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2025/02/21 fry
前回の章
昨日は入ったばかりの新人五十三歳の菅井に対し、キツい言い方をしてしまった。
ただ彼の甘い心構えでは、この先仕事をやっていけないのは事実である。
裏稼業とはいえ、接客を伴う業務はある程度のチームワークが必要だ。
新人なので基本的な事ができないのは仕方がない。
但し向上心を持たず、自分はこのままでいいと甘えているのは違う事である。
悶々した気持ちのまま外へ出た。
せっかくのプライベートの時間。
気持ちを切り替えなきゃ。
今は横浜にいるのだ。
楽しまねば。
楽しむ?
どこへ行けばドキドキする?
福富町、寿町、伊勢佐木モール、横浜橋通商店街、野毛……。
近場はある程度回ったはず。
関内駅周辺は?
馬車道へちょっとだけ。
「あっ!」
肝心な場所を行き忘れていた。
今日は横浜の代表的な場所である横浜中華街へ行ってみよう。
行き方は長谷川から聞いてある。
まずは関内駅へ向かい、先の方の改札口へ行く。
するとプロ野球の横浜ベイスターズのホーム球場である横浜スタジアムへ出る。
プロ野球観戦をした事の無い俺にとって、スタジアムの大きさに驚く。
あ、随分前になるがゲーム屋時代の同僚の有路とよく新日本プロレスの東京ドーム興行では行った事はあったか。
東京ドームもかなりデカかったが、こうした純粋な野球球場は初めてである。
…といっても、俺がここへ野球を観に行く事はおそらくないだろう。
そのままスタジアムをグルリと回るよう左折して進む。
ずっと真っ直ぐ進めば、右手に中華街が見えてくるはず……。
あ、本当に見えてきた。
俺がここへ来たのっていつぶりだろう。
確か小学生の時、伯母さんのピーちゃんに連れられ俺ら三兄弟は中華街へ来た記憶がある。
確か海も近くにあって、赤い靴を履いていた女の子の銅像があったような……。
三十数年前の事だから、いまいち記憶が定かではない。
門を潜ると、完全に辺りの雰囲気が違う。
中華街独特の建物。
急に人の数が多くなる。
これら一帯がすべて中華料理の店なのか。
俺は興奮しながらとにかく中華街を練り歩く。
俺のように一人でいる人間は少ないようで、家族連れ、カップル、友達同士の集団が多い。
途中市場通りの門を見つける。
土地勘が無いので、ここを起点に歩いてみよう。
公園があり、ここも中華街チックな造りになっている。
川越が中央通りの蔵造りエリアをすべて蔵造りっぽく新しい店も作り直しているような感じと同じなのだろう。
公園を左に進むと横浜大世界という大きな建物が見える。
中華街は歩いて見て回るだけで楽しい。
でもさすがに腹が減ってきたな……。
どこへ入ろうか。
大きなガラスの中に、ジャッキーチェンの昔の映画『ドラゴンロード』に出てきたような龍の被り物が展示されている。
日本でいう獅子舞みたいなものなんだろう。
中華街に来てまず思うのが、何を食べたいのかと迷ってしまう点。
どこもかしくも美味しそうな店が無数にあり、店を決めるだけでも一苦労。
市場通りのような密集した通りへ入ると、酔樓本館という料理屋が目に付く。
ショーウインドーに飾られた中華料理は他所と大差ないが、ハッピーランチと謳われた案内を見た瞬間「あ、これにしようかな」と一瞬で決まってしまった。
贅沢な高い品は俺がもっと落ち着いてから、ゆっくり食べに来ればいい。
品数十四品、値段も非常にリーズナブルで九百八十円。
気になる品は豆腐のザーサイそぼろ添え、麻婆豆腐、海老焼売、泡藁、豚ミミコラーゲン、鶏と唐辛子炒め、小龍包、揚げワンタン、黒酢の酢豚、カニと玉子炒め、海鮮翡翠スープ、雑穀ご飯、海老のチリソース、杏仁豆腐の十四品。
これだけ揃っての値段なので、かなりのお得感。
酔樓一押しの上海棒餃子『焼き棒餃子』は五本で四百八十円。
