パトカーに乗せられ移動中に、私はプロテスト合格した時の事を思い出していた。
プロテストの時コーチ役を務めたレスラーの峰さんが、奥にある部屋をノックして入る。私もあとに続く。
私の目の前には、あの有名なチョモランマ大場が…、いや、大場社長が椅子に座っていた。片手に葉巻を持ち、足を組んでゆっくりと構えながら俺を見ている。
指のつま先まで力を入れてピーンと伸ばし、直立不動の姿勢になってしまう。目の前が次第に真っ白になっていく。まるでモヤが、かかったみたいだ。
頭の中で整理していた事などどこかに吹っ飛んでいた。まるで夢の中にいるみたいだ。極度の緊張が私を包み込む。
気をつけの姿勢で、大場社長を見据えるのがやっとだった。かつてこれほどの威圧感というか、圧倒的な存在感を醸しだす人がいただろうか……。
大場社長の凄さは、目の前に対峙して初めて本能的に理解できる。はっきり言って私の数少ないボキャブラリーでは、何て形容していいか例えようがなかった。ただ、固まるだけである。
大場社長は葉巻を口に含み、天井を向いて煙を静かに吐き出す。そしてゆっくりと私のほうを向いて、口を開いた。
「やる気はあるかね……」
全身に電撃のようなものが走り抜ける。色々と自分の考えを言いたかった。自分の感覚を話したかった。どれだけプロレスが好きか喋りたかった。
全神経を研ぎ澄ますが、極度の緊張で口が開かない。大場社長が私を見てくれている。何の為に一生懸命やってきたんだ。
「はい……」
搾り出すように、たった、その一言しか言えなかった。今まで二十一年間生きてきて、一番感情を込めて言葉にしたつもりだった。
峰さんが、肩をポンと叩いて笑っている。
「じゃ、社長。この辺で失礼します」
「うむ」
頭を深々下げてから、部屋を出る。廊下に出ると、一気に開放感が全身を覆う。
「どうだ、緊張したろ?」
峰さんが話し掛けてくる。緊張したなんてもんじゃなかった。
「は、はい。我ながら情けなかったです」
「ハハ…、最初はみんなそんなもんだ。ほら、これ持っておけ」
一枚の紙切れを手渡される。一つの電話番号と、深田、太田という名前が書いてある。
「これは……」
「道場の電話番号だ。そこに書いてある深田と太田って若手レスラー、知ってるだろう。今のシリーズが終わって、一週間ほど休んでから、今年最後の合宿がある。まー、おまえみたいに新人は住み込みで、先輩レスラーの世話もしながら鍛えて体を作るって感じだけどな。十二月の十五日、この日に道場来い。あ、住所も書いておくよ」
「はい。よろしくお願いします」
「言っとくけど道場になると、今日のテストみたいな楽な事だけじゃねーからな」
「はい、頑張ります」
どんどん私は少しずつ、前に進んでいる。このたった一枚の紙切れが、自分にとってかけがいのない物になっている。
「あと一時間もすれば興行が始まるけど、おまえ、見てくか?」
プロレスの試合を生で初めて見たかったが、まず私を支えてくれた人たちに、今日の事をすぐ報告したかった。
「ありがとうございます。でも、今日は帰ります」
「そうか、じゃー、十五日な」
「よろしくお願いします。失礼します」
客席のほうを見ると、チラホラと客が座っていた。
「おおー」
どよめきが起きる。
声のほうを見てみると、大場社長が会場に入るところだった。普通より高く作られている体育館の入り口に対して、頭を低くしながら入ってくる大場社長。生で見ると、とんでもない大きさだった。そしてその場にいるだけで、客のどよめきを誘う人間が存在するのを初めてこの目で見た。
今日は私にとって、生涯忘れられない日となった……。
パトカーが停まる。そこで私は現実に引き戻された。
地元の本署まで連行され、私と深沢は別々の部屋に入れられる。意地悪そうな顔つきをした警官が、私の正面の椅子に腰掛けた。睨みながら尋問してくる。
「おまえ、名前は?」
「神威龍一……」
「年は?」
「二十一…、一体、何なんですか?」
「あそこで、何してたんだ。相手は何人いたんだ?」
「俺は手…、手なんか、出してないっすよ」
