『只今の時間 四千円』
でかでかと書かれた料金の看板。私とゴッホは、今ピンサロの前にいた。
私の予想で三万九千円の金を手にした彼は、大喜びで店へ入っていく。
「早く来いよ。金は出すからよ」
ここまで太っ腹なゴッホを見るのは初めてだった。
薄暗い店内の中を歩き、各自別々の席へ案内される。私が手前の席で、ゴッホは少し離れた前のほうの席に座った。私からはゴッホの後ろ姿が見える位置である。
それぞれピンサロ嬢がつき、他愛ない会話が始まった。私の席についた子は、ロングヘアーの似合う綺麗な子だった。競馬があのような結果になったとはいえ、こんな子がついてとてもラッキーである。
「お兄さん、今日は競馬?」
「まあね」
「浮かない顔をしてるけど、外れちゃったの?」
「外れたといえばそうなんだけどさ。聞いてくれる?」
私は先ほどの手短に悲劇を話した。
「あらー、それは残念ねー」
「でしょ? まったくあそこにいるの俺の連れなんだけどさ、あいつだけはしゃぎやがってさ。嫌になっちゃうよ」
「それはそうでしょ」
「さっきまで女にふられて泣きそうになってたんだぜ」
「えー、そうなの?」
「そうそう」
つい彼女との会話が弾みだし、ゴッホ話になってしまう。
「あのさ、話が盛り上がっているところ悪いんだけど、そろそろズボン脱がないと。じゃないと時間なくなっちゃうよ?」
こんな子に口でくわえてもらったら幸せなのは分かる。しかし今、それ以上にゴッホの事を語りたかった。
「う~ん、今日はそんな気分でもないし、このまま話ししようよ。駄目かな?」
「えー? そんなお客さんって初めて見たよ、私」
「ちゃんとしないとお店に怒られちゃう?」
「ううん、そんな事ないけど」
「じゃあ、純粋に君と話しがしたいな」
「何か照れちゃうな」
「良かったら今度、一緒に食事でも行こうか?」
「えー」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないけどさ……」
私とピンサロ嬢は別の意味で盛り上がっていたが、ついゴッホが気になった。彼の後ろ姿を見ると、しっかりくわえてもらっているようだ。
「良かったら連絡先の交換しようよ」
「う、うん」
少しして時間が来る。私は彼女の書いてくれた電話番号の紙を財布にしまうと、店をあとにした。ちょっとしてゴッホも出てくる。
「どうだった?」
「いやー、なかなかテクニックあって、すぐにいっちゃったよ」
「そっか。じゃあ、そろそろ帰るか」
「え、あとのレースを見てかないの?」
「明日、新聞でも読めればいいよ。もし他のレースが当たってても、新宿にだってJRAあるし、いつでも換金できるからね」
「まあそうだけどさ」
「おまえもいい気分転換になったんだろ?」
「まあね。でもやっぱ心にまだしこりはあるよ」
「それはしょうがないよ。帰り道うまいもんでも食って帰ろうぜ」
「そうだな」
こうして私たちは立川をあとにした。
無言で車を走らせるゴッホは、信号で一旦停車する。
ふいに私の股間辺りに左手が伸びてきた。
「ほれ、一速。二速……」
「いきなり何しやがんだよ」
私の股間を握ろうとしたゴッホの手を払いのける。
「いてーなー……」
「女が駄目だから、とうとう男に目覚めやがったのか?」
「冗談に決まってんだろ、エヘヘ……」
「どうしようもねー馬鹿だ」
まあどんな形にせよ、いつものゴッホに戻ったようだ。
先日の競馬から二日経ち、ゴッホから電話があった。
「ん、どうした?」
「神威、何かさ、小便すると先っちょが痛いんだよ」
俺は、たまたま飲んでいたコーヒーをつい噴き出してしまった。
「神威、何、笑ってんだよ?」
「何おまえ、あの店で淋病移されたの? それとも人妻からか?」
「しょうがねえだろ。痛えもんは痛えんだよ」
ゴッホの運のなさと言ったら、ある意味世界最強かもしれない。たった一日で女にふられ、競馬に当たりピンサロへ。しかしついた女が病気持ち……。
「じゃあ、埼玉医大にでも行きな。泌尿科っていうのがあるはずだから。そこで抗生物質の注射打ってもらわないと、腐って使い物にならなくなるぞ」
