岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

6 ゴリ伝説

2019年07月16日 18時58分00秒 | ゴリ伝説

 

 

5 ゴリ伝説 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

杏と和子に挟まれ、楽しい時間を過ごしながら、いつの間にか深沢の事などすっかり忘れていた。たまにゴッホのほうを盗み見ると、宗岡さくらと仲良く酒を飲んでいる。宮路と...

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 時計を見ると十時五分前になっていた。先ほどの電話から約二時間経つ。
 あれから電話ないところを見ると、今頃彼女とレストランで楽しく食事をしてるのだろう。
 思えば苦節二十年、やっと好きな人への想いが通じ、ゴッホにも幸せが訪れそうなのだ。私は素直に祝福してあげたかった。まだ付き合えるかどうかのハードルはあるにせよ……。
 雪は止む気配もなく、辺り一面銀世界を作り上げていた。こんな寒い日にあれだけ待ったんだから、ゴッホの喜びは今までにない至福の幸せを感じているのではないだろうか。そう考えると、何故か自分ごとのように嬉しかった。
「ボーン…。ボーン…。ボーン…。ボーン…。ボーン…。ボーン……」
 十時になった合図の音を時計が奏でる。音が十回鳴り終わる頃、まるでその音のあとを引き継ぐかのように電話が鳴り出した。
「はい…、もしもし神威ですが……」
「さ…、さ…、む…、ぃ……」
「はあ?」
 今の声はひょっとしてゴッホの声だったのか……。
 まさか……。
「おい、ゴッホか? ゴッホなのか?」
「さ…、さ…、む…、ぃ……」
 何て事だろうか。恐らく今までこの大雪の中、時間にして約四時間もゴッホは電車で恋した女を待ち続けていたのだ。
「大丈夫かよ? おい…、おいっ」
「さ…、さみー…、よー……」
「今、田無の駅か? とりあえず近くの喫茶店にでも入ってろよ。すぐそっちに行くから。なっ? 分かったか? おいっ! ゴッホ、返事しろよ!」
 私は電話を切って、大急ぎで外出する服に着替えた。
 あのバカ野郎…、何だってこんな雪の中こんな時間まで待ってんだ。今にも死にそうな声だったじゃねえか。
 お湯を沸かし、ブルーマウンテンとキリマンジャロをブレンドさせ、暖かいコーヒーを淹れる。魔法ビンにコーヒーを入れると、私は外へ飛び出す。
 フロントガラスに積もった雪を手で乱暴に掻き分け、車をすぐに発進させた。
 田無の駅までいくら飛ばしても二十分掛かってしまう。
 この雪道で思うようにスピードを出せない。駅に着き辺りを見回すと、電話ボックスの中で座り込んでいるゴッホの姿が見えた。私は車から飛び出て、ゴッホの元までダッシュで駆け寄った。
「大丈夫かよ、ゴッホ!」
「おう、神威。この中で温かい缶コーヒー飲んでたら幾分、温まった」
「とりあえず車に乗れよ」
「ああ……」
 私とゴッホは車に乗っても、お互いしばらく無言だった。所沢に着くまで、一言も口を開かなかった。四時間もこの雪の中、待たされて裏切られたゴッホの心情を考えると目頭が熱くなってくる。
「腹減ってないか?」
「い、いや…、頭がボーっとする……」
 ゴッホの額に手を当てると、すごい熱がありそうだった。ずっと待ち続けろとアドバイスした自分を恨めしく思う。
「何か俺にできる事あるか?」
「とりあえず今日は帰って寝たい……」
「分かった、おまえの家まで送ればいいな?」
「ああ……」
「大丈夫か?」
「さ、さみぃー…。神威、そういやあよ……」
「どうした?」
「ひ、一つおまえに嘘ついちまった」
「何を?」
「ほんとはずっと外で待ってたんじゃないんだ……」
「何の事?」
「途中であまりにも寒くて、近くのコーヒーショップに十五分だけ入ちゃったんだ……」
「馬鹿だなー。それでもおまえは四時間、彼女を駅で待ち続けたんだろ?」
「ああ……」
「それなら、そんな事恥じる必要はないさ」
 その日はゴッホを無事、家まで送り届け休ませる事にした。家まで送る最中もゴッホはずっと、『さみぃーさみぃー』と呪文のように繰り返し唱えていたのが、印象的だった。