「ふざけんなっ!」
警官は凄み出すが、やってもない事を言うつもりなど毛頭もない。はなっから疑ってかかる警察官の態度が気に喰わなかった。
「手は出してねーよ」
「何だ、貴様。その口の聞き方は? それに酔っていやがるな」
「出してねーって言ってんのに、しつけーからだよ」
最悪の展開になってきたのを感じる。確かに、酒は結構、飲んでいた……。
「じゃあ何で体中、そんなに血がついてんだ」
「こっちは無抵抗のまま、殴る蹴るやられ続けただけなんだよ。その時、できた出血だろ。こっちは被害者なんだ」
「あそこの通りのお店から通報があったんだ。ガラス張りのドアまで壊しやがって」
しつこいオマワリだ。面を見ているだけで吐き気がしてくる。
「俺じゃねーんだよ」
「ふざけんな!」
「ふざけてねーよ」
「仕事は?」
「大和プロレスだよ」
「何?」
「大和プロレスだって言ったんだよ。聞こえねーのかよ? こっちはついこの間、プロテスト受かったばっかりで、プロ意識ってもんがあんだよ。だから相手のチンピラが十五人ぐらいいたってな、絶対に手を出してねーんだ。分かったかよ? こんな手錠掛けて、こんなところ連れてきやがって……」
「おい」
尋問している警官は、別の警官を呼んで、何か話をコソコソしていた。話し終えると、一人の警官は部屋から出て行く。
「俺の連れは、どうなってんだよ?」
「おまえには関係ない。こっちの質問に答えろ」
「何で関係ねーんだよ? ふざけんじゃねーぞ、おい」
遠くで深沢らしき声が聞こえてくる。別の部屋で暴れているみたいだ。何であんな奴、助けに行ってしまったのだろう…。出てくるのは、溜息と後悔の連続ばかりだった。
「おい、こっち来い」
「あ?」
「こっち来い、おまえに電話だ。変われ」
家にでも電話しやがったのか……。
警察のやり方は本当にムカつきやがる。受話器を警官からひったくるように取り上げる。しかし、この状況じゃ、何を言われても仕方ないか……。
「もしもし……」
「何をやったんだね、君は?」
電話の声は親じゃなかった。でも、聞き覚えのある声だった……。
まさか……。
誰なのか、すぐに理解できた。俺は、必死に受話器に向かって喋った。
「俺…、絶対に…、手は…、出してません…。本当です……」
「何をだね?」
「絶対に、手を出してません。信じて下さい」
チョモランマ大場社長に、初めてはっきりと言えた台詞がこんなんじゃ、本当に泣けてきそうだ。でも大場社長にこの状況を信じてもらわないと困る…。必死だった。
「いいかね……」
静かに大場社長は語りかけてくる。私の体はそのひと声で緊張に包まれた。
「は、はい……」
「手を出した出さないじゃなくて、問題は、君がそこにいたというのが重要なのだよ」
「す、すいません」
「峰から、明後日来ると聞いていたが、来なくて結構だ」
「えっ?」
「ガチャッ…、ツー…、ツー……」
「社長ー…!大場社長ーっ……!」
いくら叫んでも電話は切れていたので、俺の叫びは届かなかった……。
体中の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。涙で目の前が、どんどん真っ白になっていった……。
「貴様、暴れるな」
「離せよー。離しやがれっ!」
廊下の方から声が聞こえてくる。私は腹の底から怒りが湧きあがってきた。無言のまま立ち上がり、声のするほうへ歩いていく。
「離せよー」
廊下に出ると深沢が、三人の警官に取り押さえられながら暴れていた。まだ酔っている状態で、この状況を何も把握してない。私の姿が目に入ると、声を掛けてきた。
「おい、神威。あいつらやりに行こうぜ。おい……」
視界が狭まって、私の目は深沢以外、映らなくなっていく。
右拳をガチガチに握り締め、ゆっくりと深沢に近づいた。
絶対に許せない…。絶対に、こいつを許さねぇ……。
「おい、貴様。何するつもりだ」
傍にいた警官が私の肩を掴むが、そんな事はどうでもいい。
「邪魔すんな」
肩をつかんでいる手を払いのけると、ムキになって迫ってくる。