「嘘だろ?」
「本当だよ。淋病って放っておくとヤバイんだぞ」
「痛いかな?」
「知らないよ。そんなところに注射なんかした事ないし」
「参ったなあ~。あの店め」
「でもさ、ピンサロって言うよりさ、あの人妻が病気持っていたって事はない?」
ゴッホと寝るような物好きな人妻である。性行為の対象相手が、他にもたくさんいると考えるのが自然だ。
「う~ん、分からない」
「もし人妻が持っていたならさ、あの店はヤバイね。元々ゴッホが淋病になっているところをあの店の女に移した訳だし。もし、違うならあの店自体ヤバイね」
そう考えると、電話番号を教えてくれたピンサロ嬢も、ヤバイ可能性がある訳だ。私は財布から番号の書いてある紙を取り出し、灰皿の上で燃やした。
「まあ、とにかく明日にでも病院へ行ってみるよ」
「ああ、そうしたほうがいい」
こうして『幻の初彼女事件』は幕を閉じた。
三十歳になり、私はキャバクラ通いを頻繁にするようになった。たまに休みが取れても、一緒に飲みに行くような仲間がいない現状。日々の仕事に追われ、そういった付き合いをしていなかったのが原因であろう。しかしその分、経済的余裕はあった。人間は孤独でいるのが寂しい生き物である。必然的に誰かしらの元へ向かってしまうものだ。
その頃出逢ったキャバ嬢で、『ミサト』という子がいた。
私はこの子を妹代わりに可愛がり、他の女を口説いても、この子だけは大事に接した。暇さえあれば一緒に食事をしたり、買い物をしたりして時を過ごす。
ゴッホとは、あれからあまり会っていない。お互い連絡をしていなかったというのもあるが、気がつけばしばらく時間だけが過ぎていた。今の私はミサトと一緒にいるのが一番楽しかったのだ。
いつも仕事が終わるのが朝方なので、普通の人の生活とは間逆な生活を送っている私。
仕事の帰り道、ボーっと歩いていると、乳母車を引いたおばあさんがゆっくり向こうから歩いてきた。まだ朝の六時頃なので、人通りも少ない。
すると、遠くから一台の車がすごいスピードを出しながら狭い道を走ってきた。何もこんな細い道で朝っぱらから、そんなスピードを出す必要性などどこにもない。慌てたおばあさんは、急いで避けようとして道端に倒れてしまう。
対面から見ていてさすがに苛立ちを覚えた。私は、道の前に立ち塞がる。車は「パーパーパー」とけたたましくクラクションを鳴らすが、一切動じなかった。停まらなければ私を轢いてしまう状況なので、車は急停車する。
「……!」
運転手を見て私は視界が狭くなるのを感じた。窓が開き、運転手が顔を出して怒鳴りつけてくる。
「おいっ、邪魔じゃねえか! どけ…、ぁ……」
相手は私の顔を見ると、一瞬にして黙った。私は近づき、ドアへ思い切り蹴りをぶち込んだ。
「随分としばらく見ない内に偉そうになったもんだな、え、深沢?」
「……」
その運転手とは過去、私のプロレス入りを潰し、ゴッホの仲介により許した直後にまた裏切った事のある最低男の深沢だったのだ。
「またこんな事してみろ? 次は容赦しねえぞ。おまえの顔など見たくもない。とっととこの場から消えろ」
それだけ言うと、私は倒れているおばあさんを助け起こしに行く。背後でエンジン音が聞こえ、深沢は逃げるように走り去っていった。
朝から嫌な奴と会ったものだ。夜になってゴッホに電話を掛けてみた。
「あ、もしもし、今日さ、深沢の野郎と会っちゃってさ」
「そうなんだ。俺もまったく連絡ないから、どうしてるかなとは思ってたけど」
「それで特に用もなかったんだけど、ゴッホに電話したんだ」
「神威、次の休みっていつ?」
「明日なら休めるけど」
「じゃあ、たまには飲みに行かないか?」
「ああ、構わないよ」
そんな訳で、久しぶりにゴッホと飲みに行く約束をした。
「あ、神威さ。一人、俺の後輩も一緒に連れていっていいかな?」
「いいよ。珍しいね、後輩を連れてくるなんて。会社の後輩?」
「いや、地元の後輩なんだけどさ」
「へえ、そうなんだ」