 これが『雪の振る中四時間待ちぼうけ事件』の前編である。
 私がここまで話すと、宮路は興味津々に「続きはあるの?」と聞いてくる。子供がお菓子をせがむようなキラキラした目で私を見つめる宮路。
「もちろん、ここまでじゃ伝説にならないだろ」
 私は笑いながら、続きを話す事にした。

 ゴッホ『雪の中四時間待ちぼうけ事件』から二日が過ぎ、日曜日になった。
 あれ以来、ゴッホから連絡はない。まだ具合悪くて寝込んでいるのだろうか。その事が気になり、今日も朝六時には目を覚ましていた。私から電話をするのも何故か躊躇ってしまい、起きてからもボーっと考え事をしていると、階段を上がる足跡が聞こえてくる。
「龍一ー、お友達が来てぞー」
 おじいちゃんが誰か来たのを知らせてくれる。一体誰だろう、こんな時間に……。
「誰が来たの、こんな朝早くに」
「岡崎君って言ったかな。おまえの中学の同級生の」
 ゴッホがこんな早くにわざわざ家まで来た。何か私に言いたい事でもあるのだろうか。
「ゴッホか、上がってもらってくれる」
「分かった」
 おじいちゃんの階段の下りる足音がしてすぐに、別の足音が聞こえてくる。部屋のドアが少し開き、隙間からゴッホの顔が見えた。
「そんなとこいないで中に入んなよ」
「あ、ああ……」
 あの件で風邪でもひいたのかゴッホの顔色は悪い。私の部屋のソファーに黙って腰掛けると、ゆっくりこっちを向く。
「あ、あのさー……」
「ど、どうした?」
「『何か俺にできるか』って、一昨日言ってたでしょ?」
 こいつが俺に何を要求してくるのか。ここは慎重になり、でかい事は言わないほうが懸命のようだ。言葉を選んで話をしないといけない。
「ああ、言ったけど…。何かして欲しい事あるのか?」
「ん…、ああ……」
「遠慮しないで言ってみなよ」
 しまった。つい、いつもの調子で言ってしまった……。
「金曜日にあの子、結局来なかったじゃない?」
「うん、それで?」
「何で来なかったのかなと思ってさ……」
 私自身、一度も会った事のない女の気持ちや考えなど、分かるわけないだろうと言ってやりたかったが、四時間も待ち続けたゴッホの気持ちを思うと下手な事は言えない。
「何か、緊急な用事でもあったんじゃないか?」
「うーん……」
「何だ、まだあの女の事、考えてるのかよ」
「ああ……」
「ゴッホと約束してるのに四時間も待たせてすっぽかすような女、やめときなよ」
「別に何もあの女に期待してる訳じゃないんだ」
「なら何で?」
「神威にさ、何故あの時、来なかったのか直接本人に訳を聞いて欲しいんだ」
 いきなりこんな朝っぱらから、こいつは何を言い出すんだ。あれだけ待って駄目だったのなら諦めればいいのに、まだ納得がいかないらしい。しかも、私が直接聞いて来いだって……。
 一体、そんな事をして何になるんだ?
「俺さー……」
「ああ」
「よく四時間もあの雪の中で待ったなって、自分を褒めてやりたいんだ」
 自分でそれ言っちゃおしまいだろう。私は心の中で呟いた。
「確かにゴッホは立派だったよ」
「そうか?」
「普通の奴じゃ絶対に真似できないよ。雪の上で四時間も待つだなんてね」
「だからあの女、約束したのにすっぽかすなんてって考えると、だんだん頭くるんだよね」
 ヤバい、せっかく大人しくしていたのに、自分から火を点けてしまったようだ。このまま、ゴッホを野放しにしても、何かしでかしそうで怖い。
「でもあの女に当たるのはやめたほうがいいよ。俺にできる事があったら協力するし」
「ああ、そこで神威に、何故、来なかったのかを聞いて欲しいんだ」
 結局そこにまた戻るのか……。
 私も、腹を括らなくてはならなくなってきたのを感じる。
「べ、別に聞いてもいいけど、それでどうすんだよ?」
「いや、何故来なかったか、訳を聞ければいいんだ。そしたら納得できそうなんだ」
 そんなどうでもいい理由で私に直接聞いて来いだなんて、こいつは一体……。
 何とかして思い留まらせないといけない。
「でもゴッホは明日から夜勤でしょ? 俺がその女に聞くといってもどうすんだよ。何か方法でもあるのかよ?」
「俺、明日は夜勤だから朝は自由に行動できるんだ」
「でも俺は明日、朝から仕事だよ」
「有給休暇とれるでしょ? 神威、あんまり使ってないって言ってたじゃん」
「何でそんな事の為にいちいち有休をとらなきゃいけないんだ。このボケ!」と普段なら言いたいところだが、雪の上で「ずっと待て」と言った負い目もあった。
「頼むよ、神威」
 真剣な眼差しで私を見つめるゴッホ。ここは私が折れるしかないようだ。
「分かったよ。俺が行けばいいんだろ?」
「ん…、ああ…。悪いな」
「これっぽっちも悪いだなんて思ってねえくせに」
「だって何でもやるって言ったじゃん」
 こいつと関わると、確かに今まであまりいい事はなかった。ゴッホの為に有給休暇までとらされ、今回もこんな事をやるハメになってまで、私は何でこいつとつるんでいるのだろうか? 自分でも不思議だった。