「何だ、貴様ー」
「どけ、おまえら、邪魔するな……」
邪魔する警官の手首をつかみ捻りあげる。
「貴様っ」
その光景を見ていた多数の警官がつかみ掛かってくる。
「どけよ。おまえらも殺すぞ……」
振り払い、どかしながら、深沢に近づいていく。
「深沢ーっ!」
ありったけの力を込めて、深沢の顔面目掛け、右拳を叩きつけた。
深沢の唇がグチャッと潰れる感触がして、歯が取れる瞬間が、スローモーションのように見える。
散々鍛えてきた。初めてその力を解放したのが、こんな奴の顔面だった。
鍛えぬいた自分の力がここまで威力あるとは、思ってもいなかった。深沢は警察本署の廊下で仰向きに倒れ、細かく痙攣していた。口からおびただしい鮮血がほとばしり、床を赤く染める。
「何してんだ、貴様!」
背後から何人かに組みつかれ、地面に倒される。身動きがまったく取れなくなってしまった。もうどうでもいい……。
目の前の風景が歪み、涙が溢れて出してきた。
今までの一年が無駄になったのだと、自分自身、悟った瞬間でもあった……。
生きているのが嫌になった。どのぐらいこうやって、警察に拘留されているのだろう。もうどうなっても良かった。私の右拳には、ベットリと赤い血がついている。
深沢はしばらくしてから、酒が抜けたようだ。私の所に来て、さっきから土下座をしながら平謝りをしている。
顔の下半分は私の殴ったアザで、お化けみたいにパンパンに腫れ上がっていた。いくら謝られても、深沢を許す事などできやしない。
警察官もその状況を黙って見ていた。
「失せろ…。俺の目の前に、汚ねー顔、近づけんじゃねーよ」
もはや深沢を殴る気力すら湧いてこない。こんな奴は殴る価値すらないのだ。天井についている一点のシミを意味もなく、ずっと眺めていた。
「おい、そこのでかいの。親が迎えに来たぞ」
深沢の親が、警察本署に迎えに来たらしい。
その姿が見えてきた。私は自然と睨みつける。深沢の親はいかにも公務員といった感じの固そうな親で、自分の息子のグチャグチャになった顔を見ても、一切表情を崩そうとせず、平然としていた。
「よし、おまえは帰っていいぞ」
「ほら、史博。警察の方々にちゃんと謝りなさい。おまえが壊したガラスのドアは、私が弁償すると交渉してきた。あとでそっちにも謝りに行くぞ」
その台詞を聞いて、一気に怒りが湧いてきた。深沢の親父に近づき、睨みを効かす。
「おい、ふざけんじゃねーよ。納得いかねんだよ。あんまり舐めんなよ」
「何だね、君は…。こっちが弁償するんだから、もういいだろ」
俺の魂は、一枚のガラス以下だと抜かすのか……。
「おい、偉そうにしてんじゃねーぞ。何が弁償だ、おいっ?」
警察官が、慌てて間に入る。俺は構わずに深沢の親父に詰め寄った。
「やめろ、龍一」
振り返ると、私のおじいちゃんが背後に立っていた。
「何で、おじいちゃんが……」
「まったくおまえの親父は、私が迎えに行けって言うのに、行かないから私が来たんだ。まったくしょうがない奴だ。おまえもよそ様に迷惑を掛けるんじゃない」
「ご、ごめん……」
「私にじゃない。警察の方々に謝りなさい」
おじいちゃんだけには頭が上がらなかった。小学校二年生の時、お袋が家を出て行った。親父は父親としての意識など、何もないただの遊び人。そんな私たちを一生懸命育ててくれたのが、おじいちゃんである。
言われるまま、形だけ頭を下げた。本心では絶対に謝らなかった。おじいちゃんに言われたから形だけ、頭を下げただけだ……。
「神威…、本当にごめん……」
深沢が謝ってくる。一切、無視した。許せるはずがなかった。
「もういい、史博。行くぞ」
深沢の親父の台詞にムカッとくるが、おじいちゃんの手前、怒鳴る訳にはいかない。おじいちゃんがいなければ、確実に殴っていただろう。拳をギュッと固く握り締めた。
「峰から、明後日来ると聞いていたが、来なくて結構だ」
大場社長の電話越しの言葉が蘇る……。
とても重く、そして冷たい言葉だった。
私は、明日からどうやって生きていけばいいのだろうか?