「小学は同じだけど、中学は別の後輩なんだ」
ゴッホと私は中学が一緒だけなので、初対面になるだろう。
待ち合わせ場所を私の行きつけの店であるジャズバーへ指定し、先に行って飲んで待つ事にした。
ノンヴォーカルの静かなジャズが流れる中、耳を澄ませながらグラスを傾ける私。今掛かっている曲名など分からないが、こうしてボーっと酒を飲む時間は最高だ。
しばらくしてゴッホが後輩を連れてやってくる。
「おう、久しぶりだな」
「久しぶり。あ、神威、紹介するよ。俺の後輩の『出川』君ね」
「出川です。よろしくお願いします」
モサッとした感じでいまいちパッとしないが、その礼儀正しい口調に好感を覚える。
「よろしく、俺は神威。ゴッホとは中学時代一緒だったんだ」
「ええ、自分とは高校が同じですよね」
「え?」
「私も東部台高等学校だったんですよ。一つ下の学年になりますけど。神威さん、当時から学校で目立っていたので、よく覚えていますよ」
「へえ、そうなんだ。俺と高校一緒だったんだ」
「ええ、まあこれも何かの縁だと思いますので、よろしくお願いします」
ゴッホの後輩にしては、かなりまともな子を連れてきたものである。私は気分よく酒を飲み、お互いの近況を話し合う。
「出川君は、今何の仕事をしているの?」
「自分、郵便局の深夜の仕分けのバイトをしています」
私たちの一つ年下になる訳だから、彼は二十九歳になる。何故、郵便局のバイトをしているのか少し気になったので、突っ込んだ質問をしてみた。
「深夜じゃ大変だね。まあ俺も歌舞伎町で夜働いているから、時間帯は変わらないだろうけどね。ところで前の仕事は何をしてたの?」
「いえ、前も何もずっと郵便局の仕分けの仕事ですよ」
「え? じゃあ、高校を卒業してからずっとやってるの?」
「ええ、そうです。サラリーマンの時間帯だと昼間、銀行にも行けないじゃないですか。買い物も満足に出来ないだろうし。その点、自分の時間帯だと少し無理して起きてればある程度は何でもできるじゃないですか」
言いたい事は分からないでもないが…。何故かこの出川からも危険な匂いがプンプンしてきた。
「十年以上もでしょ? 郵便局に就職しちゃえばいいのに」
「ああ、それは年中言われますよ。ただ、あんなところで骨を埋める気にはなれませんよ。十年以上働いても、時間給ほとんど上がらないんです。それに長いので、職員からあれもこれも色々やってくれって頼まれごとばかりで、最近嫌気をさしているんです」
じゃあ、とっとと別に就職すればいいじゃないかと言いたかったが、私は黙って彼の話を聞いていた。
「周りは大学生のアルバイトばかり。私はといえばひと世代上ですよ?それをこんなにやっているのに、時間給百円も変わらないんですから。正直、嫌になってきますよ。日給九千円ぐらいになりますし、月に換算すれば、二十万ぐらいになりますから。別に金の為に働いている訳じゃないから、いいんですけどね」
では何の為に、彼は働いているのだろうか? 金の事しか言っていない気もするが……。
「まあまあ、堅苦しい話は置いといてさ、もっと楽しい話題にしようぜ」
ゴッホが横から口を挟んでくる。
「楽しい話題って、女の話題とかか?」
私がそう言った瞬間、出川は下をうつむき暗い表情になった。
「ん、どうしたんだい、出川君?」
「まあ、出川の話を聞いてやってくれよ、神威」
「え、どうしたの?」
「先日、ずっと思い焦がれていた子から酷い仕打ちを受けたんだよ。出川、神威ならある程度相談に乗ってくれると思うから、話してみたら?」
先ほど楽しい話題と自分で言いながら、出川の失恋話をさせようとさせるゴッホ。相変わらずとんでもない奴だ。
「話すと長くなるんですけど、聞いてくれますか?」
「構わないよ……」
出川は、ロンドンパブギネスのビールを一気に飲み干すと、淡々と語りだした。
「神威さん、東部台高校で一つ下に岩清水純菜っていたの覚えてます?」
「岩清水純菜?」
「ほら、目のパッチリした感じで痩せてて……」
