でも『スクリュー』同様、相手を壊してまで得た勝利に何の意味がある?
生前、鶴田師匠に『打突』を編み出した事を伝えると「馬鹿野郎、おまえは相手を殺すつもりで試合をするのか」と殴られた。
この試合の勝利に、そこまでして勝つ価値などない。
頚動脈を締められ意識が朦朧としていく中、俺はそんな事を考えていた。
だから『打突』の握りを解き、その右手でポンポンと二回タップして負けを宣告したのだ……。
もう試合は終わった。
今さら内容を悔やんでも仕方がないじゃないか。
本気で相手を殴れず、戦う為に編み出した『打突』さえも躊躇してしまう性格。
一つ分かった事。
それは俺がいかに戦う事に向いていないという事実だけだった。
階段を降りて通路を進み、右へ曲がったところにある選手控え室へ辿り着く。
流した汗をタオルで拭い、オープンフィンガーグローブに巻きついているテーピングを取る。
かなりキツい状態だった両手。
グローブを外すと周囲の空気に触れ、小気味がいい。
部屋に設置してあるテレビには、現在の試合が生で映るようになっている。
同じ控え室にはプライドにも出場をした経験のある『世界のTK』という異名の高坂もいた。彼は俺を嫌いなのか、一別をしてそっぽを向く。
試合前、陽気に選手たちへ冗談を言っていた俺だが、高坂だけは一切笑いもしなかった。
おちゃらけたように見える俺を面白く思っていないような態度だった。
俺も小馬鹿にしたように鼻で笑い、着替えを済ませる。
テーブルの上に置いてある出版社サイマリンガルから届けられた花束。
こんなもん贈ってくるぐらいなら、本を持って応援に駆けつけてくればいいものを……。
「あ、いたいた! 智一郎さ~ん」
自分の名前を呼ばれたので振り向くと、同じ町内に住む四つ年上の三枝が立っていた。
彼とは地元の川越祭りで知り合い仲良くなり現在に至る。
冷たいもので、同じ町内の連中で試合にこうして駆けつけてくれたのは三枝だけであった。
「三枝さん……」
「いや~、興奮しましたよ! 智一郎さん、無事で良かった」
「試合には負けちゃいましたけどね……」
「いえいえ、知り合いがこうやって大舞台で試合するなんて、見るの自分は初めてだったんで、本当に興奮しました。ありがとうございます。あ、記念に一緒に写真撮ってもいいでしょうか?」
三枝の行為が素直に嬉しかった。
俺は近くにいた人間にカメラを渡し、二人並んで写真を撮ってもらう。
再び控え室へ戻ると、携帯電話にすごい数のメールや着信履歴があった。
ほとんどが俺の体の無事を心配した内容のメールで、中には勝ち負けを知りたがる人間もいる。
ゆっくり一つ一つメールを眺めていると、突如携帯電話が鳴り出した。着信は歌舞伎町時代のゲーム屋『ワールド』で俺の右腕だった島村から。
「久しぶり、島村君」
「岩上さん、大丈夫でしたか? ブランク七年以上もあって…。あ、電話にこうやって出ているぐらいだから、まあ無事なんでしょうね」
「はは、試合には負けちゃったけどね」
「ブランクあるからしょうがないっすよ。岩上さんが全盛期の時だったらなあ……」
俺の二十九歳だった全盛期を身近で見てきた島村は、とても残念そうに電話越しで声を漏らす。
キャッチホンが入り、島村に断って出ると、『岩上整体』の患者だった小川京子こときょうちんからだった。
「先生~、お身体大丈夫でしたか?」
「問題ないですよ。試合には負けちゃいましたけどね」
「もう…、先生に何かあったら、私が旦那と別れたあとどうするんですか!」
彼女は少しユニークなところがあって、整体時代から施術へ来る度「私が別れたらよろしくお願いします」と言っていた。
何でも好みの男性のタイプは痩せた男らしいが、俺と接する内に「ガタイが大きい人もありなんだなと思いました」と突然言い出し、それ以来「何かあったら、私と子供をもらって下さいね」と、こっちの気持ちなどお構いなしに喋っている患者だった。
それからも歌舞伎町時代の仲間や、患者たちから連絡があった。
それぞれの対応を済ませ、ようやく控え室を出る。