応援してくれたみんなに、何て弁解すればいい?
あれだけ頑張って積み重ねてきたものが、こうも脆く崩れ去るとは思えなかった……。
夢であってほしかった……。
家で塞ぎ込んでいた私。生きる希望を失ったのだ。これ以上生き恥を晒すのも嫌だった。そんな時、信頼の置ける先輩が俺のところに一週間会社を休んで一緒にいてくれた。
「生きなきゃ駄目だ」、そう先輩は私に言ってくれた。
深沢は、あれから毎日のように謝りに来るが、いつも追い返している。これ以上、自分の人生の邪魔をされたくなかった。
ゴッホが来て、一緒に飲みに行こうと誘うが、そんな気分にもなれなかった。
どのくらいの月日が流れたのだろう。
いつまでも塞ぎ込んでいる訳にもいかない。ようやくそう思えるようになった頃、ゴッホが『オロナミンジュニア』という仇名の同級生オッサを連れ、また誘いに来たので私はOKした。
少し家で話をしていると、宮路からも電話があった。
「これからゴッホたちと飲みに行くの? じゃあ、俺も行っていい?」
宮路まで加わり私たちは居酒屋へ飲みに行く。楽しく飲んでいるところへ、あの深沢が姿を現した。それまでの気分は一気にトーンダウンされ、私は苛立ちを覚える。
「何でおまえがここにいる?」
「いや、ゴッホに言われて……」
私はゴッホを睨みつける。
「おい、ゴッホ! どういうつもりだ?何であんなのを呼ぶ?」
「い、いやー、深沢から何度謝っても許してくれないって相談を受けてさ。みんながいる時なら、神威も大丈夫かなと思ったんだよ」
「ふざけんな、俺は帰るよ」
「ちょっと待ってよ。オッサだって名古屋から遥々地元に帰ってきたんだぜ。おまえが帰ったら気分台無しじゃん」
「……」
確かにオロナミンジュニアことオッサには何の罪もない。純粋に同級生との再会を楽しみにしていたのだ。
「分かったよ……」
仕方なく私は怒りの刃を納めた。
飲んでいる最中、深沢はしつこく謝ってくる。
「もう俺、酒をやめる。本当に神威には悪い事をしたと思ってる。とても反省してるんだ。謝っても取り返しのつかない事をしたのは事実だし、でも、他に謝るしか方法がなくて」
これ以上、深沢を責めたところでどうにもならないのは分かっていた。ゴッホがこいつを気遣う気持ちを汲んでやるか……。
「もういいよ。済んだ事だ。これからは酒を飲まないじゃなく、飲まれないようにしてくれ。おまえだって大学を卒業したら、新人歓迎会とか上司と嫌ってほど酒を飲む機会があるだろ。だから飲まないなんて無理なんだよ。もうあんな訳の分からない状態にならないように気をつけて飲めよ。分かったか?」
「うん、本当にごめん。これから俺、気をつけるよ」
自分でも甘いと思ったが、いつまでも恨みつらみじゃ何も成長はしない。ここらで水に流すのもタイミング的にいいかなと感じた。
深沢は、親が金を出してくれて、都内で一人暮らしを始めたらしい。名古屋に住むオッサは、明日向こうへ帰らなければならないようだったので、深沢のマンションへ今晩泊めてもらう約束をしていた。
久しぶりの同級生同士の再会は大いに盛り上がり、結局終電間近まで飲んでしまう。
「深沢、おまえそろそろ出ないと電車に間に合わないぞ。オッサを今晩泊めるんだろ?」
「ああ、そうだね。じゃあ、これを一気に飲んじゃおう」
そう言いながら深沢は目の前にあるビールや焼酎の入ったグラスを一気に飲みしだした。
会計を済ませ、私とゴッホは駅までオッサたちを見送りに行く。宮路は明日早いからと先に帰った。
「あ、ごめん。俺、実家に忘れ物あったんだ。ちょっと取ってくるから、ここで待っててくれない?」