中の肉汁がたっぷり、皮もパリパリして表面にゴマがまぶしてある。
横浜中華街に初めて来て何を食べようと迷った人には、きっとお勧めのお店だろう。
腹も膨れたので中華街をあとにした。
今度休みの時にでも、じっくり時間を掛けてまたここら辺を探索してみよう。
職場へ向かう。
そろそろ休みをもらおうかと思っていたが、昨日の菅井のペヤング事件で言わずじまいだった。
明日辺り休みをもらい、今度は海のほうにも行ってみたい。
出勤すると本日は長谷川隆が休みで、代わりに名義社長の鈴木直樹がいた。
「直樹さん、おはようございます」
「おう、岩上、おはよう」
「あ、直樹さん。明日って自分、お休み頂いてもよろしいですか?」
「別に構わないけど何か用事でもあるの?」
「いえ、特にこれといって無いんですけど、前回の休みから一週間以上経つのでたまにはゆっくりしようかなと思いまして」
「それならさ、明日俺と一緒に付き合わないか?」
「え、別に構いませんが何かあるんですか?」
「明日は瀬谷区で瀬谷フィスティバルがあってな。岩上も横浜来てまだ一ヶ月も経っていないだろ? いい機会かなと思ってね」
「ありがとうございます。是非ご一緒させて下さい」
名義の鈴木直樹は、俺より十歳上の五十一歳。
実年齢通りかなり落ち着いた雰囲気を持っている。
まだ横浜へ来て間もない俺を気遣ってくれる気持ちが嬉しかった。
「じゃあ、今日仕事終わったら朝の十時に弘明寺駅で集合な」
「ぐ、弘明寺? 何ですか、それは?」
俺が驚いた顔で質問すると、鈴木は笑いながら答える。
「ああ、岩上は横浜をあまり知らないもんな。日ノ出町駅あのだろ? あそこから乗れば、四駅くらい行けば弘明寺なんだよ」
「そういえば自分は電車に乗って横浜探索をした事が無かったでした」
「あ、そうそう地下鉄のほうの弘明寺じゃないからな」
「ん? どういう事です?」
「横浜から出ているブルーラインって地下鉄があるんだけど、この辺だと伊勢佐木長者とか阪東橋になるのかな。そっちからでも弘明寺には行けるんだけど、駅と駅の場所が離れているんだよ」
「駅と駅が離れている?」
鈴木の言っている意味がいまいち理解できなかった。
例えば地元の川越駅と本川越駅なら離れているのは分かる。
同じ弘明寺で離れているとは、どういう事だろうか?
「駅と駅の間にさ、弘明寺商店街があるんだよ。もちろん徒歩でも京急の弘明寺から、ブルーラインの弘明寺までは歩いて行けるよ。たださ、車で行く場合違うほう行かれちゃうと、結構迂回して行くようだから、先に言っといたの」
「分かりました。自分は日ノ出町から乗る京急の弘明寺へ行けばいいんですね?」
「そうそう。俺が紛らわしい言い方しちゃったかな」
俺はインターネットを使い、この辺の電車状況を調べてみる事にした。
まず明日乗る予定の京急本線。
これは都内だと品川のほうから、昔俺がちょっとだけいた金沢八景にも続く線。
ブルーラインはあざみ野から湘南台まで行ける地下鉄。
先日行った横浜橋商店街のすぐ近くにこのブルーラインの阪東橋駅があるようだ。
根岸線は京浜東北線と同じ経路らしく、横浜から大船まで。
横浜から上に掛けて大宮まで行けるようだ。
大宮まで一本で行けるのなら、埼京線で川越までに十分程度で着く。
近いようで遠い神奈川県。
離れた場所に来たのだなと実感した。
腰を据えて俺は、この横浜へ住むつもりでいる。
こうした事を覚えておくのはこれから必須になってくるだろうし、また調べていて非常に面白い。
明日は弘明寺なんて変な名前のところへ行くが、今からワクワクしていた。
今日は比較的仕事中暇だったので、新人の菅井にインターネットカジノの基本的な事を色々教える事ができた。
仕事を終え真っ直ぐネットルームへ戻る。
今日は弘明寺から瀬谷区へ行く。
寝坊して遅刻なんてできないので早めに眠る事にした。
俺が他所の土地を訪れ、地元の人から案内してもらうなんて、いつ以来だろう?