 深沢は以前この話を聞いた事があるので、特別興味を示さず大人しく酒を飲んでいた。
 宮路は楽しくてしょうがないといった感じで、ワクワクしながら次の展開を待っている。
「で、神威、実際に駅まで行ったの?」
「まあ、慌てるなよ。それをこれから話すんじゃないか」
「すっげー先の展開が知りたい。早く話してよ」
「分かった分かった」
 ここまで来て最後まで話さないのは逆に失礼である。私はまた続きを話し出した。

 気分良く寝ていて、楽しい夢を見ていたような気がする。どんな夢かは分からないが非常に楽しかったという記憶だけは覚えていた。途中から急に何だかとても嫌な気分になり、ふと目を覚ますと、ベッドの傍にゴッホが立って私の顔を覗き込んでいた。
「おわっ。何だよ、そんなとこに突っ立って……」
「何だよ。朝、起きられないから起こしに来てくれって、自分で言ったんだろ?」
「今、何時だよー」
「もう五時半だ。早く支度しないと、六時の電車に間に合わないよ」
 重いまぶたを必死に堪え、一気にベッドから起き上がる。こんな事なら、昨日約束なんてするんじゃなかった。
 体が重く、気分は非常に憂鬱だった。もたもたしているとゴッホがせかしてくるので、手短に着替えを済ませる。
「…で、本川越で六時ピッタリの電車に乗れば、小平の駅でその女は乗ってくるんだな?」
 自宅から駅まで歩きながらゴッホと話をしている内に、自然と目が覚めてきた。十分前には本川越駅に着き、丹念に打ち合わせをする。
「なあ、小平から必ず乗ってくると言っても、たくさん女の乗客はいるだろ?」
「大丈夫。横の車両で俺たちは乗って待ってて、小平でそいつが乗ったら、ちゃんと俺が教えるから。だから問題ないよ」
「今さらそんな事聞いて、どうすんだよ?」と言ってやりたかったが、ゴッホが哀れ過ぎるので何も言い返せなかった。
「ほんとに俺、その子に聞くのか? この人混みの中、聞かなきゃいけないのか?」
「今更になって何、急に言ってんだよ。口だけかよ」
「分かったよ。聞けばいいんだろ」
 ちょうど私がムッとなった時、六時出発の電車が到着する。私たちは電車に乗り込み、ゴッホがいつも乗る隣の車両へと移った。
 いざ電車に乗ると、小平まであっという間だ。
 朝の通勤ラッシュで車内はギューギューである。何人かの女が小平から乗ってきたが、私にはどれがそうだかまったく分からない。
 ゴッホは一点を集中して凝視していた。そんな集中力を出せるなら、もっと違う方向に出せればいい方向に変われるのに馬鹿な奴だ。
「いたっ! あれだ」
 ゴッホの指差す方向を見ると、清潔感のある目鼻立ちが整ったロングヘアーの女が一人立っていた。こんないい女にアタックするとは、ゴッホも身の程知らずというか……。
「ほら、行って来なよ」
 まるで他人事のように指図するゴッホを見て、私は少し殺意を覚えた。
「無理に決まってんだろ。こんなたくさんの人が乗ってて、本人に聞けるかよ。せめてさー、田無の駅で降りてからにしてくれよ」
「しょうがねえなー……」
 このクソ野郎、テメーがくだらない事を頼んでくるから、俺は朝っぱらからこんな場所にいるんだろうが……。
 心の中で呟いてみたが、怒りの炎は消えそうにない。
「次はー…、田無…。田無でございます」
 アナウンスがかかり、駅に到着する。電車を降りると本当にすごい人の流れだ。ゴッホの惚れた女はどんどん先に進んで行く。
「おい、早くしないと行っちゃうだろ」
「今、行くよ」
 深く深呼吸をして私は人込みの中を強引に突き進み、ゴッホの惚れた女に声を掛けた。
「あのー、すいません」
「は、はい。何でしょうか?」
 知らない奴に朝っぱらから声を掛けられて、彼女はキョトンとしていた。それにしても真正面から見ても、本当にいい女だった。このレベルじゃゴッホもすっぽかされても文句を言えないぐらい、いい女である。
「いえ、実はですね…。先週の金曜日、誰かに声を掛けられませんでしたか?」
「は、はぁ……」
「それって実は、私の友達でしてね」
「あ、そうなんですか」
「…で、本人が言うには、金曜日仕事が終わってから、あなたと会う約束をしたと言ってましてね…。この駅の改札で待ち合わせしたらしいんですけど……」
「ええ……」
「そういう約束をあなたは彼としたのでしょうか?」
「は、はぁ……」
 何とも話し辛い話題だった。
 とにかく言い辛くとも、来なかった理由を聞かない事には何も始まらない。ここは一気に単刀直入に聞くしかないだろう。