深沢はそう言うと、駆け足で実家の方向へ走っていく。駅から徒歩五分ぐらいの距離なので、往復で十分。忘れ物を取る時間を入れても、終電には間に合う時間だ。私とオッサ、ゴッホの三人は駅の改札で話しながら待つ事にした。
「遅いなあ……」
オッサが時計を見ながら呟く。あと十分で最後の電車が出てしまう時間になっていた。深沢が忘れ物を取りに行ってから、三十分の時間が経つ。いくら何でも遅過ぎる。十二時を回っていたが、深沢の家に電話を掛ける事にした。
三回ほどコールが鳴り、深沢の母親が電話に出る。
「夜分遅くすみません。あの、史博君いらっしゃいますか? と言うか、家に戻ってきましたか?」
「え、うちの史博? いえ、全然うちには来てませんが……」
「え?」
「何か?」
「さっきまで一緒に飲んでいたんですけど、ちょっと家に忘れ物があるから待っててほしいと言ったっきり戻って来なかったので、心配で電話したんですけど」
「おかしいわね~。全然うちには来ていないけど……」
「そうですか。ではその辺をちょっと探してみます」
電話を切ると、もうそろそろ終電の出発する時間だった。
「オッサ、あいつがいなきゃ、ここにいてもしょうがないだろ」
「そうだね。俺、明日早いから、実家に帰って先に休ませてもらうよ」
「うん、分かった。俺たちは少しあいつを探してみるよ」
オッサと別れを済ませ、ゴッホと二人で深沢を探しに行く事にした。
五分で家に着くのに、三十分経ってもあいつは帰っていない。どういう事か想定してみる。多少酔ってはいたので、帰り道誰かに絡まれたのだろうか?
「ゴッホ、深沢どの辺にいると思う?」
「う~ん、とりあえずあいつの家の方向を真っ直ぐ行ってみようぜ」
「そうだな」
駅から深沢の家までの道のりはほとんど一本道である。深夜なので人通りもまばらだ。辺りをキョロキョロと見回しながら探しているが、一向に深沢の姿はない。別の通りや、人のいそうな場所を探しに行くが、それでも深沢はいなかった。
時計を見ると、一時を回っている。一時間もこうして探しているのにいない。失礼だとは思ったが、心配でもう一度、深沢の家へ電話を掛けてみる事にした。
「はい、深沢ですが……」
また深沢の母親が出る。
「夜分遅くすみません。あれから探したんですが……」
こっちが話をしていると、向こうの電話口から大声が聞こえてきた。ハッキリと聞き取れないが、母親の「史博、いい加減にしなさい」と言う声が聞こえる。何やら揉めているようだ。
「もしもしー!」
大声で電話に向かって叫ぶ。
「あ、ごめんなさい。うちの史博が、知らない女の子連れて家に帰ってきて、その子を上げようとしているから、今、怒っているところなんです」
「……」
母親の台詞を聞き、私の視野が一気に狭まる。あの馬鹿、あれほど謝っておいて、また似たような事を繰り返しているのか……。
先日の警察署の件が、頭の中で鮮明に蘇った。
「今からそちらへ行きます……」
きわめて冷静に言うと、私は一点を睨みつけながら歩き出した。
「お、おい、神威。どうしたんだよ?」
「ゴッホ、おまえはもう帰っていいよ」
「何があったんだよ?」
「いいから、帰れよ……」
「ん…、ああ……。わ、分かったよ」
人のプロレスを潰し、あれだけ謝っておいて、またこの愚行。
怒りが全身を包んでいた。
深沢の家の目の前まで来る。深夜だろうが何だろうが、そんなものどうでも良かった。
玄関の扉を開けると、入口で深沢と母親が言い争っていた。深沢の横に、家出娘のような若い女が、困った顔をしながら黙って立っていた。
「おい、どういうつもりだ……」
私は出来る限り静かに言った。
「神威君、うちの子、本当に酷いのよ。こんな知らない子を夜中に連れてきて、勝手に上げようとするから駄目って言ってたところなの」