パッと思い浮かぶのが、北海道の倶知安の自衛隊時代。
中隊で同じ部屋だった三つ上の鈴木ヤス士長。
意地悪な上官が多い中、彼だけは違った。
よく飲みにも連れて行ってくれ、俺の顔を見ながら「岩上、おまえは面白い奴だでや」と何度も言っていた。
俺の退職が決まり地元へ戻る前、ヤス士長はわざわざ車を借りて倶知安から少し離れた場所をドライブで案内してくれたっけなあ。
向こうは雪が凄く降り積もり、一晩中除雪車が通っているので道には一メートル以上の雪の壁が両サイドにできる。
なので説明されても雪だらけなので、どこがどこか覚えていない。
それでもヤス士長の気持ちが当時本当に嬉しかった。
俺が十九歳の頃だから、もうあれから二十二年も経つのか……。
また北海道へ顔を出しに行きたいなあ。
あのまま俺が自衛隊を続けていたら、どうなっていたのだろう?
いや、当時のあの劣悪な環境では無理な話だ。
まだ若かった俺は我慢ができずに怨恨ある上官たちを辞めたあと、仕返しする為に倶知安へ一週間滞在した。
あの頃からなのだ。
俺が自身の強さに対し、自覚し始めたのは……。
それが今では横浜へ裸一貫で来て、二畳も無い狭いネットルームで生活をしている。
それでも今の自分は何故か幸せを感じていた。
人間なんて心の持ちよう一つで、いくらだって幸福感を得られる。
そんな事を考えている内に、俺は睡魔に襲われた。
目を覚ますと朝の七時。
約束の時間までまだ三時間ほどある。
俺は二百円を持ってコインシャワーを浴びた。
そろそろちゃんとした湯船に浸かりたいなあ。
インターネットで周辺を調べてみると、福富町内にサウナを見つける。
横浜・関内・日ノ出町のサウナ・カプセルホテル :: ビジネスイン ニューシティー ::
位置的に仲通りと西通りの間にあるのか。
今度行ってみようかな。
九時になり、俺はネットルームを出た。
ここから日ノ出町駅は歩いて三分も掛からない。
電車に乗り四つ目の駅、弘明寺駅へ到着。
まだ待ち合わせ時間まで結構あるので、俺は周辺を探索してみる事にした。
弘明寺、横浜市南区にある高野山真言宗の寺院。
瑞應山蓮華院と号し、横浜市内最古の寺院である。
本尊の木造十一面観音立像…、通称『弘明寺観音』は、国の重要文化財。
寺名は駅名、町名などにも広く使われている。
野毛山動物園へ行く道以上に急な坂道なので、またまたビックリ。
駅から急な坂を下り、弘明寺の先に商店街があるのか。
そしてその先にブルーラインの弘明寺駅がある。
今度ゆっくりこの商店街も行ってみよう。
鈴木社長の車が到着した。
「おはよう、隣乗りなよ」
「お邪魔します」
結構な距離を移動する。
「どこら辺までが横浜になるんですか?」
「横浜は広いからね。これから行く瀬谷区も横浜になるんだよ」
自分が想定していたよりも、横浜市は広い。
車でしばらく移動し、瀬谷フェスティバルという会場へ着く。
駐車場には車一杯停まっている。
『瀬谷フィスティバル』と書かれた野外仮設ショーステージでは、海軍兵のバンドやチビッ子たちのダンスなどを披露していた。
「これは何の祭りなんですか?」
「この辺は米軍の通信基地なんだ。それで年に一度、こうして地元民と触れ合いの場を設けてって感じになるのかな」
この場所は普段米軍の通信基地なので、通常なら立入禁止区域。
逆に考えると、年に一度しか入れない貴重な時期に俺は来た事になる。
色々なテナントにたくさんの人が群がり、どの人も笑顔でいっぱいな光景は微笑ましい。
小さな子供たちがステージで歌を披露している。
何か本当にいいなあ。
自然と顔がほほ笑む自分がいた。
B級グルメで一位になったサバ焼き串のテナントもあり、あちこちのテナントへ人が群がっていた。
ウニの貝焼きなど面白いものもあるが、魚介類苦手な俺には無縁な食べ物である。
鈴木社長はとあるテナントへ入ると、そこにいたほとんどの人が挨拶をしてきて話し掛けてくる。
「何繋がりなんですか?」
「ああ、俺はライオンズクラブの会長もしているんだよ。それでここはそのテナントなんだ」
「鈴木さん、先日はお世話になりまして……」
年配の女性がペコペコと頭を下げている。
ライオンズクラブの会長でもある社長は、たくさんの人たちに接待され、俺まで色々御馳走になった。