「それで金曜日、私の友達が改札で待っていたらしいんですけど、あなたが来なかったのを気にしてるんです。具合でも悪くなったんじゃないかって心配してまして……」
 我ながらいいフォローだと思った。
「え、ええ…。実はあの日、会社で残業がありまして……」
「そうだったんですか、残業って二時間ぐらいしてたんですか?」
「は、はい……」
 見え透いた嘘つきやがってこのクソ女が……。
 あの大雪の降る中、四時間も待っていたゴッホの姿を思い出すと、怒りが湧いてくる。こんな女の為に……。
 一気に頭に血が昇りだしてきた。
「おい、ねーちゃんよー…。あいつはなー…。あいつはあの雪の中、四時間もずっとあんたを待ってたんだぞ。そんな嘘ついて、自分が恥ずかしくないのか?」
 女は下を向いて黙ってしまう。
 ゴッホはこの光景をどこかで見ているのだろうか。電車待ちのホームにいる乗客の視線が私に突き刺さるのを感じる。そんなもの、今の私にはどうでもよかった。赤い怒りが私を包んでいた。
「何とか言ってみろよ。あんたには迷惑だったかもしれないけどなー、あいつはあいつなりに必死だったんだ。嫌なら嫌だってちゃんと言ってやれよ。ちゃんと断れよ」
「……」
「何で何も言わないんだよ?」
「ご、ごめんなさい…。わ、私…、好きな人がいるんです! ごめんなさい」
 ゴッホの惚れた性悪な女は大きい声でそう謝り、駆け足でその場を逃げていく。
「お、おい、待てよ……」
 周りの人々が私を見て笑っていた。今の言われ方だと、完全に私が朝、駅のホームで告白して思い切りふられたようにしか見えないはずだ。
 恥ずかしい…。とても恥ずかしい……。
 視力のいい私は遠くで柱の影から、こっちを見ているゴッホが目に入る。
 このやり場のない怒りは、一体どうしたらいいのだろうか。出来る限り、冷静に静かに息を整えて駅のホームを歩く。ゴッホに近付くと、我慢していたものが吹き出した。
「おい、何なんだよ、あのクソ女はよ!」
「し、知らねーよ。俺にそんな事言ったって……」
「すげー赤っ恥だ。有休取ってまで会社を休んで、それなのに朝っぱらからこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
「わりーな、飯でも奢るから機嫌直してくれよ」
「あのクソ女、『残業で行けなかった』とか抜かすから、ガツンと言ってやったよ」
「まーまー、落ち着こうぜ。な?」
「好きな奴がいるんだってよ。残念だったな」
「まー、しょうがねーよ。うまい物でも喰いに行こうぜ」
 田無駅の改札を出て、食事できるところを探す。しかしいくら探しても、こんな早い時間にやっているところといえば、立ち食いそばぐらいしかなかった。
 私とゴッホは自然と立ち食いそばの方向に向かい、自動食券機の前に立つ。ゴッホがポケットの中をまさぐっている。
「いけね、給料日前だから俺、金、無かったんだ」
「いくらもってんだよ」
「うーん…。四百六十円しかねーや。でも何も入っていないすうどんなら奢ってやるよ。それでいいだろ?」
 本当にふざけた野郎だ。あまりのアホさ加減にさっきの怒りもどこかへいってしまった。こんな朝早く付き合わされて、惨めな思いをして恥を掻かされて、こっちが金を出すのも癪だった。とりあえずゴッホに、何も入ってない素うどんを奢らせる事にした。
「あーあ…、これで二十円しかねーや」
「そんなの知らねーよ。自分が計算して遣わないからそういう目に遭うんだ」
「なあ」
「何だよ」
「あの天婦羅を乗っけて喰いたいと思わないか?」
「だっておまえ、あと二十円しかないって言ったじゃねーかよ。天婦羅一つ百円だぞ?」
「だからさー、神威が出してくれよ」
 もうこいつにはため息しか出てこない。確かに私もネギしか入っていないうどんを食べるのも寂しいので、自腹を切り、天婦羅を二つ注文した。
「あとさー」
「今度は何だよ」
「あの梅のおにぎりも食べたくねーか?」
「おまえが喰いたいだけだろ」
「エヘヘ……」
 結局私は、ゴッホとほぼ同じぐらいの金額を出すハメになってしまった。ゴッホは元々休み。私はわざわざ有休を取ってまで朝からこんな目に遭っている。妙に納得がいかなかった。
 ゴッホの口元に天ぷらのカスがついていたので見ていると、彼は満足そうにニヤリと笑う。静かな怒りの炎が、メラメラと私の心の片隅で燃え上がっていた。
 十八歳の頃のほろ苦い思い出である。