母親が助けを求めるように言ってくる。
「うるせえなあ~」
深沢はこちらを見ても、まったく悪びれる様子がない。
「おい、おまえは一体何を考えているんだ?」
「関係ねえだろ」
気だるそうに口を開く深沢。それまでずっと抑えていた感情が一気に爆発した。
「ちょっと来いや」
髪の毛を鷲掴みにしたまま、玄関先から路上へ連れ出す。右の拳を力一杯握り締め、もう一度だけ言った。
「おまえ、まったく懲りていないんだな?」
完全に深沢の顔は酔っ払っていた。
「関係ねぇ…、ぶぇっ!」
言い出している途中で、顔面に思い切り右の拳を叩きつけた。血しぶきが舞い、深沢は真後ろへぶっ倒れる。
「何が関係ねえんだ、おい」
そのまま引きずり起こし、また殴りつけた。たった二発で、深沢の顔はグチャグチャになっていた。横で母親が見ていたが、何も言えず、ただ黙って見守っている。
こんな奴の為に、私の人生が狂ってしまった……。
苦渋の思いで一度は許した。それをよくも口先が乾く前に、こんな行為をしでかしてくれたものだ。
目の前が涙で滲む。自分自身がもの凄く情けなく感じた。ひたすら深沢の顔面を殴り続けた。完全に深沢は気絶していた。
ゆっくりと立ち上がり、深沢が途中で引っ掛けた家出娘を睨む。
「おい、今すぐ俺の目の前から消えろ……」
「は、はいっ」
家出娘は、一目散に駆け足でその場から逃げていく。
もう一度、伸びている深沢の顔を見る。唇は潰れ、至る所から血を流していた。それでもやり過ぎたという感情など、微塵もなかった。
もうこの男とは生涯関わらまい……。
右の拳を真っ赤にしたまま、私は深沢の家をあとにした。
悪夢の日から二年が過ぎた。
あれから私はプロレスを断念できず、再度挑戦した。またプロテストに合格し、何事もなく合宿へ入れた。
しかし、スパーリング中に左腕を壊し、引退を余儀なくされた。
一時は自殺も考えた私であるが、散々考え悩み、周囲の人にも説得され、生きる道を選んだ。死を選ぶより、生きるほうが大変である。
華やかな眩いスポットライトの浴びる空間に生きられなくなった私は、ホテルにあるラウンジのバーテンダーとして働き、その後、新宿歌舞伎町へ渡った。
二十一歳の悪夢から、五年が過ぎようとしていた。
すっかり俗世に染まった私は、またゴッホと一緒につるみだした。久しぶりに会うゴッホはまるで変わっていない。それが私をホッとさせ、安心させてくれる。
ゴッホから聞いた話だが、深沢は五つ年上の女と結婚をしたらしい。しかし今の私にとって、どうでもいい事であった。
歌舞伎町でそこそこの金を稼いでいた私は、よくゴッホを連れ、飲みに行った。二十六歳になった現在であるが、未だゴッホに彼女はできていない。また世間で携帯が徐々にだが普及し始めた頃でもあった。
休みの日、特にする事もなかったので、ゴッホを食事に誘う。
「どこかリクエストある?」
「ある。あそこの通り沿いにあるとこなんだけどさ」
「じゃあそこ行こう」
ゴッホが行きたかった場所は、普通のファミリーレストランだった。
「何を食べたかったの?」
「いや、特別ここの料理を食べたいって訳じゃないんだよね。あ、いたいた」
「ん、何が?」
ゴッホの指差す方向を見ると、一人のウエイトレスが歩いている。ここへ来たお目当ては、あの子って訳だ……。
とても目のパッチリした子で、健康そうな肌、真っ赤な唇はプチトマトを連想させた。背は小さく長い黒髪を一本に束ねている。清潔感にあふれているようなフレッシュさを感じた。年齢はまだ二十歳ぐらいだろうか。
「ああいう子もタイプな訳ね」
「ああ、ああいうの溜まんねえな」
「で、何? 今日、あの子に声を掛けようと考えているの?」