「あー、はいはい。純菜ちゃんね。当時は俺と同じ中学出身だったから、向こうからよく声を掛けてきたなー。あの元気のいい子でしょ?」
「はい…。その岩清水が自分がずっと好きだった奴なんです」
彼女は確か風の噂で結婚したとか聞いたような…。でもあくまでも噂として聞いただけで確定的なものではない。下手にこの事を話すと出川を傷つけるだけじゃないのだろうか。私はあえて黙っておく事にした。
「あいつとは小学が一緒だったので、昔はよく一緒に遊んだんですよ」
「ふーん…、幼馴染みたいなもんか」
「ええ、それに近いですね。女として意識するようになったのが、久しぶりに高校生の時にバッタリ会ってからです。自分は一生懸命、自分の気持ちを伝えましたよ。その時、向こうは彼氏がいるからってふられましたけどね。あいつの事を考えると悔しいです」
「でも今、出川君は二十九歳なんだから、十年近く前の話じゃん。そんな過去の事をそこまで気にしても仕方ないじゃん」
「い、色々あったんですよ…、あの岩清水とは……」
そう言って出川は下を向き涙を溜めていた。一生懸命涙を流すまいと堪えて、一点をジーっと見据えている。
この十年の間で二人の間で何があったのか…。何やら厄介な展開に私は引きずりこまれそうだ。
「いや、ゴッホも楽しい話をって言っている事だしさ、出川君……」
「ふられただけならまだいいんです。ふられただけなら……」
私の台詞を途中で遮り、出川は口を開く。ふられたというのを繰り返し力説されてもこっちが困ってしまう。
「あいつは自分をずっと…、ずっと騙していたんです……」
チラッと出川の表情を見ると、さっきと変わらず目にうっすらと涙を浮かべ天井を見ていた。こういう場合、私は何て応対したらいいのだろう。そんな私にお構いなく出川は話を続ける。
「高校生の時に好きだと伝えてふられて…。でも自分は中々諦められなかったんですよ。分かりますか、自分の気持ちが? 神威さん……」
そんな訴えられるような目で見つめられても、なんて返答したらいいのか。素直に「そんなの分かりません」と言ってやりたいのを堪えた。
「じ、自分は出来る限り割り切って考えるようにして、彼女も一切作らずにずっと真面目にやってきたんです」
「で、でもさー。純菜ちゃんに彼氏がいたんじゃ、しょうがないでしょ?」
「それはそうですけど……」
「それにもう昔の話じゃん」
「違うんです」
出川は全身を震わせてでかい声を出した。
「ちょ、ちょっとそんなにでかい声出したら、店の人に迷惑だよ。少し落ち着いて…。一体、純菜ちゃんとの間に何があったの?」
「自分は最初に告白してふられた時点で諦めてたつもりなんです。それが高校も卒業して社会人になった頃、向こうから連絡があったんです。その時の自分の気持ちって分かりますか? まるで天にでも登るような…、と、とにかく嬉しくてたまりませんでしたよ」
「ああ、それは理解できるよ。それで付き合ってとか言われたのかい?」
「違います…。保険の会社に入社したから、保険入ってくれないかなって……」
「それでそんなに怒ってたの?」
内心、「俺を小馬鹿にしてんのか? 都合よく利用しようとしやがって。ふざけんな馬鹿野郎!」って、怒鳴って断ればいいだけの話だと思うが、とりあえず黙っておいた。ここは彼に気持ち良く話させてあげよう。
「いえ、岩清水も色々大変だろうと思って保険に入ってやったんです」
「え、入っちゃったの?」
「ええ、月七万ぐらいのやつに入ってあげましたよ」
彼は自慢げに言い切った。しかし、まったく格好よく見えない。
「え、そんな高いのに入ったの?」
私はそんな知り合いの保険に付き合いで仕方がなく入るなんて、一番安いのでいいのにと思っているのでビックリした。考えてみれば、彼の給料は二十万。そこから毎月保険だけで七万も消えていくのだ。
「だってしょうがないじゃないですか。惚れた女に頼られたら、何とかするのが男だと思いません?」
こいつはここまで大馬鹿だったのか…。手の施しようがない。さすがゴッホの後輩である。