 最後まで話を聞いていた宮路は、腹を抱えて大笑いしている。
 深沢は、ビールのおかわりを頼んでいた。
 ゴッホの事を思い出すと、無性にイライラしてくる。何であんな奴と、いつも私はつるんでいるのだろうか?
 先ほどの件だけ振り返っても、私は何も得をしていない。別に損得勘定で人付き合いをしている訳じゃないので構わないが、明らかにゴッホとの関係は私が損をしているような気がした。
 見返りを求めるのはあまり良くない事だが、今日やっている私の祝賀会ぐらい、ゴッホは来て祝福ぐらいしてもいいもんだ。それを「眠い」のひと言で電話を切りやがって……。
 友情の欠片もなく、義侠心も感謝もない。あの馬鹿は、一体何を考えているのだろう。
 自分の祝賀会だというのにイライラしていた。何故、ここまでイラつくのか? すべてのキーワードは『ゴッホ』だ。
 そんな時、背後から肩を叩かれた。振り返ると、高校時代アルバイトした時、一緒に働いていた三枝みゆきだった。
「久しぶり~。どこかで見た事あるなあと思って肩を叩いたら、やっぱり神威君だった。随分体、大きくなったねえ。今、何をしているの?」
「おう、三枝か。久しぶりだね~。俺? 明日からさ、大和プロレスの合宿に行くんだよ。体、高校時代から比べると大きくなったでしょ?」
「うん、ビックリしたもん」
「体重で言うと、二十キロぐらい増やしたからね」
「へえ、じゃあテレビに映ったりするの?」
「それは俺の今後の努力次第って感じでしょ」
「すご~い! ねえねえ、私たちも一緒に飲んでもいい?」
「全然構わないよ」
 三枝は、一緒に連れていた子に声を掛け、同じテーブルに来た。さっきまでイライラしていたのが嘘のようだ。女の存在って本当に偉大だと感じる。
 女好きの深沢も、いつの間にかそばに来てニコニコしていた。宮路はいつもと変わらないマイペースぶりで、普通にこの場を楽しんでいる。ゴッホの奴め、あとでこの状況を聞いたら、悔しがるだろうな。
 三枝と連れの子は、完全に私のプロレス話に興味を持って聞いている。先日、宮路の彼女の文江さんがやった飲み会の性格の悪い女たちと比べたら、月とスッポンだ。楽しくて仕方がなかった。明日は合宿だから、今日の酒を控えないという思いが徐々に薄れていく。
 深沢は、自分が話し掛けてもつれないので、面白くなさそうに酒を煽っていた。前回あれだけの騒ぎを起こしたのだ。さすがにあのような酔っ払い方はしないだろう。
「ねえねえ、神威君」
「ん?」
「もしテレビ出れるようになってさ。『初恋の人は?』とか聞かれたら、『三枝みゆきです』って答えてよ~」
 三枝も結構酔いが回り、いい感じになっている。うまく行けば、今日このままホテルへなんて展開も……。