「ほら、岩上。腹減っているだろ? これお土産で持って帰りなよ」
そう言って鈴木社長は、弁当のお土産まで持たせてくれる。
本当に色々面倒見てらもい、感謝しかない。
携帯電話が鳴る。
職場の同僚の長谷川隆から。
「どうしました?」
「岩ちゃん、今日休みなんでしょ?」
「そうですけど」
「悪いだけどさ、やっぱり出て来れない?」
「何かあったんですか?」
「いやね…、俺と菅井ちゃんの二人だとさ…。分かるでしょ?」
キャッシャーをやりつつ、菅井が粗相をしないか監視して、オマケのヤクザ客の相手もしなきゃならない。
長谷川と菅井の二人では、何かあった時の対応が難しいだろう。
「まあ、確かに……」
「今直樹さんと一緒なんでしょ?」
「ええ、そうですよ」
「少し遅れてもいいからさ、今日出勤で出て来てくれないかな?」
「構いませんよ。ただ今瀬谷区にいるんですよ。なので三時には間に合わないかもしれませんよ?」
「いいよいいよ。休日返上で出てくれるんだもん。じゃあ頼むね」
帰りの車の中、俺は鈴木社長へ今日出勤する事を伝える。
「何だよ、隆の奴。まあ少しくらい遅れても、通常通り給料つけるから安心して」
「すみません、気遣って頂いて」
「あ、ちょっと俺のマンション寄っていい? 忘れ物あってさ」
オートロック付きの大きなマンションへ到着。
「ここでちょっと待ってて」
中華街近くにある社長のマンションの待合室のゆったりしたソファへ腰掛ける。
新宿の名義とは凄い違いがあるなあ……。
俺がこれまで見てきた名義社長といえば『餓狼GARO』の青柳に『バラティエ』の坂田。
二人とも金にだらしなくどうしょうもない屑でしかない。
『8エイト』の新井社長は人の良いところはあるものの、酔うとクソを巻き散らかすようなハチャメチャな酒乱ぶりを発揮するしなあ。
横浜って何だか凄いよな……。
俺が感心していると鈴木社長が現れた。
「ごめんごめん、お待たせ。ここからだと元町商店街近いから見ていくか」
「元町商店街? 何ですか、それは」
「岩上は知らないのか? 中華街から近くにある元町の商店街で、この辺のセレブたちに人気でお洒落な商店街なんだよ。まあとりあえず行ってみるか」
元々あまり物欲の無い俺にとって、高級志向のお洒落な商店街はいまいち楽しさが分からなかった。
それでも今日この日の経験は、後々いい思い出になるのだろうな。
「あ、直樹さん!」
「ん、どうした?」
「元町も中華街も、この近くって海があるんですよね?」
「ああ、あるけどそれがどうした?」
「自分は地元が川越で、仕事はずっと新宿だったんで海に飢えているんですよ」
笑いながら鈴木社長は車を方向転換した。
「ほら、ここが山下公園だよ」
「え! ひょっとして赤い靴履いていた女の子のところですか?」
「何だ、そりゃ? よく分からないけど、ほら、ここから見えるの全部海だ」
俺はしばらく横浜を海を見続けた。
右側に大きな船が見える。
「あれは何ですか?」
「ああ、フェリーか。近くへ行ってみる?」
「いいんですか?」
フェリーは中へ入れる仕組みになっているらしい。
「今日仕事じゃなきゃ、もっと付き合えるんだけどな。そろそろ隆も首を長くして岩上を待っているだろうから、戻るか」
「そうですね……」
名残惜しかったが、今度ここには一人でゆっくりくればいいか。
あー、今日出勤するなんて言わなきゃよかった……。
山下公園に多分あるはずの赤い靴の女の子の銅像も見てみたい。
よし、今度はこのフェリーの中へ入ってみよう。
鈴木社長は、福富町東通りの店の近くまで送ってくれる。
今日だけで探索する場所が一気に増えた。
山下公園に弘明寺の商店街。
確か弘明寺の商店街を通るとブルーラインの弘明寺があるんだよな?
こっちへ来て毎日が楽しい。
川越にいた頃のあの家の中の殺伐とした感覚は、一体何だったのだろうと馬鹿馬鹿しくなる。
先輩の坊主さんに言われた通り、もっと若い内から川越を出ていればよかったんだよな……。
まさか四十歳を過ぎてから、こんな風になるなんて夢にも思わなかった。
何か横浜は壮大過ぎて、攻略していくのにいくら時間があっても足りなそうだ。
さて…、明日はどこへ行こうかな。
俺は鈴木社長へ感謝を覚えつつ、職場でもらった弁当を食べた。