「うーん、別にそこまで格好つける必要はなかったんじゃないのかな。でも、そこまでしたら純菜ちゃん、喜んでキスの一つでもしてくれたでしょ?」
「い、岩清水とは完全にプラトニックです」
「え…、でも彼女と付き合ったという訳じゃないんでしょ?」
「あいつは都合よく自分を利用しただけだったんです。その事に気付くまで二年間掛かりました。事の真相を知った時は怒りで我を忘れそうでした……」
完全に熱くなっている出川は顔を真っ赤にしている。見ていて非常に滑稽だった。ゴッホは隣でニヤニヤしながら話を聞いている。
「そしたら保険を解約すればいいじゃん。あ、もうとっくに解約ぐらいはしてるか」
「い、いえ…。実はまだなんです……」
「はあ? 何でそこまでして……」
「聞いて下さい。あいつ、本当は高校出てからすぐに結婚してやがったんです」
「だったら、なおさら……」
「行きましたよ。あいつのところまで飛んで行きました。本当に怒って…。そしたらあいつ、生活が苦しいの。今の旦那とはうまくやっていけそうもないし、私を助けてって……」
「それで助けた訳?」
「そのあとで『私をもらってくれる?』ってなんて言われてしまい、つい断れずに……」
「へー、じゃあそれは出川君さえ良ければそれでいいんじゃないの?」
「その言葉を信じましたよ。そんな事言われちゃ……」
「…て事は?」
「騙されてたんですよ」
純菜ちゃんも可愛い顔して結構エグいんだな……。
「そうなんだ……」
私はそれしか言葉が出なかった。
出川の愚痴りはまだまだ続く。店のマスターが迷惑そうな表情で時たまこちらを見ているのが気掛かりだった。
「この間、パチンコ屋行こうと思って、駅前のパチンコ屋の駐車場へ向かったんですよ。そしたら岩清水が旦那と仲良さそうに、その駐車場から出てきたんです」
「怒鳴ってやった?」
「いえ、悔しくて隠れてしまいました……」
一体、こいつは何を考えているのか理解不能だ…。何故、自分が隠れなきゃいけないのだろうか? ドッと疲れを感じた。
「ひと言怒鳴りつけてやればいいのに…。生活に困ってる奴が、何で夫婦仲よくパチンコをやれるんだよ。そこは怒らないと駄目じゃん」
「言うのは簡単ですよ。言うのは……」
「何かあるの?」
「そこで自分が怒鳴ってしまったら、こっちの負けじゃないですか。神威さんもそう思いませんか?」
「うーん……」
彼の先輩であるゴッホも手がつけられないほどの困ったちゃんだが、彼はその上をいっているかもしれない。
「そこで自分が怒ったら、きっと負けなんですよ。自分は人生の勝ち組でいたい」
勝ちでも負けでも、もう私にはどうでも良くなってきた。彼にとっては大事な話なのかもしれないが、私は聞いているだけで苦痛だ。そんな私の思いも知らず、出川はどうでもいい愚痴を二時間も話し続けた。
ゴッホの奴め、よりによって何故こんな男を連れてきたのだ。のん気そうにゴッホは、タバコを吸いながら酒を飲んでいる。
「それでですね……」
出川はまだ話を続けようとしたので、私は遮る事にした。
「あ、あのさ出川君。純菜ちゃんとは終わった事なんでしょ?」
「ええ、そうですが……」
「じゃあ、いつまでもその事を考えるのはよくない」
「神威さんは当事者じゃないから、この気持ちが分からないんですよ」
分かりたくもないわ、ボケ。心の中で呟くだけにしとく。
「そりゃあ、分からないよ。俺だけじゃなく、他の誰にも分からないと思うよ。誰よりも分かっているのは自分自身でしょ? それだけ一生懸命だったんだから」
「え、ええ……」
「じゃあさ、これからパーッと行こう。それがいい」
「え、パーッとって言いますと?」
「キャバクラだよ、キャバクラ。そういう気分の時はキャバクラが一番! だろ、ゴッホ?」
ただ単に、出川の愚痴りを聞いているぐらいなら、キャバクラへ行き、妹代わりに可愛がっているミサトと話をしていたほうがいいと思っただけである。
「ん、そうだな」
ゴッホも嫌いじゃないので、快い返事をする。
「え、あの、自分…、キャバクラって一度も行った事がないんですよ……」