試合がすべて終わった会場はほとんどの観客が帰り、まばらに人が残っているだけだ。
会場へ姿を出すと、通路そばの座席に座っていた女の子二人が近づいてきて「お疲れさまでした」と声を掛けてくれる。
俺は持っていた花束を「良かったらどうぞ」と名も知らない子へプレゼントして、知り合いがいた席へ向かう。
歌舞伎町の大ボスである平野がニコやかな表情で立っている。
「おお、岩上ちゃん。お疲れさま。本当にバチバチ殴り合うような試合だったから、見ていて面白かったよ。あ、これ、試合のチケット代だ。気持ち多めに入れてあるから」
自分で席を取った席のチケット代は、あとで俺がまとめて興行側へ支払うようだった。
平野は祝儀袋へ金を入れた状態で手渡してくる。
「ありがとうございます、平野さん」
「また試合あるようなら呼んでくれよな。じゃあ、ワシは仕事あるからこれで行くけど」
「忙しいところ、本当にありがとうございました」
平野と取り巻きの部下連中は、頭を下げて会場から消える。
俺は後姿に向かって深々とお辞儀をした。
辺りを見回すと、応援に来てくれたほとんどの人は帰ったようで、残っていたのは同級生の荻野と、従兄弟の直ちゃん、そして先輩の坊主さんだけだった。
「おぎゃんに直ちゃん…、今日は来てくれてありがとう」
「いやいや、お疲れさま。本当に無事で良かった」
「俺、今までさ、格闘技の試合観に行っても、観客の目線で好き勝手に思っていたけどさ、身内である智ちゃんが試合しているのを見て、本当にハラハラしちゃってさ。怪我がないようで良かったって」
坊主さんが釈然としない表情で近づいてくる。
「智…、おまえ、負けやがって……」
「すみません……」
「負けたら、この撮った映像は消すって言ったろ?」
「面目ないです……」
「はあ……、だからもっと時間を取って、以前のおまえの姿に戻ってから試合に出ろって、あれだけ言ったのに……」
全盛期の俺の試合のセコンドについていただけに、坊主さんの言葉はさすがに手厳しい。
負け戦と分かっていながら強行出場した俺に対し、腹が立つのも無理はなかった。
「本当に仰る通りです、はい……」
「まあいいや…、とりあえず外へ出よう」
他の人間は先に帰ったようで、俺ら四人はそろって会場をあとにした。
解散する前に食事でもと提案してみたが、坊主さんは奥さんである裕子さんと息子の怜が待っているからこのまま帰るよと先へ姿を消した。
残った俺と荻野と直ちゃんの三人で食事へ行く事にする。
行き場所は一つしかない。
歌舞伎町時代から十年以上の付き合いがある激うま中華料理『叙楽苑』だ。
試合会場が新宿コマ劇場目の前にある『新宿フェイス』なので、店まで徒歩五分も掛からない場所にあった。
一月十四日の成人式。
まだ世間的には正月気分が抜けきっていない時期でもある。
この年、二十歳になる若者たちが大はしゃぎで歌舞伎町の町並みを占領していた。
俺もこのぐらいの頃を過ごしてきたのだ。
川越の市民会館へ成人式へ向かい、当時の彼女だった美千代がわがままだったので、顔だけ出してすぐに会場をあとにしたっけな。
しばらくして広告代理業の会社を辞め、横浜へ渡る。
それからだった、俺の格闘技人生は……。
当時誰でも簡単に入れるような時代じゃなかったプロレス界。
全日本プロレスの今は亡きジャンボ鶴田師匠と、エース三沢光晴さんの試合を見て、この世界へ行きたいと思うようになった。
日々その想いは強まり、会社に辞表を出してトレーニングに励む日常が始まる。
まだ体重が六十五キロしかなかった俺。
いくら食べてもなかなか体重など増えなかった。
稼いだ金をほぼ食費に回し、必死に鍛錬していたあの頃。
あの時代があったから、今日のこの試合だって怪我もなく頑丈な身体でいられたのだろう。
左肘を壊さなかったら、ずっとリングの上にいられたのにな……。
でも、今日でくすぶっていた想いが叶ったじゃないか。
またリングの上に立てただなんて。
勝ち負けよりも、俺はリングの上に立ちたかったのだ。
だから入場し、上がった瞬間、満足してしまった。
もうこれでリングに立つ事は二度とない……。
現実が分かっただろ?