「いや~……」
「『いや~……』じゃ分からないよ。どうすんだよ?」
「神威に声掛けてほしいなと思ってね」
私は深い溜息をついてから言った。
「あのさ、いきなりこんな場所で、あの子に俺から声を掛けろって言うの?」
「悪いけど頼むよ」
「嫌だ!」
「そこを何とかさ、な?」
「嫌だ!」
「何だよ、冷てえ野郎だな」
冷たいのはどっちだろうか? 七年前、私のプロレスの祝賀会にも「眠いから」のひと言でお祝いにも来なかったのは誰だ……。
「とりあえず腹減ってんだよ。先に注文しようぜ。その時、あの子がオーダーを取りに来たら、自分から言えばいいじゃん」
「ん…、ああ……」
オーダーを頼む為手を上げると、むさい男のウェイターがやってくる。ゴッホはガッカリした表情で料理を注文した。
このレストランに入ってから、一時間半が経過していた。
食後のコーヒーを飲んでから、四十分近い時間が経っていた。何故かといえば、ゴッホはなかなか帰ろうとしないのだ。
私はというと、暇を持て余しテーブルの上に置いてある紙ナプキンで、バレリーナを作っていた。
「ん、神威、さっきから何を作ってんの?」
「何に見えるよ?」
「どう見てもバレリーナだろ?」
「ああ、そうだ」
「器用なもんだなあ~」
「ゴッホにも作り方教えてやろうか?」
「俺は無理だよ」
「簡単だって、やってみな。まずナプキンを一枚に広げるだろ?」
「ああ……」
「で、半分に折るようして、一度折り目をつけるの」
「それで?」
「次に上側をさ、ちょうど真ん中ぐらいから切っていくでしょ。この時、さっきの折り目の四センチ手前ぐらいにしとくんだよ」
「ああ」
「それから今度は下のほうね。こっちは三分の一ぐらいの感覚で二箇所切れ目を入れるの。さっきより真ん中の折り目に近づけるように」
「それで?」
「そしたら上は二箇所、下は三箇所に分かれるでしょ?それを指でグリグリ捻っていくんだよ。細くなるように」
こうしてゴッホにレクチャーしながら男二人でバレリーナを作っているが、周りから見たらどう思われているのだろうか……。
「意外と難しいな」
「あーあー…。おまえ、いつも指先汚いから、ナプキンを捻っている内に黒くなってきちゃったじゃないかよ」
「しょうがねえじゃねえか」
「まあいいや。で、五箇所ちゃんと捻ったらさ、三つ捻ったほうの真ん中の捻りを上のほうで出来る限り小さく結ぶの。それから三本をまとめて軽く根元を捻り、ぐるっと一回転させて」
「こうか?」
「そうそう。で、残った二本のほうを軽く結んで、根元の四センチぐらい余った部分あるでしょ? ここを指でうまく膨らませるんだよ。こうやってさ。そうすると、ほら、バレリーナの出来上がり」
「うまいもんだな」
ゴッホのバレリーナは捻った先っぽが黒くなっており、しかも面倒臭がって捻りが足りないもんだから、変な形になっていた。
「そろそろいい加減帰ろうよ。野郎二人でバレリーナ作っているのも虚しいよ。それにあまりレストランに長時間いても、いい顔されないよ?」
「ん…、ああ……」
「じゃあ、行くよ」
「もうちょっと待ってくれよ、な?」
「何で待つんだよ?」
「いや~、あの子がこっちに水を注ぎに来ないかなあと思ってさ」
「あのさ……」
「もうちょっとだけ、な? 頼むよ」
これ以上、ここで長居するのは嫌だった。
「じゃあ、俺があの子をテーブルに呼べば、おまえちゃんと話すんだろうな?」
「ああ、話すよ」
ゴッホは私が動き、あの子を呼んでくれるのをずっと待っていた訳だ。こうなると、いくら私が言ったところでゴッホは意固地になるだけ。あの子をここへ呼ばない限り、ゴッホは閉店時間まで動かないつもりだったのだろう。