「大丈夫大丈夫、楽しいところだよ。純菜ちゃんの事なんか、スパって一気に忘れられるぐらいいいところだよ。若い綺麗な子だってたくさんいるしね」
「は、はあ……」
「じゃあ、ここ出て行ってみようか?」
「構いませんが、ちょっとトイレ行ってきます」
出川が席を立ち、トイレへ向かうと、私はすかさずゴッホを睨みつけた。
「おい、何であんなのを連れて来るんだよ?」
「わりー、神威なら彼を何とかできるかなと思ってさ」
ゴッホ一人だけでも大変なのに、あんな後輩まで加わったら溜まったもんじゃない。
ゴッホの一つ下の後輩、出川明。今年で二十九歳。仕事は郵便局の夜間アルバイト。先輩であるゴッホとの共通点は、共に生まれてこの方、彼女が一度もできた事がない。
長所は、礼儀正しく義理堅いところ。この点だけはゴッホと比べ、人間的に素晴らしい部分でもある。ゴッホには何一つ長所などないのだから……。
逆に短所と言えば、すぐ愚痴る事。人間誰でも愚痴りたい時はある。しかし彼の場合、こちらが気を許すと際限なく延々と愚痴り続けるに違いない。
今現在、私の横にはゴッホと出川がいる。この三人でいる事は、非常にデンジャラスな空間を醸し出すので、場所を変える為キャバクラへ向かっていた。あとでジャズバーのマスターには謝っておこう。
妹代わりに可愛がっているミサトのいる店へ到着する。
店内に入ると、三分の二は席が埋まっており、まあまあの客入りだった。
「いらっしゃいませー、お客さまは三名でよろしいですか?」
「そう」
「ご指名はありますか?」
「あー、俺はミサトを指名で。あとはここ、みんな初めてだから」
「かしこまりました。お席へ案内します」
私を先頭にゴッホ、出川と続く。
「お飲み物は何に致しますか?」
「俺はウイスキーのストレート。ゴッホと出川は?」
「ビール」
ゴッホがダミ声で答える。出川は何も答えないでいた。
「おい、出川君。飲み物は何にするの?」
「いや自分…、こういう場所は初めてなので、どうしたらいいんだか……」
「そんな事聞いてんじゃないよ。飲み物は何にするのって?」
「あ、ビールを……」
「かしこまりました」
男の従業員が下がっていく。続いてキャバクラ嬢が三人、席にやってきた。
「いらっしゃいませー、龍一君」
「ミントでーす」
「麻耶でーす」
私たちの間にキャバ嬢が割り込んで椅子へ座る。ミサトが話し掛けてきた。
「友達連れてくるなんて珍しいね」
「ま、まあね…。ちょっと場の空気を変えたかったんだ」
「ふ~ん、よく分からないけど…。あ、お酒ストレートでいいんでしょ?」
「ああ、ストレートで頼むよ」
ミサトが私の酒を作っている間、ゴッホを見る。彼は麻耶という女の子と話をしていたが、面食いのゴッホである。お世辞でも可愛いとは言えない麻耶に不服そうだった。キャバクラ初体験の出川はどうしているだろう? さりげなく見ると、ミントとちゃんと会話をしていた。
「あれ、元気ないなー。どうしたの?」
「い、いや…、自分はこういうところ、初めてでして……」
「誰でも最初はみんなそうでしょ?」
「うん……」
「もー、元気ないなー。歌でも歌う?」
「え、う、歌はちょっと……」
「仕事は何してるの?」
「郵便局で……」
「え、公務員なんだ? すごーい」
「そ、そうでもないって」
この時、出川の鼻の穴が膨らんだのを私は見逃さなかった。
「だって今、公務員って競争率すごいんでしょ?」
「ま、まーね…。でも大した事はないよ」
「へー」
「まあ、採用試験を落ちちゃった人は可哀相だけど、今の景気を考えると仕方がないのかなって割り切ろうとする自分が時々悲しくなるよ」
横から「おまえ、深夜のアルバイトだろ!」と突っ込んでやりたかったが、彼なりに格好つけているところなので、水を差すのはやめておく。
普段おとなしそうな出川だが、図に乗るととんでもない奴かもしれない。
あっという間に時は流れて時間がきた。キャバクラに入ると時の流れの速さを実感する。私は金銭的に余裕があったが、二人はどうしたいのだろうか。
「ねえ、延長どうする?」