もう年なんだって。
でも、やっぱ勝ちたかったなあ……。
清々しさと、悔しさが混沌した不思議な感覚。
トレーニングは裏切らない。
七年半、何もトレーニングしてこなかった俺が、ぶっつけ本番で勝てるほど格闘技の世界は甘くないのだ。
ステージから、とっく降りたんだろ?
自分にそう言い聞かせた。
また電話が鳴る。『岩上整体』の裏にあった駅前のジャズバーで知り合った古木英大からだった。
「岩上さん、今日は本当にお疲れさまでした」
負けた事を詫びると、彼はまったく責めず、かえって慰めてくれたほどだ。
「順子もすごいって言ってましたし、最後のフロントチョークで首を絞められているのに、ずっと岩上さん、ギブアップせずに頑張っていたじゃないですか。周りの観客からもどよめきが起きていましたよ」
古木の気遣った言葉に少しだけ救われた気分になる。
当時、彼はそこそこいい男なのに三十二年間彼女ができた事がなかった。
昔からの悪友である岩崎努ことゴリも三十六年間と記録を更新中だが、彼に彼女ができないのとは意味合いが違う。
古木の現状を当時JAZZBarスイートキャデラックで聞いた俺は、彼に決定的な決断力が欠けている点を指摘し、アドバイスを与える。
元はいい男なので、それ以来簡単に女性を抱けるようになった。
『岩上マジック』と興奮しながら懐いてくる古木。
そんな彼は「まだ食事へたまに行くぐらいなんですが、結婚を考えている女性がいるんです」と相談を持ち掛けてきた。
俺は快く協力し、古木の意中の人だった牧田順子と彼をくっつける為にシナリオを描く。
その日、牧田順子の誕生日だった事もあり、彼女は俺が用意したシナリオに深く感動し、最後に古木が連れて行った店では大泣きしてしまったぐらいである。
そして二人はめでたく結ばれた。
ここまではいい話だったが、一つだけ見落としていた点があった。
それはこれまでモテないと自覚していた古木に、妙な自信を与えてしまった事である。
調子の乗った古木は、他の女へ手を出し遊ぶようになった。
整体を開業していた頃、彼は得意げな表情でそれを俺に報告しに来たぐらいだ。
浮気経験がある俺は、古木を責められなかったが「遊ぶのは男の甲斐性だけど、心まで持ってかれちゃ駄目だよ」とアドバイスする事だけは忘れなかった。
整体を閉める十二月末。
また古木は俺の元へ相談に来る。
案の定手を出した女性にも情が移ってしまい、二股状態となった現状。
しかもそれが相手にバレてしまったのだ。
どうしたらいいかと迷う彼に、俺は「理想は二人とも切るのがいい。だけどそれができないなら、どちらかをハッキリと選ぶべき」と伝えた。
「でも、どっちを選んだらいいのか、自分でも分からなくて……」
「最終的には自分で決める問題だけど俺から考えると、二人目のほうがいいと思いますよ」
「何でですか?」
「一人目の牧田順子さんとはずっと異性と付き合いたいという念願が叶ったけど、実際に付き合うと、どうも自分とは合わない部分があると気付いた。だから他の女に手を出した訳で、二人目とは遊びのつもりが、思ったより性格が合う為、心まで惹かれてしまった。そんな感じの二股だと思うんですよ」
「なるほど……」
「だから選ぶなら二人目のほうが古木君には合ってんじゃないかなと。まあ、決めるのはあくまでも自分自身だし、これは一つの意見としてとらえてもらえばいいけどね」
「よく自分自身で考えてみます……」
去年の年末に話した会話を思い出す。
今日の試合で彼は、最初に紹介した牧田順子と一緒に応援に来た。
試合前だったので何も話せなかったが、これが彼の出した答えなのかと思った。
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