 明日が合宿だなんて忘れるぐらい楽しく酒を飲んでいると、深沢の目が据わっている事に気付く。この間みたいに、自分がうまく会話の中に入れず、酒を飲み、また酔いだしているようだ。
「今度、神威君、時間空いている時、一緒に食事しようよ」
「ん? ああ、そうだね。たださ、俺も合宿なんて初めてだから、今後どうなるか全然分からないんだよね。時間空くようなら連絡するよ。そうだ。三枝の連絡先教えといてよ」
「うん、いいよ」
 その時だった。
「ついでにワンプッシュ」
 事もあろうに深沢が、三枝の乳首目掛けて指で突いた。
「キャー、何、この人?」
 電話番号を書きかけの三枝は、自分の胸を押さえ、席を立ち上がる。深沢は、人差し指を突きたてたまま、「もう一丁、ワンプッシュ」とほざいている。
「キャー」
 三枝と連れの子は、駆け足でその場から外へ逃げていった。
 また似たような事を繰り返しやがって、深沢の野郎……。
「おい、貴様……」
 私が立ち上がる前に、深沢は逃げた三枝たちを執拗に追い駆けていく。慌ててあとを追い駆けようとすると、入口で店員に「お客さん、お会計」と止められた。
 私は財布から一万円札を取り出すと、「宮路、あとよろしく頼む」と手渡し、深沢のあとを追った。あいつ、かなり酔いが回っていた。あんな状況で三枝たちが捕まったら、何をするか分からない……。
 階段を駆け下り外へ飛び出すと、深沢は知らないサラリーマン風の男三人組と揉めているところだった。まったく、あいつは……。
「ごめんごめん。こいつ、酔っているから相手しないで」
 おそらく深沢が三枝たちのあとを追い駆けている途中、この三人組にぶつかったか何かしたのだろう。いつも原因を作るのは深沢だった。悪いのはこちらサイドである。
「おいおい何だよ、おまえは?」
 相手の三人組も苛立っている。私にまで絡んでくる始末だ。肝心の三枝たちは、どこへ行ったのだろう。
「おい、おまえは何だって言ってんだよ」
 一人が、キョロキョロ辺りを見ていた私の肩を押してきた。
「おい、人が大人しく謝ってんのに今、何をした? 相手を間違えるなよ」
 私が凄むと三人組は下を向いて黙ってしまった。あれ、そういえばさっきまで横にいた深沢がいない……。
 少し先の道路を走る深沢の姿が見えた。信号が青だというのにお構いなしに走っている。一台の車がクラクションを鳴らしながら急ブレーキを掛け、急停車した。深沢は、停まった状態の車に自分から派手にぶつかり勢いよく倒れ込む。
 私は急いでそこへ向かった。車を運転していたおばさんが、真っ青な顔で出てきて深沢へ声を掛けている。明らかに自分がぶつけてしまったと錯乱しているようだ。
「大丈夫です。悪いのこいつですから、行っちゃって構いませんよ」
 その場まで行き、おばさんに話し掛ける。
「で、でも……」
「ビックリさせてすみません。こいつ、かなり酔っているもんでして……」
 おばさんと会話をしている時、深沢は不意に立ち上がり、また別方向へ大声を出しながら駆け出していく。
「と、とにかく気にしないで下さい。では、そういう事で」
 慌てて深沢を追い駆けた。いくら酔っているとはいえ、こうも繰り返しやられると溜まったもんじゃない。
「ん?」