とりあえずゴッホに話し掛けると、困った顔をしている。
「今日は俺、もう金がねーんだよ」
金がないのはいつもの事だろと、突っ込みたかった。
「え、岡崎さん、それしか金持ってこなかったんですか?」
いらぬ出川のつっこみ。ゴッホの顔が急に険しくなった。先輩であるゴッホに、出川も余計な台詞を……。
こんなところで二人の小競り合いなどごめんである。私はすぐ間に入り、フォローした。
「いいよ、ゴッホ。ここは俺が、おまえの分も出してやるよ」
「わ、わりーじゃん」
「いいよ、別に…。遠慮するなよ。な?」
「ん…、ああ……」
出川は自腹で、私はゴッホの分も合わせて延長をした。楽しい時間はまだまだ続く。
気心の知れたミサトとの会話はとてもスムーズに進む。ゴッホは人の金で飲んでいるというのに、つまらなそうな表情をしていた。どうせただ酒なんだから、素直に楽しめばいいものを……。
出川はというと、たまたまついたミントという子を相当気に入ったのか、もの凄いテンションの高さを持続しながら興奮している。
「ミ、ミントちゃんって彼氏はいるの?」
「ううん、いたらこういうお店で働いていないわよ」
「そ、それはそうだよね」
「出川さんでしたっけ?」
「うん、どうしたの?」
「出川さんみたいな人が彼氏だったら、私も毎日が楽しいだろうなと思ってね」
「え…、そ、それってどういう意味かな」
「あ、変な事言っちゃってごめんなさい。会ったばかりだというのにね」
「いや、そんな事ないよ」
完全にキャバ嬢ペースの出川。こりゃあきっとこの店にハマるだろうな。
私は出川の反応が面白く、ミサトとの会話より彼の台詞に聞き耳を立てていた。
「もっと私、出川さんの事よく知りたいな」
「え、そ、そう……」
「うん、あ、私の出勤日なんだけど、一応教えておこうか?」
「うん、ぜひ頼むよ」
「じゃあ、お店の名刺に私の電話番号とメールアドレスを書いておくね」
「え、いいの」
「だって出川さんなんだもん…。でも、初対面なのにこんな事言っていると、私軽く見られちゃうかな?」
「ううん、そんな事ないよ。ミントちゃんと話していて、僕は君が真面目な子だって分かっているつもりだから」
「ありがとう。優しいなあ」
このミントという女も、とんでもない女狐である。巧みに出川の心理状況を把握して、手玉に取ろうとしていた。まあ、私が口を挟む問題ではないので放っておく事にする。
そうこうしている内に、また時間がやってきた。
「出川君、延長するだろ?」
一番盛り上がっている出川に聞いてみた。
「神威さん、自分はちょっと……」
「え、何で? これから何か用事でもあるの?」
「いえ、用事はないのですが、ちょっと手持ちが……」
「何だよ、おまえだって一回分しか金持ってないんじゃねえかよ!」
ゴッホが先ほど恥を掻かされた分の怒りをぶつけてきた。
「やめなよ、ゴッホ」
何という醜い争いだろうか。形的にはとめながら、内心、目クソ鼻クソ同士の争いに心が弾んでいる私。
それにしてもゴッホより五千円だけ多く持っていない事が判明した出川。よくもまあ先輩であるゴッホに向かって、あんな無礼な言葉を言えたものである。
「…ったく、さっきはあんな事を抜かしやがってよ」
珍しくゴッホが怒っていた。よほど女の子のいる前で恥を掻かされたのが許せなかったようだ。本当ならもっとこの低次元の争いを見ていたかったが、延長するかどうかの返事を待っている従業員が気の毒なので、間に入る事にした。
「じゃあいいよ。ここは俺が全員の分出すから」
「え、神威。それじゃあ、おまえにわりーじゃねえかよ」
ゴッホが申し訳なさそうに言ってくるが、内心ラッキーと思っているに違いない。
「じゃあ、神威さん。ここは借りとくって事でいいですか?」
人が奢ってやるというのに、また出川は余計な事を……。
「ここはいいから、な?」
「え、でも……」
本当は延長してミントと話したくてウズウズしているくせに……。
「いいからいいから」
面倒なので、出川に有無を言わせないよう三人分の金を従業員に渡した。