 深沢の走っていく方向から、チンピラ風の連中がゾロゾロと店から出てきた。大きな分厚いガラスでできた壁。深沢は、「うわ~」と奇声を発しながら、一人のチンピラの肩を掴み、ガラスの壁に力一杯叩きつけた。その勢いで大きなガラスにひびが入る。
「何じゃ、このガキャー!」
 周りにいたチンピラが、一斉に深沢を殴りだす。当たり前だ。気分良く飲んで店から出たところをいきなりガラスの壁に叩きつけられたのだから……。
 誰だって怒る事を深沢はやったのだ。しかも、まったく懲りず、何度も同じような事を……。
 相手は十五人いる。完全なリンチ状態だった。はたから見ていても、やり過ぎだ。
 どうする……?
 明日は合宿という大事な日なのだ。深沢にはいい薬である。しかし、このまま中学時代からの同級生を放っておいていいのか?
 多勢に無勢。深沢は伸びていた。それでもチンピラは攻撃をやめない。倒れている顔に蹴りを入れていた。
「やめろ、おいっ!」
 気付けば私は、その群れに突っ込んでいた。また攻撃を加えようとするチンピラの一人を体当たりでふっ飛ばす。見ていられなかったのだ。
「何じゃ、おまえは、コラッ!」
 後頭部に痛みが走る。やり返そうとしたが、今の私はプロ意識がある。下手したら全身凶器になってしまう。こちらから殴ったりする事はできない。
 チンピラたちは、手を出さないのに調子付き、集団で殴りかかってきた。伸びている深沢の顔面を蹴るチンピラ。私はそいつの襟首を掴んで引き剥がす。その間に、何度も殴られ、蹴られた。この人数じゃ話にならない……。
 迷わず私は仰向けに意識を失ったまま倒れる深沢の上に覆いかぶさった。
「何、偉そうに抜かしてんだよ、おい」
「何だ、この野郎」
「粋がってんじゃねーぞ、コラッ」
 たくさんの罵詈像音とともに、無差別に蹴られまくる。うつ伏せ状態で全身に力を込めながら、私はひたすら耐えた。正直、情けない気持ちでいっぱいだった……。
 もの凄い屈辱感。いつまで無抵抗の私に好き勝手してやがんだ。私はまったく手を出してないのに、やりたい放題だ。
 この人数でこれだけ無抵抗でやられているんだ。少しぐらい、こっちがお返ししてもいいよな……。
 その時、嫌な音が聞こえた。
 ウゥー、ウゥー……。
 近所迷惑も考えないやかましいサイレンが聞こえたと思うと、私にあれだけ加えていた攻撃が一気にやむ。
 手首を誰かに掴まれている感覚がする。顔を上げると、制服を着た警官が、俺の手首をつかみ、手錠を掛けるところだった。さっきのチンピラたちは……。
 起き上がり周りを見ても、その場にいたのは、俺と深沢の二人だけだった。チンピラはサイレンの音を聞き、一目散に逃げたようだ。
 やり切れない思いが、全身を覆いつくす。警察官に連行されてパトカーに乗せられると、目の前が真っ暗になった。深沢は、もう一台のパトカーに乗せられる。
「派手に暴れやがって、このガキが……」
 私の横に座っている警官が睨んできた。睨み返し、ハッキリと言った。
「俺は一回も、手を出してないっすよ」
「黙ってろ!」
 両手首に掛けられた手錠を見ながら思った。
 今日、この一日は、一体何だったのだろう……。

 

 

7 ゴリ伝説 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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